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ちくま学芸文庫

2016年4月29日 (金)

橋川文三編著『日本の百年4 明治の栄光』

点検読書182

ちくま学芸文庫(2007年)刊。


日本史


大国ロシアと戦い、苦闘の末に勝利した明治日本であったが、戦後、国家としての目標を失い、急速にアノミー化する。奇怪な事件が続出するとともに、国家はその立て直しを計ろうとする。そうした中に、無政府共産の台頭は、明治天皇に恐怖を与え、社会主義弾圧の言質を山縣有朋に与え、大逆事件へと発展する。そして、日露戦争後、健康を害し始めた天皇はついに崩御し、明治は終演を迎える。


三部構成

1:日露戦争の戦前・陸戦・海戦(第一部)

2:戦後社会の諸相(第二部)

3:大逆事件と明治の終焉(第三部)

コメント
 本書のタイトルが「明治の栄光」であるように、対象となる時期は日露戦争です。明治の日本と言うのは、幕末期のスローガンである「尊王攘夷」、つまり、天皇中心の統一国家を建設し、不平等条約を改正すること=「攘夷」を目的としてきました。その総決算が、日露戦争ということになります。
 天皇中心の国家というのは、制度的には1871年7月14日の廃藩置県によってなされましたが、国民の意識として確立されたのが日清戦争でした。そして、日清戦争と前後して条約改正の端緒がつきます(1894年)。
 明治国家は、戦争によって、初期の目的を達成しつつあったのです。これは、明治国家自体が好戦的であったというよりも、当時の西欧諸国の考え方が戦争をうまく遂行できない国は一人前とみなされなかったことにありました。そして、日露戦争は、単に近代化しかけていたアジア人同士の戦いではなく、当時、イギリスと世界を二分した大国ロシアと戦い、勝利したことで申し分のない完成を成し遂げます。その重要さゆえに、本書において日露戦争に割かれたページは全体の半分にも及びます。
 一般に、昭和期の対米戦争につき、「勝てるはずのない愚かな戦争」、「当事者すべてが勝てると思っていなかった戦争」と言われます。しかし、日本の戦争は、日清戦争はもちろん、この日露戦争であっても、誰も勝てると思っていなかったことが本書に述べられています(90頁)。

「それならば言うが、こんどの戦いについては、一人として成功すると思うものはない。陸軍でも海軍でも大蔵でも、こんどの戦いに日本が確実に勝つという見込みを立てているものは一人としてありはしない。この戦いをきめる前に段々陸海軍の当局者に聞いてみても、成功の見込みはないと言う。しかしながら打ち捨てておけば露国はどんどん満州を占領し、朝鮮を侵略し、ついにはわが国家を脅迫するまでに暴威を振るうであろう。ことここにいたれば、国を賭しても戦うの一途あるのみ。成功不成功などは眼中にない。」(金子堅太郎『日露戦役秘録』1929年)

 これは、伊藤博文の言葉です。日露戦争も、結果を知っている我々からすると成功した戦争でしたが、曲がり間違えば、愚かな戦争として、後世から指弾されるようなものでした。しかし、この戦争は、上記の伊藤の発言を聞いた金子堅太郎などが伊藤の説得により米国に働きかけて、講和の媒介を依頼するなど、孤立化を避ける、という意識が濃厚にあったのでした。つまり、戦争は、軍事作戦のみではなく、敵国以外との国際協調をなんとか維持する努力、それが成否を分けたことになります。
 その点で、現在の我々の「あの戦争」に対する反省というのは少々軍事的な偏りがあるのではないか。そんな気もするのです。

評価 ☆☆☆

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2016年3月26日 (土)

松本三之介編著『日本の百年3 強国をめざして』を読む

点検読書156

ちくま学芸文庫(2007年)刊。
原著は『日本の百年9 強国をめざして』(筑摩書房、1963年9月12日)。


日本史――明治時代


1889年、大日本帝国憲法が発布され、東洋で最初の立憲国となった日本であったが、初期議会における藩閥政府と民党との対立によって混迷を深めていた。そこで勃発したのが、日清戦争であり、この戦争を契機に、議会の政府への協力、日本の植民地帝国への発展、諸外国からの認知と大きな変化を迎える。そして、戦後には産業革命の進展ともに噴き出す貧困の問題、ジャーナリズムの大衆化、青年たちの意識の変化が見られようとしていた。


