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中公新書

2016年6月23日 (木)

諏訪勝則『古田織部』

点検読書210

副題は「美の革命を起こした武家茶人」
中公新書(2016年1月25日)刊


日本史――日本中世史


織田信長に仕えて調略の才を発揮し、羽柴秀吉の下で天下統一に貢献。その後は、千利休の高弟として茶の湯を学び、利休の死後は茶の湯の第一人者として公武にわたる人脈を築く。しかし、大阪夏の陣に際して、内通を疑われて、切腹を余儀なくされた文人武将の生涯。


1:信長時代(第一章)

2:豊臣政権下の利休門人として(第二・三章)

3:関ヶ原から大阪夏の陣まで(第四・五章)

4:古田織部の実像(終章)

コメント
 古田織部といえば、漫画の山田芳裕『へうげもの』の主人公として現在では知られています。本書でも「はじめに」でふれられています。私もそんな人物いたなぁぐらいの知識で『へうげもの』を読んで、古田織部を主人公にするとは驚きました。この作品の印象が強くて、京都に行った際に、とくに注目ポイントになっていない仁和寺の織部灯籠をみて、いや~、革新的だ、とか思うきっかけになったものでした。
 本書は、手堅く古田織部の生涯を史料を通して描いてくれています。しかし、素人の私が関心をもつのは、その死の謎です。
 織部は、大阪夏の陣の後に、大坂への内通を疑われて、親子ともども切腹を申し付けられ、財産が没収されている。この死の原因について、織部の家臣・木村宗喜が大坂方と通じて京を放火するという計画が発覚して捕縛されたことに、織部が関わっていたことが疑われたからだといいます。筆者は、この木村の捕縛は可能性が高いとしつつも、織部の命という点は支持できない、としています。
 筆者の見立てによれば、織部が築いていた徳川方、豊臣方といった武家ばかりではなく、公家衆にも広がる織部の人脈ネットワークを脅威と感じた徳川政権による排斥であったというのです。これは、公家衆や仏教勢力らの庇護者として隠然たる力を持った豊臣秀次が秀吉によって退けられたことと同じだといいます。つまり、政治権力が及ばない横のつながりを潜在的な脅威として排除される運命だったというのです。
 たしかに徳川政権は、徹底して大名・武家・公家・宗教勢力との横のつながりを排除することを心がけていました。公儀の許しのない勝手な婚姻を許さないというのは、その典型であるし、徳川時代初期の男色禁止なんてのも横の強固なつながりを恐れたためともいいます。徒党を許さない。これが当時の政治権力の第一の方針でした。本書は、その点を述べているのかもしれません。しかし、それだけ織部は隠然たる力を持っていたんだろうか、という疑問もなきにしもあらず。やはり謎ということかもしれません。
 最後に気になるのは、織部とともに「伏誅」された息子の広重の妻かめが仙石秀久の娘だということです。今現在、現役で何でこいつが主人公なんだよ、というか上手いところ見つけてきたなという異色の主人公を据えた戦国時代漫画の二代巨頭『へうげもの』と『センゴク』が結びついていたんですね。この点がなかなか興味深かったです。

評価 ☆☆

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2016年6月 4日 (土)

落合淳思『殷』

点検読書202

副題は「中国最古の王朝」
中公新書(2015年)刊


世界史――中国


『易経』や『孟子』、『韓非子』など春秋戦国時代の文献での断片的なエピソードや、『史記』で語られる殷王朝の「歴史」は後代につくられた創作である。19世紀後半から発見され始めた殷王朝の同時代史料である甲骨文字を読み解くことにより、殷王朝の軍事や祭祀、王の系譜。支配体制や統治の手法を再現、解明することができる。


四部構成

1:甲骨文字の発見から、その資料的価値(序章)

2:殷王朝前期・中期の社会と支配体制(第1~3章)

3:中期から後期の年代史(第4~6章)

4:殷王朝の歴史的位置(終章)

コメント
 殷王朝というと、やはり最後の王・紂王による「酒池肉林」や猛火の上に油が塗られた銅製の丸太を置いて、その上を歩かせる炮烙という刑罰、比干の心臓をえぐったり、気に入らない諸侯を干し肉にしたりと、暴虐の限りを尽くし、孟子に言わせると「匹夫」紂という男が殺されたのは知っているが、王が殺されたのは聞いたことがない、と王の資格までも剥奪される暴君の代名詞のイメージが強烈過ぎます。
 本書によると、こうした紂王=帝辛のエピソードとは、後代の創作で、帝辛はとくべつに特徴のある人物ではなく、前代の帝乙と同じように軍事訓練や祭祀を頻繁に行なう王であったといいます。
 では、どうして殷王朝は滅びたのか。本書は、史料からは都の「商」近辺に位置する「盂」という都市の反乱とその討伐をきっかけに、殷が衰退し周に取って代わられた、ということらしいのです。しかしながら、この「盂」の反乱の理由は、史料からは明確にはわからず、著者の推測では、帝乙と帝辛と二代にわたる殷王朝の集権化に諸侯が反発を起こし、これをきっかけに滅んでいったのではないか。そのように述べております。
 つまりは帝乙・帝辛という改革派の君主が、諸侯連合体という殷王朝の旧来の支配体制から中央集権体制へと移行しようとしたが失敗して、逆に諸侯の一つであった周に滅ぼされてしまった、というのでしょう。ちなみに帝乙も『史記』によれば、「無道」の王として描かれています。そして、紂王こと帝辛の生来の有能さや諸侯いじめのエピソードというのは、改革派で諸侯の地位を低下させて、中央集権化を果たそうとした、ということの名残のような気もします。
 こうした想像は、歴史家である著者ではなく、小説家の役割かもしれません。しかし、本書によって解き明かされた殷王朝の生の姿を知ることによって、想像力はより確かなものとなると思います。私としては、殷王朝は縁遠い世界ですから、もう少し物語的にしてまとめて欲しい気がしましたので、そういった方面に才能のある方が、殷王朝の年代記を書いてほしいなぁと思った次第です。

評価 ☆☆

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2016年6月 2日 (木)

