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自伝

2016年11月25日 (金)

荒畑寒村『寒村自伝』つづき

承前 

 こうした戦後の政治的・思想的混沌状況の中で、寒村の友人の小堀甚二の再軍備論が興味深かいです。小堀は、戦前のプロレタリア文学者であったが、右派主導の日本社会党に不満で、寒村や山川均、向坂逸郎らと社会主義労働党準備会を立ち上げた人物でした。しかし、小堀が、ここで再軍備論を主張したために分裂し、解散に至ったのですが、その主張が興味深いのです。

 この労働党準備会の中で、もっとも「進歩的文化人」のような発想をするのは向坂逸郎で、彼はソ連は社会主義国であるから侵略はしない、だから日本に軍備は必要ない、という主張です。山川均は、そこまで思い切りは良くなく、ソ連が社会主義国だから侵略をしないとはいえないが、日本が軍備を持つとかえって侵略の対象となりかねないので、軍備は持つべきではない、と結論は向坂と同じです。

 こうした再軍備反対論に対して小堀は、次のように述べます。

「日本には今でも厳として軍隊があって、ブルジョア秩序の維持に当っている。しかも普通の軍隊とちがって、この軍隊は単にブルジョア秩序の維持に当っているだけでなく、他国の権益の維持にも当っている。占領軍がそれだ。/われわれは講和条約締結後、この外国軍隊を、日本人によって組織された最大限に民主主義的な軍隊とおき替えようというのだわれわれは観念の中でなら、軍隊のない国家を想像することもできる。しかし現実の世界では、自国民で組織された軍隊がなければ、他国の軍隊がこの真空状態をうずめる。だから自国民で組織された軍隊を否定することは、外国軍の駐屯を肯定することだ。だからまた、それは日本の植民地化を肯定することであり、あり得べき第三次世界大戦において少なくとも日本国土の戦場化を肯定することでありまた日本の労働者階級に対して社会主義のための闘争を断念することを要求するものだ。」(422頁)

 つまり、駐留米軍という資本主義世界の秩序維持部隊であり、かつ日本の植民地化を促進する軍隊を撤退させるためには、日本人自らが軍隊を持つべきだという主張です。彼の言う「最大限に民主主義」的な軍隊とは、宣戦、動員、召集を国民代表の議会が掌握するものを指します。また、モデルとしては、明治国家の師団化する前の鎮台兵であり、また民兵制度を考えています。つまりは、防衛目的のみの全国民参加の軍隊というものです。過去において、こうした発想は中江兆民の「土着兵」構想に見られます。

 小堀のこの考え方は、社会主義実現という目的に奉仕するものです。というのも、資本主義世界の代表である米軍が日本に駐留している間には、どう考えても日本の社会主義化は不可能です。この点は、他の現在に至るまでの基地闘争を行っている左翼運動家と同じでしょう。左翼運動家は米軍を撤退させた後には、非武装中立、または裏の目的としてソ連などの社会主義国の日本への侵入がその真空状態を埋めることで、日本の社会主義化を可能にするとします。しかし、小堀は、第2次大戦前後からのソ連の東欧への侵略を批判していますし、朝鮮戦争は当時としての珍しく明確に北からの南への侵略を明言して批判しているように、社会主義国建設は他国の力を借りるのではなく、自らの力で勝ち取るものです。ですから、米軍の撤退と自国軍建設は表裏一体なのです。軍備を持たないことは米軍か、ソ連軍を呼び込むことにしかならないのです。「今日の再軍備反対論者」は「無意識に侵略国家に奉仕している」も同様と指摘されています(434頁)。さらには、次のようにも述べています。

再軍備問題について何らの積極的意見をもたず、ただ反対反対と叫ぶことによって、再軍備に関する一切のイニシアチーヴを保守勢力に委ねている」(425頁)

 つまり、再軍備について真面目に考えないということは、保守勢力の永続支配を認めることにしかならずに、結局ところ、社会主義国建設を真面目に考えていないということになるというのです。

 こうした小堀の構想が左翼勢力の中で合意を得ることができたら、戦後日本は随分と変わったものとなったでしょう。楽観的には、最左翼が再軍備論を唱えたので、日和見のリベラルも軍備に関して真面目て考え出して、他の自由世界の中での社会民主主義政党のように米国と協調しつつ、社会主義政策を実現する政党ができていたかもしれませんし、極端な場合だと、日本に小堀らの社会主義勢力が政権を取って、社会主義の一党独裁政権ができていたかもしれません。どちらにしても、現在よりも安全保障についての議論の風通しの良さがあって憲法の改正が行なわれていたかもしれません。それが良いかどうかは分かりませんが、現実に政権担当が可能な政党が一つしかない状態や憲法解釈を官僚に委ねるような現実の戦後日本よりも「民主」的な政治運営が行なわれていたでしょう。

 しかし、こうした小堀の議論は、受け入れられるものではありませんでしたし、これをきっかけに社会主義労働党準備会も解散を余儀なくされます。本書の主人公である荒畑寒村は、小堀に同情的ではあるものの、現実に侵略の危機があるとは思えないという情勢判断の下に、再軍備には反対の立場でいました。とはいうものの、寒村は、小堀と山川均・向坂逸郎らとの対話は可能で、落とし所があるであろうと考えていたそうです。しかし、その見通しは甘く、分裂していまします。その点について、寒村は次のように指摘します。

「私はこの問題に関する主張の相違は、もっと自由な相互の討議によって調整できると信じていたが、そういう親切な同志的な方法をとらないで直ちに準備会と絶縁した山川君の態度を、私は深く遺憾とせざるを得なかった。意見の相違を、同志的な愛情と理論的な究明によって、徹底的に解決しようとはせず、排斥するのでなければ黙殺するのが日本の社会主義者の悪い伝統だ。」(431頁)

 ここが問題ですね。現在も同様だと思います。これは、多分、左翼だけの問題ではないと思います。おそらく右翼の方もそうでしょう。福澤諭吉は、幕末にイギリスに出かけた時に、違う政党に属して対立している者同士が親しく食事をしている姿を見て、理解するのに数日かかったと『福翁自伝』で述べていますが、日本の政治運動の世界はまだまだ封建社会の住人なのでしょう。こうしたところを乗り越えない限り、融通無碍な保守政党に勝つことは出来ないでしょう。でも、まぁそれでこそ左翼であり、右翼なのですが、それを薄めたリベラル勢力がそんななのだから、いかんのでしょうけどね。

