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講談社学術文庫

2016年8月18日 (木)

成沢光『政治のことば』

点検読書218

副題は「意味の歴史をめぐって」
講談社学術文庫(2012年8月9日)刊
原著は、平凡社(1984年)


政治学――日本政治思想史


日本史の中の基本的な語を選んで、それらが文献に現れた用法上、どのような特質をもっているか、他の語との意味連関や語義の異動および、それらの変化を手がかりとして日本における政治意識の諸側面を歴史的に明らかにする。


四部構成

1:古代政治のことば。

2:古代・中世の国際関係のことば。

3:近世都市社会のことば。

4:近代政治の権利と統治。

コメント
 本書は、タイトルが「政治の言葉」ではなく、「政治のことば」とあるように、日本語=和語に注目して、日本における政治的語彙の特質を明らかにしています。
 例えば、「ヲサム」という言葉は、あるべき静態的秩序を前提として、ある対象をあるべき場所へ落ち着かせることを意味している、と指摘されています。亡骸を墓にヲサメるし、収穫物を蔵へヲサメるのです。そして、政治秩序においても、君主が土地・人民をヲサメるのであるし、人民は税をヲサメるのです。
 最後の例で見られるように、日本の支配―従属関係において、モノ、コトバ、行為が授受される時、支配者の行為と被支配者の行為とに共通の言葉が用いられているように、両者は依存関係にあることが分かります。同じことばの互酬関係によって、両者の関係が成立しているのです。一方的に、治めるのでなければ、納めるわけでもないのです。これは、いわゆる君民共治の国柄を表しているといえますが、逆に言うと責任主体の曖昧化がことばの上でも表れているといえるでしょう。
 こうした日本の政治構造を特徴づけるものとして、「マツリゴト」があります。この「マツリゴト」は、「祭事」と「政事」とで同じ漢字を当てることで祭政一致というような考えが出ていますが、本書を読むとどうもそうとも言えないようです。というのも、天皇は「マツリゴト」=「政」ということばの主体ではあるのですが、律令制以後において実際に執行する「マツリゴトヒト」は三等官以下の判官を意味することばであったといいます。そして、古代において「マツリゴト」ということばが当てられた漢字に「機」ということばがあり、これは「ハカリゴト」とも当てられています。この「機」=「マツリゴト」=「ハカリゴト」の場合は、君主の側近くで「謀」を司る者という意味合いがもたれるのです。
 こうなると「マツリゴト」も、天皇が主体でありつつ、天皇のために「ハカリゴト」をする側近が主体である「マツリゴト」でもあり、人民への直接支配と天皇のための「奉仕」を意味する「マツリゴト」をする下級役人が主体でもあります。そしてまた、天皇自身も領土・人民に対して「マツリゴト」すると同時に、神に対して「マツリゴト」=「祭祀」を行ってもいます。こうなると、先ほどの「ヲサム」が、互酬関係にあるのと同じで、その責任主体が曖昧です。
 天皇は全体を治めているようで、その方策を立てるのは側近で、実際に行なうのは下級役人です。何か問題が起きた時に、天皇は、臣下の進言を受け入れただけだし、側近は提案しただけだし、下級役人は実行しただけです。そして、そうした行為のすべてを同じことばで表すことで、行為主体を曖昧にする。いかにも日本の政治構造らしい姿が、ことばの上でも確認できたというわけです。
 本書はまた、「権利」ということばの「権」には「イキホヒ」という「力」というかエネルギーのようなものイメージさせる用法があったそうです。そのために、西洋語のrightなどにあった「正義」というような意味合いが抜け落ちてしまって、自らの自由・身体・財産等を守り、またそれを行なう基盤となるようなもの、「力」の印象が強くなってしまったというのです。そのために、権利には、好き放題行なうという印象が強くなり、それを抑制する義務が伴うべき、という考えが定着してしまったという指摘は、興味深いものです。果たして、西洋語のrightの方に、自らの生命を含む所有物を守る能力とともに、わざわざ義務を言うまでもなく、その適切な使用が含まれているか、分かりかねますが、知識として持っていた方が良いもののように思います。
 本書は、以上のように、ことばというものが我々のものの見方に影響を与えているという考えのもとに、日本における政治意識の原点をことばのうちに探りだすという、興味深い内容になっています。本書を読むことによって、一段深い政治への見方ができるかもしれません。

評価 ☆☆☆☆

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2016年4月14日 (木)

石井良助『天皇』

点検読書170

講談社学術文庫(2011年)刊。
原著は山川出版社(1982年)刊。

副題は「天皇の生成および不親政の伝統」。


日本史


天皇統治の伝統とは、「不親政」と「刃に血ぬらざること」である。前者の伝統は、邪馬台国時代からのから日本の統治形態の伝統であり、それから円満に政権を引き継いだ崇神天皇以来の天皇統治のあり方であった。それが崩されたのは、二度の外国模倣時代、つまり大化の改新以後の律令国家時代と明治国家であった。しかし、両者も名目は天皇親政でも、中大兄皇子の摂政や藤原氏の大臣政治、元老や内閣の政治といったように不親政の伝統は根強かった。また、後者の「刃に血ぬらざること」の逸脱は、後鳥羽上皇と後醍醐天皇のケースが指摘され、批判されている。これらの原則を通して、古代から象徴天皇までを描いた通史。