三部構成
1:大日本帝国憲法発布から日清戦争まで(序章・第一部)。
初期議会の実態(第一部第一章)、明治初年の文明開化・欧化から国粋へと転換していく世相(第一部第二章)、国際社会における「弱小国」日本(第一部第三章)。

2:日清戦争(第二部)。
開戦に至るまでの過程と清国への畏怖(第一章)、講和に至るまでの戦闘記録と世相(第二章)、対韓国問題・対台湾経営と東南アジアへの視線(第三章)。

3:産業革命の進展(第三部)。
資本主義的発展に伴う都市化・商業主義化の浸透(第一章)、明治文化の展開(第二章)、貧困・環境等の社会問題の発生と個人の自覚に伴う精神的煩悶(第三章)。

コメント
 この巻を読んで改めて思うことは、時代の転換点としての日清戦争の大きさです。
 前回の『わき立つ民論』で述べましたように、藩閥政府というものは国内における正統性というものを完全には掌握できていませんでした。それがために、西南戦争に至るまでの士族の反乱や民権運動における抵抗というものが熾烈であったことの原因でもありました。
 そうした傾向は、初期議会にまで及んで、中江兆民が名付けた「民党」と呼ばれる政党は、単に議会内の野党というよりも、文字通りの「反政府党」で、政府を立ち往生させて倒閣する、というのが目的でした。それは、植木枝盛が、政府が握る「政権」と議会が代表する「民権」は別のものとして議院内閣制を否定していた態度に通底します。つまり、議会というものはあくまで政府に抵抗する場であって、政府に協力したり、その中に入り込んだり、掌握するものではないという認識でした。これは、現行の藩閥政府自体の正統性を認めていないことが大きな要因となっていたのではないかと思われます。
 それが、日清戦争を経ることで変化します。まず、戦争を遂行するために必要な予算はほとんど抵抗もなしに通してしまいます。また、こうした協力は戦後までつづき、民党側の方で、政府の中に入り込んで、多額の賠償金で生じた利権を獲得しようとする動きが出始めます。これが、不十分ながらも政党内閣が実現した要因になりますし、政党の藩閥党化であり、かつ藩閥政府の政党化でもある立憲政友会の成立にまでつながります。これは、明治政府というよりも、明治国家の正統性が増したことによる変化といえます。つまり、藩閥政府を倒すのではなく、呑み込もうとする姿勢です。明治国家を総体として否定するのではなく、その中に入り込もうというように意識が変化したといえます。
 このことは、天皇の権威の上昇にもつながりました。明治天皇の広島大本営での精励ぶりが報道されることで、日清戦争は天皇親征の様相を呈し、それで勝利したのですから、単に宣伝による正統性ではなく。事実として、また多額の賠償金という実益によって、天皇の権威が上昇して、天皇中心の国家としての明治国家は完成した、といえます。
 また、国際的なプレゼンスも大きく変化しました。日清戦争まで日本は、欧米諸国の人々にとって、まったく存在を知られていない国でした。日清戦争の報に接した欧米の人々の中には、清国内の日本という省が反乱を起こした、と考えた人もいたそうです。また、知っていたとしても明らかな小国である日本が、大国の清に勝てるなどと思う人はいなかったと言います。それが勝利した。これによって、日本は世界にデビューしたといえます。ポール・ケネディの『大国の興亡』によれば、当時の欧米諸国の考え方では、国家というもののランクをうまく戦争を遂行できるかどうか、を基準に考えていたといいます。そのため、日本が、どれだけいじましく近代的な法制度を導入しても、鹿鳴館に見られるように西欧化しても、一人前の国家として見ることはなかったのでした。それが、この戦争の勝利によって、評価が一変した、ということです。
 さらに、この勝利は外から見た日本というだけではなく、日本国内からの国際社会を見る目が変わったともいえます。具体的には、対韓国政策ですが、日清戦争までの日本政府の考え方では、壬午軍乱や甲申事変で清国の影響力・武力に圧倒され、もはや独自の関与は困難だとされるようになっていました。山縣有朋が、日本独自で朝鮮半島を守ることができないならば、朝鮮を永世中立国化して、他国の影響力を排除する考えを持っていたことはよく知られています。福澤諭吉の「脱亜論」も、もう朝鮮に関わる(侵出する)ことは諦めようという負け惜しみのようなものでした。また、日清戦争の開戦直前まで、日本が求めていたのが日清両国による朝鮮改造案であったことも、慎重にことを進めていたことが分かります。
 それが勝利したことで、積極策に出ることを可能にしました。井上馨公使の改革は、国父大院君、外戚の閔氏を排除して法治主義的な官制改革をして朝鮮を日本独自で改造するというものでした。しかし、三国干渉によって、ロシアの影響力が増すと、閔氏が復活し、それを憎悪した三浦梧楼公使による閔妃暗殺事件が日本の朝鮮改造をさらに頓挫させます。しかし、こうした暗殺事件という強硬策を一公使が起こしてしまうぐらいに、海外への目というものが変わってきたことを物語っているように思います。
 ことほど左様に、日清戦争というものは、近代日本におけるエポックメイキングな事件でした。本書は、そうした時代相を、政府、議会、官僚、軍人、兵士、民衆、子供などそれぞれの目を通して映し出してくれています。

