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中公文庫

2016年9月 6日 (火)

岡崎久彦『隣の国で考えたこと』

点検読書231

中公文庫(1983年6月25日)刊
原著は、日本経済新聞社(1977年)刊


日本文化論――韓国・朝鮮


日本人は「日本人の唯一の親類」である韓国と韓国人を、もっとよく、もっと正確に知る必要がある。お互いに知り合うことで、感情的な対立が目立つ両国関係に、はじめて正しい国交も民間交流も可能となるだろう。


4部構成

1:お互い嫌いあう日韓関係(1~2)

2:言葉と容貌の日韓同祖論的考察(3~4)

3日韓関係を古代史と近代史から考える(5~7)

4:日本への誤解をとく(付録)

コメント
 さて問題です。つぎの引用文の(  )内に入る言葉を考えてみてください。

「日本では、まだまだ大学によっては、歴史とか言語とか朝鮮半島関係のことを研究することに対して(  )的な学者、研究者、学生の間で強い反発や反対があるそうで、ある人などは、中国問題を研究するのならわかるが、なぜ朝鮮問題を研究するのかわからないといわれて、責められたといいます。また、韓国研究のため訪韓を決めた学者を、「それでお前の政治的立場がわかった」と、なかば軽蔑的な目で見る人もいたといいます。」(81頁)

 いかがでしょうか。

 答えは「進歩」です。

 今の若い人には、伝わらないかもしれませんが、「進歩」派とは、左派・リベラル派を指す戦後日本の歴史用語です。以上の引用部を読めばわかるように、冷戦期の日本において、知識人も含めて多くの日本人が朝鮮半島についての関心が低く、また韓国ともなると進歩派の学者にとっては「軽蔑」の対象だったのでした
 それが今どうしたことでしょうか。「嫌韓」といえば、右派・保守派の専売特許となってしまっています。時代が変わると180度ものの見方が変わるのです。こうした点を考えてみると、ある国やある対象に対するイデオロギッシュな人の意見というのは、その時の政治情勢によってコロコロと変わるあてにならないものであるということです。そして、そうしたもののフォロワーたる嫌韓派というのは、右派とか左派ではなく、思想的な相違ではなく、単なる民族差別主義者にすぎないのです。
 現在、あるいは数年前まで韓国好きや韓国への擁護的な発言をすると、「あいつはサヨクだ」とか「韓国人だ」とか言われたようですが、そういうことを言う人というのは、別に右派・保守派ではなく、単なる民族差別主義者にすぎなかったです。少し前に生まれたなら、「進歩」派の発言に耳を傾けて、韓国の悪口を言っていたことでしょう。その時代において韓国支持は、保守反動の右翼というのが、当時の傾向だったのですから。
 そうした時代に、「韓国のことをもっと知ろう」と擁護的な内容が書かれているのが本書です。そして、この著者こそ、若き日の安倍晋三氏の将来を嘱望し、また現実にブレーンとして集団的自衛権行使の憲法解釈変更に努め、その実現を見て生涯を終えた岡崎久彦その人だったのです
 岡崎は、現役の外交官時代から強固なアメリカ中心の「自由世界」陣営の支持者で、評論家としての彼の持論は、アングロ・サクソンと協調していれば、日本の自由と民主主義と繁栄が約束される、というものでした。ですから、湾岸戦争はもちろんアフガン戦争もイラク戦争もその倫理的当否は別として日本政府は支持を打ち出すべし、と主張していました。筋金入りの親米派です。
 その筋金入りの親米派で、左派・リベラルが大嫌いな安倍晋三首相のブレーンたる「保守反動」が、朝鮮の植民地化の歴史を忘れてしまっている日本人を憂い、そればかりか当時一部で流行していた「騎馬民族征服説」を取り入れて、日韓同祖論的な立場で、日本と韓国は「親類」であると主張していたのでした。
 私は、2012年当時に安倍晋三氏が自民党総裁に返り咲いた時、嫌韓的な人々が安倍氏を歓迎していたのですが、「この人たちは、裏切られるか、手のひらを返すに違いない」と思っておりました。安倍首相は、この親韓派の岡崎久彦をブレーンとしていたのでしたし、首相が敬愛する祖父の岸信介は親韓派の代表的人物であったからでした。もっとも、安倍首相は、韓国の言いなりになることはありませんでした。韓国側が親中外交の失敗に気づくまで待ち続け、日本に目が向いた時に即座に慰安婦問題の合意に達するという外交手腕を示しました。こうした事態に、一部に「裏切られた」と反感を持った人もいたでしょうが、概ね好感を持って迎え入れられたので、「手のひらを返す」ことにした人もいたでしょう。
 こうした現在との落差を楽しむ本でもいいのですが、現在と変わらない日本人の心性を描いた箇所も興味深いです。

日本人は、少なくとも自国より小さい国については、日本を甘やかし、チヤホヤしてくれる国以外は好きになれないのではないでしょうか。日本人を嫌う民族に対しては、その原因を日本が作ったかどうか考えてもみず、かえって、その国の特徴の中で日本が嫌いになる理由となるようなものを見つけて、はじめから先方が日本を嫌いだったという風に自分で錯覚してしまうのではないでしょうか。」(29頁)

 韓国と台湾に対する日本の現在の保守的な人々の視点というものが、どうもこんな感じです。植民地統治の内容についての当否は様々な議論があると思いますが、閔妃暗殺事件や韓国併合を実行に移してしまったこと、三・一独立運動の時の提岩里事件などに配慮せずに、反日ばかり攻めるのはフェアではありません。また、親日的な台湾というイメージですが、尖閣諸島領有権問題で最初に火をつけたのは1970年の台湾の中華民国政府であることを忘れてしまっているように思えます

 次は、日本は言論が自由で、左翼的な革命スローガンが公然と主張される一方で、三島由紀夫の事件のように大日本帝国の亡霊のような事件が起きることに、韓国では不安を感じているということについて。

「しかし、ほとんど確実に言えることは、日本はどっちにもならないということです。といっても、過激なことを言っている人が現にいて、相当数の支持者もいて、これが野放しになっている以上どうなるかわからないという心配ももっともなのですが、現在の日本の圧倒的多数の人々は、戦後の自由民主主義のぬるま湯の中にどっぷり浸っていて、誰もそこから出る気はありません。このことも、口で言っただけでは、韓国の方にはわからないでしょう。日本に来て住んでみれば、自然にわかるとしか言いようがありません。
 これに限らず、日本では言論が完全に自由なので、断片的に韓国に伝わる評論から日本人の真の考え方を識別することは極めて困難です。この困難をさらに倍加させるものとして、左翼の意図的なプロパガンダと、これが空気伝染して、韓国の悪口を言えば進歩的であるかのようなムードがあります。」(286~287頁)