六部構成

1:邪馬台国から崇神天皇による統合と氏姓国家(第一編)。

2:大化の改新から平安前期の律令国家(第二編)。

3:摂関政治から公家武家の対立と融合(第三編)。

4:戦国時代から徳川時代(第四編)。

5:近現代の天皇(第五・六編)。

6:天皇統治の実態と国体(第七編)。

コメント
 本書は、天皇論を書くために、それ以前の統治形態の伝統を探るため、邪馬台国論争にまで手を伸ばし、卑弥呼のシャーマニズムと男弟による執政という分業体制に不親政の伝統がある、としながらも、天皇は別系統である、としています。つまり、大和地方に勢力をもった邪馬台国が、三世紀後半に奴国出身の崇神天皇によって円満な政権交代が起こり、統合されたということです(第一編)。
 邪馬台国に源流を求めつつ、でも天皇は別系統です。というある意味、学者的自己抑制が興味深いところです。普通だったら、そのまま大和にあった邪馬台国が大和王権の源流としてしまってもいいところなのですが、そうしないところが面白いところです。
 しかし、崇神天皇を初代天皇とするのは良いとしても、東遷神話までその事績に含めるのはどうなんでしょうかね。ある意味、東遷して天下を取った足利尊氏ですら、近畿近辺を押さただけなのですから、古代において、東遷して近畿を掌握して、そこから四道将軍を派遣して周辺諸国を服することなんてできたのでしょうか。もし、それほどの大人物ならば、『日本書紀』の作成者が、讖緯説を理由に二人の事蹟に分ける必要もないと思いますけれど。私としては、崇神天皇を初代天皇に据えるならば、やはりかつて九州地方から流れてきた祖先を持つ(またはそうした伝説を持つ)大和地方の豪族が当時の天下である近畿近辺を抑えた、ぐらいの話ではないかと思います(参照)。
 本書の特異さは、著者自身の尊王心が熱いことが端々から伝わってくるのですが、歴史叙述としてはきわめて冷静で、実証的である、というところです。後鳥羽上皇の承久の乱や後醍醐天皇の建武の新政への批判は、明治時代の尊王心熱い人々にとっても批判する向きがあったので、そこは特異ではないのです。しかし、天皇と武家将軍との関係、つまりは「大政委任論」的な発想は事実に反すると繰り返し批判されているところです。例えば、次のように指摘されています。

「戦国時代の分国というのは、先にも述べたように、ほとんど実力をもって成立したのであり、朝廷または幕府の委任によって成立したものではない。その後身である江戸幕府の地位もまた同様であり、その政権は実力をもって獲得したものであって、決して朝廷より与えられたものではない。朝廷が家康をもって征夷大将軍に任じたということは、たんに朝廷において、形式的にかれをもって武家の棟梁たることを承認し、これにふさわしい称号を与えただけのものに過ぎない。家康に対して武家の棟梁としての権限を付与したのではない。朝廷には決してそういう実力はなかったのである。」(二五八頁)

 一般に、中世から近世を説明するのに、権力は将軍に、権威は天皇に、という権力の分立がなされていたという説明がなされることがあります。しかし、もし天皇そのものに権威があったとすれば、天皇がある人物を将軍ないし大臣に任じれば、その他の人々がそれに従うはずです。しかし、現実にはそうなってはいません。信長は、1574年に参議、75年に権大納言、右近衛大将、76年に内大臣、77年に右大臣になってもまだまだ天下を統一せずに、まさにその時期に信長包囲網が築かれていたことは周知の通りです。また、豊臣秀吉は、1586年
に太政大臣になっておりますが、九州平定は翌年の1587年、北条氏の降服は1590年です。天皇に本当に権威があったとすれば、これは説明できません。もっとも応仁の乱以後、地方に分散にした公家たちのおかげで、地方に京都の文化および皇室に対するあこがれの気持ちが高まったのは事実でありますし、多くの戦国大名が朝廷からの官位を欲しがり、また対立した当事者同士への調停に天皇が間にはいるとすんなりうまくいくというケースが有りましたので、まったく権威がなかったとはいいません。
 いってみれば、現在の我々が皇室に抱く敬意に少し下るぐらいの権威はあったのかと思います。というのも、当時に比べて我々のほうが、メディアを通して皇室が身近になっているのに対して、当時の人々にとっては物語の登場人物のようなもので、現実感がありません。また、天皇が任命した統治者に対しての態度とすれば、我々は総理大臣やその他の国務大臣に対して、相応の敬意や畏れはあるとは思いますが、無条件に従う人はいないでしょうし、政権批判や反対する人を公然と認めております。
 そうしたアナロジーで考えれば、天皇の権威の意味というものわかろうものです。著者も指摘していますが、現憲法において、天皇は内閣総理大臣や最高裁判所長官を任命する権限を持っていますが、それらは事前に決まったものを追認して任命するだけであって、天皇自身の人選による任命ではありません。総理大臣が、選挙戦という戦争に勝利した党派の首領が任命されるのと同様に、天下分け目の戦いに勝利した首領が将軍に任命されるのも同じです。どちらも、実力で勝ち取ったものを形式的に任じられているだけなのです。
 では、それがどうして「大政委任論」というようなものが出てきたとすれば、江戸時代における文化の爛熟による歴史の研究の成果です。つまり、かつて主権者であった天皇家というものがあって、その後裔が現存しているが、現在の主権者は別に存在する、これを合理的に説明するにはどうしたら良いか。将軍を天皇の代理人と考えれば、すんなりと説明できる。こうしたわけです。その早い例が、山鹿素行『武家事記』(1673年)ですが、天皇と将軍との関係について「朝廷ニカワリテ万機ノ事ヲ管領セシムル」と述べております。こうした考えが、18世紀末期になると、徳川政権内部でも松平定信などによって、取り上げられるようになり、幕末にかけて、孝明天皇の文書に「政務ハ関東ニ御委任」とまで述べるようになったのです。
 いってみれば、現在の憲法を解釈するにあたって、大日本帝国憲法との連続性を説明するために、天皇の統治権は総理大臣の任命権、法律の公布などに残っており、そうした形式こそが日本国憲法の本質であり、「総理大臣は統治を委任された大臣に過ぎない」という観念が浸透した状態であるといえます。徳川政権が、全国を統治する「公儀」と呼ばれたものが、幕末において、天皇に任命された将軍の政府=「幕府」に過ぎない、と蔑称されたようなものです。
 その点、本書は、戦後すぐに構想されたものをまとめた著作だけあって、敗戦によって天皇の統治責任が強く問われる中、再び皇室に危機を及ぼしてはなるまいとする強い意志によって、「天皇の不親政」の伝統を強く打ち出し、権威と権力の分立体制という考えから復活されかねない「大政委任論」を強く批判したという興味深い作品となっています。

評価 ☆☆☆

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2016年4月12日 (火)

