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明治文学全集

2016年8月26日 (金)

福澤諭吉「日本婦人論」

点検読書224

『明治文学全集8 福澤諭吉』(筑摩書房、1966年3月10日)、所収。
1885年(明治18年)6月4日から12日まで『時事新報』社説で掲載。


日本思想史――福澤諭吉


西欧諸国に対抗しうる国家をつくるためには、日本人の人種改良が必要である。他力として考えられるのは雑婚であるが、自力として考えられるのは日本婦人の心身を強化することで、心身ともに健康な子孫を増やすことにある。そのためにも、徳川時代以来の封建道徳がつくりだした男尊女卑をあらためて、女性に財産権を持たせることで責任意識を育て、また適度な性欲を満足させることで健康な身体をつくりだすべきである。


8部構成

1:人種改良の方法としての婦人の心身の活発化

2:婦人への財産権の確保

3:人生の三要素(形体、智識、情感)

4:婦人の再婚を蔑視する風潮は情感をそこなう

5:看過されてきた婦人の健康と性欲(「春情」)

6:婦人の再婚が普通だった中世の日本

7:男女平等の家族の具体案

8:男女平等こそが人種改良の近道

コメント
 福澤諭吉は、雑婚による人種改良論者でした。彼が、強烈なナショナリストであったことは知られていますが、民族主義者だったのではありません。今ある日本列島に存在する政権が外国に蹂躙されて、独立が維持できないことに危機感を持っていたのであって、歴史的に形成された「日本人」という民族性を守りたかったわけではありませんでした。
 その点で、福澤と対比される加藤弘之が、日本には残すべき伝統などないし、個性があるとすれば皇室と日本民族だけなので、もし人種改良しなければ滅びてしまうような弱い民族なら滅びてしまったほうが良い、と優勝劣敗の社会進化論者らしい考え方とは異なります。加藤の方がスッキリしていますが、民族主義者なんですね。
 で、非民族主義者の福澤も雑婚以外の人種改良の方法を考えていたのです。それが本稿の「日本婦人論」で、その内容とは女性に財産権をあたえて責任感をもたせること、具体的には遺産分配の際に女子に不動産を優先させるなどの処置によって私的財産を確保することなどです。また男女平等の婚姻を実現するために、結婚後の姓の創設。つまり、畠山氏と梶原氏が結婚すれば、山原氏になるなど、嫁入り・婿入りというカタチで家名を残すという習慣を改めることを主張しています。もっとも福澤は、本人が親でない人を親と呼ぶことはできない養子制度が大嫌いだったので、そうしたものを必要とする家名というのが不合理だからともいっていますが、かなり急進的な核家族主義者です。また、離婚の権利を平等にすることを主張しています。
 しかし、本稿の最大の特徴は、日本婦人の性欲の問題を認知すべきということです。かねがね日本社会では、妻妾が性的に不遇であった、と福澤は述べます。つまり、大名であったら正妻や愛妾は江戸の藩邸に残されて、大名自身は本領に数人の妾を置くことができます。また、一般武士や商人たちも、藩用や仕事で長期に家を空けることがありますが、交通事情が不十分なために妻妾を家に残していきます。そして、妻妾たちが、家で虚しく過ごすのに対して、男たちは現地で花柳の春を買いに行きます。これでは不平等である、といいます。
 もっとも、福澤は、自分は妻以外女は知らんというほど、性道徳に厳しい人物でしたので、婚姻関係にある婦人が性的に自由を謳歌せよ、と主張しているわけではありません。問題なのは、夫の死別後の寡婦です。通常、妻に死別された夫には、再婚の話が来やすいのに対して、夫に先立たれた妻が再婚することを喜ばない風潮がある、と福澤はいいます。現に、異母兄弟というのは世間に多いものの、異父兄弟というのは少ないのではないか。そうした指摘をするのです。実際のデータがないので、どうとも言えないのですが、福澤の実感ではそのようになっていたというのです。福澤によれば、これは男女平等に反するといいます。
 福澤が言うには、形体と智識と情感という三要素を満足させることが人生の目的となります。形体というのは体の健康ですからしっかりとした食事を摂ることです。智識は学問をすることです。そして情感というのは快楽を得ることによって満足します。食事を過度に摂取すれば身体の健康を損なうように、それぞれ適量の摂取が必要となります。しかし、これまでの健康に関する考察には、性欲に関して看過してきたのではないか、と福澤はいいます。この性欲の満足を得ない場合、一見健康であるものの、神経病などを発するのではないか。現に、大名の子と言うのは、衛生状態や栄養状態が良いにもかかわらず、虚弱な子が多いではないか。それは、母親の方が室内に閉じ込められた上に、主人の寵愛を常に受けられるわけではないという不満と不安が、健康を損ね、子供にも影響を与えているといいます。
 おそらく福澤の理想は、一夫一婦制を確実に実行し、適度な性生活を送ることが良いことで、不幸にも離婚や死別した際に、女性が再婚することへの世間の目を和らげることが大切だ、ということになるでしょう。
 その点で、現在でもそうした目が世間には残っているので、まだまだ福澤の考えは古びていないのではないか、という気がします。その点で、谷原章介夫妻は、福澤基準で言うと立派な家庭なのでしょう。
 さて、福澤の「日本婦人論」の本筋の内容はそんなところなのですが、一箇所気になる部分があります。東洋における男尊女卑の風潮のところで、儒教の影響が強い朝鮮では、夫と死別した寡婦の再婚には厳しい制限がある上に、婚約中に相手が死んでしまったら後家とみなされて結婚できないので、寡婦が多い、という記述があります。しかし、こうした風習には抜け穴があって、性の相手を周旋する「慇懃者」というものがあるというのです。