評価 ☆☆☆☆


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2016年3月22日 (火)

松本三之介編著『日本の百年2 わき立つ民論』を読む

点検読書154

ちくま学芸文庫(2007年7月10日)刊(原著『日本の百年9 わき立つ民論』筑摩書房、1963年9月12日刊)。


日本史――明治時代


明治政府が近代的国家建設のための憲法制定をはじめとする国家制度の建設・整備に主導権を握る一方、西南戦争後にわき立ち始めた自由民権運動が政府を牽制し、国会の開設を督促し促進させた時代。本書は、その民権運動を基調としつつ、膨大な同時代史料や回想録などにより時代の諸相を描き出す。


三部構成
1:自由民権運動の絶頂期(序章、第一部)
西南戦争時の立志社蜂起計画の挫折(序章)、高揚期を迎える民権運動の背景としての不安定な社会状況(第一部第一章)、高知を起点とした立志社型士族民権から地方型豪農民権と横の空間と縦の階層への広がりの過程(第二章)、板垣退助遭難事件の「自由は死せず」に象徴される「自由」をめぐる象徴と憧れの社会相(第三章)。

2:政府の近代化政策が地方の社会をどう変えたか(第二部)
1878年以降の地方三新法時代の地方自治と松方デフレの影響(第一章)、国民皆兵政策の影響と士族対策としての北海道開発(第二章)、自由党地方事件(第三章)。

3:明治10年代の政府の諸施策と世相(第三部)
鹿鳴館に代表される欧化政策(第一章)、民権型青年から書生型青年への青年像の転換と帝国大学の創設(第二章)、政府主導の立憲制創出過程と民権運動の抵抗と挫折(第三章)。

コメント
 西南戦争によって、軍事的な存在感を示したものの、政府の正統性というものを完全に勝ち得ていない時代。例えば、天皇の権威は、維新革命を成した士族層には絶大であっても、『明六雑誌』第二十八号所載の阪谷素の論説に「吾妻辺ノ者ハ天公トカ禁公トカ申ス馬鹿癖」があり、また明治20年前後に至っても関東では将軍家のほうが天皇よりも偉いと考えていたそうです(203頁)。維新政府関係者以外の人や庶民層にあっては仕方がない面もある。しかし、政府内の元勲の中にすら、次のようなエピソードが残っている(159頁)。

「東洋自由新聞をやっていた時代のことだ。大阪の演説会で、西園寺は天皇の写真をひらひらと頭上にかかげて、聴衆に示し、「この偶像何するものぞ」と、床にたたきつけ土足でふみにじってみせたというのだから、当時の風潮はおもい知るべしであろう。安達謙蔵は、そのときその場にいて、西園寺の言動を目撃したのだそうである。」(風見章「天衣無縫の群像」、『中央公論』1959年9月)