君塚直隆『物語 イギリスの歴史(上)』

点検読書201

副題は「古代ブリテン島からエリザベス1世まで」。
中公新書(2015年)刊。


世界史――イギリス


紀元前6世紀頃のケルト人渡来から、紀元前1世紀半ばのカエサルのブリタニア遠征、ローマンブリタニアの形成と崩壊、そして5世紀前半から150年をかけて流入したアングロ人、サクソン人、ジュート人らアングロサクソン人がブリトン人を殺戮し、西端に追いやられた「ウェアルフ(異邦人)」と呼ばれた地域がウェールズ、アイルランドから渡来し北方へと住み着いた「スコティ(略奪)」するスコットランド、そしてアングロサクソン人によって支配されるブリテン島の大部分にあたるイングランド。これらを主とするイギリスの歴史は、この語、七王国時代、デーン人の征服、ノルマン人の征服を経て、征服王朝の君主の下、在地領主たちの抵抗が、議会制度へと発展していく。本書は、ウィリアム征服王以降のアングロ=ノルマン王国の君主たちと、在地領主たる貴族たちの抵抗の結果としての議会という二つの軸でイギリスの歴史を物語る。


六部構成

1:古代ブリテン島(石器時代、ケルト人流入、ゲルマン人の流入、七王国時代、デーン人の征服、ノルマンディ公ギョームによる征服)

2:ノルマン王朝の時代(ノルマンディ公ギョーム=ウィリアムの戴冠、ヘンリ1世の「アングロ・ノルマン王国、皇妃マティルダとスティーブンとの内乱)

3:アンジュー帝国の時代(ヘンリ2世の大帝国、リチャード獅子心王の遠征と虜囚、ジョン王とマグナ・カルタ、帝国の崩壊)

4:プランタジネット朝の時代(在地領主たちの議会)

5:百年戦争とバラ戦争(フランスへの征服戦争とランカスター家とヨーク家の戦い)

6:チューダー王朝の時代(ヘンリ8世の国教会確立とイングランド王国の独立維持)

コメント
 中公新書の『物語 ○○の歴史』シリーズは、「物語」と題している割には、著者の個性が強く出すぎて、その国民が自分たちの国の「物語」として理解しているような英雄豪傑たちの活躍よりも、社会史的な問題関心からあえて、そうした支配層の戦争や政争による興亡の歴史を廃したものがいくつかあります。日本で言えば、源平合戦の一ノ谷や壇ノ浦のエピソード、戦国時代の桶狭間、長篠、本能寺の変がない歴史を「物語」といえるか、といったところです。
 本書は、そのツボをシッカリとおさえています。本書は、まったく真逆の王たちの物語であり、議会として勢威を誇ろうとする在地領主たちの戦いの歴史を主としています。これこそ『物語 ○○の歴史』として読みたかったものではなかったか、そんな気がします。社会史的関心による民衆の歴史というのは、こうしたその国の歴史の軸となるようなものを経て興味が出てくるわけで、新書版の『物語シリーズ』はこうでなくてはなりません。はやく『物語 アメリカの歴史』と『物語 ドイツの歴史』の新装版を出すべきだと思いますね(『アメリカの歴史』はあれはあれで面白かったのですが)。
 本書を読んで分かることは、イギリスの王室というのは、あくまで征服王朝、主にフランスを本拠地とする領主を君主として戴いており、そうした外部の有力者を王として必要としつつも、実質的には在地領主たちのコントロール下に置きたい。その結果が議会とマグナ・カルタや権利請願、選挙法など国制に関わる諸法(憲法)による支配として結実していることです。似たような力関係によって、誰も互いに王として認めることのできない貴族たちが、外部から君主を呼び寄せて、バランスを取る、その上で実質的支配権を貴族たちが握ろうとする、ということになります。
 何となく、日本と似ているのではないか。そんな気がします。日本の皇室の起源がどこにあるか分かりませんが、一度、他の領主層と異なるものとされると、そうしたものが存在することで、座りが良くなるのです。こうした慣行は、武士の時代も皇室に連なる貴種を将軍として戴き、あとは有力家臣団で実際の政治を行なう。また、明治維新後の天皇国家も同じでしょうし、戦後の政党政治もまずは官僚という外部の権威を推しいだき、近年は世襲議員という貴種を戴くことで、座りを良くするという慣行になっています。あとは、外圧を利用するというのも、似たような印象もあります。
 それはともかくとして、本書は、我々一般人が「イギリスとは何ぞや」と考えるに際しての、基本的な歴史であり、そしてまたイギリス人自体が考えているであろうイギリス人の「物語」をシッカリと学べる作品となっています。だいたいこんなのは知っているよ、というマニアの方には不満でしょうが、そうした人は新書なんて読まないわけですから、これぐらいのものをもっと揃えてほしいものです。

評価 ☆☆☆☆

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2016年5月23日 (月)

福田千鶴『後藤又兵衛』

点検読書197

副題は「大坂の陣で散った戦国武将」
中公新書(2016年)刊


日本史――日本中世史


大坂の陣で華々しい戦死を遂げ、後年、歌舞伎や講談で快男児として描かれた後藤又兵衛。後藤は、黒田孝高に見出され、後継者の長政の第一の重臣として出世を重ねながらも出奔し、長い浪人生活を経て、豊臣秀頼の招きに応じ、大坂城に入城する。本書は、後藤の生涯と戦国武士とは何かをテーマに据え、その実像に迫る。


四部構成

1:後藤又兵衛の系譜(第一章)

2:黒田家士官時代(第二・三章)

3:大坂入城とその最期(第四・五章)

4:後藤又兵衛から見る戦国武将(終章)