三上参次『江戸時代史(四)』

点検読書168

講談社学術文庫(1977年)刊。

これまでの記事はこちら。
江戸時代史(一)
江戸時代史(二)
江戸時代史(三)


日本史――徳川時代


柳沢吉保が権勢を振るった徳川五代将軍・綱吉の時代から、新井白石が活躍した六代将軍・家宣、七代将軍・家継の時代まで。


三部構成

1:綱吉時代後期(第十二章)。

2:家宣の文飾政治時代(第十三章)。

3:家継の時代(第十四章)。

コメント
 この時代を画するものとして、「赤穂義士」事件がありますが、本書においては、非常に冷静で、特別に賞賛するわけでもなければ、批判説に与するわけでもありません。
 浅野内匠頭は、大した人物ではないが、それが君であり、彼のために仇を討ったのだから、その当時においては立派な行為だったね、でも治安を乱したことには変わりないから、処刑すべきだけど、「忠義の士」としての恩典として自尽させれば、幕府の権威も安泰だ、という公弁法親王、荻生徂徠、柳沢吉保らの意見を「道理至極の説」と評しています。
 こうした処置に対する世上の反対論・賞讃論に対しては、「反対論は学者の穿鑿に陥り、他の大多数の人々はいわゆる常識に基づきてこれを義なりと賞讃し、もって天下後世の士気を振い、人心を鼓舞するを称えき」(58頁)としております。
 ま、きわめて「常識」的なのです。私などは、ひねくれ者なので、太宰春台らの反対論に与したいところですが、今だに「忠臣蔵」がドラマ化や映画化されるのを見ると、そうした「常識」が普通の感覚なのだろうと改めて思い知ります。
 戦前におけるテロの横行は、こうした目的はともあれ手段におけるテロ行為を賞賛する「常識」が世間一般にあったのではないか、とも思ったものですが、よくよく考えてみれば、つい最近まで「赤穂義士」をテーマにした作品がつくられても、暗殺事件がほとんどない現在を考えてみれば、あまり影響はないのかな、とも思います。文化の影響というのは、きっかけに過ぎず、それがあったからといって、大事件に結びつくわけはない。社会を揺るがす問題の場合は、経済的な苦境が一番なんでしょうな。

評価 ☆☆☆

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2016年3月29日 (火)

テツオ・ナジタ『明治維新の遺産』

点検読書158

講談社学術文庫(2013年)刊。
訳者は坂野潤治。
原著は、TETSUO NAJITA "JAPAN The Intellectual of Modern Japabese Politics", Chicago, 1974.
(日本語版 中公新書〔1979年〕刊)


日本思想史


近代日本は高度な合理性の単線的発展ではなく、徳川時代から戦後日本に至るまで、「官僚的合理主義」と「維新主義」という思想傾向の論争と知的・政治的緊張に満ちた過程であったことを叙述。


四部構成
1:「官僚的合理主義」と「維新主義」の用語説明。

2:徳川時代における二主義の相剋と幕末維新。

3:明治立憲制と昭和戦前期。

4:結論

コメント
 本書は、「官僚的合理主義」と「維新主義」という二つの思想傾向の対立と共存という視座で、近代日本への見通しを与えてくれる。
 ここでの「官僚的合理主義」とは、行政は如何に組織され運営されるべきか、如何にしたら行政は人間的になり社会の幸福に役に立つか、すなわち如何にしたら国民を保護し救済することができるか、という「経世済民」の思想として表現される。その代表者は、大久保利通に見られる統治という視点に立った政治指導者である。
 それに対する「維新主義」とは、反官僚主義的な、社会的存在の倫理的・精神的側面に重点をおいた理想主義を意味している。典型的な人物は、西郷隆盛である。
 徳川時代における「官僚的合理主義」は、徳川幕藩体制を支える山崎闇斎の崎門学派や荻生徂徠の徂来学派のような思想であったが、前者は規範の究極的根拠を歴史を超えた存在としての天皇に置き、後者は天皇を世俗的なヒエラルキーの終点に置いたものの抽象的原理とはしなかった。両者ともに現実の政治制度の規範化をすすめるという点で共通していたものの、上記のような相違があった。しかし、次世代の山県大弐になると、徂徠的な歴史の中の制度という観点から、毀損の制度が現状に合わなければ変更可能であるという視点を提示し、その一方で闇斎的な永遠なる天皇という観点から、現存の制度を相対的なものに過ぎなくなり、取り換え可能なものとなる。こうした思想の現実化が、明治維新の「維新主義」であったということになる。
 そして、先に挙げた大久保の官僚主義と西郷の理想主義の対立、大久保を引き継いだ伊藤博文らの立憲制イデオロギーを擁護する加藤弘之らに対する中江兆民・植木枝盛らの民権運動らの「維新主義」などに続いた。こうした傾向は、原敬の政党内閣主義とそれを理論的に擁護した美濃部達吉の「官僚駅合理主義」に対して、前者の暗殺、後者の学問的弾圧を通して「維新主義」による反撃を食らう。
 一見奇妙なようだが、「維新主義」とは、あくまで「官僚的合理主義」に対する「理想主義」であるため、過激になると暗殺も辞さないのであり、その内容も革新的にもなれば反動的にもなりえるのだる。つまりは、現実の政治のわかりにくさ、汚さに対する分かりやすさ、清潔さにつながる考え方であり、現在における左右両派の思想的「清潔」と分かりやすさ、「平和憲法があれば、軍隊はいらない」「日本は誇るべき正しい国」も「維新主義」の子孫たちである。
 このように考えると、この視座というのは、近代日本のみならず現在にまで通底する視野の広いものであるといえるだろう。

評価 ☆☆☆☆


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2016年3月20日 (日)

上山安敏『魔女とキリスト教』を読む

点検読書152

講談社学術文庫 1998年刊(原著 人文書院 1993年刊)。
副題は「ヨーロッパ学再考」。


西欧史――西欧思想史。


魔女崇拝は、古代オリエントの豊穣神信仰と使者を弔う亡霊信仰を祖型としていた。キリスト教およびその母胎となったユダヤ教は、いかにこの信仰と向き合ったのか。ユダヤ教から魔女像を引い継いだキリスト教は何故に苛烈な弾圧を魔女に加えたのか。この疑問を実証歴史学だけではなく、民族学・精神分析の成果を取り入れつつ解き明かしていく。


