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ルポルタージュ

2016年10月 3日 (月)

渡辺将人『アメリカ政治の壁』

点検読書237

副題は「利益と理念の狭間で」
岩波新書(2016年8月30日)刊


アメリカ――政治学


泡沫候補と見られていたドナルド・トランプ氏の大統領選挙での本選挙出馬に見られるように、アメリカ政治は混迷の度を深めている。その原因は、冷戦終結後の民主・共和両党の政策スタンス、理念の転換により、支持層が錯綜し始めたからである。本書は、その源流にまで立ち返って、現在の大統領選に至るまでの、トランプ氏の台頭とサンダース氏の健闘という新しい流れを位置づける。


4部構成

1:2016年のアメリカ大統領選挙の諸相(Ⅰ)

2:雇用・宗教による民主・共和の支持層の分裂(Ⅱ)

3:外交と世代交代(Ⅲ)

4:リベラルの系譜(Ⅳ)

コメント
 現在アメリカの源流は、フランクリン・ローズヴェルト政権にあったといえます。
 ローズヴェルトは、失業者の救済、経済の復興、改革を三つの柱としたニューディール政策を掲げ、従来の民主党の支持者であった南部白人、カトリック信徒に加え、都市の移民、労働者層、アフリカ系の人々にまで支持を拡大しました。本書が、依拠するアメリカ政治を専門としていた砂田一郎によると、ローズヴェルト政権は、「理念」ではなく「利益」で大多数の支持層をつなぎとめていたということです。

 こうした路線は、リンドン・ジョンソン政権の「偉大な世界」という福祉制度の充実にまで続いていくわけですが、同時期のベトナム戦争への反対運動や黒人差別の撤廃を訴えた公民権運動、またフェミニズム運動への対応により変化します。民主党は支持層を反戦運動家やアフリカ系、フェミニストへと拡大の手を伸ばそうとしたのですが、これがかえって従来の支持層であった南部白人、カトリック教徒、そして一部の労働者層の離反を招くことになります。

 アフリカ系有権者の拡大のために、これまで差別に手を染めていた南部白人層が民主党から離れて、共和党へと移行するのは分かりやすいです。では、労働者層は、というと、一部の労働者は軍需産業に職を得ている人がいるのです。そうすると反戦による戦争の縮小は、彼らの職を奪うことになります。ベトナム戦争の性質そのものや外交の手段としての戦争をするかしないかには、議論があります。現に戦争を取りやめたのは、共和党のニクソン政権でした。しかし、原理的な反戦平和主義を取り入れると、防衛予算の縮小による軍需産業の低迷を招くことになりかねませんので、彼らにとって不利となります。ですから、戦争への支持・不支持そのものよりも反戦平和主義へとウィングを拡げることが、一部の労働者層には不満があるのです。そうした理由か、例えば民主党のクリントン政権などで定期的に空爆など小規模戦争をしたのも、労働者層の支持をつなぎとめるためとも言えるかもしれません。しかし、オバマ政権になると、そうした「利益」政治よりも平和主義という「理念」を優先して、できる限りの戦争を避ける外交政策をとったために、労働者層からの離反があったと言えるでしょう。これが、サンダース氏やトランプ氏に期待が集まった理由の一つかもしれません。これを見ても、アメリカが戦争経済にどっぷり浸かってしまっているといえるでしょう。

 では、カトリックの離反はと言うと、フェミニズム運動の課題の一つに、中絶の権利の獲得がありました。カトリックとしては、これを容認するわけにはいかないという事情がありました。カトリックは、平和、貧困、公民権などではリベラル勢力に協力できました。しかし、彼らは、避妊も認めない立場であるし、お腹にできた子供はその瞬間から「生命」と考えていますので、それを「殺害」する中絶は容認できません。

