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岩波文庫

2016年11月25日 (金)

荒畑寒村『寒村自伝』つづき

承前 

 こうした戦後の政治的・思想的混沌状況の中で、寒村の友人の小堀甚二の再軍備論が興味深かいです。小堀は、戦前のプロレタリア文学者であったが、右派主導の日本社会党に不満で、寒村や山川均、向坂逸郎らと社会主義労働党準備会を立ち上げた人物でした。しかし、小堀が、ここで再軍備論を主張したために分裂し、解散に至ったのですが、その主張が興味深いのです。

 この労働党準備会の中で、もっとも「進歩的文化人」のような発想をするのは向坂逸郎で、彼はソ連は社会主義国であるから侵略はしない、だから日本に軍備は必要ない、という主張です。山川均は、そこまで思い切りは良くなく、ソ連が社会主義国だから侵略をしないとはいえないが、日本が軍備を持つとかえって侵略の対象となりかねないので、軍備は持つべきではない、と結論は向坂と同じです。

 こうした再軍備反対論に対して小堀は、次のように述べます。

「日本には今でも厳として軍隊があって、ブルジョア秩序の維持に当っている。しかも普通の軍隊とちがって、この軍隊は単にブルジョア秩序の維持に当っているだけでなく、他国の権益の維持にも当っている。占領軍がそれだ。/われわれは講和条約締結後、この外国軍隊を、日本人によって組織された最大限に民主主義的な軍隊とおき替えようというのだわれわれは観念の中でなら、軍隊のない国家を想像することもできる。しかし現実の世界では、自国民で組織された軍隊がなければ、他国の軍隊がこの真空状態をうずめる。だから自国民で組織された軍隊を否定することは、外国軍の駐屯を肯定することだ。だからまた、それは日本の植民地化を肯定することであり、あり得べき第三次世界大戦において少なくとも日本国土の戦場化を肯定することでありまた日本の労働者階級に対して社会主義のための闘争を断念することを要求するものだ。」(422頁)

 つまり、駐留米軍という資本主義世界の秩序維持部隊であり、かつ日本の植民地化を促進する軍隊を撤退させるためには、日本人自らが軍隊を持つべきだという主張です。彼の言う「最大限に民主主義」的な軍隊とは、宣戦、動員、召集を国民代表の議会が掌握するものを指します。また、モデルとしては、明治国家の師団化する前の鎮台兵であり、また民兵制度を考えています。つまりは、防衛目的のみの全国民参加の軍隊というものです。過去において、こうした発想は中江兆民の「土着兵」構想に見られます。

 小堀のこの考え方は、社会主義実現という目的に奉仕するものです。というのも、資本主義世界の代表である米軍が日本に駐留している間には、どう考えても日本の社会主義化は不可能です。この点は、他の現在に至るまでの基地闘争を行っている左翼運動家と同じでしょう。左翼運動家は米軍を撤退させた後には、非武装中立、または裏の目的としてソ連などの社会主義国の日本への侵入がその真空状態を埋めることで、日本の社会主義化を可能にするとします。しかし、小堀は、第2次大戦前後からのソ連の東欧への侵略を批判していますし、朝鮮戦争は当時としての珍しく明確に北からの南への侵略を明言して批判しているように、社会主義国建設は他国の力を借りるのではなく、自らの力で勝ち取るものです。ですから、米軍の撤退と自国軍建設は表裏一体なのです。軍備を持たないことは米軍か、ソ連軍を呼び込むことにしかならないのです。「今日の再軍備反対論者」は「無意識に侵略国家に奉仕している」も同様と指摘されています(434頁)。さらには、次のようにも述べています。

再軍備問題について何らの積極的意見をもたず、ただ反対反対と叫ぶことによって、再軍備に関する一切のイニシアチーヴを保守勢力に委ねている」(425頁)

 つまり、再軍備について真面目に考えないということは、保守勢力の永続支配を認めることにしかならずに、結局ところ、社会主義国建設を真面目に考えていないということになるというのです。