 それはともかくとして、本書はなかなか興味深い社会主義運動の裏面史を垣間見せてくれる良書です。

評価 ☆☆☆


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2016年11月24日 (木)

荒畑寒村『寒村自伝 下巻』

点検読書243

岩波文庫(1975年12月16日)刊


日本史――自伝


サンディカリズムに傾倒した大杉栄と決別し、日本共産党結成へと荒畑寒村は同士らと動く。そして、その結成を報告するためにモスクワへと旅立つ。下巻は、ロシア行きと労農派の動向、戦時下と戦後の社会主義運動の内幕を語る。


5部構成

1:第一次日本共産党結成(1)

2:ロシア周遊(2~5)

3:共産党解散と『労農』(6~8)

4:戦時下(9)

5:戦後の社会主義運動(10~14)

コメント
 上巻は、随分前に読んだのですが、やっと下巻に目を通すことができました。しかし、期待していたほど、戦時下の社会主義者の動きや「あの戦争」についてのコメントがそれほどないな、という印象を持ちました。
 というのも、戦後の記述で、野坂参三が「戦争中、反戦運動をしたのは共産党だけだった」と述べたのですが、寒村の感想としては「そんな事実が果たしてあったかなかったか、海外に亡命していた野坂君よりも空襲下の日本に生活していた私たちの方がよく知っている」(349頁)というものでした。つまり、特に目立った運動などはなかったので、それを書いていないだけのようです。それだけでも本書は、無意味な「神話」に彩られていない誠実な記録とも言えます
 また、生粋の左翼である寒村は、党派的に発言をするのではなく、社会主義者の原則としてものを考えるために、戦後の堕落した共産主義者・社会主義者には痛烈な批判をしています
 例えば、彼の共産党への反感は、彼らの「祖国」であるスターリン支配下のソ連に対する甘い味方をするところに向けられます。

「スターリンは他国と他民族を併呑掠奪しながら、偽善的にもなお平和を唱えているのだ。そして各国の共産党はソ連の行動を是認し、日本に原爆が投下された時、彼らの機関紙は筆をそろえて称賛したではないか。日本が他国を侵略するのはもちろん悪い。だが、ロシアは果たして日本を侵略していないか。単に社会主義国という金看板に眩惑されて、こんな資本主義国の侵略政策と選ぶところのない不正不義に憤慨も、反対も、糾弾もしない社会主義者なんて犬にでも食われるがいい。」(351~352頁)

 これと同様のの趣旨として、「進歩的文化人」批判も痛烈です。

わが国でも、思想と表現の自由を守る護民官である筈のいわゆる進歩的文化人が、戦争の間は軍部の侵略政策に尻尾をふり、戦後は面をおし拭って民主主義を唱えている。かつてはヒットラーを神格化し、国民の自由と人権を絞殺したナチスの虐政に迎合した彼らは、今やスターリンを神の如く崇拝し、中世の異端焚殺の如き血の粛清と強制収容所の奴隷労働とをもって、思想と表現の自由を弾圧しているソ連の全体主義体制に対しても、批判の口を閉ざすことを進歩的と考えている。社会主義者の中にさえ、ソ連に対する批判をただちに反動的と認めるような傾向がある。こういう日本の文化的風土に反対して、民主的自由のためにたたかう運動の意義は、決して欧米に劣るものではない。」(437~438頁)

 かつて冷戦時代には、「アメリカの核は悪の兵器、中ソの核は善い兵器」ということが公然と言われていたそうですが、荒畑寒村のように主義思想に生きる人間にとって、こうした空気や属人的な価値判断に左右される無原則な大衆的知識人は度し難いものたちであったのでしょう。

 また、社会主義者・寒村の本領が発揮されるのは、現憲法を保持して社会主義建設などできない、とはっきりと述べているところです。「現在の憲法は生産手段における私有財産制、階級的支配、賃金制度の労働力搾取を含意する資本主義制度の上に存している」(482頁)のだから、社会主義政党が議会多数派を制した暁には、当然のごとく憲法を改正して社会主義国家建設に勤しむとします。

 しかし、当時の社会党は、耳に心地よいことしか言いません。社会主義国家建設という原則よりも、世間からの批判を恐れているからです。

それもこれも、ひっきょう社会党がジャーナリズム恐怖症にかかり、社会主義の究極目的、革命の必然的段階である独裁政権を、大胆に公言することを憚っているからだ。革命は一の階級がその意志を他の階級に強制するものであって、議会主義的民主主義からの飛躍なしには行なわれない。その意味で、革命の本質は暴力的であり、現に民主主義そのものが暴力革命の所産ではないか。」(482~483頁)

 ここまでいってもらえる気分がいいものです。自分たちの原理原則から考えれば、憲法改正を主張すべきなのに、護憲政党で通そうとするところに欺瞞があります。こうした欺瞞に加えて、日本の左翼・リベラルが信用されないのは、先に指摘さていたように、あまりに党派的であることに加えて、批判を恐れて耳障りの良いことをいって、平気で嘘をつき、さらにそれが嘘であることを忘れて、嘘を本気で主張し始めることでしょう。その最たるものが、民主党政権でした。彼らは、本当の目的を隠して嘘をついて政権の座を占めたというよりも、嘘を本気で信じてしまって確固たる原則もプランもなかったので、何もできずに結局のところ官僚にいいように取り込まれるという政権でした。
 寒村のような確信的左翼は、支持する気はないものの、やはり人間、原則を信じることが最も裏切られることの少い正直な生き方を可能にするのでしょうし、周りから見ていても気分が良いものです

つづく

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2016年5月24日 (火)

『フランクリン自伝』

点検読書198

松本慎一・西川正身訳
岩波文庫(1957年)刊


自伝


科学者であるとともに出版業者、哲学者、経済学者、政治家でもあったベンジャミン・フランクリンの自伝。蝋燭・石鹸製造の父のもとでの修行から始まり、印刷工をしながら著述活動を行い、経営者となり、州会の役人、義勇軍連隊長などを経験し、州会を代表して領主との交渉のため英国に滞在するまでが述べられる。自伝としては未完成ながら、フランクリンという人格を形成した「成功」の哲学の書として読み継がれてきた。


六部構成

1:少年期から修行時代(第一~三章)

2:経営者時代(第四~五章)

3:成功の哲学の習慣(第六~七章)

4:州政府の役人として(第八~十二章)

