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ノンフィクション

2016年4月25日 (月)

ジェニファー・アッカーマン『かぜの科学』

点検読書179

副題は「もっとも身近な病の生態」。
ハヤカワ文庫(2014年)刊。
原著は、Jennifer Ackerman "AH-CHOO! The UncommonLife of Your Common Cold", 2010.


ノンフィクション――科学


人間が風邪をひくのは生涯に200回。これだけ身近な病気であるにも関わらず、いまだにワクチンもなければ特効薬もない。それは一体なぜなのか。また、そもそも風邪はどのような病気であり、どのような経路で侵入して、発症し、治っていくのか。効果的な予防法や治し方はあるのか。


五部構成

1:そもそも風邪はどういう経路で罹患するのか(第1章)。

2:風邪のウィルスはどこに潜んでいるか、またウィルス自体について(第2~3章)。

3:風邪の症状、罹患しやすい身体、風邪が引き起こす合併症、風邪の特効薬への苦闘(第4~7章)。

4:風邪の予防法お風邪とのつきあい方(第8~9章)。

5:風邪の症状への対処法とさまざまな民間療法や売薬について(付録)。

コメント
 風邪をひきました。本書にも書かれているように、もっとも風邪にかかりやすいルート。子供のいる家庭というルートです。子供が健診の会場でお互いのオモチャを舐めまわした結果、もらってきた風邪を親がもらったというかたちです。
 そんな風邪の気分なので、いやそもそも風邪とは何ぞや、と思って読んでみました。

 本書によれば、ほぼ確実な風邪の侵入経路は、手に付着したライノウィルスが鼻や目の粘膜を通して、喉の咽頭扁桃に到達し、そこの体細胞に入り込んで、自身のコピーを続々とつくりだして、新しく生み出されたウィルス粒子を周辺の細胞に放出して感染させる。そして、ウィルスが鼻の分泌物に放出されるようになる
 この時には、だんだんと喉がいがらっぽくなってきて、鼻水が出始めるなど自覚症状がある。その間、約8~12時間。24時間ほどで感染は完了し、ピークは48~72時間の間である。
 喉の痛みの正体は、身体が喉の奥の感染細胞に血液を送り込んで、周辺組織の血管を広げる化学物質を放出する。そのため、つばを飲みこむと、拡張された血管によって喉の神経終末が圧迫されて喉に痛みを感じる。
 鼻のつまりは、鼻水が溜まっているからではなく、鼻道の側面にある鼻甲介と呼ばれる海綿状組織が腫れ上がっているためであり、鼻水を景気よく放出しても治るわけではなく、かえって副鼻腔炎を引き起こしてしまうので避けたほうが良い
 咳は、身体が産出する化学物質が喉頭や気管にある神経終末を刺激することで、そこに何か排除すべきものがあると身体の方で思い込むため、横隔膜を上下動させて肺からの乱流を吐き出す現象である。
 鼻水や咳は、ウィルスを外に洗い流して排除しようとする体の働きであるから、無理に止めないほうがいい。

 ここから見ていくと、風邪ウィルスというのは、経口ではなく、目と鼻の粘膜を通して、侵入してくるのが分かります。どうやら最近は、空気感染派は分が悪く、風邪に罹患した人が分泌した鼻水が手についた状態で、色んな物をさわり、それを別の人がさわって、その手で目鼻をさわるということが経路ということになります。
 そうすると、予防法は、「ピュレル」等のアルコール消毒液を常備してウィルスが手につきにくい状態をつくる、よく手を洗う、目鼻をさわらない、ということになります。案外簡単に思えますが、意外と我々は目鼻をよくさわっているらしいのです。
 あと、治し方ですが、結局のところ、「何もしない」というのが正解らしく、水を大量に飲むのも脱水症状を防ぐという程度の摂取量で良くて、それ以上は有害。ビタミンCは免疫を高めるわけでもないしウィルスを殺すわけでもない。抗生物質は、細菌の細胞膜形成を阻むもので、細胞膜のないウィルス自体を殺すものではない(ウィルスに感染した細胞を殺すもの)。意味がありそうな民間療法は、塩水でうがいをすることで、腫れた喉の水分を滲み出させて圧迫(=痛み)を軽くするぐらい(250cc弱のぬるま湯にティースプーン2分の1杯の塩を溶かしたもの)。
 つまり、おとなしく寝てろ、ということしかできないようなのです。
 科学というときっちりと答えがあるように思えてしまいますが、やはり解明できていないものが多く、逆に、これが答えだ、といってしまっているもの、例えばビタミンCが風邪を治す、とか、にんにくエキスで免疫を高める、というのは怪しいか、お商売の宣伝文句でしかないということになります。
 こうした間違いや不正確さは分かるものの、正解がない本なのですが、ジャーナリストが書いたものだけあって、読みやすく面白い本です。
 2009年のイグノーベル賞公衆衛生賞は、ガスマスクになるブラジャーを制作したエレナ・ボドナーという人なのですが、授賞式でおもむろに胸元からホットピンクのブラジャーを取り出し、手早く分解して、2008年のノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンの赤面する顔に片一方のマスクをかけた、というエピソードはなかなかおもしろいです。
 その他、公衆トイレで手を洗わない人の比率は、男性37%、女性22%(ジョン・F・ケネディ空港調べ)は、何となく分かります(いや日本の駅の男性用トイレはもっと多いかもしれない)。