 戦後70年の間に何度「軍靴の音が聞こえる」と言われたことか。ワイマール憲法下のナチスの台頭が比喩的に紹介されたことか。しかし、日本人は少々保守的な政権を支持し続けながらも、大きな変化を望むことはなかったのでした。後段の「左翼」は「右翼」に、「進歩」は「保守」と言い換えると現在にぴったりでしょう。もっとも、日本の「左翼」が、日本側の修正主義的発言を韓国に御注進して、韓国側の反発を招いて、そのリアクションに日本の保守派が反発して、結果的に日韓離間となって、中国や北朝鮮がニッコリという高等戦術なのかもしれませんが、どちらも似たようなものです

 このように今から読んでもなかなか含蓄深い戦後保守のあり方を見せてくれる良い古典です。10年前に保守的な出版シリーズで復刊されていたようですが、どのような受け入れ方をされたのでしょうか。

評価 ☆☆

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2016年8月29日 (月)

生方敏郎『明治大正見聞史』

点検読書225

中公文庫(1978年10月10日)刊
原著は、春秋社(1926年11月)刊


日本史――明治時代


『東京朝日』の名物記者から作家となった著者の体験を踏まえた明治・大正の世相史。明治初期の外交から憲法発布と日清戦争、学生の目を通した社会の移り変わり、乃木将軍の死に直面した新聞社の本音と建前、関東大震災の記録、と明治・大正の事件を風刺的に描く。


8部構成

1:明治初期の「屈辱」外交

2:日清戦争と社会的意義

3:明治時代の学生生活

4:恐露病と日露戦争

5:明治の終わりと乃木将軍

6:プロから素人の女性の時代

7:大正の世相史

8:関東大震災の記録

コメント
 本書は、明治・大正の社会の移り変わりを社会をきりとるという新聞記者の視点から回顧した作品です。収録された作品は、世の中の変化の体験的記録という点でまとまっているものの、各作品は『中央公論』などに掲載されたものだそうです。
 本書では、乃木将軍がその妻とともに明治天皇に殉死した事件について、新聞社内で軽蔑したような会話がなされている中、できあがった新聞は賞賛の嵐というように、建前によって世論が創られていくさまや、関東大震災に当事者として体験し、徳富蘇峰が津波にさらわれて死亡したなどの噂を鵜呑みにする姿、話題になる女性がプロの芸者から女性記者や作家など「素人」へと転換していくさまなど、興味深いエピソードにあふれています。

 その中でも、興味深いのは、やはり日清戦争でしょう。
 明治国家の初めての本格的な対外戦争である日清戦争は、日本という国家を国内的にも、対外的にも決定的に変えた重要な事件であったというのです。
 著者が言うには、日清戦争までの地方の人間は、反藩閥政府的気分が強く、一つの国民という意識が希薄でしたが、この戦争によって、それが変わったというのです。

「私の子供らしい心に映ったところで見ると、憲法発布はさまで地方民の心に革新の刺激を与えないでしまった。皆な予期を裏切られたという心持ちを持ったらしかった。根本的に地方民の心を動かして、明治の新政府に服従し中央政府を信頼するようになったのは、日清戦争の賜物であったように思われる。」(25頁)

 つまり、それ以前の地方の人にとって、明治維新は薩長武士の企てた「革命」に過ぎないのであって、自分たちの政府とは考えていなかったようなのです。もちろん、人々は、「きんりん様」=禁裏様=天皇を尊いものと考えていたものの、それと同等かそれ以上に「公方様」=徳川将軍の権威が強かったようなのです。それが、この戦争の思わぬ勝利によって、中央政府の権威が一気に上昇したということでした。
 また、この戦争は、一般国民の中国観も大幅に転換させました。それ以前の日本人にとっての中国というのは、子供の頃から教え込まれる儒学の故郷であり、学校で習う「漢字」の国であり、また優れた美術品をつくる国で、お祭りの山車に置かれた人形のモデルたち、漢楚合戦や三国志の国だったのでした。
 それが憎悪する敵国へと変わり、そして思いがけぬ日本軍の快進撃に「遅れた国」という印象を持つようになったというのです。
 現在の我々は、日清戦争を勝つべくして勝った戦争で、いってみれば日露戦争の前哨戦のような扱いで見てしまいます。しかし、著者も言うように、もし日露戦争がなければ、牙山で戦死した松崎直臣大尉や喇叭卒の白神源次郎は日露戦争における廣瀬武夫中佐と杉野孫七兵曹長なみに知られていただろうし、大島義昌、立見尚文、大迫尚敏、佐藤鉄太郎の諸将は日露戦争の黒木為楨、乃木希典、児玉源太郎なみの大英雄であったろうというのです。
 現にこの箇所は原文では苗字しか書いておりませんのでしたが、私は日露戦争の方はほぼ下の名前も調べずに書けましたが、日清戦争の方は一人もフルネームが出てきませんでした。同時代人にとっての大事件とのちの人間にとっての捉え方は、これほど違うのか、と感じます。
 本書は、そうした驚きにあふれております。また、それを指摘出来るだけの透徹した視線を持っていたということもあったのでしょう。しかしながら、その著者ですら、この日清戦争で軍国熱が暑くなったものの、1926年現在では軍縮熱によって軍人の肩身が狭くなったとは、誰も想像できなかったろうと述べており(66頁)、その数年後の軍国主義を予想だにしていなかったのも面白いところです。

評価 ☆☆☆☆

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2016年8月15日 (月)

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』

点検読書216

中公文庫(1973年6月10日)刊


小説――日本


東大入試が中止となった1969年に高校3年生であった庄司薫が大学受験をやめることを決める数日の出来事を日比谷高校と山の手の人々の雰囲気を描く。


1:幼なじみ由美との喧嘩(1~3)

2:兄の同級生の女医の誘惑(4~5)

3:山の手の生活(6~7)

4:日比谷高校芸術派(8~9)

5:銀座の少女と由美との和解(10)

コメント
 兄弟そろって東大一家で、女中がいる家の高校3年生。妙な関係の幼なじみと女医の誘惑、そしてゴーゴーパーティーへの参加。その上、古典作品を気軽に語れるこの雰囲気。何とも想像の外にある世界の話で、こういう世界もあるんですかねぇ、といったところ。
 ほとんどはいけ好かないエリートのどうでもいい悩みと当時の風俗が語られている小説なのだが、ラストになると何故かしんみり来てしまって、謎の感動があります。

評価 ☆☆

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2016年5月19日 (木)

『細川護貞座談』

点検読書194

細川護貞 聞き手 光岡明・内田健三
副題は「文と美と政治と」
中公文庫(1990年)刊

原著は『細川護貞座談』(中央公論社、1986年7月)


日本史


室町以来の細川家十七代当主にして、近衛文麿の女婿で秘書官、細川護煕元首相の父親という著者が、狩野直喜に教えを受けた文の世界、父・護立に誘われた美の世界、岳父・近衛文麿に導かれた政治の世界を虚心坦懐に語る。