「深窓の少寡婦も陌頭の楊柳と共に春風に吹かれて死灰自から温気を催ふすときは、傍より竊に其温度を窺ふて通情の道を周旋する者あり。之を慇懃者と云ふ。朝鮮にて慇懃者の盛んなる、恰も一種職業の体を成して、其手に依頼するときは男女共に意の如くならざるはなし。」(115頁)

 この「慇懃者」を利用するのは、若後家だけではなく、夫に相手にされない老妻や妻妾間の争いに敗けた者、夫が単身赴任している者などがいるそうです。儒教の国という外面の厳しさの裏には人情の機微にふれる裏の制度がある、と述べる下りで以上のようなものが紹介されています。しかし、これはグーグル先生にお伺いを立てても、とくに出てくるものではないので、出典が何か、というよりも朝鮮の風俗に関する歴史を調べなければならないのかな、とも思っております。

評価 ☆☆☆

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2016年2月20日 (土)

大隈重信『開國五十年史(抄)』

点検読書128

原著は、上巻が1907、下巻が1908年に刊行。
上巻の「開國五十年史論」、下巻の「開國五十年史結論」が収録(『明治文学全集77 明治史論集(一)』、筑摩書房、1965年)。


日本史――明治思想史


東洋民族の多くの国が滅亡に瀕している中、ヨーロッパの強国・ロシアをも破った日本という国の成り立ちを論述。大隈によれば、日本の特殊性とは、2500年にわたって神話時代から主権者が安定して変わらない「神国」であること、地理的に授かった民族的特質があること、封建割拠の競争の中で民族の能力を練磨してきたこと、を挙げている。また、結論部において、伝統的でありながら、諸外国の先進的知識・技能を吸収し、西洋と東洋を融合させた日本こそが、今後の世界の統一に向けて、大きな役割を果たすであろう、と主張する。


四部構成
1:「神国」とは、神話時代から主権者の変わらない安定した「自然的」な国柄を言う。

2:大陸と適宜の距離を保ったことによる侵略の危険性の小ささと恵まれた国土。

3:封建的割拠による競争の中で各人の能力を練磨し、開国後は外国の思想と風潮の感化を受け、列強に伍する文明国となった。

4:結論として、以上の特徴の上で、日本の西欧との相違は、個人ではなく家族が社会の単位であること、国家を神聖視し主権が安定していること、宗教以前に国家が成立しているためあらゆる宗教が保護・許可されていること。とりわけ宗教的寛容は、国教制度の残る西欧よりも誇れるものがあり、東西文明融合を可能とする日本こそが将来の世界の統一にあたり大きな役割を果たすに違いない。