三部構成
1:魔女崇拝の起源とユダヤ・キリスト教徒の衝突。

2:魔女狩りの実態。

3:ヨーロッパ思想の中の魔女。

コメント
 本書を一読しての感想は、「これはヨーロッパで人権や良心の自由が発展するわけだわ」といったところです。
 そもそも魔女というのは、古代オリエントを発祥とする大地母神信仰を起源とし、ギリシアでのアルテミス信仰、ローマでのディアナ信仰などなどに対して、ユダヤ・キリスト教側が規定したものだそうです。こうした原始宗教は、供犠といったかたちで生け贄を要求しますし、性的なシンボルを聖なるものとして崇めたり、参拝の後の精進落としというわけで神殿の近くに売春宿があったり(日本の伊勢神宮にも内宮と外宮の間に遊郭があった)と性的に潔癖な彼らにとって邪教に思えたのでした。
 キリスト教は、ローマ帝国でめでたく国教になったわけですが、上記のアルテミス信仰のような原始宗教はローマの宗教的寛容の下で生き残り、逆にローマの北上とともにヨーロッパ各地に広がります。つまり、ローマを発信源として、キリスト教と大地母神信仰がヨーロッパに広がり、その衝突の一つのかたちが魔女狩りとなったことのようです。
 魔女狩りといえば、有名なのが「水による審問」である。これは、全村民監視の下、容疑者は両手両足を縛られて、三回水の中に放り込まれる。浮かんでくれば有罪、沈めば無罪である。悪魔の魂は軽いと考えられていたので魔女なら浮かぶ。しかし、沈んで無罪となっても溺れ死ぬことには変わりはない、というやつですね。
 これも本来はライン川沿岸に居住していたケルト人の風習で829年に異教として禁止されていたのが、15世紀から17世紀にかけて復活したのだそうです。魔女という異端への弾圧のために異教の方法がキリスト教の名の下に行われたのは、皮肉ですな。
 魔女狩りは、もともとは独身や寡婦など孤立して生きている女性、乳児死亡率の高い時代の産婆など民衆から見て異質な者、また恨みを買いやすい対象(逆恨みだが)が、その被害にあっていました。しかし、後々になると市長や裁判官、聖職者など土地の名望ある人物まで対象となり、さらには家族・知人同士が誣告や拷問による自白で魔女崇拝者とされて処刑されていきました。
 発端は、異質なものへの差別です。著者は、ユダヤ人迫害と魔女狩りが同時代に起き始めたことに注目し、キリスト教の信仰が最高潮に達した時に、こうした現象が起きたことを指摘しています。
 しかし、私は逆なのではないか、と思います。ユダヤ人迫害は、十字軍の失敗によってキリスト教の権威が危うくなった時期に起きました。十字軍自体が、異質なものへの排除の運動だったわけですが、その運動が内側へ向かったのが、ユダヤ人迫害です。それまで国際貿易の従事者として特権を持っていたユダヤ人に矛先が向いたのは、異質なものをつくりだして、もう一度キリスト教の体制をたてなおす必要があったのでしょう。それと同じように、宗教改革によって動揺したキリスト教が、敵を必要とした結果だったのでしょう。これは、カトリック側もプロテスタント側も変わらず、元来はカトリックがリードした魔女狩りも、三十年戦争で荒廃し、疑心暗鬼が生じた後には、プロテスタント側も同様に敵が必要となったということです。
 このように、他者からの誣告、自白の強要、内心の審査によって、殺し合いが起きれば、まず内心の自由=良心の自由、つまり表に出さなければ何を考えていても構わないという自由は人権として確保されなければなりません。また、刑事裁判において確実な証拠を原告(国家、検察)が提示できなければ無罪という推定無罪の原則が発達せざるを得ないでしょう。
 『ローマの歴史』を読んでも思ったのですが、西洋史というのは、とにかく人が人を平気で殺す歴史です。日本の歴史においても大量殺戮は、なかったわけではないが、これは比ではあるまい。彼らが、権利や法の支配を発達させ、また人権意識に敏感なのは、そうした歴史、人間への怖れが底にあるからなんでしょうな。

評価 ☆☆☆


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2016年3月13日 (日)

三上参次『江戸時代史(三)』(講談社学術文庫、1977年)

点検読書147

(一)と(二)はこちら

江戸時代史(一)
江戸時代史(二)


日本史――徳川時代


三代将軍徳川家光の寛永時代から五代将軍徳川綱吉の元禄時代まで。


四部構成

1:元禄時代の社会風俗(第七章)

2:四代将軍徳川家綱と寛文の治(第八章)

3:明諸侯と御家騒動(第九章)

4:五代将軍徳川綱吉と元禄の治(第十・十一章)

コメント
 この巻では、興味深かった箇所を抜き出してみよう。

「たばこと不良」
 まずは徳川時代初期の風俗について。徳川政権の樹立によって、世界にも稀な平和主義的国家が生まれたとしても、もともとは戦に明け暮れていた戦国時代の余燼冷めやらぬ時代である。そうした社会状況において、武勇をもって第一とする気分が横溢としていたが、その武勇が無軌道となると傾奇者や侠客といった暴れん坊が、武士のみならず、市井の人々にまで広がり始める。有名どころだと幡随院長兵衛などがそれにあたります。そして、著者はここで不思議な事を指摘している。

   「その起源につきては、奇妙にも煙草の流行と一種の関係を有せり」(14頁)

 つまり、不良の登場と煙草の流行には関係がある、というのです。何かこれって分からんでもないというか何というか。まぁ、昭和の生まれの私としては、やはり不良には煙草を吸っていてもらいたいんですね。不良と言ったら煙草、煙草と言ったら不良というぐらいに切っても切り離せないツールとして見られているわけですが、これは江戸時代に始まっていたんですね。著者によれば、煙草が日本に入ってきたのは慶長十年(1605年)前後で、数年ならずして、慶長十四、五、六年、元和元年、二年の各年に煙草禁煙の令が出されているとか。