 本書を読んで勉強になったのは、人工中絶反対が、何故こんなにもアメリカで大きな問題になるかというと、単に宗教問題ではなく、モラルの問題でもある、ということなのだそうです。つまり、中絶問題は、貧困や強姦などの事件や母体の安全などを理由とする望まない妊娠への措置ではなく、急進的なフェミニズムの側(プロチョイス派)の「性を楽しむ権利」の是非に関わってくるということです。病気というリスクを考えなければ、性交渉において、リスクを負うのは女性となります。妊娠期間は、辛いし、生むのも痛いし、産んだ時にその相手の男はいなくなっているかもしれません。そうしたリスクを軽減するためにも、中絶を罪ではない、という考え方を広めるためにも、中絶は法的に認められなければならない。こういう主張です。そうすると、性の快楽のために、生れた生命を弄ぶということで、普通の人にも中絶反対の訴求力があるというのです。正直な急進派が、中間派を反対に追いやって改革を邪魔する好例がここにあるわけです。

 あともう一点、興味深かったのは、マイケル・ムーア監督の『ボーリング・フォー・コロンバイン』や『シッコ』に見られる諸外国との比較という手法をアメリカ人は受け入れない、ということです。我々日本人は、「○○では~」と諸外国の例を取り上げて、日本の「遅れ」や「異常性」を訴えることで、改革への支持を獲得しようとします。しかし、アメリカ人は、外国を例に挙げられてアメリカン・ウェイを批判するという手法を嫌がります。あくまで「アメリカのために良いこと」という方法で説得しなければならず、「○○並に」というような主張は禁句だそうです。やはりアメリカ人は世界の中心なのです。

 これらにとどまらず、現在のアメリカは民主・共和の両党の支持層が錯綜した困難にあるというのが本書のメッセージです。その点で、右派的なイデオロギーの「理念」を掲げつつも、左派的な「利益」政治を主張するトランプ氏は、彼がかつての民主党員であったという経歴からも、新しいのではなく、過去のアメリカが我々の前に現われている、と言えるでしょう。そうした意味でも、今回のアメリカ大統領選挙を見守るのに良い手引になる本だと思います。

評価 ☆☆

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2016年4月 1日 (金)

清水潔『殺人犯はそこにいる』

点検読書160

新潮社(2013年12月)刊。
副題は「隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件」。


ノンフィクション


日本テレビの記者の著者は、『ACTION 日本を動かすプロジェクト』という番組のため、未解決事件の取材を始める。1979年栃木県足利市、84年栃木県足利市、87年群馬県尾島町、90年栃木県足利市、96年群馬県太田市。17年間に、5件の幼女誘拐・殺人事件が半径10キロ圏内で起きていることを知る。その内の1件は、すでに容疑者逮捕で最高裁による死刑判決が出ていた90年の「足利事件」と呼ばれる事案であった。著者は、これらを連続殺人事件であると仮定し、その捜査が始まるには、90年の足利事件を解明する必要があった。すると当時のずさんな捜査、DNA型鑑定の不正確さ、自供を強要する取り調べなどが明らかとなり、報道することで「DNA型鑑定」の再検査、再審、無罪という「真実」を暴きだした。しかし、警察・司法は、この足利事件以外の重大事件のDNA鑑定との整合性をつけるがために、著者が発見した真犯人「ルパン」の捜査を打ち切り、未解決事件としてしまった。