 こうした小堀の構想が左翼勢力の中で合意を得ることができたら、戦後日本は随分と変わったものとなったでしょう。楽観的には、最左翼が再軍備論を唱えたので、日和見のリベラルも軍備に関して真面目て考え出して、他の自由世界の中での社会民主主義政党のように米国と協調しつつ、社会主義政策を実現する政党ができていたかもしれませんし、極端な場合だと、日本に小堀らの社会主義勢力が政権を取って、社会主義の一党独裁政権ができていたかもしれません。どちらにしても、現在よりも安全保障についての議論の風通しの良さがあって憲法の改正が行なわれていたかもしれません。それが良いかどうかは分かりませんが、現実に政権担当が可能な政党が一つしかない状態や憲法解釈を官僚に委ねるような現実の戦後日本よりも「民主」的な政治運営が行なわれていたでしょう。

 しかし、こうした小堀の議論は、受け入れられるものではありませんでしたし、これをきっかけに社会主義労働党準備会も解散を余儀なくされます。本書の主人公である荒畑寒村は、小堀に同情的ではあるものの、現実に侵略の危機があるとは思えないという情勢判断の下に、再軍備には反対の立場でいました。とはいうものの、寒村は、小堀と山川均・向坂逸郎らとの対話は可能で、落とし所があるであろうと考えていたそうです。しかし、その見通しは甘く、分裂していまします。その点について、寒村は次のように指摘します。

「私はこの問題に関する主張の相違は、もっと自由な相互の討議によって調整できると信じていたが、そういう親切な同志的な方法をとらないで直ちに準備会と絶縁した山川君の態度を、私は深く遺憾とせざるを得なかった。意見の相違を、同志的な愛情と理論的な究明によって、徹底的に解決しようとはせず、排斥するのでなければ黙殺するのが日本の社会主義者の悪い伝統だ。」(431頁)

 ここが問題ですね。現在も同様だと思います。これは、多分、左翼だけの問題ではないと思います。おそらく右翼の方もそうでしょう。福澤諭吉は、幕末にイギリスに出かけた時に、違う政党に属して対立している者同士が親しく食事をしている姿を見て、理解するのに数日かかったと『福翁自伝』で述べていますが、日本の政治運動の世界はまだまだ封建社会の住人なのでしょう。こうしたところを乗り越えない限り、融通無碍な保守政党に勝つことは出来ないでしょう。でも、まぁそれでこそ左翼であり、右翼なのですが、それを薄めたリベラル勢力がそんななのだから、いかんのでしょうけどね。

 それはともかくとして、本書はなかなか興味深い社会主義運動の裏面史を垣間見せてくれる良書です。

評価 ☆☆☆


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2016年11月24日 (木)

荒畑寒村『寒村自伝 下巻』

点検読書243

岩波文庫(1975年12月16日)刊


日本史――自伝


サンディカリズムに傾倒した大杉栄と決別し、日本共産党結成へと荒畑寒村は同士らと動く。そして、その結成を報告するためにモスクワへと旅立つ。下巻は、ロシア行きと労農派の動向、戦時下と戦後の社会主義運動の内幕を語る。


5部構成

1:第一次日本共産党結成(1)

2:ロシア周遊(2~5)

3:共産党解散と『労農』(6~8)

4:戦時下(9)

5:戦後の社会主義運動(10~14)

コメント
 上巻は、随分前に読んだのですが、やっと下巻に目を通すことができました。しかし、期待していたほど、戦時下の社会主義者の動きや「あの戦争」についてのコメントがそれほどないな、という印象を持ちました。
 というのも、戦後の記述で、野坂参三が「戦争中、反戦運動をしたのは共産党だけだった」と述べたのですが、寒村の感想としては「そんな事実が果たしてあったかなかったか、海外に亡命していた野坂君よりも空襲下の日本に生活していた私たちの方がよく知っている」(349頁)というものでした。つまり、特に目立った運動などはなかったので、それを書いていないだけのようです。それだけでも本書は、無意味な「神話」に彩られていない誠実な記録とも言えます
 また、生粋の左翼である寒村は、党派的に発言をするのではなく、社会主義者の原則としてものを考えるために、戦後の堕落した共産主義者・社会主義者には痛烈な批判をしています
 例えば、彼の共産党への反感は、彼らの「祖国」であるスターリン支配下のソ連に対する甘い味方をするところに向けられます。