コメン
 後藤又兵衛。本書冒頭にも書かれているように、戦国時代に詳しい人ならば、その名を知っているものの一般的な知名度で言えば、それほどではない人物です。かくいう私も、大坂の陣で、真田信繁とともに活躍し戦死を遂げた人物というぐらいの認識で、とくに印象はないのです。というのも、本書でも述べられているように、後藤又兵衛は、歌舞伎や講談といったかつての庶民文化の中で活躍していた人物ですが、昭和も半ばを過ぎるとそうした文化は庶民のものではなく、一部の日本文化好きの趣味の対象となってしまい一般的に知られるものではなくなってしまったこと、また時代劇というものが衰微して、テレビドラマ等で後藤又兵衛の活躍を知ることがなくなったことも一つの要因でしょう。もっとも、一昨年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で、後藤又兵衛が出ていたので、最近の人は知っているのかもしれない。ただ、私はそれを見ていなかったので、後藤が黒田家に仕えていたことすら、知らなかった、というぐらいの後藤認識でした。
 それぐらいの後藤理解だったので、何で彼が大坂の陣でそれほど重要な人物として扱われ、また引き抜き工作の対象になったのか、また庶民人気の理由もよく分からなかったんですね。本書を読んで何となく分かったような気がします。彼は、ほとんど一からスタートして、本人の力量のみで黒田長政の右腕と称されるまでの重臣に出世し、城まで持たされたにもかかわらず、主君との考えの違いから、そうした地位を投げ捨てて、浪人生活をおくり、さらに華々しく戦場で散っていった。まさに戦国武将の美学に生きた人物だったのですね。
 本書によれば、彼は、播磨とい土地から切り離されて九州の地で知行を受け、また戦場で命を預けれられる主君の下に生きるという中世の武士=戦国武将として生きることを望んだのだそうです。そのため、家名の維持というを長政を裏切り、命を預けるに足る豊臣秀頼という人物に最期を託して、戦国武将として死に、そして名を残すという平安末期の武士の誕生以来の本当の意味での「武士道」の名誉のために生きたということのようです。
 つまり、「一所懸命」という言葉に表れるように、土地と武士は結びついていたのが中世の武士だったわけですが、藤堂氏の法令「殿様は当分の御国主、田畑は公儀の田畑」というように、土地に根付いていた中世の武士は否定され、将軍の命で自由に土地を移動させられる近世の武士の時代がやってきました。また、中世の武士は、武士個人(そしくは一族)が自らの命を預けられるに足る主君とともに戦場で名を挙げるために戦うということを理想としてきました。しかし、戦国大名の黒田孝高から近世大名の長政への継承に象徴されるように、近世大名は自身の家名の存続を第一に考えるようになり、そのためには家臣を見捨てることも厭いません。現に、第一の重臣であった又兵衛が大坂に入ったことを聞いた長政は、すぐさま公儀に弁明書を書き、又兵衛の親族狩りを行ない、その上、又兵衛暗殺まで計画します。また家臣の方も、主君に忠誠を尽くすのは、本人の武名を上げるためではなく、家名を存続することを目的とするようになります。このように、戦国武将と近世の武士は、性質的に変わっていったのでした。
 その点で、後藤又兵衛と大坂の陣で散っていった人々というのは、近世を拒んで中世の武士として生きたかったといえるでしょう。そして、後藤又兵衛は、その象徴だったのでした。
 なかなか興味深い本で、これで今回は視聴している『真田丸』の後藤又兵衛(哀川翔さんが演じるそうです)を予備知識を持って見ることができそうです。また著者は、牢人問題を取り扱いたいということで、戦国最後で江戸時代最初の牢人問題の噴出である大坂の陣の主役の一人を扱ったそうですが、やはり次は由井正雪になるのではないでしょうか。この由井正雪も講談の主役の一人で、明治時代から庶民に親しまれた人物ですが、近年は忘れられてきています。そして、慶安の変こそ、牢人問題の最後の解決と言えそうな事件なのですから、著者の目的と有名だけどよく知られていないものを取り上げるという新書のスタイルにピッタリとしたテーマではないでしょうか。次回作に期待しております。

評価 ☆☆☆

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2016年5月14日 (土)

谷口克広『信長と将軍義昭』

点検読書191

副題は「連携から追放、包囲網へ」
中公新書(2014年)刊


日本史――日本中世史


織田信長と足利義昭の関係は、長らく信長が義昭を傀儡として利用し、それに不満な義昭が周囲の大名を誘って信長包囲網を形成し、最後は直接対決の末に追放される、という筋書きで語られてきた。しかし、将軍となった義昭の権力は、従来言われていたほど弱いものではなく、また信長もそれを無視できるほど強い権力基盤を持っていたわけではなかった。本書は、両者のともに上洛した連携期から確執期、そして対立期までを描く。


四部構成

1:上洛を果たした連携時代(第一章)

2:五箇条の上書から信長包囲網形成の確執時代(第二・三章)

3:義昭挙兵と追放(第四・五章)

4:追放後の義昭・「鞆幕府」の実態(第六章)

コメント
 本書によれば、近年の研究によって、従来の革新性や強権性ばかりが強調されてきた信長像から人間的弱点も露呈した現実政治家・織田信長という人物像が提示されつつあるらしいのです。そのためか、従来ややもすればすべて妥協を許さない、計算ずくな信長像から将軍義昭を見ていくと傀儡でとるに足らない人物のように思えます。しかし、その取るに足らない存在である義昭を何年も手を出せず、直接的な対立を経ても、結局、処刑もせず将軍職の辞官もさせず、追放しか出来なかったという事実を考えると、信長の意外な「弱さ」を垣間見ることが出来ます。本書は、そうした実像としての信長像を将軍義昭というファクターから読み解きます。また、以前紹介した藤田達生氏の追放後の毛利家によった義昭の「鞆幕府」というものへの疑問も提示しています。
 本書によれば、信長と義昭との確執の始まりは、伊勢の北畠具教の居城・大河内城攻めに際して、信長が手痛い打撃を受け、その和解・講和で信長有利にとりなしたのが義昭だったから、と推測されています。従来、この大河内城攻めは『信長公記』などから信長方の圧勝と思われていたのですが、他の史料で確認すると、どうもそうではないらしい。さらに言えば、各戦闘においては信長方の犠牲が多いことが明らかになったようなのです。しかし、その結果は大河内城開城なのですから、異常事態です。そこで著者は、この講和の立役者となったのが義昭なのではないか、と推測したのです。
 これが事実とすれば、信長は感謝しこそすれ、義昭との関係が悪くなることはありません。しかし、この一ヶ月後、上洛を果たした信長が何の前触れもなく、国へ帰ってしまうという事件が起きました。同時代の史料によると、正親町天皇も「おとろきおほしめし」たほどだったそうなのです。その原因として、人々が噂したのが、義昭と信長の喧嘩だというのです。その喧嘩の原因というのが、時期的に見て、この大河内城攻めと講和にあるというのが、著者の見立てで、信長としては義昭の力を借りたということで不名誉、義昭としては将軍としての権威を発揮できたのだから自身を持ったとしてもおかしくない、ということになります。有名な五箇条の上書は、将軍としての自信を深めた義昭への牽制だというのが著者の見立てです。
 しかし、そうだとすると、信長が義昭を将軍として支えるという連合政権・二十政権論というのは少々不可解です。やはり信長は義昭を傀儡程度にしかみていなかったのではないでしょうか。
 もし北畠説得の役割として義昭を使うことも不名誉とするならば、自身の政策遂行実現のための権威として利用しようとしていたとも考えられません。信長にとって義昭は、自身の実力で将軍に就けてやったという実績づくりの象徴に過ぎず、政治的権威としての価値はゼロに等しいと考えていたのでしょうか。そうでなければ、将軍の力を借りたからといって、関係が悪くなるというのもおかしな話です。
 そうすると、この永禄12年(1569年)10月3日の大河内城開城、10月11日に上洛、11月17日の帰国という11日から17日の間に義昭と信長の間で何かあったか―義昭がよほど調子づいたことを言ったか―でないと、従来通りの義昭傀儡説が生きてくるのではないか。そんな気がします。
 それはともかく、世論の動向に敏感で、無力で憎むべき義昭を殺すことのできなかった信長と、周囲からどう見られようが気にしない厚顔無恥な義昭という「激しい性格」ながらも対照的な二人に着目した戦国史は読み物としては楽しめました。