三部構成

1:取材の発端と足利事件、そして再審無罪まで第一章~第六章)。

2:真犯人「ルパン」の証明と警察・司法の「闇」(第七章~第九章)。

3:「飯塚事件」におけるDNA型鑑定への疑問(第十章~第十一章)。

コメント
 我々は、裁判所や警察を信用しています(参照)。こうした公的機関への信頼なくして、我々は、安心して社会生活を行なうことができないのであるから、当然といえば当然です。しかし、その信頼は、それらの機関の無謬性に依頼しているとしたら、それはそれで危険でしょう。また、科学というものへの信頼も厚いものです。「科学的に証明されたものであるなら、間違いはない」。多くの人は、専門的な分析はできないので、専門家が言うならば、それは正しいのだろう、と思ってしまいます。しかも、それを発表したのが、無謬性を前提とした公的機関であったならば。本書が指摘するのは、その点です。
 被害者の遺留物に残った体液と容疑者の体液が、DNA鑑定で一致すると言われれば、私のように科学に疎い人間は、それが犯人であると単純に信じてしまいます。90年の「足利事件」の容疑者を自供に追い込んだものは、そのDNA鑑定でした。しかし、正確にはDNA「型」鑑定であって、血液型と同様に「型」の分類にすぎないものでした。つまり、血液型よりはるかに型の種類は多いものの、同一グループの型に入るだけで「DNA型一致」が「本人と同一」とは限らない。それぐらいの検査を現場が頭から信じて自供を迫ってしまったのがこの事件でした。しかも、後に分ることでは、その検査結果自体も不十分なものであったとのおまけ付きで。
 そして、この「MCT118法」の検査というものは、この事件だけではなく1989年から2010年11月までに、141件まで実施され、8人の有罪確定事件の判決理由として採用されたといいます。ここまでくると、その間違いを認めることは不可能となってしまう。それを根拠に死刑判決が出て、現に執行されてしまった「飯塚事件」のようなものがあれば。間違いを認めれば、国民の公的機関への信頼がゆらぎ、社会が成立できなくなってしまうからです。だからこそ、捜査や審理は、慎重であるはずであるのに、重大事件となると警察庁などの中央部が現場に圧力をかけて事件の早期解決を迫ってきます。それがずさんな性急な捜査へとつながり、それが誤りであった場合は認めることができない、隠蔽する、という問題が生じてしまうのです。
 本書は、事件報道と冤罪の解明というそれ自体としての面白さがあるのですが、やはり無謬性を前提とした官僚組織としての警察・司法と、それらを取材対象としつつも信頼してしまって、情報操作に組みしてしまうメディアの問題というのが浮き彫りにしていることがポイントでしょう。足利事件に関して、「無職」となったのは警察の捜査によって解雇されたことは報じないし、親元から独り立ちした住まいを「隠れ家」、押収したアダルトビデオはほとんどが巨乳ものだったが「ロリコンもの」へと改鼠されて報道される(45歳の男性だったら、ほとんどの女優さんは年下だから「ロリコン」になるんでしょうか)。また、栃木県警では「菅家は、実は本当の犯人なんだよ」、「先輩がそう言っているから間違いない」と言われ続けているらしい(311頁)。誤りを認めると組織が瓦解する。しかし、反省のない組織は、同じ過ちをするのではないか。その栃木県警のWikipediaを拝見すると、その思いを新たにしてしまうのでした(参照)。

評価 ☆☆☆


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2016年3月28日 (月)

一橋文哉『未解決』

点検読書157

新潮文庫(2011年)刊。
副題は「封印された五つの捜査報告」。


ルポルタージュ


1994年の住友銀行名古屋支店長射殺、95年の八王子スーパー強盗殺人事件など犯人が挙げられていない事件から、85年の豊田商事会長殺害事件、97年の酒鬼薔薇事件のように犯人は逮捕されたものや、自殺として処理された2007年のライブドア幹部怪死事件のように、真の犯行動機や事件の背景が不明確なものを「未解決」事件として、綿密な取材をもとにその真相に迫る。


五部構成
1:住友銀行名古屋支店長射殺事件(1994年)

2:八王子スーパー強盗殺人事件(1995年)

3:豊田商事会長惨殺事件(1985年)

4:ライブドア「懐刀」怪死事件(2007年)

5:神戸連続児童殺傷事件(1997年)