三部構成

1:漢学の素養を語る文の世界(愛一部)

2:細川幽斎以来の文化・芸術の大名家の歴史を語る美の世界(第二部)

3:戦時下の史料『細川日記』の裏話と人物論の政治の世界(第三部)

コメント
 一月前の熊本地震の犠牲者の中に、東海大学の農学部の学生がいたことに、神奈川県出身で小田急線に「東海大学前」という駅を知っていた身としては驚いてしまいました。そんなところにも東海大学あるのか、でもなぜに熊本の阿蘇になんかあるんだろうか、と。
 熊本藩主細川家十七代当主の著者の熊本出身の政治家評の中に松前重義が登場します。松前は、逓信省の官僚であったが、後に反東條英機の動きに参加するようになり、フィリピンのマニラに勅任官にも関わらず二等兵として派遣され、復員後、学校を創設した。それが、現在の東海大学になりました。つまり、東海大学の阿蘇キャンパスというのは、松前の故郷に錦を飾った象徴的な施設だったのでした。これなら納得です。

 本書は、熊本藩主細川家の子孫であり、近衛文麿の女婿で秘書官であり、反東條運動の動きを活写した『細川日記』の著者が、文と美と政治について縦横無尽に語った作品です。

 文の世界では、著者が学んだ京都大学の教養主義的な雰囲気が語られます。また、京都大学人脈で語られるエピソードが面白い。昭和十九年の初夏に、西田幾多郎、佐々木惣一、狩野直喜が集まって会食していた際に、当時、大日本言論報国会の会長として権勢を誇った徳富蘇峰の話題に及ぶと、佐々木惣一が「蘇峰の主張は時勢とともに移り変わるような気がしますが、彼の本質はなんでしょうか」と尋ねると、腕を組んで座っていた西田幾多郎が「それは変わるということだ」と力強く答えて、一座は微笑をもって迎えた、という話(33~34頁)。まさに蘇峰の本質をズバリと言い当てていて興味深いし、苦々しく思われていた雰囲気が伝わります。

 美の世界では、主に細川家について語られるわけですが、なぜ細川忠興が豊臣を裏切って徳川についたかのエピソードとして、秀次事件に連座して、忠興が秀次から三百両の金を借りていて、その使いみちが問題となって秀吉から忠興は切腹を命じられそうになったそうです。問題は、使いみちなので三百両をすぐに用意して返金すれば、事なきを得ます。その時、細川家の重臣・松井康之が徳川家康に借金を申し出て、家康はすぐさま貸すのではなく、上げることにして忠興は事なきを得て、恩を着せた、という話が、後の関ヶ原の戦いでの忠興の動きにつながったというのです(122~123頁)。
 また、千利休について。もともとお茶は、大勢集まった宴会で飲まれるもので、その場では唐物などの品評会なども行われて、目利きには賞金が出るというものだったから、金はかかるし鑑賞眼が試されるというものだったそうです。そこに飽きたらなさを感じてわび茶などを考えだしたのが紹鷗や利休でした。そして、さらに利休のこの小規模での茶会という発想と信長の茶会出席は特権であるという考えが結びついて、この時代の茶道が成立したのですが、秀吉は誰でも参加できる、そして派手な茶会を催すようになります。そうすると、秀吉と利休の間の方向性の違いが出て、対立し始めます。また、朝鮮出兵によって、博多商人との関係を重視し始めた石田三成からすると堺商人の利休が権力を持つことは政策上、好ましくありません。その上、利休は家康とも関係が良好でしたので、そうしたことが重なって、殺されたのではないか。そうした推測が出ております(117~121頁)。ホントの話かどうかは、分かりませんが、細川家の当主という権威からの発言で、何となく説得力があります。

 最後の政治の世界は、戦時下から終戦後までの期間を語ったものです。
 よく終戦の聖断ができたのなら開戦断念の聖断も出せたのではないか、という疑問について言われますが、著者に言わせると、第一にそうした方法があるということを近衛文麿が気づかなかったという点、そして、当時の国民が開戦に必ずしも反対でなかったから聖断による断念は不可能であったろう、というのです(166~167頁)。
 たしかにこれは考えられると思います。やはり我々は、結果から歴史を見てしまっているようです。2・26事件の例が出されますが、政府が機能停止状態という異常事態であるから、天皇が意思を表明したのであって、開戦時は政府はあり、重臣たちも意見を言える状態でした。そうした状態で、天皇が自分の意思を強行することはできません。そして、首相が天皇の意思に委ねるという方法は、それ以前にはなかったわけですから、これは鈴木貫太郎首相の発想が優れていただけで、それ以前には思いもよらぬものだったのでしょう。また、あの戦争は敗北したから、国民も戦争を回避したかっただろう、と考えてしまいますが、それまで勝てるわけのない清国・ロシアと戦って勝ってきてしまったのですから、国民からすると相手が大国だから戦争しないという選択肢はあまり重視されなかったのかもしれません。そうした点から考えると、この聖断による戦争回避というのは、あまり現実味がなく、別の要因について考察した方が価値があるように思います。
 また近衛文麿と松岡洋右のエピソードも興味深いです。
 近衛文麿は、とくかく頭脳明晰で国民人気も高い人物でした。漢学者が書いた難しい漢字ばかりの詔書草稿を下読みもせずに朗読し、読み終わった後に、少し読みにくい字があったから、別の読みに変えておいた、と即座に文意を変えずに別の言葉を差し替えることもできるほど、高い教養を持っていたそうです。
 そんな近衛ですが、開戦間際の時期、実は彼は痔疾を患っていたそうです。いまで言う痔クッションというドーナツ形の座布団がないと座れないほどであったそうで、車に乗車中に急ブレーキで痔に痛みが走ると温厚な近衛が大声で叱りつけたといいます。つまり、この時期、近衛はその痛みによって正常な判断はできないし、政治に集中することができない状態であった、というのです。そんな時に、重大な決断が迫られていたのですから、困ったものです。著者によれば、首相辞任の頃に受けた痔の手術をしてから人が変わったようになった、といいます。もし痔疾がなければ、戦争を避ける努力をもう少しできたのではないか、と著者は言いますが、これはどうなのでしょう。この方の問題は、それ以前の1937年の首相時の判断からあったわけで、近衛が優れていたのは責任のない裏方にある時だけで何か責任を持たされるようなことは痔があろうがなかろうができなかったのではないでしょうか。著者は、近衛は勇気がないと言われるがそんなことはない、戦争末期には潜水艦にのってイギリスに行って和平交渉をしようとしたのだから、といっていますが(214頁)、現に行かなかったわけですし、蒋介石との首脳会談もルーズベルトとの首脳会談もスターリンとの首脳会談も話だけはあるものの、いずれも行ってはいないのですから、やはり近衛を評価するのは難しいわけです。
 頭脳明晰で教養があって、家柄もよく、人気も高く、見た目も良かったわけですが、そういう人が政治家として有能かといえば、そうではない、ということの典型ではないかな、と思います。やはり、政治家としての評価の判断基準は、政策にあるんだと思います。政策を基準にして行動してくれれば、国民としては、恩恵の受け方も分かりやすいし、責任の追求もやりやすいです。
 そして、松岡洋右。著者に言わせると彼は外務大臣として1941年の独伊歴訪の時点で、精神異常を発していたというのです。というのも、シベリア鉄道で移動中、秘書官が大臣のところへ行って話をして、ケリが付いて別の秘書官が入っても、そのまま話を続けていたというのです。秘書官たちも困ったそうですが、シベリア鉄道に乗っている間中、ずっとしゃべり通しだったというのです。また、著者自身も松岡に書類を持っていた際にも、ずっとしゃべり通しで困っていると、秘書官が「細川さんが来てます」と話しかけると、「あ、そう」と著者が来ていることに気づいていなかったようなのです。そうした異常な状態の人物が、大臣の職にあり、独伊を歴訪し、スターリンと会談して日ソ中立条約を結んでいるわけですから、スターリンにいいように操られていても、おかしくはないわけです(223~224頁)。昭和天皇も松岡には異常性を感じていたようですが、大臣在任中のそうした言動に何か察していたのかもしれません。まぁ、こういう人物を大臣として辞めさせるのに内閣総辞職をしなければならない、というのも、やはりあの帝国は異常な国であったのだ、と言えそうです。正常な判断ができなくなっていた。そういう国であったようです。
 こうした面白エピソード満載な座談で、いろいろな想像が広がります。しかし、こうした古い教養人たちは、常に中国の古典が読まれなくなったことを嘆いていますが、そうした古典教養に深い人物たちで構成されていた政府がまともな判断をできず、一度国を滅ぼしていることに何の反省もないというのに驚かされます。漢学の素養は、あった方がいいと思います。しかし、それと政治家としての評価は別でしょう。そもそも漢学の素養を試されて政権の中枢に入るというシステムを持っていた中国の歴代王朝がどうであったかを考えれば、その結果は知れるでしょう。近年も漢学の素養が高い野党党首がいましたが、特に彼を評価する人はいないでしょう。ですから、漢学礼賛もほどほどに、といったところでしょうか。