5:付録「富に至る道」

6:対照年表

コメント
 
本書解説において、フランクリン自身のあまりの楽観的な人生哲学に、自分の悩みの共感がほしいと思って人生の書を紐解く人には不満であろうから、「アメリカ資本主義の揺藍史」として読まれるべき、と書かれています。
 たしかに、本書の主人公フランクリンは、「同じ生涯を繰返せと言われたら、承知するつもりである」(8頁)と自身の人生を「この幸運な生涯」と称しているだけあって、悩みがないような自伝です。しかし、それは、彼が単に悩みのない幸運な人生を送ったのではなく、いかにして悩みなく人生を過ごすか、という人生哲学を確立したことの結果として、楽観的な自伝となっているようです。
 そうした彼の人格を磨くための刻苦勉励の例が、第六章の「十三徳樹立」です。彼は、正しく生きることが自身の利益になると考えましたが、単にそれを理念として自分に課すのではなく、習慣として自身の中に植え付けることを考えます。そこで考えたのが、節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、平静、純潔、謙譲という十三の徳です(137~138頁)。

第一 節制
飽くほど食うなかれ。酔うほど飲むなかれ。

第二 沈黙
自他に益なきことを語るなかれ、駄弁を弄するなかれ。

第三 規律
物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。

第四 決断
なすべきことをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。

第五 節約
自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。

第六 勤勉
時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。

第七 誠実
詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出だすこもまた然るべし。

第八 正義
他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。

第九 中庸
極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。

第十 清潔
身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。

第十一 平静
小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。

第十二 純潔
性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これに耽りて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。

第十三 謙譲
イエスおよびソクラテスに見習うべし。

と列挙し、一週間に1つずつ実現できるように自身に課すのです。十三週間で一周りし、一年で四周できますので、その間にこれらが習慣として身につくというのです。
 ちなみに「謙譲」の詳しい説明は、少し後に書かれていて、自己主張をしないということを意味しています。つまり、相手の間違いを指摘したり、断定的な物言いは避けるということです。相手が明らかに間違っていても、「時と場合によってはあなたが正しいかもしれないが、今回はこう考えてはどうだろうか」など、遠回しに諌めたり、「絶対に」とか「間違いなく」といった言葉は使わずに、「と私は思う」とか「と私は想像する」など遠慮がちに意見を言うということを意味しています。イエスやソクラテスが、そうした人物だったかは微妙な気もしますが、議論を仕掛けたり、自分の意見というものを相手に押し付けるようなことはしないようにしよう、ということでしょう。
 また、本書は、ご丁寧にこの習慣のノートの記載方法まで載せられていて、実行を迫ります。そう考えると本書は自己啓発書の元祖のような位置づけもできるでしょう。フランクリン自身も述べているように、自身の幸福な人生は、こうした「工夫」によって生きたためだ、としています(147頁)。だから、悩みを悩みとして生きるのではなく、悩みを克服し、人生哲学を確立して、それを習慣にすれば、悩むこともない、という非常に楽観的な生き方ができる、ということになります。
 こうして考えると、変化が多くそれに対応するために悩み多き資本主義社会で生き抜くための精神修養法の原点を本書に見るように思えます。つまり、自己啓発大国アメリカの原点であり、近年は少々変わってきたのかもしれませんが、快活で精力的なアメリカ人の原点が本書にあるのかもしれません。

評価 ☆☆☆☆

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2016年5月12日 (木)

幣原喜重郎『外交五十年』

点検読書189

中公文庫(1987年)刊。
原著は『外交五十年』(読売新聞社、1951年4月)。


自伝


大正・昭和期に外務大臣・総理大臣として活躍した外交官・幣原喜重郎の口述による回想録。昭和25年9月5日から11月14日にかけて61回にわたって『読売新聞』に掲載された日露戦争から首相拝命までの回顧とエッセイが収録されている。初めて「幣原外交」と個人名を冠された外交とは何であったのか。本人の証言により、再構成される。


二部構成

1:日露戦争から首相拝命までの回顧録
  ・日露戦争をめぐる日米・日露関係
  ・排日移民法をめぐる日米関係
  ・政党内閣時代の大陸政策・対米英協調外交=「幣原外交」時代
  ・政党内閣崩壊後の回顧
  ・首相拝命

2:人物・時代についてのエッセイ
  ・外務省入省のいきさつ
  ・イギリスについて
  ・元老・重臣たちの回顧
  ・中国・朝鮮について
  ・アメリカについて