コメント
 主にいわゆる「酒鬼薔薇事件」についての感想です。
 やはり事件当時まだ10代であった私にとって、この事件は衝撃的なものでした。事件そのものの猟奇性や警察を挑発した「酒鬼薔薇聖斗」名の犯行声明文がワイドショー最盛期の話題をさらいました。容疑者逮捕の時には、ほとんど口を利かなかった妹がわざわざ部屋にやってきて、「神戸の事件、犯人逮捕だって、十四歳の中学生らしいよ」と報告に来てくれたぐらい大きな話題と衝撃を与えてくれたのでした。
 この事件を起こした少年の心理としては、異性でないものを性の対象とする〈未分化な性衝動〉と主に母親から受けていた躾という名の虐待とその転化としての 弟や弱い者へのいじめという〈攻撃性〉が結合した〈性的サディズム〉によるもののようです。つまり、大切なものを攻撃することで性的満足感を得るというこ とになります。彼は、母親から虐待を受けていたにも関わらず、母親を愛しているようですから、その虐待という攻撃性は愛情の表現であり、マゾヒズムがサディズムに転化したようにも思えます。そして、少年は、こうした自身の性的欲求を異常なものと考え、自分のことを価値の無いものと考えるにいたります。こうした考えは、単に自分に価値が無いと思うだけではなく、自分自身と同様に世の中すべてが無価値であり、それらに何をしても許されるという独善的価値観を生じます。これを〈虚無的独我論〉というそうです。その上、この少年には特殊能力がありました。目で見たものを瞬時に記憶する能力〈直観像素質者〉であったというのです。そのため、事情聴取に際しても、微に入り細をうがつ証言をしており、自身の書いた犯行声明文をスラスラと暗唱したそうです。こうした特質が総合して、〈虚無的独我論〉に基いて他者を攻撃し、その行為の〈性的サディズム〉による興奮を〈直観像素質〉によって繰り返し反芻する、という精神状態にあったということでした。
 以上は、逮捕後の精神分析によって分かったことでしたが、同時代的にテーマとなったのが「普通の少年の犯罪」というものでした。これまでのように、あからさまな不良少年などではなく、普通の郊外の一軒家に住み、普通に学校に通い、成績も容貌も大して特徴のない「普通」の子が猟奇的な犯罪を犯したところに、この事件への関心を高めたのでした。
 しかし、本書を読んで分かったことは、「全然普通じゃないじゃん」、ということでした。この「普通じゃないじゃん」というのは、容疑者が逮捕され、性的満足を得るための殺人いわゆる「セックス殺人」であることが判明したからではありません。
 彼が、小学生の頃から、カエルの解剖で勃起し、猫を殺して射精していた、というのは本人が黙っていれば人に知られることではないので、実際に異常性倒錯者であっても、これは外部には分からないので、「普通」でよいと思います。
 私が「普通じゃない」とするのは、彼がかなり問題行動をすでに起こしている少年で、私の考える「普通」の範疇を超えていると思っているからです。
 この少年は、もともとはイジメっられっ子だったそうですが、小学校一年生のとき、いじめて家まで追いかけてきた同級生を逆に箒でボコボコにしてからいじめる方に回ったのだそうです。
 その事例として、小学校三年の頃から数人の仲間と行動をともにし、女児をエアガンで撃ったり、他の児童に命じて授業中にジュースを買いに行かせたり、言うことを聞かない奴は徹底的にいじめる。小学校五年の時には、授業中に女子児童をめがけて教室の後方からハサミが飛んでくるという事件があり、犯人として少年の名が上がっていた。中学一年生の時には女子生徒の運動靴を隠して燃やし、二年生の時には別の女子生徒を「ばいきん」と言いふらし、「きしょい」と言って騒いだり、集団宿泊訓練先の高原で「崖から突き落としてやる」と脅した、ということがあったそうですし、万引きもしていたそうです。
 また、被害児童との関係では、小学校の卒業を間近に控えた二月に児童をど突く騒ぎを起こして児童の家に謝罪に行っています。この時期と思われる時に少年は担任教師に「このままだと何をするか分からない。暴走して、人を殺してしまうかも知れない」とつぶやいたといいます。そして、事件後まだ逮捕されていない時期に自分の犯行を暗示した作文「懲役13年」を書いて、わざと友人にワープロで清書させ、級友たちに向かって「このままでは人を殺しそうだ」と叫び、友人たちが少年を連続通り魔事件の犯人ではないかと噂すると、一番の親友を呼び出して、暴行を加え、敢えて教師の叱責を買った、といいます。
 どうでしょうか。これは「普通」でしょうか。かなり問題行動を十分に起こしているではないですか。それとも一般的にはこれぐらいのことはよくあることなんでしょうか。私のように地味にまじめに生きてきた人間としては、ずいぶんとやらかしていやがるという印象を持ってしまいます。そうすると、これは単に取材不足であったのか、取材対象が少年のことをよく知らないにもかかわらず、少年についての取材を受け、適当に喋ってしまったのか、彼らの価値観においては、たびたびに教師に注意を受けるようなことは「普通」なのでしょうか。
 当初の取材不足でこうした勘違いがあったとしても、しばらくずっと「普通の少年の犯罪」と言われ続けてきたことが気になります。事実関係が異なることを前提にいろいろ議論しても何も解決には向かいません。「2+2=5」と理解していたは、どのような簡単な算数も解くことができないように、しっかりとした「事実」を報道しなければ、世の中に不安を呼び起こすだけで、何の解決策も生み出しません。この事件などは、その典型なのではないか。遅ればせながら、そんなことを考えさせられました。
 その他にも、少年の更生プログラムが、いかにも秀才官僚たちが考えそうなバカバカしい「精神療法」に頼ってしまい、明らかに失敗したにもかかわらず、法務省のメンツ=失敗は許されないという官僚文化のおかげで不問に付されるという恐ろしいエピソードなどが語られていて興味深い本です。