評価 ☆☆☆

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2016年5月16日 (月)

清瀬一郎『秘録 東京裁判』

点検読書192

中公文庫(2002年改版)刊
原著は『秘録 東京裁判』(読売新聞社、1967年3月)。


日本史――昭和史


極東国際軍事裁判(東京裁判)において、弁護団の中心人物であり、東條英機被告の主任弁護人であった著者による裁判記録。著者は、この裁判を、勝者による敗者への裁きであり、道義的にも国際法的にも不当であると主張する。


四部構成

1:終戦から裁判開始まで。

2:裁判で問われたこと、主張したこと。

3:東條口供書および判決後のこと。

4:史料・冒頭陳述。

コメント
 笠原十九司『南京事件論争史』によると、南京事件「否定論」の原点は、東京裁判の弁護側の主張にあるらしいのです。つまり、虐殺の証拠はほとんど伝聞であること、虐殺の犯行は中国兵ではないか、便衣兵の掃蕩であって不法行為ではない、中国の慈善団体の埋葬者は戦死者であって虐殺の被害者ではない、南京の人口は20万であるから20万人の虐殺は不可能、中国側の謀略宣伝等々の主張は、すでに東京裁判で語られていることだ、というのです。
 本書は、南京についてはほとんど語っていません。広田弘毅が死刑になった理由として、広田が外務大臣であった時、南京での残虐事件の報告を受け取って、「弁護人の証拠によれば、これらの報告は信用され、この問題を陸軍に照会」し、陸軍から残虐行為を中止させるという保証を受け取ったにもかかわらず、残虐行為は終わらず、それに対して、直ちに措置をとるように閣議で主張しなかったことの罪を問われて、死刑になった、という箇所ぐらいなものです(89~90頁)。
 ですから、南京に関する否定論の原点という雰囲気を本書から受け取ることはできないが、戦後の右派から主張される侵略の定義はない、ナチスと日本は違う、大東亜戦争は英米中心の包囲網に対する自衛戦争である、人種差別に対して東亜諸民族の解放を目的とした、真珠湾攻撃は予知されていた、無条件降伏ではなく有条件降服、等々の主要論点がすでに論じられています。右派の人のスローガンに「東京裁判史観の脱却」があるのは、無理のないことで、東京裁判の審理で否定されたことの蒸し返しが、彼らの主張なのでした。
 しかし、一方で次のようにも思うのです。本書によれば、これらの冒頭陳述で主張されたことにつき、外国の新聞が批判するのは当然だとして、日本の朝日や読売といった主要新聞も批判をしたというのです。もっとも、当時は占領下であるから、新聞が占領軍のご機嫌をとるのも当然であるし、その意向に沿った社説以外が掲載できなかったこともあったでしょう。しかし問題なのは、こうした裁判に国民の側が無関心だったのではないか。そんな気がするんです。もっとも、食うにも困った時代ですから、そんなことは当然であるとは思います。しかも、テレビもネットもない時代ですから、よほど関心のある人しか、そうした情報に接しようとはしなかったでしょう。
 それにしても、もう少し余裕があってからでも、東京裁判の再検証をシッカリとやっておけばよかったのではないかと思います。そうすれば、弁護側の主張がどのようなもので、どのようにして否定されたか。また、無理な強者の論理で否定されたとすれば、そこに再考の余地はあるのか。こうしたことを再検証していけば、よかったのではないでしょうか。
 というのも、右派の主張が、ときおり噴出して一定の支持を得るというのは、今まで接してきた考え方と違っていて新鮮に感じるから、というのがあるのだと思います。人は、今までの常識を揺るがすような意見というものに接した時、不安を感じることもあれば、興味も湧くわけです。この「これまでこう言われてきたが、実は…」式のものの言い方というのは、事前に様々な情報を得ていれば、冷静に判断できるようなものだと思うのです。ですから、戦後の日本の歴史の扱い方には、少し問題があったのではないか、と思います。
 たまに歴史修正主義はケシカランと主張する人たちが、歴史修正主義的に言論にふれると、ドイツだったら違法行為だ、というような説教をするのを耳にしますが、実はそうやって隠すことがかえってぶり返すことの原因ではないのか。ときおりワクチンを摂取するように、東京裁判の弁護側主張を再検証する作業をメディアを通してやっておけば、免疫がつくのではないかと思うのです。
 また、本書を読んで思うのは、東京裁判は批判されるものの、意外と被告の選定などが適当で、戦争末期の1945年5月26日に下村宏国務大臣が鈴木貫太郎首相に送った書簡に即刻公職から退くべき人々として「近衛〔文麿〕侯爵、東条〔英機〕大将、杉山〔元〕元帥、島田〔繁太郎〕大将、永野〔修身〕元帥、松岡〔洋右〕前外相」の名があがっています。そして、現に東京裁判の被告として逮捕され、判決を受けたのもこれらの人々でした(近衛・杉山は自殺、永野・松岡は獄中死)。
 しかも、東京裁判で裁かれた人々を「A級戦犯」と呼びますが、A級戦争犯罪である「平和に対する罪」で死刑になった人はおらず、死刑になったのは、通常の戦争犯罪にあたる「殺人」を理由にしたものです。広田が死刑になったのは、南京事件時の不作為だと先に述べましたが、そうした理由です。
 ウエッブ裁判長も認めているように「侵略戦争を遂行する共同謀議に参加したこと、この戦争を計画及び準備したこと、開始したこと、または遂行したことについて、死刑を宣告せらるべきではない」と述べており(52頁)、戦争を開始したからという理由で、死刑になった人はいないんですね。
 そうすると、案外、公正とは言えないものの、日本人が再審理しても大して変わらないものではなかったか、と思うわけです。保守派の論客の鼎談『日本人の歴史観』(岡崎久彦・北岡伸一・坂本多加雄)の中で、岡崎久彦が自分が裁判するなら、近衛と広田と杉山の罪がもっとも重いと述べていましたが(104頁)、これらの三人は実際に死刑になった広田と、死刑候補の二人です(両者は自殺)。
 このように考えると、「勝者の裁き」の最高というのではなしに、定期的に東京裁判を振り返ることで、歴史観の免疫をつけるには良いのかもしれません。本書は、その一助になるのではないかと思います。