コメント
 『あさが来た』を見ていたら、高橋英樹演じる大隈重信が出てきて、大隈の書いたものが手元にないかと思ったら、先の『史疑』が収録されていた『明治文学全集77』に『開國五十年史』の大隈重信名で書かれたものがあるのを思い出して読んでみる。
 この『開國五十年史』というのは、大隈重信が代表編集者として名前が出ている上下巻で、伊藤博文や山縣有朋、久米邦武や加藤弘之といった当時の一流の政治家、学者たちによる各巻千ページほどもある論文集である。ここで読んだのは、大隈重信名で書かれたもので、解説によると、大隈の口述筆記を元にして久米邦武や有賀長雄などが執筆したのではないか、と推測されるものであるらしい。
 ざっと読んだだけであるが、冒頭に「日本は神国として健存す」とあってぶったまげるわけですが、大隈によれば、神というのは宗教家の説く超越的な存在ではなく、神の子孫であるという信念のままに自然と成立した国家である、という意味である。つまりは、外国からの侵略によって支配されたこともなく、主権者=天皇の地位が転覆されることもなく、神話時代から歴史時代へと連続しているという意味である。
 ここで注目に値するのは、彼の封建社会評価である。かつて駐日アメリカ大使もつとめたエドウィン・O・ライシャワーは、日本と西欧とは封建社会を経由していたがために、各身分がそれぞれに広範な自治が許され、明確な目的を持って競争し各自の能力を練磨したがために、近代化が可能になった、という趣旨を述べていたが、大隈も封建社会の分権社会が平和であったにもかかわらず、各藩に緊張を維持し続け、武士への武道や学問の鍛錬が怠らない状況が続いたことが、開国後の成長に役立ったことを述べている。かなり趣旨は違うものの、両者ともに封建社会を評価しているのである。大隈が実際これらを執筆したかどうかは疑問であるが、発想自体は大隈のものと考えられるので、その点は慧眼であったろう。
 また、日本が欧米に比べて宗教的自由がある、というのは国家神道であるとか、内村鑑三の不敬事件などを知るものからは意外な感を受けるが、大隈によってそれを語らせよう。

「現今の日本国民は祖先を崇敬し、国家を神聖視するの外、宗教上一視同仁の習慣を養成し得たること是れなり。……近世の欧州諸国は基督教よりも後に起り、専ら僧侶の指導によりて成立したる歴史を有すれども、我国に於ては、国家の建設は凡べての宗教よりも先きにありて、凡べての宗教は国家の保護若くは許可によりて国内に流布せらるれば、如何なる宗教団体も国家より賦与せられざる権利を要求し得るものなし。故に何れの宗教と雖、曾て国家の主権に反抗し、国家と衝突するの勢力を有し得たるものなし。是を以て宗教上の自由を最も多く且つ最も広く人民に与へ、而も行政上及び教育上何等の困難を感ぜざるは、由来我国家の特長なりとす。故に我国には一の国教としての特制なく、又教育は全然凡べての宗教と分離して、宗教と教育と混淆するの弊害あることなし。」(336頁)

「泰西諸国は同一基督教の下にありながら、之が為に幾多の内乱を経過し、又屢々国際的戦争を惹起し、今日に至るまで一の合衆国を除けば、何れの邦国に於ても国教の制度ありて、完全なる自由を凡べての宗教に享有せしむる能はざるにあらずや。縦令法律上は自由なりとせらるゝ所に於ても、社会上一種の宗教ありて他の宗教を排斥し、信仰の自由を検束せざるはなし。之に反して、我国は固有の神道の外、夙に儒教及び仏教を輸入し、近世更に基督教と加へたれども、憲法発布の暁に及びては、愈々公然と宗教の絶対的自由を認識したり。」(341頁)

 上記の通り、日本民族は国家を神聖視している。そのため、国家=天皇という観念が信念となっていた時代において、国家及び天皇への忠誠に反する宗教的自由はないものの、それを侵害しない範囲においては宗教の自由はあったということだろう。それに対して、国教制度のある欧州諸国では、キリスト教に特権的地位が与えられ、それ以外に対する差別待遇は厳然としてあったというのである。たしかに当時において、キリスト教国の宗教の自由は、キリスト教内の各派の自由であって、宗教一般の自由とは異なるかもしれない。その点、何でもありだった日本との事例研究は、少々難しいのかもしれない。しかし、当時の西欧における仏教、イスラム教の自由については面白いテーマであろう。きっと誰かがやっていると思うから、探してみよう。

評価 ☆☆☆☆



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2016年2月14日 (日)

村岡素一郎『史疑 徳川家康事蹟』(民友社、1902年)

点検読書124

『明治文学全集77 明治史論集(一)』(筑摩書房、1965年)所収。


日本史――日本中世史


世良田二郎三郎元信は、新田氏の嫡流の出の者を父に持ち、幼少時に僧門に入って諸国をめぐり、19の年に、松平元康の子・竹千代を誘拐し、後に元康に取って変わって松平の名を襲い松平家康として遠州・三州を平定した。そのため、元康の今川時代の妻である関口氏(築山殿)と夫婦関係はなく、その子の信康(竹千代)も実の子ではない。このことが「築山殿始末」につながり、また家康は信長や秀吉のように肉親を傷つけるような人物ではなかったことを論証。