コメント
 「幣原外交」で有名な幣原喜重郎の回顧録。一読驚いたのは、読みやすいことでした。一つ一つの見出しに起承転結がしっかりしている。すべてを通して読まなくても、一つの見出しをそれだけ読んでも十分楽しめるエッセイになっているのです。幣原って、そんな文才があったのか、と思ったのですが、解説を見て合点がいきました。これは口述筆記であり、しかも各見出しごとに毎日、新聞で連載されていたものなんですね。新聞は、連載といえども毎日読むわけではありませんから、各回で一つの話になっていなければ、読む方としては気分が悪いです。そのため、本書の一つ一つのエピソードが連続した話にもかかわらず、各見出しごとで完結した話になっているのです。当時の読売新聞の編集の技量というものを感じられる本です。
 と、内容よりも編集の見事さばかりに目がいってしまったのですが、内容に関しては、面白いのですが、どうも軽妙に語りすぎていて、かえって真実味が薄れてくるようにも感じてしまいました。
 例えば、ポーツマス条約を締結し、世論による囂々たる非難を浴びて帰国した小村寿太郎を新橋駅で迎えて、小村の両脇に立って、もしもの時の護衛をなった人物は誰だったのか。本書では、桂太郎首相と山本権兵衛海相となっています(31頁)。幣原自身が見たと言っているのですから、それが正しいのでしょうが、一方で伊藤博文と山縣有朋ががその役割を果たしたという見方もあるようです(Wikipedia)。ちなみに小村の秘書官であった本多熊太郎の小村についての評伝『魂の外交』(千倉書房、1941年)によりますと、新橋駅のプラットフォームで小村を囲んだのは、桂首相、山本海相に加えて、寺内正毅陸相の三人で取り囲んだそうです(231頁)。これは、1935年4月に記述したものらしいのですが、一体本当のところはどうなのでしょうか。
 また、1927年の南京事件につき、幣原外相が日本の砲艦に発砲をを禁じる訓令を出したが、事実誤認で、居留民たちがシベリア出兵時のニコラエフスク事件を想起して、抵抗をやめてくれ、と嘆願したことにあったとこを指摘しています(116頁)。これは、どうやら確からしいのですが、日本人居留民が略奪にあったことは認めているものの、その被害については「幸い殺害を免れた」として、ずいぶんクールなのです。本人もこれらの対応で、自身に怒りが集中したことを認めているものの、こうした大衆感情を考慮しない官僚的な行動が、後の強硬路線を生んだということへの、反省の色は見えません。エリート外交官てのは、こうしたものなのだろうな、という気がします。
 それが現れているのが、エッセイに含まれたサー・エドワード・グレーのエピソードです。1915年、メキシコに油田を持っていたベントンという経営者が、メキシコ人の利権回復運動の暴発により殺害されてしまいました。イギリスとしては、居留民保護を目的に軍艦の派遣を決めたのだが、南北アメリカの不干渉主義=モンロー主義をとるアメリカ合衆国から待ったがかかりました。イギリスとしては、英艦派遣はしないが代わりにアメリカが英人保護に責任をもってくれ、と依頼したところ、そんな責任はアメリカにはない、と突っぱねられました。そこで、アメリカはケシカランという話になります。
 イギリス議会で、それが取り上げられます。質問者は、外相グレーに、メキシコの事件について事実関係を問いただします。外相は、それがあったことを当然に認めます。そこで質問者が、なにか行動を取るのか、と質問すると、外相は「何の手段も取りません」と答えたというのです。
 日本の外交官としては、大変なことをいったと思っていたのですが、翌日の新聞各紙はグレーの答弁を賞賛しています。これはどうしたものか、とイギリス人記者に聞いてみると、イギリスが強硬に軍艦を派遣して、アメリカと関係を悪くして戦争でも起こったら大変だ、騒ぐだけ無駄だしイギリスの国威を失墜させるから黙っていた方がいい、という認識だから、だというのです。
 それに対する幣原の感想としては、以下のとおり。

「イギリスの一般国民が、いかに外交上の問題について常識をもっているかということは、この一例でも判るが、それは日本なんかでは想像も出来ない。イギリスの外交官が国際場裡で光っているのは、一般国民にこの常識があって、大局を見ており、これを押して行けばどうなるかと先を見る。そうすれば余計な喧嘩をしてはつまらんという気になる。その見限りの早いことは驚くべきものがある。このイギリス人の常識ということを考えると、そういう国民ならば、外務大臣はどんなに仕事がやり易いだろう。私らがそんな答弁をやっていたら、もうニ、三度は殺されていたろうと思うと、この点は羨まずにはいられない。」(256~257頁)

 ここで幣原が言っている「余計な喧嘩はつまらん」と感じるイギリス人の「常識」というものは、たしかに羨ましいし、そうした強さが高貴さを我々も持ちたいとも思います。しかし、幣原は、こうした立派なイギリスの一般国民に対して、感情的で幼稚な精神風土の日本国民という差を見ているだけで、同情心がないんですね。国民に責任を持たない外交官ならば、そうしたクールな心で外交を舵取りしてほしいものですが、彼は大臣として国民に責任ある立場として活躍した者なのだから、幼稚な国民を軽蔑していいるだけではなく、そうした幼稚さを勘案しつつ、外交をやってもらわないと、どこかで反動が来てしまうようなきがするんですよね。そこが幣原に欠けていたところではないか。そんな気がするのです。
 もっとも、このエピソードの次にある政治家と新聞記者のついてのコメントは、現在も頷くところが多いです。

「今言ったように、イギリスの議会では議員が質問しても、否定の場合には「ノー」と答弁すればそれで済むが、日本の議会では、「そんなことがあるものか」とか、「なぜここで話せないのか」とかいって食い下がる。あるいは食い付いて離れない。新聞記者の態度も全くこれと同じで、外国の記者は、こちらが「ノー」といえばそれきりであるが、日本の記者となると、四方八方から突っ込んで、どうしても泥を吐かせようとする。それが泥がなくてもである。」(257頁)

 先日のTPPの特別委員会をめぐる騒動もそうでしたが、日本の議会も記者の態度は100年たっても変わらないようです。こちらは、大衆の感情の問題とは異なり、自分たちがエリートなのだという自覚の無さが原因となっているような気がしますので、どうにかしてもらいたいな、と思った次第です。
 読んでみて損はないように思えます。ただ憲法9条幣原発案説(218~222頁)に関しては、マユツバで読まなければならないようです。ただ、幣原としては、「国民の一致協力」という国家は成り立たないと考え、自身の発案という神話をつくりだして、戦後日本というものを安定させようとしたのではないか。そんなふうに思えます。必要な嘘だったといえるでしょう。またここに大衆をバカにしているところがあるような気もしますが。

評価 ☆☆☆

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2016年4月27日 (水)