 そのうちの慶長十四年の禁止令によれば、市中でキセルを腰にさしたり子分に持たせたりして徒党を組んで、ライバルグループに出会うと喧嘩をはじめて風俗を乱すから禁止する、という内容だとか。これって完全に昭和の不良ですね。近年、少年犯罪の減少が見られるように、不良グループというのが少なくなっているのではないかと思えます。これは基本的には少子化で子供の数が減ったことと進学率の上昇によって、子供への管理が行き届くようになったからのように思えますが、もう一方で煙草の害を学校で熱心に教育するようになって喫煙者が激減したことも影響しているのかもしれません。かつて喫煙者だった私は、大学生などと食事に行くと誰一人として喫煙者がいない、という場面に出くわして面食らったことがありましたが、そうしたものが人々をおとなしくさせているのかもしれません。そうすると禁煙運動とは、単に健康被害に関わることではなく、治安対策上なされているのかもしれません。

「武勇社会の女性」
 先にもあったように徳川時代初期は武勇が尊ばれていたわけですが、その影響は女性にまで及んでいたようです。『八十翁昔語』という書物に、元和・寛文の頃の話として、離婚していくばかりもなく、再婚した男がいた場合、先妻が後妻に対して決闘を申し込み、後妻の方も受け入れないことは卑怯だという風潮の下、受けて立つと、先妻は一族の女たちを20、30人、多い時は100人以上で押しかけて、台所を襲撃して家具を破壊して、頃合いを見計らってその家の侍中が仲裁に入って終るという「後妻打(うはなりうち)」という風習があったという。当時の婦人は、生涯に何回かこの騒動に加わるものだったともいう(22頁)。
 これもなかなか殺伐とした風習ですね。戦国時代というのは、やはり異常な時代だったのでしょうな。史料としては、残っていないだけで、女性兵士というのも案外多かったのかもしれませんな。こんな感じでは。

「由井正雪事件は浪人問題」
 由井正雪事件とは、徳川家光死去後の不安定な時期に人気軍学者の由井正雪が門人たちと江戸、駿河、上方で挙兵し倒幕を計ろうとした事件です。その原因として、さまざまなことが言われていますが、著者は浪人問題が本質だ、というのです。つまり、浪人の中には関ヶ原や大阪夏の陣、島原の乱などの戦における敗者の側にいて、しかも現在の大名家などは以前の自分たちの同僚などが座っており、彼らに仕官するなどゴメンだという姿勢がある一方で、飢寒に窮する現実があったわけで、それならいっちょ暴れてやるか、という気分があったわけです。つまり、これ以上、底辺に下がることがないなら、事が起こるのを望む気分が横溢していたのです。そこで、門人数千人という由井正雪がいたわけで、いってみれば由井は西南戦争における西郷隆盛のごとく、やぶれかぶれになった子分たちの身を引き受けてあげたということになります。

「朱子学は徳川政権の正統学説か」
 最近はどうかわかりませんが、かつての教科書には朱子学は徳川幕府の初期から正統の学問されていたと書かれていました。しかし、これは松平定信の時代の寛政異学の禁によって、朱子学が正統とされたことから遡って家康の朱子学への関心が「天下を鎮むる具に供したり」とされたのであって、家康自身の学問に対する態度はもっと自由であった、と本書では述べられています。つまり、昭和も終わりになって、やっと気づき始めた徳川時代の学問の潮流について三上参次はすでに指摘していたということです。また、彼は、その幕府擁護の学とされた朱子学から山崎闇斎学派の勤王説が現れていることの皮肉を暗に指摘しています(216頁)。

評価 ☆☆☆


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2016年3月12日 (土)

相良亨『武士道』(講談社学術文庫、2010年)

点検読書146

原著は、塙書房より1968年刊行。


日本思想史


武士道とは、「対峙的人倫観をふまえた独立の精神」である。日本人はこの武士道を自然なものとして受け入れているが、これを自覚的に克服し、近代的な市民社会的な横のつながりを獲得しなければならない。


五部構成

1:「ありのまま」
  失敗した時に言い訳などをせず、他者からの批判を逃げ隠れせずに受けるという自己を飾  らない態度。

2:「名と恥」
  外的強制に基づく善行は恥の堕落形態である。本来の「恥」意識は内面の自己に対する   意識であり、厳しい自己規律が求められる。

3:「死の覚悟」
  武士道における死を恐れぬ覚悟と士道における道の実現に対する死の覚悟。

4:「閑かな強み」
  死の覚悟=常在戦場の気分を周囲に悟らせることで、戦わずして勝ち、互いに死の覚悟   があるからこそ、礼儀を重んじ、相手を怒らせないようにする。

5:「卓爾とした独立」
  武士らしい武士とは、他に引けをおらない自己を持つこと。そして、その独立心は何を守る  ためのものか。

コメント
 本書は、現在においても慣用語として使われる「彼は「侍」だね」とか「古武士の風格」とかのその「侍」・「武士」とは何かを解明する試みである。

 ここで描かれる武士の姿はこんな感じである。

 その人は、言い訳をしない、厳しい自己規律で日々まじめに過ごし、人様に迷惑をかけない、また、礼儀正しく、相手を怒らせるようなこともしないし、決して怒らない上に誰も彼を怒らそうなどとは思わない孤高の人である。

 言い訳をしないとは、人から非難される前に自分で自分を悪く言って予防線を張るようなみっともないことをしない、ということである。その人の行動と結果だけがすべてで真の理由や周囲の影響や偶然性に責を求めない。しかし、一方でこうした姿勢は、真意を語らないなど、周囲とのコミュニケーションを拒絶する態度ともなりかねない。そのため、周りの人間は分かりにくいし、忠告も聞き入れてくれないので、傲慢ともわがままともとられかねない。その点で、「ありのままで~」とか「そっとしておいて~」とか歌って、真意を語らず引きこもり、妹の意見を取り入れようとしないエルザはサムライであると言えよう。