 風邪についての近年の動向について、知るにはおすすめできる本です。

評価 ☆☆☆

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2016年4月15日 (金)

猪野健治『三代目山口組』

点検読書171

ちくま文庫(2000年)刊。
副題は「田岡一雄ノート」。


ノンフィクション


組員33人の山口組の三代目を襲名した田岡一雄は、後に約460団体・一万人をこえる日本最大の広域組織につくり上げた。彼の特徴は、先見性、組織力、リーダーシップに恵まれた点であった。その戦略は、博徒や用心棒といった従来型のヤクザを正業を持たせて、事業家として成功させる。その上で、事業家は軍団に資金を供給し、軍団は実戦を担うという分業体制を実現することによって、近代ヤクザを形成することに成功した。しかし、その成功は、国家権力との絶えざる抗争を余儀なくされた。


三部構成

1:三代目襲名から各種事業の拡大・取り締まり包囲網(第一章~第四章)。

2:その人物像(第五章)。

3:晩年、その死と遺産(第六章~第七章)。

コメント
 以前、溝口敦『山口組動乱!!』が面白かったものだから、その原点に立ち返ろうということで、事実上、山口組の創設者である田岡一雄三代目について述べられた本を読んでみました。
 本書によりますと、田岡三代目は大変魅力的な人物です。襲名にあたって三つの誓いを自分に課したと言います。
第一は、組員各自に正業を持たせること。
第二は、信賞必罰による体制の確立。
第三は、昭和の幡随院長兵衛を目指す。
ということですが、注目すべきは第一の課題で、従来の博打や用心棒で生計を立てて、その日暮らしをしていて、常に貧しい状態から脱却すること。これを目指したというのです。次のように述べております。

「日本が新しく生まれかわったと同時に、極道も生き方を変えていくべきではないのか。それには各自が正業を持つことである。魚屋でもいい、喫茶店でもいい、駄菓子屋だっていいではないか……生活の貧しさ、心の貧しさが悪の道へ走らせることを、わたしはこれまでにイヤというほどみせつけられてきたのだ」(二二頁)

 本来、こうしたことは国家や社会全体で行なうべきことです。しかし、これらは機能していません。それというのも、日本社会において、著者が言うところの「組」がなくならない土壌というものが厳然と存在しています。それは、「部落差別、国籍差別、民族差別、学歴差別、欠損家庭、破産、失業、前歴者等の因子」への社会の見る目の厳しさです。国家の社会保障が、これらの人々へ適切な生活保障を与えることができれば、こうした組織は必要なくなるのです。田岡三代目も、山口組包囲網が形成され、内部で解散論が噴出した時に次のように述べています。

「極道n字のごとく、わたしのところへくる者は親の手に負えない連中ばかりである。それをなんとか人並みにしたいと心配しているのが組である。/幹部を失い、組からも放りだされたら、これらの若い者はいったいだれが面倒をみてくれるというのであろうか。(中略)この世に組を失った若い者たちを暖かく迎え、職を提供し、社会の仲間入りをさせてくれるだけの度量と理解を示してくれるというなら話は別である。/数万を越える山口組の若い者たちをだれがわたしに代わって面倒をみてくれるのか。/過去、わたしは終戦直後の闇市を横行する暴れ者や、港湾における共産党と真剣に闘ってきた。警察もそれをあと押ししてくれた。/それなのに、世の中が落ちついたから、"もうやくざはいらん。やくざをつぶせ"というのは勝手ではないか。」(一五六~一五七頁)