『岡田啓介回顧録』と第19回総選挙

承前

 天皇機関説事件は、民間においては蓑田胸喜ら原理日本社、貴族院においては菊池武夫ら旧軍人が批判の急先鋒でしたが、衆議院における批判者は当時議会多数派でありながら野党に転じていた立憲政友会でした。政友会は、第二次若槻禮次郎内閣の後を襲った犬養毅内閣下の総選挙で景気対策を訴えて地滑り 的な勝利を得ました(466議席中301議席)。しかし、周知の通り、1932年5月15日に犬養首相が海軍将校に射殺されて、政党内閣は終焉します。それを引き継いだのは、斎藤實内閣だったのですが、この内閣は政友会・民政党という二大政党から大臣を出す挙国一致内閣だったのでした。
 しかし、政友会としては、おさまりがききません。本来なら首相が急死した場合、同じ政党から後継首相が出るべきです。原敬内閣後の高橋是清内閣、加藤高明内閣後の若槻禮次郎内閣、濱口雄幸内閣後の第二次若槻禮次郎内閣しかりです。それにもかかわらず、犬養後継は、政友会の新総裁・鈴木喜三郎ではなく、海軍大将の斎藤實になってしまいました。そこに不満があります。
 斎藤内閣までは何とか協力しようとしう姿勢は見せたものの、斎藤内閣後が再び海軍大将の岡田であったのです。これでは、納得ができません。政友会は野党に転じ(入閣した床次竹二郎、山崎達之輔、内田信也は除名)、岡田内閣を倒閣して政権奪取を狙っていたのでした。天皇機関説事件がこじれてしまったのも、この倒閣・政権奪取のためなら何でもやるという意欲が先走ってしまったためであると思われます
 そうした情勢の中で、満を持して、総選挙となりました。結果は、与党である民政党が第一党(205議席)、政友会が175議席と激減、そして7議席から22議席へと約3倍に躍進したのが社会大衆党など無産政党でした。とりわけ社会大衆党は1党で18議席と存在感を見せております。
 これにより政党内閣復活の目が出てきました。というのも、元老の西園寺公望は、普通選挙法施行後の初めての総選挙で、内相として「天皇中心主義」を掲げて、野党・民政党の「議会中心主義」を攻撃した鈴木喜三郎政友会総裁を首相にふさわしいと考えていませんでした。その鈴木がこの第19回総選挙で落選しました。また、第一党となった民政党は、前総裁の若槻禮次郎が元首相として重臣の列に加わっており、次期首相選出において有利な位置にありました。岡田が退陣を決断すれば、政党内閣復活は目前だったのです。
 しかもです。本書の証言によれば、総選挙にあたり、岡田は興津の西園寺を訪ね、住友から100万円の援助を受けるよう助言され、受け取っています。そのカネの使いみちですが、内閣書記官長の迫水久常の「これからの日本では健全な無産政党を発達させる必要があるので、その方面へいささか援助しては」と進言され、岡田は民政党が与党だから表立ってはできないが、任せると言って、迫水から社会大衆党の書記長の麻生久に資金が提供されたというのです(152頁)。そして、この選挙での社会大衆党躍進につながったのでした。
 このように考えると、当時のエリート層は、岡田内閣後に、町田忠治民政党と麻生久社会大衆党の連立内閣を考えていたフシがあったのです。
 この幻の内閣が、果たしてどのような役割を果たしたかは分かりません。民政党というのは、昭和恐慌を引き起こした悪しき緊縮財政の傾向がありました。もっとも、緊縮財政の権化・濱口雄幸は死亡し、井上準之助も暗殺されていましたし、斎藤・岡田と続く高橋是清の財政政策を与党として支持していたのですから、心配はないのかもしれません。その上、この時期には、高橋蔵相も緊縮に向かい始めたように、インフレが懸念される事態にありましたので、緊縮派の民政党の内閣がふさわしかったといえます。民政党の対軍の緊縮路線と社大党の社会福祉路線が合致して、予算内の軍事費が社会保障費に切り替われば、一気に1970年代まで政治が変わったともいえます。
 しかし、この期待をぶち壊したのが、2・26事件でした。そして、この後継内閣の廣田弘毅内閣で、軍部大臣現役武官制が復活するに及んで、政党内閣がほぼ困難となります。1937年4月30日の第20回総選挙で社大党が躍進しているので、民主主義的展望がまだあった、7月7日の盧溝橋事件さえなければ、という考えもありますが、廣田後の宇垣流産内閣や米内光政内閣の結果を見れば、現役武官制によって、政党内閣はさらに不可能になっていたことは明らかでしょう。そう考えると、2・26事件による軍の影響力増大と廣田弘毅内閣の成立は、ターニングポイントであったといえます。
 天皇機関説事件と2・26事件という二つのエポックが発生してしまったのが、岡田啓介内閣であり、またそれは戦前期における自由主義復活の最後の機会をリベラル派の海軍大将の首相が担っていたんですが、それは不幸にして、また優柔不断な決断によって、なくなってしまった。本書は、どうも当事者意識の低いリベラル派軍人の回顧録でした。

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2016年4月26日 (火)

『岡田啓介回顧録』と天皇機関説

点検読書180

中公文庫(1987年4月)刊。
原著は、岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社、1977年12月)。


自伝


海軍大将から天皇機関説事件、2・26事件時の首相となった岡田啓介の自伝。生い立ちから大正・昭和期の政治史を中心に淡々と述べられ、2・26事件の詳しい回顧と重臣として東條内閣倒閣に尽力したことを中心に語られる。付録として、ロンドン海軍軍縮会議時の日記も収録。


五部構成

1:生い立ちから海軍将校時代。

2:陸軍の大陸進出とロンドン海軍軍縮会議など昭和期の政軍関係。

3:組閣から2・26事件まで。

4:東條内閣倒閣運動など重臣としての活動。

5:付録としてロンドン海軍軍縮会議時の日記。

コメント
 昭和期の転換点の二つが、この著者の内閣時代に起きています。
 天皇機関説事件と2・26事件です。
 前者は、これまで大日本帝国憲法下で慣行とされてきた内閣中心の政治、すなわち統治権は天皇が持つものの、統治の責任は内閣が持つというもの責任内閣政治を理論づけた美濃部達吉の天皇機関説を内閣が公式に「国体明徴声明」として否定したものでした。
 一般的に美濃部の天皇機関説が、政党内閣を理論づけたと言われますが、それは美濃部理論の応用であって、もっとも重要な点は帝国憲法に規定のない「内閣」を統治の中心として理論的に位置づけたことにあります。つまりは、帝国憲法第五十五条第二項の法律・勅令・詔勅の副署についての拒否権を大臣に認めることで、天皇の意志よりも大臣の意志を優先させ、政治の責任を明確にすることと、『憲法義解』における第五十五条解釈の「国ノ内外ノ大事」についての連帯責任、内閣官制第五条の閣議の必要ということから、内閣が政治の中心であることを理論づけたのでした。政党内閣は、もし連帯責任があるなら、同じ意見を持ったものが内閣を組織した方が効率が良いというもので、内閣中心政治の運用が効率的に行われるために必要だ、という論理でした。
 この内閣中心の政治理論であった天皇機関説が否定されたことは、ロンドン海軍軍縮問題で発生した統帥権干犯という発想の根拠、陸軍参謀本部や海軍軍令部といった天皇直属の統帥部へのコントロールが効かなくなるということを意味していました。つまり、天皇機関説を葬り去ることで、内閣の統治責任が否定され、天皇の意志=統帥部の意志を拒否できるものがいなくなることになります。
 天皇機関説の肝は、憲法第五十五条の副署拒否権のように内閣の統治責任が明確であるところにあったのですが、これが否定されると、天皇の意志(=軍)をコントロールすることができなくなりますし、天皇は君主無答責の原則で責任を取りませんので(天皇の意思を利用した軍も責任がない)、無責任体制が完成します。これにより、戦争の歯止めはなくなります。成功すれば金鶏勲章を得て多額の年金が貰える(参照)上、失敗しても天皇直属の機関としての統帥部の失敗=君主無答責の原則で責任を問われない。とすれば、戦争することが軍人にとって合理的でした。これでは、軍が戦争を起こそうとするのも当然となります(原田泰『日本国の原則』を参照)。
 天皇機関説事件とは、このように明治国家の性格をガラリと変えてしまったものでした。岡田は、その時の首相であり、本人自身は美濃部学説を否定するものではなかったのですが、言質をとられるのを恐れ、天皇機関説を否定してしまい、「国体明徴声明」を出さざるをえないところに追い込まれます。
 その上、2・26事件が起きます。ここで言及したいのは、2・26事件そのものよりも、その数日前の1936年2月20日にあった第19回衆議院議員総選挙です(つづく)。