評価 ☆☆☆

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2016年5月12日 (木)

幣原喜重郎『外交五十年』

点検読書189

中公文庫(1987年)刊。
原著は『外交五十年』(読売新聞社、1951年4月)。


自伝


大正・昭和期に外務大臣・総理大臣として活躍した外交官・幣原喜重郎の口述による回想録。昭和25年9月5日から11月14日にかけて61回にわたって『読売新聞』に掲載された日露戦争から首相拝命までの回顧とエッセイが収録されている。初めて「幣原外交」と個人名を冠された外交とは何であったのか。本人の証言により、再構成される。


二部構成

1:日露戦争から首相拝命までの回顧録
  ・日露戦争をめぐる日米・日露関係
  ・排日移民法をめぐる日米関係
  ・政党内閣時代の大陸政策・対米英協調外交=「幣原外交」時代
  ・政党内閣崩壊後の回顧
  ・首相拝命

2:人物・時代についてのエッセイ
  ・外務省入省のいきさつ
  ・イギリスについて
  ・元老・重臣たちの回顧
  ・中国・朝鮮について
  ・アメリカについて

コメント
 「幣原外交」で有名な幣原喜重郎の回顧録。一読驚いたのは、読みやすいことでした。一つ一つの見出しに起承転結がしっかりしている。すべてを通して読まなくても、一つの見出しをそれだけ読んでも十分楽しめるエッセイになっているのです。幣原って、そんな文才があったのか、と思ったのですが、解説を見て合点がいきました。これは口述筆記であり、しかも各見出しごとに毎日、新聞で連載されていたものなんですね。新聞は、連載といえども毎日読むわけではありませんから、各回で一つの話になっていなければ、読む方としては気分が悪いです。そのため、本書の一つ一つのエピソードが連続した話にもかかわらず、各見出しごとで完結した話になっているのです。当時の読売新聞の編集の技量というものを感じられる本です。
 と、内容よりも編集の見事さばかりに目がいってしまったのですが、内容に関しては、面白いのですが、どうも軽妙に語りすぎていて、かえって真実味が薄れてくるようにも感じてしまいました。
 例えば、ポーツマス条約を締結し、世論による囂々たる非難を浴びて帰国した小村寿太郎を新橋駅で迎えて、小村の両脇に立って、もしもの時の護衛をなった人物は誰だったのか。本書では、桂太郎首相と山本権兵衛海相となっています(31頁)。幣原自身が見たと言っているのですから、それが正しいのでしょうが、一方で伊藤博文と山縣有朋ががその役割を果たしたという見方もあるようです(Wikipedia)。ちなみに小村の秘書官であった本多熊太郎の小村についての評伝『魂の外交』(千倉書房、1941年)によりますと、新橋駅のプラットフォームで小村を囲んだのは、桂首相、山本海相に加えて、寺内正毅陸相の三人で取り囲んだそうです(231頁)。これは、1935年4月に記述したものらしいのですが、一体本当のところはどうなのでしょうか。
 また、1927年の南京事件につき、幣原外相が日本の砲艦に発砲をを禁じる訓令を出したが、事実誤認で、居留民たちがシベリア出兵時のニコラエフスク事件を想起して、抵抗をやめてくれ、と嘆願したことにあったとこを指摘しています(116頁)。これは、どうやら確からしいのですが、日本人居留民が略奪にあったことは認めているものの、その被害については「幸い殺害を免れた」として、ずいぶんクールなのです。本人もこれらの対応で、自身に怒りが集中したことを認めているものの、こうした大衆感情を考慮しない官僚的な行動が、後の強硬路線を生んだということへの、反省の色は見えません。エリート外交官てのは、こうしたものなのだろうな、という気がします。
 それが現れているのが、エッセイに含まれたサー・エドワード・グレーのエピソードです。1915年、メキシコに油田を持っていたベントンという経営者が、メキシコ人の利権回復運動の暴発により殺害されてしまいました。イギリスとしては、居留民保護を目的に軍艦の派遣を決めたのだが、南北アメリカの不干渉主義=モンロー主義をとるアメリカ合衆国から待ったがかかりました。イギリスとしては、英艦派遣はしないが代わりにアメリカが英人保護に責任をもってくれ、と依頼したところ、そんな責任はアメリカにはない、と突っぱねられました。そこで、アメリカはケシカランという話になります。
 イギリス議会で、それが取り上げられます。質問者は、外相グレーに、メキシコの事件について事実関係を問いただします。外相は、それがあったことを当然に認めます。そこで質問者が、なにか行動を取るのか、と質問すると、外相は「何の手段も取りません」と答えたというのです。
 日本の外交官としては、大変なことをいったと思っていたのですが、翌日の新聞各紙はグレーの答弁を賞賛しています。これはどうしたものか、とイギリス人記者に聞いてみると、イギリスが強硬に軍艦を派遣して、アメリカと関係を悪くして戦争でも起こったら大変だ、騒ぐだけ無駄だしイギリスの国威を失墜させるから黙っていた方がいい、という認識だから、だというのです。
 それに対する幣原の感想としては、以下のとおり。