評価 ☆☆


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2016年2月25日 (木)

溝口敦『山口組動乱!!』(講談社+α文庫、2015年)

点検読書133

原著は、『新装改訂版 山口組動乱!! 2008~2011 司忍六代目組長復帰と紳助事件』(竹書房、2011年)。
副題は「日本最大の暴力団ドキュメント 2008~2015」。

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2016年2月23日 (火)

髙橋秀実『ご先祖様はどちら様』(新潮文庫、2014年)

点検読書131

原著は2011年4月(新潮社)刊行。


ルポルタージュ


ある先輩作家(関川夏央)の「お前は最後のジョウモン人」という言葉から、三内丸山遺跡へ、そして身近な自分の先祖探しへ。役所で戸籍を調べ、先祖の土地をめぐり、土地の人・親類縁者の話を聞き、自分のルーツは平氏か源氏か、さらには皇室とつながるルーツ探しのルポルタージュ。


先輩作家の一言から三内丸山遺跡に行き、自宅近辺の遺跡を探り、そんな遠いことより身近な両親のライフストーリーを聞く。そこから自分のルーツ探しとして、両親の祖父母を戸籍から調査し、現地へ赴いて父方の曾祖父の足跡をたどる。一方、母方の祖先をたどると家紋から平氏の出ではないか、と推測されるが、同じ氏から源氏ではないか、との疑問もわく。そして、源氏ならばと清和天皇の陵墓を参拝し、近所の共同墓地にて死者との向き合い方を知る。