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2016年4月22日 (金)

小原直『小原直回顧録』

点検読書177

中公文庫(1986年)刊(原著は、小原直回顧録編纂会〔1966年〕刊)。


自伝


司法官僚として、大逆事件、シーメンス事件、朴烈事件、帝人事件などの重要事件に関わり、天皇機関説事件や二・二六事件時の司法大臣であった著者の自伝。


四部構成

1:生まれと育ち。

2:司法官僚として向き合った事件(日糖、大逆、シーメンス、大浦兼武、朴烈、帝人の各事件)。

3:司法大臣として入閣(天皇機関説事件、二・二六事件など)。

4:司法制度についての論評。

コメント
 小原直1877~1967)の自伝。河井継之助で有名な長岡藩出身の著者は、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法省へ入省する(1902年)。その後は、地方の裁判所の検事、東京の控訴院の検事、東京地方裁判所次席検事、司法次官、東京控訴院長などを歴任し、岡田啓介内閣では司法大臣を拝命。司法官僚として、着実に出世を重ね、さらに戦後も第五次吉田内閣で法務大臣となった。
 こうした人物の自伝なのですが、やはり怖いのは、絶対に誤りを認めない、という姿勢です。例えば、大逆事件は宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作が現に天皇暗殺の計画を持ち、さらに爆弾も準備していたわけであるから、旧刑法116条の適用は免れないものの、参加に踏ん切りのつかなかった幸徳秋水、参加を断っていた森近運平や幸徳と喧嘩別れしていた坂本清馬などはフレームアップであろうと、通常は言われます。
 しかし、著者は戦後出版された本書で、はっきりと「戦後いろいろの批判があり、中には、「でっち上げ」だというものがある。が、それは私にはどうしても考えられない。〔中略〕被告人はいずれも、宮下、菅野、新村、古河らの計画に対して多少の差があるが、それぞれ関連を持ち、何かの形で、その進行を助けていた。しかも、そのことを各関係者が自ら供述している」(43~46頁)。だから、適切であった、というのです。
 確かに、幸徳は、彼らとの謀議に関わったし、奥宮健之は爆弾製造のアドバイスもし、森近運平は、古河を推薦したのでしょう。しかし、それは、「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタ者ハ死刑ニ処ス」を適用して死刑を執行してしまったのが、やり過ぎという批判であって、その関与を否定しているわけではありません。しかし、著者は、計画を知っていたのに止めなかったから、死刑は当然という姿勢です。
 また、著者は、戦後生き残った坂本清馬が再審請求をしていることを批判しています。この請求は、1967年7月5日に最高裁が棄却したことで名誉回復が行われなかったのですが、司法界の大ボスである著者はこの年の9月8日まで生存しています。そう考えると、著者が担当した事件である大逆事件の司法判断が覆ることはなかったのだろうな、という気もします。
 さらには、昭和期の司法ファッショ事件として著名な帝人事件に関しても、著者は無罪判決が出たのは仕方がないものの、検事局は控訴すべきで「悔いを千歳に残した」を批判しています。
 このように本書は、事件の評価そのものについては疑問なしと言えないものではないのですが、明治から大正、昭和にかけて世を賑わせた事件の裏側と、これらを捜査する側のものの考え方を知るには良いものかと思います。

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2016年4月 7日 (木)

芳澤謙吉『外交六十年』

点検読書163

中公文庫(1990年)刊(原著は自由アジア社〔1958年〕刊)。


日本史――自伝


1874年生まれ、1899年に東京帝国大学文科大学英文科卒業後、外務省入省。厦門、上海、ロンドンの領事館に勤務の後、本省政務局、駐支公使、駐仏大使、犬養内閣での外務大臣、貴族院議員として日蘭交渉の従事、枢密顧問官として終戦を決めた御前会議に列席し、戦後は初代の駐台湾大使となった外交官の自伝。


四部構成

1:生まれから大学卒業まで(第一章)。

2:外務省勤務時代(第二章~第六章)。

3:貴族院議員・枢密顧問官時代(第七章~第十章)。

4:初代駐台湾大使(第十一章)。

コメント
 英文科出身で外務省に入省し、犬養毅の娘を妻とした異例の経歴を持つ外交官の自伝。
 全体としての感想は地味に尽きるのだけれども、ところどころ興味深い話が掲載されている。 

例えば、抑制的な伊藤博文に対する、アグレッシブな児玉源太郎
 児玉源太郎といえば、司馬遼太郎『坂の上の雲』の影響で、大変魅力的な戦術家で、日露戦争の際に早期講和を政府に求めていたので、穏健な人物に思えますが、1906年の満洲問題協議会で、満洲における軍政を続けようとする児玉参謀総長に対して、伊藤が激しく反対したというエピソードが有名です。
 本書で述べられているのは、それ以前の1900年、義和団事件に時のこと。児玉源太郎は台湾総督としていました。台湾では、対岸の福建省出身者が多く、両地域の関係は政治的にも経済的にも密接なものであったといいます。そのため、児玉はかねてから福建省の領有を考えていたようです。そうした時に、北支で起きた義和団事件の余波が南にも波及し、厦門にあった西本願寺出張所が火災になり、それをきっかけに厦門港外に軍を輸送船で派遣した上に、軍艦高千穂その他二隻を港内に停泊させました。この危機一髪の際に桂太郎陸軍大臣が厦門占領中止を命じる電報を打って事なきを得たのですが、伊藤博文からの厳重な忠告が政府を動かしたとのことです。
 このように考えると、児玉というのは、占領地域民と関係の深い地域は、安全保障上、勢力下に置く必要があるので進出していく、という日本軍の拡大戦略に忠実というか、その先鞭をつけた人物であるようにも思えます。それに対して、一世代前の元老たる伊藤博文は、できるだけ抑制するという慎重な態度を示したということになります。