 恥とは何か。ルース・ベネディクト『菊と刀』によって、西洋は「罪の文化」、日本は「恥の文化」と規定され、罪は自身の中の神との絶え間ない対話によって自己規律の意識により道徳的実践を行なうとされ、恥は周囲にみっともない姿を見せられないという外部的強制に基づく道徳的行動とされる。しかし、本来の恥とは、理想的な自己や理想的な人物(生きているか、死んでいるかは問わない)との絶え間ない自己内対話においてなされるもので、世間様の目や家名に泥を塗るといった外部の目を気にして、おとなしくしているというのは堕落形態である。恥とは、もっと厳しいものである。

 この恥の凄みは、「死の覚悟」とも「閑かな強み」にもつながる。武士は、恥を受ければ、いつでも死ぬ覚悟がある。この死ぬ覚悟とは相手を殺して自分も死ぬという意味でもある。つまりは、もし相手に無礼があれば、いつでも殺してやる、という凄みがあるのである。しかし、武士はつまらないことで死んではならない。だから、通常はできるだけ争いごとを避ける。そのためにはできるだけ礼儀正しくし、相手に不快感を与えてはならない。相手が怖いからではない。相手を殺して自分が死ななければならないことを避けるためである。主君や身分が上のものに対する慇懃な態度も同じである。相手が無礼討ちをしようとするならば、こちらが殺さなければならない。主君の側も相手のへりくだった態度に、自分は値踏みされていると意識しなければならない。そのしずかな佇まいの中に相手に対して、無礼を働かせぬだけの気迫が必要なのである。「こいつを怒らせたら、殺される」という。武士道の世界は、まさに油断ならない、息のつけない人間関係であると言えよう。

 それが独立精神である。武士は、常に相手を値踏みする。こいつを自分は殺せるだろうか、それともこいつは自分を殺せるだろうか。日本社会において、優劣を争う競争意識が浸透しやすいのは武士道の余燼である。こいつの学歴は、会社は、収入は、業績は、モテるか、酒の量は、などなどである。そのため、横のつながりが持ちにくい日本社会は、共同体での関係あ濃密であるという。しかし、その共同体を離れれば、関係はなくなるし、その共同体内でも優劣の競争はある。同じ境遇での連帯がない。どのような些細な事でも優劣を付けたがる「対峙的人倫観をふまえた独立の精神」があるからである。我々は、そこに自覚的である必要がある、というのが著者のメーッセージである。

 これはなるほど、と思いました。「武士道」とは何かは、なかなかわかりにくい。それを西洋的知識を踏まえて論じたのが、新渡戸稲造『武士道』であったが、それはあくまで西洋近代の洗礼を受けた後の武士の道徳であって、本来の武士ではない。しかし、我々の中に、あの人は武士だ、と言われると、何となく明確な定義がないにもかかわらず納得してしまうところがあるのだ。それは、武士道が血肉となって我々の無意識の中に入り込んでいることになる。

 この武士道には、人間関係を円滑にするために有効なものも確かにあるのである。相手を怒らせないようにする慇懃な態度というのは、自分が相手を殺さないためであるという理由付けは自尊心を傷つけずに行なうことが可能で、プライドの高い人ほど受け入れやすいだろう。しかし、それには相手と自分を常に競争関係に晒すという負の面も受け入れざるをえない。それが日本社会に不十分な村社会的な共同体的連帯感ではなく、横の連帯を阻んでいるという自覚は必要である。では、その横の連帯を生み出すものは何か。というと、それは村社会的共同体を超える宗教的な何かに依存しなければならないのか。それはそれで面倒だな、とも思ってしまうのである。それはともかくとして、『武士道』や日本人の意識を考えるにあたって、本書はおすすめである。

評価 ☆☆☆☆


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2016年3月 3日 (木)

三上参次『江戸時代史(二)』(講談社学術文庫、1977年)

点検読書140


日本史――徳川時代


徳川家康による政権樹立から島原の乱まで。


四部構成
1:徳川政権初期の法制度

2:元和(大名淘汰)・寛永(行政組織、武芸、土木事業など)の治

3:外交関係

4:島原の乱

コメント
 第二巻は、島原の乱までの初期の徳川政権の統治について。この巻で興味をひかれたのは、外交関係における新井白石についての評価について。白石といえば、徳川家宣の時代の側近政治の人物ですので、後の巻でも出てくるのでしょうが、著者は朝鮮との外交関係復交についてのコメントで、白石に少しふれております。

 つまりは「日本国王」についてです。

 「日本国王」といえば、足利義満が明との貿易を行う際に、「日本国王」と名乗っていたために、天皇をないがしろにしたと批判されるわけですが、買いかぶり過ぎではないか、との指摘もあるようです。それよりも中国の王朝国家に屈するような「国王」号を用いたことに問題があるようです。

 で、徳川時代においては、一般に外交関係における徳川将軍の呼称は「大君」としておりました。しかし、六代将軍家宣の時に、新井白石が「大君」の号を改めて「国王」としたということがありました。白石にいわせると、鎌倉時代以来、外国人は天子を「日本天皇」といい、武家を「日本国王」と読んでいたから、ということらしいのです。また、字義に関して言えば、「大君」の号は、『易経』にみることができるものの、普通に理解すると「大君」は天子を意味する言葉で、徳川将軍が「日本国大君」と称するのは、「日本天子」と僭称することになりはしないか。これでは、鎌倉時代以来の先例にも違うし、字義においても誤解を招く。さらにいえば、朝鮮王朝において、「大君」は庶孫つまり嫡流ではない王族に与える呼称であって、天子より下位の爵号で、さらにいえば朝鮮王朝から官職を受けるような誤解をも生じる。その上、天皇は天の皇、国王は国の王で、天皇と国王とでは区別が明瞭ではないか。だから、徳川将軍の呼称としては、「日本国王」がふさわしい、ということです。