「スターリンは他国と他民族を併呑掠奪しながら、偽善的にもなお平和を唱えているのだ。そして各国の共産党はソ連の行動を是認し、日本に原爆が投下された時、彼らの機関紙は筆をそろえて称賛したではないか。日本が他国を侵略するのはもちろん悪い。だが、ロシアは果たして日本を侵略していないか。単に社会主義国という金看板に眩惑されて、こんな資本主義国の侵略政策と選ぶところのない不正不義に憤慨も、反対も、糾弾もしない社会主義者なんて犬にでも食われるがいい。」(351~352頁)

 これと同様のの趣旨として、「進歩的文化人」批判も痛烈です。

わが国でも、思想と表現の自由を守る護民官である筈のいわゆる進歩的文化人が、戦争の間は軍部の侵略政策に尻尾をふり、戦後は面をおし拭って民主主義を唱えている。かつてはヒットラーを神格化し、国民の自由と人権を絞殺したナチスの虐政に迎合した彼らは、今やスターリンを神の如く崇拝し、中世の異端焚殺の如き血の粛清と強制収容所の奴隷労働とをもって、思想と表現の自由を弾圧しているソ連の全体主義体制に対しても、批判の口を閉ざすことを進歩的と考えている。社会主義者の中にさえ、ソ連に対する批判をただちに反動的と認めるような傾向がある。こういう日本の文化的風土に反対して、民主的自由のためにたたかう運動の意義は、決して欧米に劣るものではない。」(437~438頁)

 かつて冷戦時代には、「アメリカの核は悪の兵器、中ソの核は善い兵器」ということが公然と言われていたそうですが、荒畑寒村のように主義思想に生きる人間にとって、こうした空気や属人的な価値判断に左右される無原則な大衆的知識人は度し難いものたちであったのでしょう。

 また、社会主義者・寒村の本領が発揮されるのは、現憲法を保持して社会主義建設などできない、とはっきりと述べているところです。「現在の憲法は生産手段における私有財産制、階級的支配、賃金制度の労働力搾取を含意する資本主義制度の上に存している」(482頁)のだから、社会主義政党が議会多数派を制した暁には、当然のごとく憲法を改正して社会主義国家建設に勤しむとします。

 しかし、当時の社会党は、耳に心地よいことしか言いません。社会主義国家建設という原則よりも、世間からの批判を恐れているからです。

それもこれも、ひっきょう社会党がジャーナリズム恐怖症にかかり、社会主義の究極目的、革命の必然的段階である独裁政権を、大胆に公言することを憚っているからだ。革命は一の階級がその意志を他の階級に強制するものであって、議会主義的民主主義からの飛躍なしには行なわれない。その意味で、革命の本質は暴力的であり、現に民主主義そのものが暴力革命の所産ではないか。」(482~483頁)

 ここまでいってもらえる気分がいいものです。自分たちの原理原則から考えれば、憲法改正を主張すべきなのに、護憲政党で通そうとするところに欺瞞があります。こうした欺瞞に加えて、日本の左翼・リベラルが信用されないのは、先に指摘さていたように、あまりに党派的であることに加えて、批判を恐れて耳障りの良いことをいって、平気で嘘をつき、さらにそれが嘘であることを忘れて、嘘を本気で主張し始めることでしょう。その最たるものが、民主党政権でした。彼らは、本当の目的を隠して嘘をついて政権の座を占めたというよりも、嘘を本気で信じてしまって確固たる原則もプランもなかったので、何もできずに結局のところ官僚にいいように取り込まれるという政権でした。
 寒村のような確信的左翼は、支持する気はないものの、やはり人間、原則を信じることが最も裏切られることの少い正直な生き方を可能にするのでしょうし、周りから見ていても気分が良いものです