 日露戦争前のイギリスの日本認識
 以前に『日本の百年3』で、日清戦争以前の日本は諸外国から清国の一部であると思われていたというエピソードを紹介しましたが、外務当局者からしても日露戦争までは日本の国際的プレゼンスは非常に小さなものだったといいます。
 その例として述べられているのが、林董公使と英国首相ソールズベリー候ことロバート・ガスコイン=セシルとの会見のエピソード。
 1900年、林董は、公使として赴任し、首相兼外相であったソールズベリー候に会うために外務省へ訪れた。取次の者が、先に来ていた外交官を送り出してから、「ジャパニーズ・ミニスター」と声高に招き入れると、ソールズベリは「プリーズ・カムイン・サイアミース・ミニスター」と言って迎え入れたといいます。「サイアミース」とは、Siameseのこと。当時のタイ人(シャム)の英語表記です。日本は、タイと間違われるくらい馴染みのない国だったわけです。2年後に日英同盟を結ぶとは思えないほどの、存在の軽さだったのでした。ちなみに1905年12月に日本公使は大使へと昇格します(公使は、外務大臣にあてて派遣、大使は国家元首にあてて派遣されます)。日露戦争で勝利するまで、日本はイギリスに大使をおくることができなかったということになります。近代日本の戦争に関して、様々な議論がありえますが、戦争を遂行して勝利しないと、一人前とはみなさない野蛮でマッチョな西洋人によって世界のルールが決められていたということを忘れるべきではないでしょう。

 蒋介石と昭和天皇
 戦後に飛びますが、著者は、戦後に戦犯指名はされなかったものの、公職追放となります(1946年4月)。しかしながら、1951年8月に追放解除となり、1952年8月25日に台湾の初代大使を任命されます。
 そして、同年9月26日に、昭和天皇に謁見した時に、次のような言葉を述べられたといいます。
「蒋総統に会見する場合、日本軍の中国大陸に於ける敗戦の当時、蒋総統が部下に対し、"仇に報ゆるに恩を以てせよ"との命令を発せられたるため、何十万という多数の我が軍民が無事中国を引き揚ぐることを得たことは、私の忘るることの出来ないことであって、蒋総統に深く感謝している旨伝えてもらいたい」
 この伝言を著者は、蒋介石に伝えると、「御謝辞を有り難く感ずる旨」を述べたといいます。蒋介石は、かつて日本の第13師団に隊付として実習した経験から、日本の軍民との交流や日本の歴史の知識を持っていたため、日本の天皇に対する敬意を表していたといいます。それを表すように「カイロ会議の時、ルーズベルト米大統領が天皇制廃止を主張したのに対し、敢然これに反対したため、ルーズベルトの説が会議に於て採用されなかった次第である」(252頁)ということがあったようです。
 戦後日本において自民党内の右派と人ほど、台湾への思い入れが強く、中華人民共和国との国交正常化に反対の意志を示したのですが、この戦後の穏健な処置(それが中共との戦争を有利にすすめるためのものであっても)と天皇への敬意にあったのかな、と思います。しかし、近年において蒋介石評価というのは、右派の中で下がっているようですから、戦後の保守と現在の保守とは異なるものなんでしょうな。

評価 ☆☆☆


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2016年3月 8日 (火)

市川房枝『市川房枝自伝 戦前編』(新宿書房、1974年)

点検読書144


自伝


小学校教員、新聞記者を経た著者がいかにして戦前期における婦人運動家となったか。本書は生い立ちから第二次大戦終了までの足跡を回顧する。


三部構成
1:生い立ちから小学校教員、新聞記者を経て、婦人運動に入るまで(第一、二章)。

2:新婦人協会結成とアメリカ遊学、婦人参政権運動(第三~五章)。

3:戦時下の婦人運動(第六~八章)。

コメント
 本書を眺めてみて、感じることは、彼女は婦人運動家という反主流派運動をしつつも、あくまで時代のメインストリームとともに歩み、着実に権利拡大運動に従事していたということだ。彼女自身も彼女の周囲の人も、世の無理解と戦ったのであろうが、体制変革やテロを起こすということもなく、獄につながれることもない。しかも、戦前の左翼運動においては攻撃対象であって連携の相手ではない既成政党に仲間を求めて、そこを突破口としようとする。それが表れているのが、支那事変勃発後の彼女の行動であり、選択である。

「しかし盧溝橋事件の発生から全面的な日中戦争に進展していくのをみて、私は深い憂鬱にとらわれてしまった。今までは可能な程度に戦争反対の意思表示もし、軍部の攻撃もしてきた。政府の、自治体の政策に協力の姿勢を示しながら、そのなかに私どもの要求を割りこませることに苦労し、ある程度目的を達してきたつもりである。しかし今度は現実に戦争が始まってしまった。この時点で、正面から戦争に反対して監獄へ行くか、または運動から全く退却してしまうか、あるいは現状を一応肯定してある程度協力するか、どれかの道を選ばなければならない。」(433頁)

 勇ましいことを言って何も獲得できず、自己満足に陥るよりは、協力しつつ、その中で自分たちの意見を取り込んでいく。こうした姿勢が彼女には見られたのであった。この述懐は、戦後に書かれたものであるが、この直後に引用されている『女性展望』九月号に掲載された「時局に対して」において「悲しみ、苦しみを噛みしめて、婦人の護るべき部署に就かう」とほぼ同様のことが書かれており、単なる反省ではない。当時の気持ちを正確に書き記しているのである。

 そこに物足りなさを感じる向きもあろうが、真剣にその次代に向き合った証でもあると思う。彼女にとって、意見表明や運動は、内輪の中でどのように見られるかといったポジショントークではなく、真剣にそれらを実現していこうという意志があった。まさに時代とともに生きたのである。また、それであったからこそ、本人が望まぬ戦争であっても敗れれば、「涙が頬を伝って流れた。戦いに敗れたくやしさであった」(615頁)と素直に書くことができる。そこに私は彼女の偉大さを感じる。