六部構成
1:総論として貴賤交代する循環論的歴史観(第壹章)
2:世良田二郎三郎元信=家康の生誕地と出自について(第二~三章)
3:幼少期の環境(第四章)
4:家康の松平家乗っ取り(第五~七章)
5:家康と信康・築山殿との関係(第八章)
6:家康の性格(第九章)

コメント
 最近の自分の中での戦国時代ブームに乗って、こんなものまで読んでしまった。
 本書はいわゆる奇書というもので、1902年に出版されたものの再版されずに絶版されたという。しかし、その一方で序文に重野安繹が寄稿していたり、なかなか興味深い出自のある本ではある。しかし、中年男性にとって本書は、隆慶一郎『影武者徳川家康』の元ネタとして知られているが、多くの人には読まれていない奇書として知られている。私もそんな口でやっと目を通したのですが、なるほど奇書である。
 とりあえず、上記のあらすじをもう少し詳しく拾ってみる。

 まず、世良田二郎三郎元信は、新田氏嫡流の江田松本坊なる流浪の僧を父として、駿州宮の前町に生まれ、母方の祖母・源應尼の寓居である華陽院で育った。幼くして仏門に入った元信だったが、今川家の菩提寺の山中で鳥を狩ったために破門され、放浪の末に願人坊主に銭五貫で買われ、十九歳まで修行と諸国巡礼の日々を送った。

 この頃から同志らを集め旗揚げを目論んでいた世良田二郎三郎元信は、今川に人質に出された松平元康の子・竹千代を誘拐し、幼君を支えて兵を挙げようとしていた。その頃、桶狭間にて今川義元が戦死し、織田が優勢となる中、竹千代を織田のもとに人質として預け、元信は織田方として挙兵するが、今川方の松平元康に敗れ、後に元康に降る。

 元信は元康に織田にいる竹千代奪還のため征討をすすめ、元康は出兵するが、陣中にて家臣の阿部弥七郎に村正にて殺害される。元信はこれに乗じ、岡崎を攻めて元康に成り代わって三河を治め、織田と同盟を結ぶ。その際、元康の遺児・竹千代=信康を次期当主として成長まで支えるという名目とした。これが世良田二郎三郎元信あらため松平家康である。

 天正七年(1579年)の築山殿始末について、築山殿は元来、家康と夫婦関係にはなく、今川を裏切って織田につき、松平の嫡男である信康を蔑ろにする家康に反感を抱いていた。そのため、築山殿は武田勝頼に通じて家康を葬ろうとしたが発覚し、信長の命によって、母子ともとも殺された。しかし、著者は信康は身代わりが腹を切り、50年幽閉の末、死んだという伝承もあるとする。

 以上のような内容であるが、関ヶ原の戦いで入れ替わった隆慶一郎『影武者徳川家康』に比べて、桶狭間直後という、どちらかというと石井あゆみ『信長協奏曲』に近い感じはあります(違うか)。
 やはり本書の主張は、家康ほど立派な人間が妻や嫡子をむざむざと殺してしまうだろうか、という疑問からこのような奇想天外な発想をしたようであるが、後の人の歴史解釈というのはこういうこともありえるのだな、と思わせるものです。
 例えば、世良田二郎三郎元信の父親が新田源氏嫡流の僧侶であるというのは、三河に流れ着いた初代・親氏が僧侶であったという故事、織田攻めの際に元康が部下に村正で殺害されるというのは守山崩れといて知られる祖父・清康の暗殺事件、元康の子・竹千代が今川へ人質に出されるところを誘拐されて織田に預けられるが元康は織田方に向かわないというのは広忠の子・竹千代が同様に織田に人質になったが広忠は今川を裏切らなかったという話を村岡は述べる。
 村岡は、これらを家康のエピソードが前代のエピソードに入れ替わったと解釈する。後代の秘密にしておきたいエピソードを前代のエピソードにすり替えて残したというわけである。このような解釈って、『古事記』『日本書紀』の神話のエピソードが、作成時期の朝廷内の人物エピソードの反映であるという解釈に似ているように思える。
 村岡の史論はもちろん誰も真面目に受け取る者がない珍説である。しかし、古代史の以上のような解釈って、最近はどうだかしらないが、アカデミズムの世界で真面目に論じられていたものである。そうするとどっちもどっちという印象を受けてしまう。
 それはともかくとして年来の課題であった本書が読めたというのは、嬉しい限り。


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