 新井白石としては、あくまで天皇の権威を保持しつつ、将軍のあるべき姿を名として表すにふさわしいのが「日本国王」であって、日本における階統秩序を正す目的こそあれ、天皇を蔑ろにする意図などはなかったわけです。「日本国王」という言葉に流されてはならないというわけです。それにもかかわらず、白石は、将軍の天皇化を目指す陰謀家という批判が尊王家などから出ていたわけです。そもそも白石は、閑院宮家創設によって、皇室の危機を救っています。現に、現在の皇室は閑院宮家出身で、白石がいなければ、徳川時代において、皇統の危機があったわけです。それにもかかわらず、言葉の響きによって、過去の人を判断してしまったわけですね。

 ここに歴史を解釈する際の難しさがあります。やはり問題は「言葉」なのです。現在、我々が理解している言葉とその人が使っている言葉の意味が果たして同じなのか。違うとしたら、どのような意味で、どのような根拠で用いているか。それが問題となります。そこに問題があることを理解しなければ、それは批判や議論ではなく、藁人形を叩いて、自己主張するだけになってしまいます。白石の「日本国王」問題というのは、そうしたセンスを磨く、一つの例題となるものなのかもしれません。

 ちなみに三上参次ははっきりと「しかれども白石が皇室に対し不敬の念ありてかかる号を用いしにあらざることは、これを断言すを得べし」と述べております(148頁)。

評価 ☆☆


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2016年3月 2日 (水)

三上参次『江戸時代史(一)』(講談社学術文庫、1977年)

点検読書139

原著は、冨山房より上巻が1943年7月、下巻が1944年10月に刊行。


日本史――徳川時代


戦前期における歴史学の泰斗・三上参次による最も早い時期の総合的な江戸時代の通史。本巻では徳川氏の出自から将軍宣下、豊臣氏滅亡までを描く。


二部構成
1:徳川氏の出自から家康の自立、信長時代、秀吉時代、関ヶ原まで。

2:将軍宣下や土木工事・参勤交代など初期の政策から大坂夏の陣まで。

コメント

 田中義成の『豊臣時代史』が読み終わったところで、過去に戻っても良いのだが、せっかくだから、江戸時代の通史を読んでしまおうと思って、本書を手に取る。

 ウム、田中義成の書き手としての巧さに比べると、三上はいかにも学者といった風情で、面白くはない上に、引用史料の出典も田中ほど分かりやすく書いていないので、これは引用か本文か、と一瞬迷う部分がある。出版は、田中の方が先なのですが。

 しかし、戦前期、しかも戦時中に出版されたものという物珍しさもあるし、その時期の徳川時代のまとめとしても興味深い。本巻は、徳川氏の出自から大坂夏の陣までなのだが、興味深いのは、徳川氏の出自。これがとてつもなく怪しい。

 とりあえずは源義家を始祖とし、新田源氏の流れをくむ徳川氏の出という設定なのだが、もともとの領地を失い、追手を逃れるために僧侶になって、諸国を旅するうちに三河の松平郷を訪れ、現地の郷士の娘を娶って松平氏を名乗る(初代親氏)。その後、八代にわたって勢力を増して、家康の代で徳川に復姓し将軍宣下を受けたという流れである。

 これってよくある貴種流離譚ですよね。日本における貴種の最たるものである皇室の物語もこんな感じですね。つまり、九州の一部族の長のイワレヒコ(神武天皇)が、大和地方に流れていって、現地の豪族の娘を娶って根づいていって、10代目のミマキイリヒコ(崇神天皇)において近畿・中国・東海・北陸地方を制圧して大勢力を築いた、という。徳川氏における源義家が皇室の天照大御神で、新田氏というのがニニギノミコトの子孫というのにあたるでしょうか。

 よくハツクニシラススメラミコトという称号が、神武天皇と崇神天皇の二人にあるのはおかしいとして、初代の方の神武天皇は創作で、崇神天皇が初代とする、という見解が持たれている。細かい考証は別として崇神天皇が初代というのは、おおむね受け入れられているように思え、岩波新書の古代史シリーズの吉村武彦『ヤマト王権』もそのような見解だったように思う。岩波の名で出している本ですら、崇神天皇を認めているのである。しかし、一方で崇神天皇はどっから出てきた人なのよ。というと答えはない。その地の有力豪族であったとしか推測しようがないのであろう。

 これを徳川家康=崇神天皇、松平親氏=神武天皇とすれば、何となく納得がいくのではないか。どちらもきわめて怪しい。単なる貴種流離譚である。しかし、神武天皇を歴史ではなく、参考的な伝承として、そういうものがある、と徳川家康を紹介する際の伝説同様の扱いとして考えれば、良いのではないだろうか。

 もっともあくまで参考である。歴史ではない。私は、『古事記』『日本書紀」の記述を、7、8世紀の人々が都合の良いように創作したという見解を聞くたびに、しかし、それって他の豪族たちが自分たちの伝承と違うとどこかで反証してしまうのではないか、とか思っていたのです。しかし、16、17世紀の徳川家の出自ですら、このようによく分からずに、伝説をつくって、特に他の大名家や学者から反証が出ないとすると、8世紀じゃさらに史料がなくて無理だはな、と思わざるをえない。

 あ、でも私は安彦良和『神武』が好きなので、九州からの入婿説は魅力的だな、と思っております。古代史は、史料が出てこない分、どんなものも解釈にすぎないだろうし、楽しんだ方がいいかな、と思います。家康の出自の方も、村岡素一郎の魅力的な解釈もありますしね(参照)。

評価 ☆☆☆


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2016年2月13日 (土)

田中義成『豊臣時代史』(講談社学術文庫、1980年)

点検読書123

原著は『豊臣時代史』(1925年、明治書院)。


日本史――中世史


『織田時代史』の続編。豊臣秀吉の出自・出身の考察から、明智光秀の誅伐、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐、奥州処分、そして朝鮮出兵に向けた交渉までを描く。著者は、秀吉を織田信長の皇室中心の政権運営、統一事業、対朝鮮・明国政策を継承者として描いている。