「イギリスの一般国民が、いかに外交上の問題について常識をもっているかということは、この一例でも判るが、それは日本なんかでは想像も出来ない。イギリスの外交官が国際場裡で光っているのは、一般国民にこの常識があって、大局を見ており、これを押して行けばどうなるかと先を見る。そうすれば余計な喧嘩をしてはつまらんという気になる。その見限りの早いことは驚くべきものがある。このイギリス人の常識ということを考えると、そういう国民ならば、外務大臣はどんなに仕事がやり易いだろう。私らがそんな答弁をやっていたら、もうニ、三度は殺されていたろうと思うと、この点は羨まずにはいられない。」(256~257頁)

 ここで幣原が言っている「余計な喧嘩はつまらん」と感じるイギリス人の「常識」というものは、たしかに羨ましいし、そうした強さが高貴さを我々も持ちたいとも思います。しかし、幣原は、こうした立派なイギリスの一般国民に対して、感情的で幼稚な精神風土の日本国民という差を見ているだけで、同情心がないんですね。国民に責任を持たない外交官ならば、そうしたクールな心で外交を舵取りしてほしいものですが、彼は大臣として国民に責任ある立場として活躍した者なのだから、幼稚な国民を軽蔑していいるだけではなく、そうした幼稚さを勘案しつつ、外交をやってもらわないと、どこかで反動が来てしまうようなきがするんですよね。そこが幣原に欠けていたところではないか。そんな気がするのです。
 もっとも、このエピソードの次にある政治家と新聞記者のついてのコメントは、現在も頷くところが多いです。

「今言ったように、イギリスの議会では議員が質問しても、否定の場合には「ノー」と答弁すればそれで済むが、日本の議会では、「そんなことがあるものか」とか、「なぜここで話せないのか」とかいって食い下がる。あるいは食い付いて離れない。新聞記者の態度も全くこれと同じで、外国の記者は、こちらが「ノー」といえばそれきりであるが、日本の記者となると、四方八方から突っ込んで、どうしても泥を吐かせようとする。それが泥がなくてもである。」(257頁)

 先日のTPPの特別委員会をめぐる騒動もそうでしたが、日本の議会も記者の態度は100年たっても変わらないようです。こちらは、大衆の感情の問題とは異なり、自分たちがエリートなのだという自覚の無さが原因となっているような気がしますので、どうにかしてもらいたいな、と思った次第です。
 読んでみて損はないように思えます。ただ憲法9条幣原発案説(218~222頁)に関しては、マユツバで読まなければならないようです。ただ、幣原としては、「国民の一致協力」という国家は成り立たないと考え、自身の発案という神話をつくりだして、戦後日本というものを安定させようとしたのではないか。そんなふうに思えます。必要な嘘だったといえるでしょう。またここに大衆をバカにしているところがあるような気もしますが。

評価 ☆☆☆

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2016年4月27日 (水)

『岡田啓介回顧録』と第19回総選挙

承前

 天皇機関説事件は、民間においては蓑田胸喜ら原理日本社、貴族院においては菊池武夫ら旧軍人が批判の急先鋒でしたが、衆議院における批判者は当時議会多数派でありながら野党に転じていた立憲政友会でした。政友会は、第二次若槻禮次郎内閣の後を襲った犬養毅内閣下の総選挙で景気対策を訴えて地滑り 的な勝利を得ました(466議席中301議席)。しかし、周知の通り、1932年5月15日に犬養首相が海軍将校に射殺されて、政党内閣は終焉します。それを引き継いだのは、斎藤實内閣だったのですが、この内閣は政友会・民政党という二大政党から大臣を出す挙国一致内閣だったのでした。
 しかし、政友会としては、おさまりがききません。本来なら首相が急死した場合、同じ政党から後継首相が出るべきです。原敬内閣後の高橋是清内閣、加藤高明内閣後の若槻禮次郎内閣、濱口雄幸内閣後の第二次若槻禮次郎内閣しかりです。それにもかかわらず、犬養後継は、政友会の新総裁・鈴木喜三郎ではなく、海軍大将の斎藤實になってしまいました。そこに不満があります。
 斎藤内閣までは何とか協力しようとしう姿勢は見せたものの、斎藤内閣後が再び海軍大将の岡田であったのです。これでは、納得ができません。政友会は野党に転じ(入閣した床次竹二郎、山崎達之輔、内田信也は除名)、岡田内閣を倒閣して政権奪取を狙っていたのでした。天皇機関説事件がこじれてしまったのも、この倒閣・政権奪取のためなら何でもやるという意欲が先走ってしまったためであると思われます
 そうした情勢の中で、満を持して、総選挙となりました。結果は、与党である民政党が第一党(205議席)、政友会が175議席と激減、そして7議席から22議席へと約3倍に躍進したのが社会大衆党など無産政党でした。とりわけ社会大衆党は1党で18議席と存在感を見せております。
 これにより政党内閣復活の目が出てきました。というのも、元老の西園寺公望は、普通選挙法施行後の初めての総選挙で、内相として「天皇中心主義」を掲げて、野党・民政党の「議会中心主義」を攻撃した鈴木喜三郎政友会総裁を首相にふさわしいと考えていませんでした。その鈴木がこの第19回総選挙で落選しました。また、第一党となった民政党は、前総裁の若槻禮次郎が元首相として重臣の列に加わっており、次期首相選出において有利な位置にありました。岡田が退陣を決断すれば、政党内閣復活は目前だったのです。
 しかもです。本書の証言によれば、総選挙にあたり、岡田は興津の西園寺を訪ね、住友から100万円の援助を受けるよう助言され、受け取っています。そのカネの使いみちですが、内閣書記官長の迫水久常の「これからの日本では健全な無産政党を発達させる必要があるので、その方面へいささか援助しては」と進言され、岡田は民政党が与党だから表立ってはできないが、任せると言って、迫水から社会大衆党の書記長の麻生久に資金が提供されたというのです(152頁)。そして、この選挙での社会大衆党躍進につながったのでした。
 このように考えると、当時のエリート層は、岡田内閣後に、町田忠治民政党と麻生久社会大衆党の連立内閣を考えていたフシがあったのです。
 この幻の内閣が、果たしてどのような役割を果たしたかは分かりません。民政党というのは、昭和恐慌を引き起こした悪しき緊縮財政の傾向がありました。もっとも、緊縮財政の権化・濱口雄幸は死亡し、井上準之助も暗殺されていましたし、斎藤・岡田と続く高橋是清の財政政策を与党として支持していたのですから、心配はないのかもしれません。その上、この時期には、高橋蔵相も緊縮に向かい始めたように、インフレが懸念される事態にありましたので、緊縮派の民政党の内閣がふさわしかったといえます。民政党の対軍の緊縮路線と社大党の社会福祉路線が合致して、予算内の軍事費が社会保障費に切り替われば、一気に1970年代まで政治が変わったともいえます。
 しかし、この期待をぶち壊したのが、2・26事件でした。そして、この後継内閣の廣田弘毅内閣で、軍部大臣現役武官制が復活するに及んで、政党内閣がほぼ困難となります。1937年4月30日の第20回総選挙で社大党が躍進しているので、民主主義的展望がまだあった、7月7日の盧溝橋事件さえなければ、という考えもありますが、廣田後の宇垣流産内閣や米内光政内閣の結果を見れば、現役武官制によって、政党内閣はさらに不可能になっていたことは明らかでしょう。そう考えると、2・26事件による軍の影響力増大と廣田弘毅内閣の成立は、ターニングポイントであったといえます。
 天皇機関説事件と2・26事件という二つのエポックが発生してしまったのが、岡田啓介内閣であり、またそれは戦前期における自由主義復活の最後の機会をリベラル派の海軍大将の首相が担っていたんですが、それは不幸にして、また優柔不断な決断によって、なくなってしまった。本書は、どうも当事者意識の低いリベラル派軍人の回顧録でした。