つづく

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2016年11月23日 (水)

トク・ベルツ編『ベルツの日記(上)』つづき

承前

明治33年5月9日
「一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいいながら伊藤は、操り人形を糸で躍らせるような身振りをしてみせたのである。」(204頁)

 有名なベルツのコメントです。これを読むといかに伊藤博文が、皇室を軽んじているかのように見えるが、この皮肉の対象は皇太子ではなく、有栖川宮をはじめとする天皇家周囲の皇族と貴族たちに向けているのかもしれません。ベルツは、次のように続けています。

こんな事情をなんとかしようと思えば、至極簡単なはずだが。皇太子を事実操り人形にしているこの礼式をゆるめればよいのだ。伊藤自身は、これを実行しようと思えばできる唯一の人物ではあるが、現代および次代の天皇に、およそありとあらゆる尊敬を払いながら、なんらの自主性をも与えようとはしない日本の旧思想を、敢然と打破する勇気はおそらく伊藤にもないらしい。この点をある時、一日本人が次のように表明した。「この国は、無形で非人格的の統治に慣れていて、これを改めることは危険でしょう」と。」

 これを読んでみると、ベルツが感じた伊藤の「放言」とは、皇太子の自由を束縛している皇族の「礼式」について述べているのであって、伊藤自身が天皇や皇太子を操り人形と考えているわけではなく、周囲の皇族が操り手として批判の対象となっているとも読めます。というのも、それ以前に次のような記述があったのです。

3月23日
「本日、葉山御用邸で東宮に関して、すなわちその健康状態が五月の成婚にさしつかえないか、どうかの点について、重大な会議があった。橋本、岡の両医に同意を表して自分は、わずかの懸念はあったが、さしつかえなしと述べた。懸念とは、体重が昨年の程度にどうしても達しないことである。しかし天皇への報告では、この点にはっきりと触れてはならないことになっている。それは、誰よりも天皇が、まず東宮の体重の増すことを望んでおられるからである。伊藤侯や、有栖川宮や、側近の人たちは、もはやこれ以上成婚を延ばすことはできないという意見なのだ。それというのも、あらゆる東洋の風習とは全然反対に、東宮が成婚前に他の女性に触れられないようにすることに決定をみたからである。そんな次第で自分も、一般の事情や特殊の事情から見て、早い成婚が東宮に良い影響をもたらすだろうと思う。」(197頁)

 つまり、皇太子、のちの大正天皇なのですが、結婚前の性体験は許されないと決められたために、早めに結婚させた方が良いという記述なのですが、この点が名うての好色漢である伊藤博文などには、「礼式」に縛られた「操り人形」と思えたのかもしれないのです。この決定というのが、どういうプロセスで、誰に決定権があったかは分かりません。近世に比べて、天皇の血統というものの重要性が格段に増加したという事情と、「万世一系」という神話を守るためにも、必要な処置だったのでしょう。しかし、伊藤にその決定に参加していないとすれば、こうした感想をもって、他の皇族に当てこすりをするのも分かる気もします。こうした点を考えると、この伊藤の「放言」は、傲慢な元老の発言というよりも、天皇といえども一定の自由は許されるべきだと考えるリベラルな忠臣・伊藤博文という印象にもなります。この点の専門家の知見はどうなっているのでしょうか。

 次は、義和団事件についての母国ドイツの動向についてのコメントです。

明治33年8月1日
「ドイツ皇帝は、清国派遣軍の出発に際して一場の演説をされたが、その演説がまた、あらゆるドイツ人を赤面させずにはおかないものなのである。皇帝はこういわれたそうだ「捕虜は無用だ、助命は不要だ!」と。すなわち、暴徒と化した清国兵が、かれらの国土の一角を平和の最中に奪い取った強国の公使を殺害したからといって、自身のキリスト教を到るところで表看板に押し立てているキリスト教徒の君主が、相手の清国の罪のない人たちを――たとえ武器をすてた場合でも、かまわないから――殺してしまえと命令しているのだ! こんな文明にはへどが出る! それでいて将来、この同じ国で自己の勢力をはりたいというのだ! このような考えの残忍・非道徳極まる点を度外視するとしても、すでに政治的見地からいって狂気のさたである。事実、やり方が狂気のさただ――つまり、われわれの敵すべての手に、われわれを亡ぼす武器を計画的に握らせるというやり方!」(220~221頁)