 この「西園寺」とは、西園寺公望のことで、周知の通り、後の首相で最後の元老でした。1881年に中江兆民らと発行した『東洋自由新聞』の社長となった時代のエピソードで、この風見の談話自体が第二次大戦後のものであり、また安達謙蔵からの又聞きであるから、どこまで本当かわからないけれど、天皇の権威が後来よりも高くはなかった、ということは明らかでしょう。
 民権運動というのは、そうした時代に起こったのでした。ですから、やる方もやられる方も本気だということになります。福島を舞台に著名な鬼県令三島通庸の自由民権派への弾圧は、苛烈を極めました。福島自由党が国家転覆の陰謀を計画しているという名目で大量逮捕された福島事件が有名です。
 美男で雄弁家の花香恭次郎(1856~1890)によれば、「警部ノ問ニ答エザルニオイテハ熟考ノ時間ヲ与ウルト称シ、アルイハ雪中ニ立タシメアルイハ食事ヲ断ツ等ノ呵責ニアウコト前後六七回…」であったし、加藤宗七は「訊問ノ際三尺程ナル棒ニテ散々ニ打撲セラレ、一時タメニ自在ニ起居スル事モ得ズ」だったそうです。また、河野広躰は「麻縄ヲモッテシタタカニ手ヲ打タレ」、山口千代作も「同様打タレタル上ニ五昼夜マデモ飯食ヲ給セラレザリシ」。紺野谷五郎は虚弱であったため、二昼夜に及ぶ風雪の中の屋外での放置や打撲のため、移送中に死亡しました(292~293頁)。
 しかもこれらは民権運動の中に入り込んでいたスパイの報告に基づいており、結局は多くの者が無罪放免となった事件でした。この時、福島自由党のリーダー河野広中を逮捕した警部が次のように語ったそうです。

「あの時はじつに弱った。テッキリ陰謀をたくらんでると見込みをつけて捕縛したが、さて証拠らしい証拠は何もない。警察力で少しでも関係ありそうな奴は数珠つなぎにしばり上げて軒並み家宅捜索したが、証拠になりそうなものは何もない。雪のドシドシ降るなかを警察の庭の松の木へしばりつけ、ビシビシ引っぱたいて陰謀の口を開かせようとしたが、血が流れるまで引っぱたいても何んにも言わない。じつに弱った。まったく見込み違いだったのだが、見込み違いで放免しては引っ込みがつかない。官憲の権威にも関する。…国家のためと信じても、罪のないものを罪におとすんだから多少気の毒にも思えば自分でも良心にとがめて、この罪状と証拠とをつくり上げたのが一番骨が折れた。」(内田魯庵「自由民権の憶出」、『新旧時代』1926年8月)。

 これも国家の権威が弱いからこそ、失敗は政府のコケンに関わるとして証拠をでっち上げる必要に迫られて拷問を行なったともいえます。もっとも、現在の日本の裁判の有罪率の高さを考えるとあまり変わってないんじゃないか、と疑ってもしまいますが。

 また、一方の民権派の方も本気です。スパイと疑われた者には容赦しなかった。秩父事件の際に、政府のスパイと疑われた照山峻三は、秩父の自由党員村上泰治に射殺された上に埋められたのであるが、「後に発見された照山の死体は、「ソノ口ヲ割キ、ソノ鼻ヲ剥キ、ソノ面ヲ引離ス、ソノ傷ハオヨソ大小有余個所ナリ、カツソノナリ人タルカヲ知ラシメザルタメ面部ヘ塗ルニ泥土ヲモッテス」とあり、その手口は残忍をきわめた」(江袋文男『秩父騒動』)そうです。『自由党史』においては、酒の席での殴り合いの末、村山が照山を射殺したとありますから、これらの傷は死後のことであるらしいのですが、はっきりしたことはわかりません。いずれにしても反政府活動の本気さを伺わせますし、戦後における左翼運動の内ゲバを思い出させます(村山は後に捕らえられ、拷問のため血を吐いて獄死)。

 明治国家は、正統的な権威というものがいまだ確立できない不安定な状態の中で国家建設を行なっていきました。それが、こうした陰惨な事件を裏面に持たざるを得なかった理由の一つでした。それは、一つの国家の確立の産みの苦しみとの言えるのですが、この権威の確立は、やはり日清戦争という血を見ないとできなかったというところに、草創期の国家建設の困難さがあります。一度できた国家に安住している身としては、こういう時代はもう勘弁という感じは致します。

評価 ☆☆☆☆


 


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2016年2月10日 (水)

マーティン・コーエン『哲学101問』(ちくま学芸文庫、2008年)

点検読書122

訳者は、矢橋明郎。


哲学


論理学や倫理、時間、宗教の問題など、哲学者たちが考えてきた諸問題を物語風の101問で読ませて、答えを与えられるのではなく、自分で考えるという哲学的思考の初歩を教えてくれる一方で、現代的哲学の見地からのこれらの問題への考え方と用語集を併載した哲学読み物。


三部構成
1:哲学するための101の物語。

2:101の物語に対する考えるヒントとしての著者の考え方。

3:本書に登場する哲学概念・人物の用語集。

コメント
 こういうのが好きな人は、楽しいのだろうけど、自分には向かなかったな。

評価 ☆




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