 つまりは、国の社会保障や治安組織が不十分な部分を補完してきたのが、「組」であったということです。ですから、本気でこうした組織をなくしていこうとするならば、上記に上げたような人々を包摂するような態度を我々はとらなければならない、ということになります。間違っても生活保護バッシングや民族差別、学歴差別などしてはならないということになります。
 もしそれができないならば、暴力団員が経営しているからとか、家族に暴力団員がいるとか、暴力団と同席したことを問題にするなど、単に暴力団を排除するのではなく、正業についたものに対して、一般市民と同様のルールを適用するようにしなければならないでしょう。もとより、暴力を背景にした威嚇などがあれば、それは法に違反することであるから、それは適切に公権力によって処置する必要があります。しかし、国が一部の団体を監視対象として指定し、社会全体で差別的態度を取るというのであれば、それは先の組の構成員の潜在的予備軍を輩出する土壌を強化するだけで、何の解決にもならないのでしょう。
 本書は、単にアウトロー集団の実録物のようなものではなく、政治に利用され、足りない部分を補完し、必要性が減退すれば排除されるという戦後日本の身勝手さに翻弄された人々を描いた作品です。表面的な政治や社会ではなく、その背後にある鞍部について関心のある人には興味深い本となると思います。

評価 ☆☆☆

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2016年4月 1日 (金)

清水潔『殺人犯はそこにいる』

点検読書160

新潮社(2013年12月)刊。
副題は「隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件」。


ノンフィクション


日本テレビの記者の著者は、『ACTION 日本を動かすプロジェクト』という番組のため、未解決事件の取材を始める。1979年栃木県足利市、84年栃木県足利市、87年群馬県尾島町、90年栃木県足利市、96年群馬県太田市。17年間に、5件の幼女誘拐・殺人事件が半径10キロ圏内で起きていることを知る。その内の1件は、すでに容疑者逮捕で最高裁による死刑判決が出ていた90年の「足利事件」と呼ばれる事案であった。著者は、これらを連続殺人事件であると仮定し、その捜査が始まるには、90年の足利事件を解明する必要があった。すると当時のずさんな捜査、DNA型鑑定の不正確さ、自供を強要する取り調べなどが明らかとなり、報道することで「DNA型鑑定」の再検査、再審、無罪という「真実」を暴きだした。しかし、警察・司法は、この足利事件以外の重大事件のDNA鑑定との整合性をつけるがために、著者が発見した真犯人「ルパン」の捜査を打ち切り、未解決事件としてしまった。