 ベルツは、若き日には統一ドイツを目指す運動に参加し、さらに普仏戦争にも志願して従軍する熱烈な愛国者なのですが、当日記に書かれている母国への評価は非常に厳しい。詳しいことは知りませんが、おそらく統一ドイツにおける自由主義派に属していたのかもしれません。そうした目から見ると、とりわけビスマルク退場後のヴィルヘルム二世の政治姿勢には憤懣が堪えなかったという雰囲気が伝わります。
 その上、以上の発言です。これは19世紀最後の年の発言です。20世紀に入ると大日本帝国の一部の将兵が同様のことを考え、さらに実行してしまって、問題になり続けていることはよく知られています。現在でも、「捕虜」の定義等々で責任に対して否定的な向きがありますが、「武器を捨てた」無抵抗な「暴徒」を殺害することは、恥ずべきことと考えるのが常識的な「文明人」の考え方です。帝国主義真っ盛りの時代の知識層の考えがそうなのですから、現在ではさらにそうでしょう。その点を考慮に入れて、諸外国に対して「愛国活動」をしてほしいものだと思います。過去はどうにもならないのですから。

 下巻は、まるまる日露戦争のことらしいです。そのうち、アップします。

評価 ☆☆☆

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2016年11月22日 (火)

トク・ベルツ編『ベルツの日記(上)』

点検読書242

訳者は菅沼竜太郎。
岩波文庫(1979年2月16日)刊


日本史――明治時代


明治9年にお雇外国人として訪日したドイツ人医師・エルウィン・ベルツ(1849~1913)の日記。上巻は、来日した明治9年から日露戦争前夜の明治37年2月3日まで。


6部構成

1:エルウィン・ベルツ小伝

2:訪日(明治9年から15年)

3:憲法発布から日清戦争の時代(明治21年から32年)

4:教職を退く(明治33年から35年)

5:インドシナ・韓国周遊記(明治35年から36年)

6:日露戦争前夜(明治36年から37年)

コメント
 本書は、とくにコメントすることもなく、興味深いところを抜書きすれば、その魅力は伝わると思います。

明治9年10月25日
「ところが――なんと不思議なことには――現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした〔言葉そのまま!〕」とわたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。なかには、そんな質問に戸惑いの苦笑をうかべていましたが、わたしが本心から興味をもっていることに気がついて、ようやく態度を改めるものもありました。」(47頁)

当時の日本人の雰囲気について、よく引用される有名な箇所ですね。最後のところを読むと、外国人に対する羞恥心と警戒心から本心を隠しているとも読めますが、こうしたスッキリした日本人のメンタリティが新しい環境に急速に馴染むことのできる特質を作っているのかもしれませんが、過去を学ぶことをしないので、何度も同じ話題について最初から同じ議論をして以前の議論から積み重ねることができない、という残念な傾向も作っているかもしれません。

明治9年11月3日
「当地もだんだんと居心地が悪くなってきた。騒乱がいよいよ不気味に拡がってゆくからである。今では首都ですら、もはやあてにならないと政府が認める有様である。先日のこと日本橋附近で、下総に渡るため舟を雇おうとしていた十四名の士族が、大格闘ののち警官隊に取抑えられた。警官二名が殉職した。千葉県で大暴動を計画する書面が、かれらの手もとから発見された。・・・・・・首都に事実大暴動が起こって、暴徒の一群が外人の家を略奪し、これを虐殺することを思いついたとしたならば、われわれはまったく処置なしである。」(52頁)