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2016年4月26日 (火)

『岡田啓介回顧録』と天皇機関説

点検読書180

中公文庫(1987年4月)刊。
原著は、岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社、1977年12月)。


自伝


海軍大将から天皇機関説事件、2・26事件時の首相となった岡田啓介の自伝。生い立ちから大正・昭和期の政治史を中心に淡々と述べられ、2・26事件の詳しい回顧と重臣として東條内閣倒閣に尽力したことを中心に語られる。付録として、ロンドン海軍軍縮会議時の日記も収録。


五部構成

1:生い立ちから海軍将校時代。

2:陸軍の大陸進出とロンドン海軍軍縮会議など昭和期の政軍関係。

3:組閣から2・26事件まで。

4:東條内閣倒閣運動など重臣としての活動。

5:付録としてロンドン海軍軍縮会議時の日記。

コメント
 昭和期の転換点の二つが、この著者の内閣時代に起きています。
 天皇機関説事件と2・26事件です。
 前者は、これまで大日本帝国憲法下で慣行とされてきた内閣中心の政治、すなわち統治権は天皇が持つものの、統治の責任は内閣が持つというもの責任内閣政治を理論づけた美濃部達吉の天皇機関説を内閣が公式に「国体明徴声明」として否定したものでした。
 一般的に美濃部の天皇機関説が、政党内閣を理論づけたと言われますが、それは美濃部理論の応用であって、もっとも重要な点は帝国憲法に規定のない「内閣」を統治の中心として理論的に位置づけたことにあります。つまりは、帝国憲法第五十五条第二項の法律・勅令・詔勅の副署についての拒否権を大臣に認めることで、天皇の意志よりも大臣の意志を優先させ、政治の責任を明確にすることと、『憲法義解』における第五十五条解釈の「国ノ内外ノ大事」についての連帯責任、内閣官制第五条の閣議の必要ということから、内閣が政治の中心であることを理論づけたのでした。政党内閣は、もし連帯責任があるなら、同じ意見を持ったものが内閣を組織した方が効率が良いというもので、内閣中心政治の運用が効率的に行われるために必要だ、という論理でした。
 この内閣中心の政治理論であった天皇機関説が否定されたことは、ロンドン海軍軍縮問題で発生した統帥権干犯という発想の根拠、陸軍参謀本部や海軍軍令部といった天皇直属の統帥部へのコントロールが効かなくなるということを意味していました。つまり、天皇機関説を葬り去ることで、内閣の統治責任が否定され、天皇の意志=統帥部の意志を拒否できるものがいなくなることになります。
 天皇機関説の肝は、憲法第五十五条の副署拒否権のように内閣の統治責任が明確であるところにあったのですが、これが否定されると、天皇の意志(=軍)をコントロールすることができなくなりますし、天皇は君主無答責の原則で責任を取りませんので(天皇の意思を利用した軍も責任がない)、無責任体制が完成します。これにより、戦争の歯止めはなくなります。成功すれば金鶏勲章を得て多額の年金が貰える(参照)上、失敗しても天皇直属の機関としての統帥部の失敗=君主無答責の原則で責任を問われない。とすれば、戦争することが軍人にとって合理的でした。これでは、軍が戦争を起こそうとするのも当然となります(原田泰『日本国の原則』を参照)。
 天皇機関説事件とは、このように明治国家の性格をガラリと変えてしまったものでした。岡田は、その時の首相であり、本人自身は美濃部学説を否定するものではなかったのですが、言質をとられるのを恐れ、天皇機関説を否定してしまい、「国体明徴声明」を出さざるをえないところに追い込まれます。
 その上、2・26事件が起きます。ここで言及したいのは、2・26事件そのものよりも、その数日前の1936年2月20日にあった第19回衆議院議員総選挙です(つづく)。

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2016年4月22日 (金)

小原直『小原直回顧録』

点検読書177

中公文庫(1986年)刊(原著は、小原直回顧録編纂会〔1966年〕刊)。


自伝


司法官僚として、大逆事件、シーメンス事件、朴烈事件、帝人事件などの重要事件に関わり、天皇機関説事件や二・二六事件時の司法大臣であった著者の自伝。


四部構成

1:生まれと育ち。

2:司法官僚として向き合った事件(日糖、大逆、シーメンス、大浦兼武、朴烈、帝人の各事件)。

3:司法大臣として入閣(天皇機関説事件、二・二六事件など)。

4:司法制度についての論評。

コメント
 小原直1877~1967)の自伝。河井継之助で有名な長岡藩出身の著者は、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法省へ入省する(1902年)。その後は、地方の裁判所の検事、東京の控訴院の検事、東京地方裁判所次席検事、司法次官、東京控訴院長などを歴任し、岡田啓介内閣では司法大臣を拝命。司法官僚として、着実に出世を重ね、さらに戦後も第五次吉田内閣で法務大臣となった。
 こうした人物の自伝なのですが、やはり怖いのは、絶対に誤りを認めない、という姿勢です。例えば、大逆事件は宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作が現に天皇暗殺の計画を持ち、さらに爆弾も準備していたわけであるから、旧刑法116条の適用は免れないものの、参加に踏ん切りのつかなかった幸徳秋水、参加を断っていた森近運平や幸徳と喧嘩別れしていた坂本清馬などはフレームアップであろうと、通常は言われます。
 しかし、著者は戦後出版された本書で、はっきりと「戦後いろいろの批判があり、中には、「でっち上げ」だというものがある。が、それは私にはどうしても考えられない。〔中略〕被告人はいずれも、宮下、菅野、新村、古河らの計画に対して多少の差があるが、それぞれ関連を持ち、何かの形で、その進行を助けていた。しかも、そのことを各関係者が自ら供述している」(43~46頁)。だから、適切であった、というのです。
 確かに、幸徳は、彼らとの謀議に関わったし、奥宮健之は爆弾製造のアドバイスもし、森近運平は、古河を推薦したのでしょう。しかし、それは、「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタ者ハ死刑ニ処ス」を適用して死刑を執行してしまったのが、やり過ぎという批判であって、その関与を否定しているわけではありません。しかし、著者は、計画を知っていたのに止めなかったから、死刑は当然という姿勢です。
 また、著者は、戦後生き残った坂本清馬が再審請求をしていることを批判しています。この請求は、1967年7月5日に最高裁が棄却したことで名誉回復が行われなかったのですが、司法界の大ボスである著者はこの年の9月8日まで生存しています。そう考えると、著者が担当した事件である大逆事件の司法判断が覆ることはなかったのだろうな、という気もします。
 さらには、昭和期の司法ファッショ事件として著名な帝人事件に関しても、著者は無罪判決が出たのは仕方がないものの、検事局は控訴すべきで「悔いを千歳に残した」を批判しています。
 このように本書は、事件の評価そのものについては疑問なしと言えないものではないのですが、明治から大正、昭和にかけて世を賑わせた事件の裏側と、これらを捜査する側のものの考え方を知るには良いものかと思います。