三部構成

1:取材の発端と足利事件、そして再審無罪まで第一章~第六章)。

2:真犯人「ルパン」の証明と警察・司法の「闇」(第七章~第九章)。

3:「飯塚事件」におけるDNA型鑑定への疑問(第十章~第十一章)。

コメント
 我々は、裁判所や警察を信用しています(参照)。こうした公的機関への信頼なくして、我々は、安心して社会生活を行なうことができないのであるから、当然といえば当然です。しかし、その信頼は、それらの機関の無謬性に依頼しているとしたら、それはそれで危険でしょう。また、科学というものへの信頼も厚いものです。「科学的に証明されたものであるなら、間違いはない」。多くの人は、専門的な分析はできないので、専門家が言うならば、それは正しいのだろう、と思ってしまいます。しかも、それを発表したのが、無謬性を前提とした公的機関であったならば。本書が指摘するのは、その点です。
 被害者の遺留物に残った体液と容疑者の体液が、DNA鑑定で一致すると言われれば、私のように科学に疎い人間は、それが犯人であると単純に信じてしまいます。90年の「足利事件」の容疑者を自供に追い込んだものは、そのDNA鑑定でした。しかし、正確にはDNA「型」鑑定であって、血液型と同様に「型」の分類にすぎないものでした。つまり、血液型よりはるかに型の種類は多いものの、同一グループの型に入るだけで「DNA型一致」が「本人と同一」とは限らない。それぐらいの検査を現場が頭から信じて自供を迫ってしまったのがこの事件でした。しかも、後に分ることでは、その検査結果自体も不十分なものであったとのおまけ付きで。
 そして、この「MCT118法」の検査というものは、この事件だけではなく1989年から2010年11月までに、141件まで実施され、8人の有罪確定事件の判決理由として採用されたといいます。ここまでくると、その間違いを認めることは不可能となってしまう。それを根拠に死刑判決が出て、現に執行されてしまった「飯塚事件」のようなものがあれば。間違いを認めれば、国民の公的機関への信頼がゆらぎ、社会が成立できなくなってしまうからです。だからこそ、捜査や審理は、慎重であるはずであるのに、重大事件となると警察庁などの中央部が現場に圧力をかけて事件の早期解決を迫ってきます。それがずさんな性急な捜査へとつながり、それが誤りであった場合は認めることができない、隠蔽する、という問題が生じてしまうのです。
 本書は、事件報道と冤罪の解明というそれ自体としての面白さがあるのですが、やはり無謬性を前提とした官僚組織としての警察・司法と、それらを取材対象としつつも信頼してしまって、情報操作に組みしてしまうメディアの問題というのが浮き彫りにしていることがポイントでしょう。足利事件に関して、「無職」となったのは警察の捜査によって解雇されたことは報じないし、親元から独り立ちした住まいを「隠れ家」、押収したアダルトビデオはほとんどが巨乳ものだったが「ロリコンもの」へと改鼠されて報道される(45歳の男性だったら、ほとんどの女優さんは年下だから「ロリコン」になるんでしょうか)。また、栃木県警では「菅家は、実は本当の犯人なんだよ」、「先輩がそう言っているから間違いない」と言われ続けているらしい(311頁)。誤りを認めると組織が瓦解する。しかし、反省のない組織は、同じ過ちをするのではないか。その栃木県警のWikipediaを拝見すると、その思いを新たにしてしまうのでした(参照)。

評価 ☆☆☆


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2016年3月28日 (月)

一橋文哉『未解決』

点検読書157

新潮文庫(2011年)刊。
副題は「封印された五つの捜査報告」。


ルポルタージュ


1994年の住友銀行名古屋支店長射殺、95年の八王子スーパー強盗殺人事件など犯人が挙げられていない事件から、85年の豊田商事会長殺害事件、97年の酒鬼薔薇事件のように犯人は逮捕されたものや、自殺として処理された2007年のライブドア幹部怪死事件のように、真の犯行動機や事件の背景が不明確なものを「未解決」事件として、綿密な取材をもとにその真相に迫る。


五部構成
1:住友銀行名古屋支店長射殺事件(1994年)

2:八王子スーパー強盗殺人事件(1995年)

3:豊田商事会長惨殺事件(1985年)

4:ライブドア「懐刀」怪死事件(2007年)

5:神戸連続児童殺傷事件(1997年)