これなども面白いです。現在の紛争後の途上国へ赴任した人の気分というのは、このようなものなのでしょう。現在の我々は、過去にこうした「危険」な国だったことを忘れがちで、諸外国のことを見てしまいますが、他人事ではなかったのでした

明治11年3月17日
「築地、島原の劇場へ。『西郷と鹿児島の変』、すなわち昨年の事件が上演されていたが、その芝居たるや、朝の六時から晩の八時まで続き、日本人を極度に熱狂させている。だがわれわれ西洋人にとっては恐ろしく退屈なものである。」(70頁)

しかし、西南戦争の翌年とは早いですね。これは戦勝を祝う気分なのか、西郷人気なのか、反政府気分の強さなのか。そのあたりが気になるところです。

明治22年2月16日
「日本憲法が発表された。もともと、国民に委ねられた自由なるものは、ほんのわずかである。しかしながら、不思議なことにも、以前は「奴隷化された」ドイツの国民以上の自由を与えようとはしないといって憤慨したあの新聞が、すべて満足の意を表しているのだ。」(138頁)

このあたりも有名な記述です。決まるまでは、大騒ぎするものの、決まると沈黙する、という現在の日本人にもつながるいい加減さがあらわれています。

明治22年3月19日
「憲法で出版の自由を可及的に広く約束した後に、政府はすぐその翌月、五種を下らぬ帝都の新聞紙の一時発行停止を、やむを得ない処置と認めている。それは、これらの新聞紙が森文相の暗殺者そのものを賛美したからである。それどころか、詩を作って、西野の予定した第二の犠牲者芳川がまだ生存しているのを遺憾とするという意味が述べてあった! 上野にある西野の墓では、霊場参りさながらの光景が現出している! 特に学生、俳優、芸者が多い。よくない現象だ。要するに、この国はまだ議会制度の時期に達していないことを示している。国民自身が法律を制定すべきこの時に当たり、かれらは暗殺者を賛美するのだ――森の行為に対して、いかなる立場をとろうとも、それは勝手ではあるが。」

このあたりも日本人のテロリスト好きというよりも、反政府気分が強い、というところに理由があるのでしょう。次に紹介するように、日本人が明治政府を自分たちの政府だと考えるようになったのは、日清戦争という国民戦争を経てなのでした。

ベルツの手記『明治時代』より
日本では一八九〇年代(明治二十三年から三十二年まで)に共和主義の時流が、どんなに強大であったかを知っているものでない限り、局外者にはまったく理解できないことである。・・・・・・福沢(諭吉)はこの国の重要な人物で、政治の圏外では最高の有力者であり、「日本の教師」なのである。この福沢がある大きいアメリカの雑誌の通信員に対してこう言明した。「わたしは、自由なお国に感嘆はしていますが、しかしわたし達自身には、まだ共和政の機が熟してはいないのです。だから、天皇がおられるのです。だが信じて頂きたい――現在すでに、政治に関して天皇の発言を必要とする場合は、イギリスの女王と比べてもその度合は少い位です」と。この言葉は一八九〇年代(明治二十三年から三十二年まで)の教養ある日本人の大部分の気持を代弁している。こうした気分を察知した政府は、全国民のために一致団結の結束をうながす機会が、運命によって新たに与えられる――つまり韓国を原因とする清国との戦争という形で――までは、柔軟な対応が賢明であると考えた。そしてこの日清戦争は政府の希望どおりの結果になった。すなわち日本全国民は一致団結し、国軍の勝利に熱狂したのである。以前は憎まれて、いろいろと悪く言われていた「元老」を首脳とする薩摩、長州の政治家たちは、海陸にわたる日本の名声を世界中で高めた。国粋的感情が目ざめて、外国のものすべての盲目的な模倣に対する健全な反応が始まった。自由諸国の美点に耳を傾けるものが、はるかに少なくなった。議院内閣制の政府を目指す最大の絶叫者たちは、控え目となった。・・・・・・巨人清国に打ち勝った、この世界驚嘆の勝利への、更に深い根底を、日本人特有の性質の中に求めたのであるが、この日本人気質には、「皇統連綿」の皇室もまた、大きい枠割を演じていた。こうしてこの日本人気質は、国家の危急存亡のとき一段と強く発揮されるのである。天皇の人格が全面に押し出されることが、だんだん多くなってきた。学校や役所にはいずれも、天皇の写真が掲げられていて、今ではこれに祝祭の折、おじぎをしてあいさつせねばならないのである。日本の青少年の、あらゆる道徳教育の基礎を示す勅語(教育勅語)が出たが、その中で天皇は、国民の一種の父親として表されている。こうして天皇を国家の、ある程度概念的で象徴的な代表として崇拝する観念を、太古からの古びた土地ではあるが、今や改めて有利に準備を施した国土に、十分意識して植付けたのである。このような日本の指導的な為政者の企画が完全に成功を収め、時としては、企図した程度以上の成果を挙げた事実は、誰にも否定できない。」(187~189頁)