評価 ☆☆

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2016年4月28日 (木)

遠藤慶太『六国史』

点検読書181

副題は、「日本書紀に始まる古代の「正史」」。
中公新書(2016年)刊。


日本史――古代史


「六国史」とは、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』と天地の始まりから平安中期の887年8月までの皇室を中心とした古代国家の「正史」であり、古代史の根本史料である。本書は、この歴史書の成り立ちから内容、そして中世、近世、近代における読み継がれ方を論じる。


五部構成

1:「六国史」の総論(序章)

2:『日本書紀』の構成と内容の検討(第一章)

3:桓武天皇と『続日本紀』『日本後紀』(第二章)

4:平安時代の記録としての『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』(第三章)

5:読み継がれた「正史」(第四章)

コメント
 『日本書紀』に関しては、一般の古代史への関心の高さから、その内容の真贋をめぐるものまで汗牛充棟の研究の歴史があるものの、その後の五つの歴史書への関心は低いです。もっとも、これは一般の歴史ファンの認識であって、プロの歴史家は、違うようです。本書に述べられているように、1953年12月から始まる続日本紀研究会によって、実はもっとも充実した研究があるのは『続日本紀』であるらしいのです。やはり、『日本書紀』を歴史学として研究するには、対象する文献の少なさから、学問よりも素人的コジツケの方が面白い発想ができますし、確実に誰が見ても同じことの言えないものは学問ではありませんので、研究者が取り組むものではないかもしれません。
 そういった意味で、本書の価値というか、醍醐味は、『続日本紀』以降の歴史書の紹介にあるのですが、私自身はどちらかと言うと歴史ファン的視点で古代史を見てしまうので、やはり『日本書紀』に関する記述が面白かった、という情けない感想しか抱けないのです。
 著者の『日本書紀』評なのですが、わりかし尊重する、という立場です。例えば、戦後歴史学において、「常識」とされる「欠史八代」については、「実在が疑問視された八代という意味」と軽く言及されているのみで、他の場所では「紀年」にこだわったがために、天皇の在位年数や年齢が不必要に引き延ばされているとして、存在そのものに関しての否定はしていません(38頁)。また、これも戦後歴史学において否定されてきた神功皇后の存在も、「ためらいながらも、皇室系譜のうえで神功皇后が存在したことまでは、認めてはよいのではないかと考えている」と控えめながらも勇気ある発言をしているのが注目される(46頁)。
 その上、本書において真面目さを感じるのは、『日本書紀』記述と古代朝鮮の歴史書である『三国史記』百済本紀と広開土王碑の記述を対照させて、応神天皇8年(西暦277年)の記述と他の記述を比較して、倭と百済が同盟結んだのは397年であり、120年のズレがあることを指摘します。さらに神功皇后52年(252年)に七枝刀(=七支刀)を献じた百済王(近肖古王)の在位(346~375)と石上神宮の七支刀の銘文「泰□四年」は東晋の太和四年(369年)で、やはり約120年のズレがあることを論証して、この時期のズレはそれぐらいで、推測していくことは可能であることを示唆しています。この120年のズレ自体は、倉西裕子さんという方が提唱しているようですが(本書にはとくに言及がない)、最近の古代史もずいぶんと風通しが良くなったのだな、と思いました。
 あと、『日本書紀』の想定読者は、資料を提供した官人たちであり、彼らの反応を無視した歴史を描くことは難しいだろう、と指摘していることも重要です。神話や遠い過去は、「現在」の政治の反映であるという説が一時期はやりましたが、それは可能だろうか、というもっともな意見が出始めたということです。つまり、当時の編纂者は、かなり真面目に歴史を編纂していたことを尊重すべきではないか、ということです。
 その一方で、やはり『日本書紀』における大友皇子と天武天皇をめぐる壬申の乱、『続日本紀』や『日本後紀』における桓武天皇と早良親王という「現代史」を書く際には、やはりある程度の配慮が必要になり、「事実」とは異なる記述があることも注意しなければならないことも指摘されています。
 本書を通読して思ったことは、やはり前代の「皇国史観」のようなものを躍起になって否定しなければならなかった時代とは異なり、素直に古代史に向き合うことができるようになった世代が出てきたのかな、という印象です。
 でも、まぁ、それにしても本書で指摘されて初めて気づいたのだけど、日本の政府というのは、『日本書紀』はともかくもその他の『六国史』に関しては冷淡で、国を挙げて刊行するという事業をやって来なかったのね。やはり奈良時代の仏教ばやりが、宗教嫌いのこの国においてはあまり再評価したい時代じゃなかったのでしょうか。