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2016年4月 7日 (木)

芳澤謙吉『外交六十年』

点検読書163

中公文庫(1990年)刊(原著は自由アジア社〔1958年〕刊)。


日本史――自伝


1874年生まれ、1899年に東京帝国大学文科大学英文科卒業後、外務省入省。厦門、上海、ロンドンの領事館に勤務の後、本省政務局、駐支公使、駐仏大使、犬養内閣での外務大臣、貴族院議員として日蘭交渉の従事、枢密顧問官として終戦を決めた御前会議に列席し、戦後は初代の駐台湾大使となった外交官の自伝。


四部構成

1:生まれから大学卒業まで(第一章)。

2:外務省勤務時代(第二章~第六章)。

3:貴族院議員・枢密顧問官時代(第七章~第十章)。

4:初代駐台湾大使(第十一章)。

コメント
 英文科出身で外務省に入省し、犬養毅の娘を妻とした異例の経歴を持つ外交官の自伝。
 全体としての感想は地味に尽きるのだけれども、ところどころ興味深い話が掲載されている。 

例えば、抑制的な伊藤博文に対する、アグレッシブな児玉源太郎
 児玉源太郎といえば、司馬遼太郎『坂の上の雲』の影響で、大変魅力的な戦術家で、日露戦争の際に早期講和を政府に求めていたので、穏健な人物に思えますが、1906年の満洲問題協議会で、満洲における軍政を続けようとする児玉参謀総長に対して、伊藤が激しく反対したというエピソードが有名です。
 本書で述べられているのは、それ以前の1900年、義和団事件に時のこと。児玉源太郎は台湾総督としていました。台湾では、対岸の福建省出身者が多く、両地域の関係は政治的にも経済的にも密接なものであったといいます。そのため、児玉はかねてから福建省の領有を考えていたようです。そうした時に、北支で起きた義和団事件の余波が南にも波及し、厦門にあった西本願寺出張所が火災になり、それをきっかけに厦門港外に軍を輸送船で派遣した上に、軍艦高千穂その他二隻を港内に停泊させました。この危機一髪の際に桂太郎陸軍大臣が厦門占領中止を命じる電報を打って事なきを得たのですが、伊藤博文からの厳重な忠告が政府を動かしたとのことです。
 このように考えると、児玉というのは、占領地域民と関係の深い地域は、安全保障上、勢力下に置く必要があるので進出していく、という日本軍の拡大戦略に忠実というか、その先鞭をつけた人物であるようにも思えます。それに対して、一世代前の元老たる伊藤博文は、できるだけ抑制するという慎重な態度を示したということになります。

 日露戦争前のイギリスの日本認識
 以前に『日本の百年3』で、日清戦争以前の日本は諸外国から清国の一部であると思われていたというエピソードを紹介しましたが、外務当局者からしても日露戦争までは日本の国際的プレゼンスは非常に小さなものだったといいます。
 その例として述べられているのが、林董公使と英国首相ソールズベリー候ことロバート・ガスコイン=セシルとの会見のエピソード。
 1900年、林董は、公使として赴任し、首相兼外相であったソールズベリー候に会うために外務省へ訪れた。取次の者が、先に来ていた外交官を送り出してから、「ジャパニーズ・ミニスター」と声高に招き入れると、ソールズベリは「プリーズ・カムイン・サイアミース・ミニスター」と言って迎え入れたといいます。「サイアミース」とは、Siameseのこと。当時のタイ人(シャム)の英語表記です。日本は、タイと間違われるくらい馴染みのない国だったわけです。2年後に日英同盟を結ぶとは思えないほどの、存在の軽さだったのでした。ちなみに1905年12月に日本公使は大使へと昇格します(公使は、外務大臣にあてて派遣、大使は国家元首にあてて派遣されます)。日露戦争で勝利するまで、日本はイギリスに大使をおくることができなかったということになります。近代日本の戦争に関して、様々な議論がありえますが、戦争を遂行して勝利しないと、一人前とはみなさない野蛮でマッチョな西洋人によって世界のルールが決められていたということを忘れるべきではないでしょう。

 蒋介石と昭和天皇
 戦後に飛びますが、著者は、戦後に戦犯指名はされなかったものの、公職追放となります(1946年4月)。しかしながら、1951年8月に追放解除となり、1952年8月25日に台湾の初代大使を任命されます。
 そして、同年9月26日に、昭和天皇に謁見した時に、次のような言葉を述べられたといいます。
「蒋総統に会見する場合、日本軍の中国大陸に於ける敗戦の当時、蒋総統が部下に対し、"仇に報ゆるに恩を以てせよ"との命令を発せられたるため、何十万という多数の我が軍民が無事中国を引き揚ぐることを得たことは、私の忘るることの出来ないことであって、蒋総統に深く感謝している旨伝えてもらいたい」
 この伝言を著者は、蒋介石に伝えると、「御謝辞を有り難く感ずる旨」を述べたといいます。蒋介石は、かつて日本の第13師団に隊付として実習した経験から、日本の軍民との交流や日本の歴史の知識を持っていたため、日本の天皇に対する敬意を表していたといいます。それを表すように「カイロ会議の時、ルーズベルト米大統領が天皇制廃止を主張したのに対し、敢然これに反対したため、ルーズベルトの説が会議に於て採用されなかった次第である」(252頁)ということがあったようです。
 戦後日本において自民党内の右派と人ほど、台湾への思い入れが強く、中華人民共和国との国交正常化に反対の意志を示したのですが、この戦後の穏健な処置(それが中共との戦争を有利にすすめるためのものであっても)と天皇への敬意にあったのかな、と思います。しかし、近年において蒋介石評価というのは、右派の中で下がっているようですから、戦後の保守と現在の保守とは異なるものなんでしょうな。

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