四部構成
1:秀吉の出自から明智誅伐、清州会議、賤ヶ岳の戦い、大坂城建築、叙任など豊臣政権樹立まで(第一~九章)。

2:小牧・長久手の戦い、佐々成政征伐、四国征伐、九州征伐、大仏建立、検地、宗教政策まで(第十~十八章)。

3:小田原征伐、徳川家康の関東入国、奥州処分まで(第十九~二十二章)。

4:朝鮮出兵まえまでの交渉(第二十三章)。

コメント
 大河ドラマの『真田丸』が面白すぎて、予習がてらに『織田時代史』に続いて、読んでしまいました。『真田丸』との絡みでみていくと、二週前の放送で織田方に奪われた上野の沼田城をめぐって、奪還したい真田昌幸、北条氏政との和睦条件として沼田城を含む西上野を北条に割譲したい徳川家康との対立の中で、昌幸が秀吉に頼って沼田城を安堵されるというエピソード(91~92頁)。

 そして、この沼田城問題が、小田原征伐の直接のきっかけとなったとは、知りませんでした。安易に軍を起こしたくない秀吉は、臣従の意味での北条氏政の上洛を求めるが、秀吉を軽蔑している氏政は行きたくない。そこで条件として出したのが、家康との約束であった沼田城の引き渡し。秀吉は、それを受け入れて、昌幸を説得し、昌幸は北条に沼田城を引き渡すこととした。その時、昌幸は、条件として沼田城近郷の名胡桃の地は真田家累代の墓地があるから、そこだけを除いて引き渡した。しかし、北条は名胡桃も奪うため、名胡桃城をあずった鈴木主水に昌幸を騙った偽書で城外に引き出し、その間に城を奪ってしまう。昌幸は、大坂に訴えると秀吉は激怒し、ついに北条攻めを決断した、というものだったそうだ。

 けっこう重要なポイントで真田昌幸って出てくるんですな。しかし、この辺りの駆け引きを草刈昌幸と北条政伸がどう演じてくれるか。大河の中盤が楽しみです。ホントこの大河って、草刈正雄が主役で草刈正雄再評価のドラマなのかもしれんな。

 それはともかく、本書によれば、秀吉というのは信長政策の後継者という特徴があるらしい。将軍ではなく関白として政権を樹立した点や統一事業、宗教における政教分離政策などにそれらが見られるのであるが、著者は外交戦略面での継承も指摘している。

 つまり、信長の対外戦略の特徴は、まず平和的な交渉によって、相手の敵対行為の停止または臣従を求める。これでうまく行けば、厚遇する。しかし、抵抗の意志を見せたり、裏切りなど誠意のない対応をした場合は、容赦なく攻め滅ぼす。これである。たしかに信長は、苛烈な処分ばかりが目にいってしまうが、延暦寺に対しても一向一揆に対しても再三利敵行為をやめるよう勧告したり、降伏勧告を行なっているのである。それにもかかわらず、抵抗をつづけ、さらに子飼いの臣下や親族を戦死させるなどした報復として、焼き討ちや虐殺を行なっている。

 これは秀吉も同じである。この点が強く出ているのが、対北条戦である。秀吉は、北条に対して、かなり時間をかけて交渉し、相手の不誠意な対応を引き出してから、軍を起こしている。あくまでウチに入る気があるかを確認し、ウチに入れば厚遇し、ソトであると確認されれば、苛烈な処分も辞さない、というのが秀吉の戦略である。まさに心理学的に言えば、「拡大された自己」である。信長も秀吉も日本人に人気のある人物であるが、まさにこのウチにいるものは大事、ソトの者は知らないという日本人の共同体意識そのものを地で行ったのがこの二人だといえよう。

 著者は、このような外交戦略から朝鮮出兵問題も同様のものと類推する。
「朝鮮征伐に就きて、世伝に従えば、秀吉始めより明及び朝鮮を帰服せしめんとする宿志を抱けるかの如くいえど、そは其結果を見て直ちに其原因を想像せるに過ぎず。凡そ秀吉が大征伐を企つる時は、必ず先ず平和手段を以て、出来得る限り之を説諭して降服を勧め、而して其対手の之を聴かずして交渉の余地なきに至って、始めて之を征するにあり。九州征伐の島津氏に於ける、関東征伐の北条氏に於けるが如き皆是なり。殊に北条氏に対しては、再三再四平和的交渉を重ねたるものにして、秀吉が性急なる、よくも忍耐せしと思わるる程気長に交渉したるにも拘らず、北条氏は之に対して誠意なく、最早寸毫の余地なきに至りて、始めて征伐に従えり。こは兵力を損せずして降服せしめんとするの計にして、蓋し此方法は、確に信長に学びし所なり。
 信長の浅井・朝倉両氏に対し、又叡山・高野山に対する態度、何れも此の如し。秀吉は之を踏襲して、内地に於ける北条氏に対してすら、平和的交渉態度に出でしものなれば、況んや海外に対しては、一層の慎重なる態度を採りし事は論を俟たず。且つ彼が海内を征するに当たりても、常に天子の命を奉じて諭し、しかも敵之を納れざるに及んで、止むを得ず之を征するにあり。即ち戦の名義を正しくす。況んや外国に対しては、一層に戦の意義を正して、単に盗賊的侵略をなさんとせるものには断じてあらざるなり。」(256~257頁)

 著者は以上のように類推し、天正十五年(1587年)五月の宗義調に命じた対朝鮮交渉においては、朝鮮に入朝を求めると同時に、明への紹介を依頼し、室町時代同様の勘合貿易の復活を求めていることに着目している。「即ち今日の語を以てすれば、国際条約を締結して、通商貿易を開かんとする事にして、其要求は正々堂々たるものというべし」(265頁)。

 この解釈は、大変興味深いが、著者はこの前交渉で筆を止めてしまっている。もし意図的であったとすると、この平和的な通商条約という解釈に無理が来たために、止めてしまったと考えられる。もっとも本書は、著者の講義ノートを元に著者の死後刊行されたものであり、意図したことではなく、著者の寿命が尽きただけかもしれないが、1910年代という大正デモクラシーの空気を吸った解釈かな、とも思えてしまう。

評価 ☆☆☆☆


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