評価 ☆☆

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2016年4月16日 (土)

藤田達生『天下統一』

点検読書172

中公新書(2014年)刊。
副題は「信長と秀吉が成し遂げた「革命」」。


日本史――日本中世史


戦国時代末期に構想された国家体制とは、数か国を領有するブロック大名が合従連衡しつつ朝廷や幕府を支えるというものであった。それに対し、信長および秀吉は、全国の領主から本主権を奪って収公し、あらためて有効な人物に大名・領主として任命し、領土・領民・城郭を預けるという発想があった。つまり、領土は公領、領民は天下の民、城郭は天下の城と位置づけられる、まさに「天下統一」のプランを持っていたがために、「革命」的存在であった。本書はまた、1573年に滅亡していたとされる足利幕府は、鞆の浦で続いており、織田政権との二重政権時代があったとし、小牧長久手の戦いで織田信雄が羽柴秀吉に敗れるまでは、織田・羽柴の二重政権時代があったと主張している。


四部構成

1:本書の目的(序章)。

2:織田信長の時代(第一~第三章)。

3:豊臣秀吉の時代(第四~第六章)。

4:結論(終章)。

コメント
 本書で述べられていることは、戦国時代の戦国大名たちは基本的には自らの本拠地を第一とする「一所懸命」の精神を持続させており、天下に号令をかけると言っても、それは本拠地を含む周辺諸国を押さえた上で、諸大名と合従連衡し、朝廷や幕府の権威を利用して優位に立つという連合政権の性格しか持っていなかった、ということです。つまり、今川義元や武田信玄が上洛を果たしても、本拠地は駿河や甲斐のままで、全国を自国同様の法制に服させるというような「天下統一」プランは持ち合わせていなかった、ということのようです。
 その点で、織田信長という人物は、本拠地至上主義的な考え方から自由で、常に本拠を変えた特異な人物です。それは、日本全体を統一的に把握するのに便利な地に本拠地を構えるという意識があったようです。そうした発想の背景には、領土・領民は各大名の持ち物ではなく、「天下のもの」、と考えたところにあります。その天下、日本全国の統治権を握って、自由に統制できる人物が天下人である、とします。ですから、「天下統一」という発想は、信長のような変わり者であるから考えられたもので、まさに「革命」とも言えるものであったらしいのです。
 いってみれば、今川義元や武田信玄の野心というものは、古代中国の春秋五覇のように他の国を完全に併呑するのではなく、残した上で優位に立つ、と言うもので、信長の「野望」というのは自身が秦の始皇帝のように全国を統一するという発想のようです(152頁)。
 現在の我々は、信長という者の登場以後から戦国時代を眺めているために、戦国大名は「天下統一」の野心があったものと考えてしまいますが、そうではなく、信長という革新者がいたから、そうしたものの見方ができるのだ、ということになります。
 また、本書では、1573年に滅亡したとされる足利幕府が、鞆の浦へ移動し、毛利輝元を福将軍として従えた「鞆幕府」が存在した、と主張します。全体の流れからすれば、田中義成以来の通説=1573年の室町幕府滅亡で良いのではないか、と思ってしまいますが、上記の通り、「天下統一」という特殊なプランを持っていた信長の革新性を理解するためには、鞆幕府の存在は必要となります。つまり、鞆幕府というのは、従来型の合従連衡による国家秩序を代表し、そこと対抗して郡県的な集権国家を目指す信長政権が戦うべき相手の象徴であったわけです。
 これは信長の後継者の秀吉に関しても言えることです。著者は、小牧長久手の戦いまでは、厳然として織田政権は続いていたと主張します。そこも全体の流れから見れば、些細な問題にも思えます。しかし、信雄によって継承された織田政権というのは、逆に従来型の合従連衡国家を代表し、秀吉が集権国家を代表しているので、そこでもこの対立を強調する必要があったということなのです。
 本書の全体の構図をつかむまでは、「鞆幕府」とか「織田信雄政権」なんて、考える必要あるのかね、と思っていたのですが、信長の革新性を理解するためには、どうやら必要らしいです。
 個人的な関心としては、「公儀」という言葉が、足利将軍、右近衛大将を叙任された織田信長、足利義昭を奉じた毛利家を指すものとして、使われていたそうです。全国的な中央政府の意味としては、豊臣政権からと言われていますが、「将軍」に任官された人やその政府を表すものとして「公儀」が使われていたようです。信長が「公儀」化するのも右近衛大将という天皇から任命される官職があることが前提となるようですから、当時における律令国家の権威は根強いものがあったようです。
 しかし、本書を流し読みした感じでは、信長が天下意識を持ったのは、中国古代の歴史の知識があったから、と述べられていますが、そもそも日本を全体として把握する視点というのは、父・信秀以来の皇室崇拝者という点があったからではないだろうか。本書では、安土城の構造やヴァリニャーノへの天皇を紹介することの拒否に見られるように、信長は自身を天皇の上に位置づけていたという考え方が述べられています。晩年は、どうだったかというのはいろいろ議論があるところだと思いますが、若き信長に皇室崇拝の気分があったのは、否定できないように思いますので、その点でのツッコミが欲しかったかな、という気もいたします。

評価 ☆☆

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2016年4月13日 (水)

野口武彦『鳥羽伏見の戦い』

点検読書169

中公新書(2010年)刊。
副題は「幕府の命運を決した四日間」。


日本史――幕末史


慶應4年(1868年)1月3日から6日にかけてのたった4日の戦いであったが、徳川慶喜の復権を終わらせ、明治新政府の成立を促した天下分け目の戦い。誰もが知っているものの、その内容を詳しくは知られていない戦争を1冊の本として論じる。


三部構成

1:開戦前夜(第一章・第二章)

2:四日間の戦闘(第三章~第六章)

3:徳川慶喜の逃亡と江戸落城(第七章・エピローグ)