コメント
 ご先祖を探る旅も楽しそうだけど、まぁ、これは結構骨が折れますな。やはり父の本籍のある役所に行くところまではいいけど、それ以前のものとなるとそれぞれに祖父・曽祖父と本籍のあった役所に行って問い合わせなければならない。
 私の父方の家では、何故か曽祖父の明治初期の戸籍の写しが家にあった。名字と名前の間に、「姓」があるやつである。うちの場合は、○○藤原○○で、「士族」と明記されいる。しかも、その明治における初代につながる家系図まである。確実なところでは戦国時代まで、ところどころの欠があるのも含めれば、平安時代まである。そんなわけで、先祖探求はそこで終了。さらには、祖父が自分のルーツを探るとして、私の父と姉とでご先祖の地へ旅行に行ったら、翌年死んでしまったという不吉な因果あるので、私としてももう少し年取ってからだな、とも思っているのである。
 しかし、最後の死者との向き合い方は、なるほどと思います。お墓参りにいって、いつも手を合わせる時、何を思えばいいのか。神社・仏閣なら無病息災でも願えばいいかもしれないが、先祖の墓だと何を言えばいいか。本書は、それに一応の答えを出す。生前に話しかけたことを思えばいいのである。そうなると、おじいちゃん子でもない限り、先祖参りに身が入らないのも分かる気がする。私の父親は、割合熱心に墓参りをする。語るべき言葉があるからだろう。私の番が来たら、それを見習えるだろうか。生前何を話し、どのような言葉をかけたか。それを忘れぬようにするのがいいのだろう。

評価 ☆☆


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2016年2月18日 (木)

髙橋秀実『男は邪魔!』(光文社新書、2013年)

点検読書127

副題は「「性差」をめぐる探求」。


ルポタージュ


多くのインタビューをこなしてきた著者がたどり着いた結論。それは男に話を聞いても埒が明かない、ということだ。つまり、男はこちらが聞きたい話ではなく、自分が話したい話をする。会話を楽しみたいのではなく、自分はこれだけのことを知っている、とひとりよがりに話したがるのである。その一人よがりな男によって作られた社会に問題があるのではないか。男と女という性差に関するルポタージュ。


四部構成
1:「邪魔」な男たち。

2:フェミニズムを考えてみる。

3:現代の男たちと女たち

4:男と女の「気持ち」の違い。

コメント
 最初の方は、男ってこんなに融通がきかなくて「邪魔」なものだろうか、と思ったのだが、たしかに男ってしゃべるの好きだが、話は聞かないわね。私は、男なのでよく分かります。話の腰を折られるのは、大嫌いです。しかし、男は自分、自分だから話は聞かずに話の腰を折ろうとするし、女は女で本書がいうには脳の処理速度が早いというのと、話の内容それ自体よりも話しているというコミュニケーション、または場が大事ということで、これも話の腰を平気で折るのである。そういうことを理解しつつ、人間社会でうまくやっていくしかないんでしょうな。
 しかし、フェミニズムに関して、上野千鶴子氏が出てきて、著者は上野氏の男性観を読んでいると「生身の男を知らないのではないか」と、よくある疑問を口にする。かつてどこかで西尾幹二氏もそんなことを言っていて、言いづらいことをハッキリ言ったな、と思ったのだが、髙橋氏もついそれを口にしている。もっとも、自分は男に不自由したことがない、という上野氏の発言を引用しているが、ますます怪しくなる発言を引用している。たしかに、それだけ男に不自由したことがないぐらいで変わり者有名人なのだから、下世話雑誌が一人ぐらい関係を持った男にインタビューをしそうなものだが、そんな話も聞かない。一人や二人だったら、プライベートなことだから、表に出ることはないんだろうけど、「不自由したことがない」ぐらいだとお調子者が一人ぐらいいても良さそうである。これも彼女の戦略なのかな。ま、どうでもいいんだけど。
  あと面白かったのが、牛のオスの数。全国に200万頭の牛がいる中で、オスといえる牛は40頭しかいないのね。これは超エリート社会だ。というか、我々が口にしている牛って、メスばかりなのね。藤子・F・不二雄先生の「ミノタウロスの皿」で食べられてしまう人間は女の子だったけど、その辺も踏まえた上だったのでしょうか。それにしても、その牛の比率で現代の日本で必要な男の数は1000人となると、たしかに草食男子社会の末路は恐ろしいかも知れない。まぁ、私なんて去勢されて、働き蜂になるだけだろうな。

評価 ☆☆


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