 また私は朝の連ドラ『あさが来た』を毎日楽しみに見ているのであるが、本書にも少しだけモデルとなった広岡浅子が出てくる。以下、引用しておこう。

 まずは、名古屋で教員をやっていた時代に婦人運動への関心を高めていった時期である。
「ときあたかも大正デモクラシーとよばれたころなので、いろいろな人が名古屋に来ては講演をした。宮中に出仕したのち、華族女学校の校長になった下田歌子女史の講演もきいた。また、三井財閥の娘で大阪の広岡家に嫁にいった女丈夫広岡浅子女史のもきいた。」(27頁)

 次のほぼ同様の時期である。
「この夏休みには、前記の小橋さんからすすめられて御殿場二の岡でのキリスト教夏期講座に出席した。主催者は、前に名古屋で講演をきたことのある大阪の広岡浅子氏であった。氏は、財閥三井家の娘で大阪の広岡家に嫁して同家を再興したという女丈夫だが、のちキリスト教の信仰を得て、各地で講演したり、こうした寮をつくって講習会を開いていたのであった。出席者は寮で合宿、同志社大学の牧野教授から一週間ほど講演をきいた。広岡氏は小橋氏の雑誌のパトロンであった関係から私を誘ったようである。/このグループの中には後年私の友人となった日本基督教婦人矯風会幹部の守屋東氏、群馬の東洋英和の先生であった安中花子(のちの村岡花子)氏がいた。また、のちに婦人矯風会の幹部となり、同志として運動を一緒にした千本木道子氏は、当時広岡女史の秘書をしていた。変な格好をしていたらしい田舎の女教師の私は、ここで守屋市から着物の着方、帯のしめ方を教えられたのであった。」(32頁)

 ここに現れる「小橋氏」というのは、『読売新聞』の記者などを経て、日本女子大学同窓会の機関誌『家庭週報』の主筆をしていた小橋三四子で、以前から市川と面識があったようであるが、小橋が広岡浅子をパトロンにしていた関係で、市川と広岡とのつながりができたようである。また「牧野教授」とは牧野虎次のことかと思われる。しかし、このように見ると、市川と広岡の関係は、間接的ではあるものの、広岡を中心としたグループの中で様々な人脈を築くことができたという点で、その後の市川に多大な影響を与えたとも言えるだろう。

 その他で関心を持った点は、斎藤隆夫についてである。私は、以前、斎藤について関心を持っていて調べていたのだが、ある人が斎藤は女性参政権について否定的で、婦人運動家を悩ませていた、という記述があったのだが、具体的に何を意味しているのかが、そこには書かれていなくて困っていたのである。

 で、本書を読むと昭和5年1月26日という第18回衆議院議員総選挙のまっただ中に(1月20日解散、2月20日投票)、「選挙革正婦人団体懇談会」というものを開き、YMCA日本同盟、基督教婦人矯風会、全国小学校女教員会、女子医学専門学校同窓会至誠会、日本女子大同窓会桜楓会の五団体が参加し、その場で「内務政務次官斎藤隆夫氏から、選挙会の実情ならびにこの革正の必要についての講演をきき、あとで懇談したが、各代表者とも極めて消極的で失望させられたのであった」(174頁)と述べられてある。ここだけ読むと濱口雄幸内閣を代表して斎藤は、現状の選挙制度について話したのであって、女性参政権については他の女性団体同様に消極的であったというに過ぎないようである。

 別の箇所の婦人公民権案が衆議院で議論された昭和5年5月8日に、「政府としては、安達内相に代わって斎藤隆夫政務次官が、趣旨には賛成だが本案には直ちに賛成できないと答えた」(232頁)とある。5月10日に衆院で可決後の11日にも斎藤政務次官は答弁しているが、ほぼ同様のことを答えたらしい(235頁)。また翌6年2月19日に政府が提出した婦人結社案の趣旨説明で、結社参加年齢を男子と同じ20歳以上ではなく、25歳以上にしたのは何故かという質問に対し、婦人公民権案と同じにした、と木で鼻をくくったような答弁をしたことも述べられている(257頁)。

 以上のように見ていくと、たしかに斎藤が女性参政権および婦人運動については、消極的な態度を示している。この場合は、政府を代表しての発言ということで、斎藤個人の意見ではない、という見方もできるが、斎藤自身は大衆というものに信を置いていない部分があったので、当時の考えかたでいえば、教育程度が女子より高い男子でも十分に選挙権を活かせていないのだから、女子にはまだ早い、という考えかたではあったのだろうな、と推測される。

 最後に南京事件について。昭和15年2月から4月にかけての中国視察旅行でのこと。

「南京では、北京からまわって来た作家の佐藤(田村)俊子氏に出会い、いろいろ話した。彼女は軍の馬淵報道部長と懇意のようで、中国通であった。竹中〔繁子〕氏、佐藤氏、私の三人は南京の高市長夫人招待会に出席した。また私たちは、南京にある孫文の中山陵に参拝したり、小学校を訪問したりもした。さらに昭和十二年十二月南京占領の際、日本軍が中国婦人を暴行、虐殺した状況(南京事件)を書いた外人宣教師のパンフレットの翻訳をある人からもらったし、その時の話もある人からきいた。日本人としてまことに恥ずかしく、弁解の余地は全くない。これでは日中の友好の確立は容易ではないことを深く感じた。」(496頁)

 この事件については色々な議論があるが、その中にこの事件は当時の日本人は知らなかったし、東京裁判において突然登場したものだ、という意見がある。本書はあくまで回想録で当時の生の資料ではないものの、当時見たもの、感じたことについては率直に語っているので、参考になるであろう。おそらく市川は、1972年の本多勝一『中国の旅』(1971年から『朝日新聞」で連載)で南京事件について大々的に報じたので、そのことも念頭にあったかもしれないが、見聞きしたことは事実に基づいているのであろう。これを見ると南京に関するパンフレットは広く中国大陸で頒布されていて、日本人が大陸を訪問した時には容易に見ることができたものであったようである。

 以上のように、本書はあくまでメインストリームを歩んだ婦人運動家の記録であり、その政府への協力を否定的に見ることは容易である。しかし、戦物語における武功というものの多くが、敗者の側であることが多いように、弾圧を受けたという記録や挿話は何も生み出せなかったことの慰みのような側面もある。その点で、敗北が分かりきっているのにお祭り騒ぎをして自己満足になりがちな社会運動家にとっても、市川のように政府や主流派に食い込みつつ着実に進める、という意志が政治運動、社会運動において評価されるべきなのではなかろうか。

評価 ☆☆☆


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