コメント
 本書の帯にあるように「誰もがその名を知っているけれど、詳しくは知らないこの戦い」が、鳥羽伏見の戦いです。
 大体の流れで理解すると大政奉還、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、江戸城開城という一連の流れは、未来の視点からだと、スッキリとしており、大政奉還の時点で徳川政権は終わりを告げ、王政復古の大号令で決定打を撃たれたと思われてしまいます。しかし、王政復古の大号令までの流れを演出した大久保利通自身が、慶應3年の年末には慶喜にはかなわないと弱音を吐き始め、岩倉具視が慶喜の新政府入りを考え始めた、まさにその時、この戦いは始まり、たった4日で勝負を決してしまいました。
 当事者にとっても、その後の歴史においても転換点にあったように思えるのですが、あまりにあっさりとした決着に後の人の関心があまりありません。本書でも述べられているように「鳥羽伏見の戦いを単独のテーマにして書かれた本は刊行されていないのである」(5頁)。同じ天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いもたった1日で勝負を決したにも関わらず、関心を落ち続けられるにもかかわらず。それだけでも本書は貴重な成果です。
 さて、この鳥羽伏見の戦いの謎の一つに、徳川慶喜の関与はどの程度であったか、という点です。明治以後の『徳川慶喜公伝』やその史料として健在だった慶喜にインタビューをした『昔夢会筆記』などによれば、慶喜は早くから王政復古の志があったとします。明治31年に明治天皇に拝謁し公爵を賜って復権した慶喜としては、そうした物語のほうが都合がいいわけです。このように邪推してしまい、大政奉還は薩摩の武力討幕の口実を失わせるためで、政権を譲り渡す気がなかったとされ、「徳川モナルキー」を維持し続ける秘策だったという考えもあります。しかし、一方で、慶喜が政権を握り続ける気があったことは否定できないものの、それは慶喜個人のことであって、徳川幕府という親藩・旗本政権を維持することではなく、あくまで天皇中心の王政復古政権の中で、慶喜がイニシアティブを握るという意味だという考えもあります。そうなると、彼の王政復古の志は、彼の晩年の弁明通りであったともいえます。
 本書では、慶喜の中小姓・村山摂津守鎮の談話筆記を元に次のように論じます。
 慶應4年1月3日、鳥羽伏見の敗報を受けて驚いた慶喜は、さらに北上軍が「討薩の表」を携えていたということを陸軍方に詰問するが、陸軍方では「上様もご承知と聞いてました」と答えた時、慶喜は多少は憤激して板倉伊賀守に何か言っていたが、思ったより本気で怒っていなかったように見えた、と証言している。
 ここから考えられるのは、慶喜は「討薩の表」の内容には関与しており、それを携えて上洛し、京都政局において薩摩のみを孤立させて、他の勢力を抱き込み、復権を計ろうとしていた。慶喜の目的は、そこにあったので「軽装上京」を意図していたが、主戦派はこれを好機に京都の薩摩藩邸を攻撃しようとしていた。慶喜もその点を黙認しているフシがあったので、玉虫色の命令となり、もし戦闘が起きても、それは先遣隊の暴走として片がつくとしていた。こうした曖昧な上京部隊であったため、途中での鳥羽伏見での戦闘を予期しておらず、戦闘準備がなく無様に負けてしまったのではないか。慶喜は、その無様な敗北に驚愕し、憤激したのではなかったか。こういった趣旨です。
 しかしこれですと、薩摩排除の新政権樹立の意図は伝わってきますが、幕府再興の意志は読み取れませんし、当時の情勢において天皇抜きの大統領もしくは〈皇帝〉となったとは考えにくいのではないか。そう考えると、王政復古の志を否定する材料は特にはなさそうです。また、慶喜の東帰に関しては軍艦順動にて天保山沖から上陸し、1月6日に慶喜に面謁した若年寄兼陸軍奉行の浅野美作守氏祐の証言によれば、この時点で東帰恭順を決めていたといいます。つまり、江戸で再挙するために逃亡するのではなく、主戦派から距離をとって恭順する、という本人の弁明そのままが正しいのではないでしょうか(本書では、ロッシュとの19・26・27日の会見までは揺れ動いていたとします)。
 本書では、やはり慶喜による「天皇抜きの近代国家」に夢をつないでいるような話を結末に持ってきていますが、そこは買いかぶり過ぎなのではないかな、と思います。「皇国史観」は単に明治国家のイデオロギーなだけではなく、それなりの根拠があったから、成立したんじゃなかろうか。そんな気がするのです。
 それにしても、一冊まるごと鳥羽伏見の戦いという本書の価値を減ずるものではありません。

評価 ☆☆☆

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2016年2月27日 (土)

高橋正衛『二・二六事件 増補改訂版』(中公新書、1994年)

点検読書135

副題は「「昭和維新」の思想と行動」。


日本史――昭和史


昭和11年2月26日に決行された二・二六事件について、多くの史料によって事件を再現し、その背景となる諸事件、軍部内の対立、農村の疲弊などの影響を叙述。


四部構成
1:事件当日のドキュメントとして、新聞報道など、国民に知らされた事件像(Ⅰ)、当日までの動き(Ⅱ)、事件の終息の過程(Ⅲ)。

2:事件の背景となった事象として、三月事件から相沢事件までの軍人が関わった事件(Ⅳ)、幕僚たちと下級将校たちのそれぞれの内部対立(Ⅴ)、昭和維新とは何であったか(Ⅵ)。

3:裁判と処刑(Ⅶ、Ⅷ)

4:付録として、軍における「命令」の問題と新資料。

コメント
 昨日が、2月26日。まさに二・二六事件80週年ということで、本書を手に取る。以前、お世話になった日本近現代史の先生は、「二・二六事件に関しては、私は高橋正衛の本で理解しているし、あれ以上の本は出ないんじゃないの」とおっしゃっていた。よく新書本を読むことをバカにする人がいるのだが、新書にもこうした玄人が舌を巻く一級品のものはあるのです。だから私は新書をバカにする人は、新書を読んだことがない読書素人なんだろうな、と思って生暖かい目でみることにしている。

 さて、本書は既に古典的な作品であり、今更かよ、という感もある。いつも本棚の手前に会って目にはついていたのだけど、どうも今更感があって、逆に手が伸びなかったのである。で、ついに読んでみたのだけど、いやさすがですね。ま、当ブログは「点検読書」ということで、パラパラと全体を流し読みしたのですが、これは読み応えがありそうな本です。何よりも、いくつか疑問点がやっと氷解した、ということで。