コメント
 主にいわゆる「酒鬼薔薇事件」についての感想です。
 やはり事件当時まだ10代であった私にとって、この事件は衝撃的なものでした。事件そのものの猟奇性や警察を挑発した「酒鬼薔薇聖斗」名の犯行声明文がワイドショー最盛期の話題をさらいました。容疑者逮捕の時には、ほとんど口を利かなかった妹がわざわざ部屋にやってきて、「神戸の事件、犯人逮捕だって、十四歳の中学生らしいよ」と報告に来てくれたぐらい大きな話題と衝撃を与えてくれたのでした。
 この事件を起こした少年の心理としては、異性でないものを性の対象とする〈未分化な性衝動〉と主に母親から受けていた躾という名の虐待とその転化としての 弟や弱い者へのいじめという〈攻撃性〉が結合した〈性的サディズム〉によるもののようです。つまり、大切なものを攻撃することで性的満足感を得るというこ とになります。彼は、母親から虐待を受けていたにも関わらず、母親を愛しているようですから、その虐待という攻撃性は愛情の表現であり、マゾヒズムがサディズムに転化したようにも思えます。そして、少年は、こうした自身の性的欲求を異常なものと考え、自分のことを価値の無いものと考えるにいたります。こうした考えは、単に自分に価値が無いと思うだけではなく、自分自身と同様に世の中すべてが無価値であり、それらに何をしても許されるという独善的価値観を生じます。これを〈虚無的独我論〉というそうです。その上、この少年には特殊能力がありました。目で見たものを瞬時に記憶する能力〈直観像素質者〉であったというのです。そのため、事情聴取に際しても、微に入り細をうがつ証言をしており、自身の書いた犯行声明文をスラスラと暗唱したそうです。こうした特質が総合して、〈虚無的独我論〉に基いて他者を攻撃し、その行為の〈性的サディズム〉による興奮を〈直観像素質〉によって繰り返し反芻する、という精神状態にあったということでした。
 以上は、逮捕後の精神分析によって分かったことでしたが、同時代的にテーマとなったのが「普通の少年の犯罪」というものでした。これまでのように、あからさまな不良少年などではなく、普通の郊外の一軒家に住み、普通に学校に通い、成績も容貌も大して特徴のない「普通」の子が猟奇的な犯罪を犯したところに、この事件への関心を高めたのでした。
 しかし、本書を読んで分かったことは、「全然普通じゃないじゃん」、ということでした。この「普通じゃないじゃん」というのは、容疑者が逮捕され、性的満足を得るための殺人いわゆる「セックス殺人」であることが判明したからではありません。
 彼が、小学生の頃から、カエルの解剖で勃起し、猫を殺して射精していた、というのは本人が黙っていれば人に知られることではないので、実際に異常性倒錯者であっても、これは外部には分からないので、「普通」でよいと思います。
 私が「普通じゃない」とするのは、彼がかなり問題行動をすでに起こしている少年で、私の考える「普通」の範疇を超えていると思っているからです。
 この少年は、もともとはイジメっられっ子だったそうですが、小学校一年生のとき、いじめて家まで追いかけてきた同級生を逆に箒でボコボコにしてからいじめる方に回ったのだそうです。
 その事例として、小学校三年の頃から数人の仲間と行動をともにし、女児をエアガンで撃ったり、他の児童に命じて授業中にジュースを買いに行かせたり、言うことを聞かない奴は徹底的にいじめる。小学校五年の時には、授業中に女子児童をめがけて教室の後方からハサミが飛んでくるという事件があり、犯人として少年の名が上がっていた。中学一年生の時には女子生徒の運動靴を隠して燃やし、二年生の時には別の女子生徒を「ばいきん」と言いふらし、「きしょい」と言って騒いだり、集団宿泊訓練先の高原で「崖から突き落としてやる」と脅した、ということがあったそうですし、万引きもしていたそうです。
 また、被害児童との関係では、小学校の卒業を間近に控えた二月に児童をど突く騒ぎを起こして児童の家に謝罪に行っています。この時期と思われる時に少年は担任教師に「このままだと何をするか分からない。暴走して、人を殺してしまうかも知れない」とつぶやいたといいます。そして、事件後まだ逮捕されていない時期に自分の犯行を暗示した作文「懲役13年」を書いて、わざと友人にワープロで清書させ、級友たちに向かって「このままでは人を殺しそうだ」と叫び、友人たちが少年を連続通り魔事件の犯人ではないかと噂すると、一番の親友を呼び出して、暴行を加え、敢えて教師の叱責を買った、といいます。
 どうでしょうか。これは「普通」でしょうか。かなり問題行動を十分に起こしているではないですか。それとも一般的にはこれぐらいのことはよくあることなんでしょうか。私のように地味にまじめに生きてきた人間としては、ずいぶんとやらかしていやがるという印象を持ってしまいます。そうすると、これは単に取材不足であったのか、取材対象が少年のことをよく知らないにもかかわらず、少年についての取材を受け、適当に喋ってしまったのか、彼らの価値観においては、たびたびに教師に注意を受けるようなことは「普通」なのでしょうか。
 当初の取材不足でこうした勘違いがあったとしても、しばらくずっと「普通の少年の犯罪」と言われ続けてきたことが気になります。事実関係が異なることを前提にいろいろ議論しても何も解決には向かいません。「2+2=5」と理解していたは、どのような簡単な算数も解くことができないように、しっかりとした「事実」を報道しなければ、世の中に不安を呼び起こすだけで、何の解決策も生み出しません。この事件などは、その典型なのではないか。遅ればせながら、そんなことを考えさせられました。
 その他にも、少年の更生プログラムが、いかにも秀才官僚たちが考えそうなバカバカしい「精神療法」に頼ってしまい、明らかに失敗したにもかかわらず、法務省のメンツ=失敗は許されないという官僚文化のおかげで不問に付されるという恐ろしいエピソードなどが語られていて興味深い本です。

評価 ☆☆


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