 まず二・二六事件の背景となる相沢事件で殺害された永田鉄山について。どうもこの人の位置づけっってよくわからなかったんですよね。軍人というよりも高級官僚の雰囲気が漂って、軍服よりも背広姿でバーに現れるというエピソードをどこかで聞いたけど、他の官僚や政治家受けがよい人物だろうな、という印象はあった。しかし、いわゆる昭和期の軍人が起こした事件との関わりが私には不明確であったのだけど。本書の著者は、ズバリと満洲事変の立役者の一人と指摘する。

 つまり、満洲において関東軍の高級参謀・板垣征四郎大佐と作戦主任参謀・石原莞爾中佐がいて、東京には軍事課長・永田鉄山大佐がいたという。満洲事変は、御存知の通り、1931年9月18日に勃発したのだが、この三人は前年の永田大佐の満洲視察旅行のおりに打ち合わせをしていたのだという。そして、この時の申し合わせで、永山により東京赤羽の陸軍工廠から二四糎砲が運び込まれ、18日に北本営を砲撃した、という。こうしてみると、満洲事変は、現地軍の暴走とか下克上とかではなく、陸軍全体の作戦実行だったといえるのだという(124頁)。

 どうも私は、永田は当時の民政党内閣に近い位置にいたという印象があって、満洲事変には反対の立場にいたのではないか。そんな印象を持っていたわけです。しかし、考えてみれば、満洲事変が完全に現地軍の暴発であるのに、全く関係者が処分されず、逆に出世していることを考えれば、陸軍全体の作戦であったのだろうな、というのが自然だと思うんです。だから、これは内閣に対する反逆行為だったかもしれないが、現地軍のクーデターではない、軍のクーデターであったことを再認識させられたわけです。また、こちらの方がスッキリします。

 次に二・二六事件で殺害された渡辺錠太郎教育総監について。この人は、皇道派に人望があった真崎甚三郎の後を襲って教育総監になったため、その地位にいたことが殺害の原因で、その他には何もない、気の毒な人という印象があった。しかし、本書によるとそれだけではない思想的な問題もあったそうである。以下は、渡辺教育総監が昭和10年10月3日、名古屋の偕行社に第三師団管下の部隊の将校を集めて語った訓示の大要である。

「機関説が不都合であるというのは、今や天下の輿論であって、万人無条件にこれをうけいれている。しかしながら機関説は明治四十三年ころからの問題で、当時山県〔有朋〕元帥の副官であった渡辺はその事情を詳知している一人である。元帥は上杉〔慎吉〕博士の進言によって当時の憲法学者を集め、研究を重ねた結果これに対してきわめて慎重な態度をとられ、ついに今日におよんだのである。機関という言葉が悪いという世論であるが、小生は悪いと断定する必要はないと思う。御勅諭の中に「朕ヲ頭首ト仰ギ」とおおせられている。頭首とは有機体たる一機関である。天皇を機関とあおぎ奉ると思えばなんお不都合もないではないか。・・・・・・天皇機関説排撃、国体明徴とあまり騒ぎまわることはよくない。これをやかましくいい出すと、南北朝の正閏問題をどう決定するかまで遡らなければ解決しえないことになる。」(153~154頁)

 周知の通り、天皇機関説は国体に反するものであるという国体明徴声明は、1935年8月3日に第一回、10月15日に第二回と政府により公表されている。渡辺の訓示は、第一回の二ヶ月後、第二回の直前に述べられたものである。当時の政治状況を考えれば、かなり大胆な発言であることが分かるだろう。現に、これを聞いた将校たちは、訓示内容を印刷して頒布し、渡辺のもとには抗議の手紙が殺到したという。渡辺は、給料の半分を丸善の支払いに充てたというほどのインテリ軍人で、しかも彼の経歴は山縣有朋の副官と駐在武官など省部でのキャリアが少なく、国内の軍に関わる政治状況に無頓着であった部分はありそうである。つまり、渡辺が殺害されたのは、単に真崎甚三郎の後を襲ったからだけではなく、渡辺の思想が時代に合わなくなったから、とも言えそうである。そして、彼が長く山縣の副官をしてきたことや、南北朝正閏問題については烈火のごとく怒った山縣も天皇機関説については慎重な態度を示したとすると、山縣のつくった陸軍は山縣をも否定するようになったことを彼の殺害事件は示しているようにも思える。

 次にその渡辺の前任者・真崎甚三郎について。この人物も不思議なものだが、彼が教育総監を引かされた原因は、ズバリ天皇の信任がなかったこと。これにつきるらしい。皇道派の大将がそれでどうするんだよ、という感じだが、現在の天皇陛下もおそらくリベラルな人物で、現在の右派言論人を好んではいないだろう。現に、日本はずっとそうした右派言論人と保守的な大多数の民衆が支持している保守政党が政権を握っているにもかかわらず、右派系の言論人が褒章をうけることは、公立大学の教授でもしてないとほとんどないでしょう。あからさまな片思いなんですね。

 で、その真崎なんですが、その信任のなさの逸話としては、天皇は真崎の上奏には必ず2、3日おいて裁可されるといったかたちで、不信感を明らかにしており、真崎自身もあせってホウボウに働きかけたものの埒が明かず、ついに自分から「誤解されている」と上奏して、逆に不興を買い、その上、軍の機密を部下を通じて、青年将校に伝え、軍内での評判を落として孤立していった。つまり、教育総監から追放の原因を自らつくっていたのだが、こういう秘密の面白話を教えてくれたから、青年将校には人気あったのかもしれませんな。

 最後に、二・二六事件という愚かしい凄惨な事件に関する一服の清涼剤としてのエピソードを最後に引用しておこう。裁判における「本省の指示」によって量刑が歪められたことに対する裁判官たちの意地の悔恨である。

「「今度の事件終了後は多くの裁判官は自発的に辞めると言っている」と「村中遺書」にあるように、吉田裁判官は事件終了後辞任した。
 戦後はじめて遺族たちが公けに墓参できるようになった昭和二十四年以後、遺族の人たちが麻布の賢崇寺(事件で処刑された人の埋葬してある寺)に毎年二月二十六日、七月十二日に集まって墓参するが、いつも夜の明けること一人できて、花と線香をあげて名も告げずに帰る老人があった。それは昭和二十八年二月二十六日までつづいた。その人が主席検察官匂坂春平氏であった。彼は、北、西田、村中、磯部の処刑の日にあたる八月十九日に死去した。」(188頁)

評価 ☆☆☆☆


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2016年2月 9日 (火)

福島章『犯罪心理学入門』(中公新書、1982年)

点検読書121


心理学――精神医学


主に殺人事件の犯人を対象として、事件の背景にある犯人の気質や性格・環境について、生物学的次元、医学心理学的次元、心理社会的次元、文化社会的次元といった多次元診断によって追求する。犯罪という人間の極限状態について知ることは、単に異常心理への関心だけではなく、自分について、また人間について知ることにつながる。


五部構成
1:総論として、E・クレッチマーが提出した多次元診断とその具体的適用例として遊園地人質事件とエリートサラリーマンの妻殺害事件(Ⅰ)。
  ・生物学的次元:遺伝、体型・体質、性的成熟、脳障害・脳波異常、精神病、中毒
  ・医学心理学的次元:知能、気質・性格、自我の成熟、人格、心因反応、夢・幻想
  ・心理社会的次元:生育環境(親子関係など)、人格環境、犯因性社会環境
  ・文化社会的次元:価値観、地域、学校、その他

2:犯罪心理学という分野について(Ⅱ)

3:実際に起きた事件について「知能と性格」「心の病」「精神医学的分析」の具体例(Ⅲ~Ⅴ)

4:社会学的な諸理論(Ⅵ)

5:現代社会型の事件(Ⅶ)

メモ
知的障害者の犯罪の低下理由(53~55頁)
 本書は、1982年出版という事情もあり、用語としては「精神薄弱者」としている(90年代から「知的障害者」と呼称するようになったらしい)。では、ここでいう「精神薄弱者」とは何かと言えば、IQ70未満を指すらしい。で、これらの人々の犯罪について、戦前では54~65%と多かったのだが、1970年代になると20%にまで低下したそうである。では、その理由はなにかといえば、特殊教育の普及、社会福祉の充実などがすすんで、彼らが社会的不適応に陥ることなく、適切な支援を受けるようになったからだそうだ。つまり、彼らに対しては裁判や刑罰ではなく、保護・教育・援助が有効で、それがもっとも有効な犯罪防止法であることが示されている。
 また、単に知能指数ではなく、その中身にも注目する必要を説いている。つまり、非行少年または犯罪者は、言語的・抽象的・論理的な能力よりも行動的・具体的な能力の方が優れており、抽象的なものよりも具体的なものを好む傾向にあるとの所見がある。この二分法で言えば、規範や法律は抽象的なものに区別されるため、それらに対する違反というものも、こうした傾向に関連してくるという。

情性欠如者(73頁)
 情性とは、同情・あわれみ・羞恥・後悔・良心といった、人間固有の感情的能力であるが、こうした能力を欠く者を情性欠如者という。具体的には、他者の苦痛・運命・不幸について鈍感であり、その一方で自己の危険・苦痛・未来についても無関心であり、想像力に欠けている人びとである。まれにドラマや映画での処刑シーンで、処刑を前にした犯罪者が、人前で平然としていたり、ダジャレを言ったりすることを、「引かれ者の小唄」とか「ギロチンの上の諧謔」などと呼ばれたが、これは彼らの豪胆さや勇気を示すのではなく、自分自身の運命の無関心や数分後の訪れることへの想像力の欠如を表していると著者は指摘する。

「拡大された自己中心」者と日本人的性格(85~86頁)
 もともと自己中心的性格の男に、やがて自己と一体化した妻や子供といった家族が加わり、「拡大された自己中心」な世界を形成する。彼は、「拡大された自己」内にいる家族に対しては、情愛深い夫、優しい父で愛他的でいられるが、その世界に入っていない他人に対しては冷たく非情になりえる。
 著者は、これは日本人の多くに当てはまる性質であると指摘する。つまり、家族や地域、学校、職場などの共同体を自身の「身内」として「拡大された自己」の世界に入れてしまい、その中では紳士淑女として立ち振る舞うが、一歩外に出ると、旅の恥はかき捨てとばかりに、破廉恥な行動に出てしまう。これが、戦前において中国大陸でしたことであり、戦後での途上国へのセックスツアーなどに見られる日本人の行動様式である。
 著者は、これを日本人の自我の未熟性のためであり、本来は他者への想像力は確固たる自己を前提にするのだが、日本人は自己中心性や甘え合う一体感を前提にした「拡大された自己中心」の幼児的世界にいるためだと指摘する。

・日本の犯罪の少なさの理由(206~208頁)
 よく知られているように、日本は他の先進国に比べて、著しく犯罪件数が少ない。著者は、次のように、その理由を列挙している。
(1)文化的同質性が高く、均質で統合性の高い国家であり、多くの日本人が現状に満足している。
(2)家族・地域・職場などへの帰属意識が強く、「ウチの恥」になることをしない、という発想が強い。
(3)凶器の入手が困難で、自分の身は自分が守るという発想が弱く、警察に頼ろうとする。
(4)草食民族で、攻撃性向が弱い。
(5)交番制度が、地域の防犯活動の拠点となっている。
(6)テレビが、貧困や社会的地位の明確化を刺激するよりも、相互の同一感や一体感を高めるような内容で、対象との同一化を促している。
 以上のような理由を列挙していて、首を傾げるような、また時代の変化を感じさせるものもあるが、著者が言うには、これらの裏を返せば、先に指摘した「拡大された自己」のような甘え構造と同様に、日本人の犯罪は、対象への要求が強く、それを受け入れられなかった場合の怒りや恨みの表現として犯罪が行われることに特徴があると指摘する。

コメント
 
ある犯罪者の分析の際に、犯人の母親が若い頃から性的放縦で精神異常の疑いがあり、遺伝的問題がある、と述べてしまうあたり、著者の怖さを感じるが、この辺が著者の犯罪者を憎むあまりの決め付けをしてしまい「足利事件」の冤罪のようなものを生んでしまったのかもな、とも思った。

評価 ☆☆


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