 長くなりましたが、日清戦争によって、明治の日本がガラリと変わったことが述べられています。最初に引用した自分たちには歴史はない、と述べていた日本人が日本の歴史に目覚めるわけです。これは単なる移り味の早さではなく、まさに日清戦争の勝利という歴史をつくったがために、日本の歴史をあらためて振り返ることができたといえましょう
 しかし、この福沢の発言というのは、どこかに根拠があるのでしょうか。

つづく

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2016年6月10日 (金)

樋口一葉『たけくらべ』

点検読書206

樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』(岩波文庫、1961年改版)所収

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2016年6月 7日 (火)

樋口一葉『にごりえ』

点検読書204

樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』(岩波文庫、1961年改版)所収。

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2016年5月24日 (火)

『フランクリン自伝』

点検読書198

松本慎一・西川正身訳
岩波文庫(1957年)刊


自伝


科学者であるとともに出版業者、哲学者、経済学者、政治家でもあったベンジャミン・フランクリンの自伝。蝋燭・石鹸製造の父のもとでの修行から始まり、印刷工をしながら著述活動を行い、経営者となり、州会の役人、義勇軍連隊長などを経験し、州会を代表して領主との交渉のため英国に滞在するまでが述べられる。自伝としては未完成ながら、フランクリンという人格を形成した「成功」の哲学の書として読み継がれてきた。


六部構成

1:少年期から修行時代(第一~三章)

2:経営者時代(第四~五章)

3:成功の哲学の習慣(第六~七章)

4:州政府の役人として(第八~十二章)

5:付録「富に至る道」

6:対照年表

コメント
 
本書解説において、フランクリン自身のあまりの楽観的な人生哲学に、自分の悩みの共感がほしいと思って人生の書を紐解く人には不満であろうから、「アメリカ資本主義の揺藍史」として読まれるべき、と書かれています。
 たしかに、本書の主人公フランクリンは、「同じ生涯を繰返せと言われたら、承知するつもりである」(8頁)と自身の人生を「この幸運な生涯」と称しているだけあって、悩みがないような自伝です。しかし、それは、彼が単に悩みのない幸運な人生を送ったのではなく、いかにして悩みなく人生を過ごすか、という人生哲学を確立したことの結果として、楽観的な自伝となっているようです。
 そうした彼の人格を磨くための刻苦勉励の例が、第六章の「十三徳樹立」です。彼は、正しく生きることが自身の利益になると考えましたが、単にそれを理念として自分に課すのではなく、習慣として自身の中に植え付けることを考えます。そこで考えたのが、節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、平静、純潔、謙譲という十三の徳です(137~138頁)。

第一 節制
飽くほど食うなかれ。酔うほど飲むなかれ。

第二 沈黙
自他に益なきことを語るなかれ、駄弁を弄するなかれ。

第三 規律
物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。

第四 決断
なすべきことをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。

第五 節約
自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。

第六 勤勉
時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。

第七 誠実
詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出だすこもまた然るべし。

第八 正義
他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。

第九 中庸
極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。

第十 清潔
身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。

第十一 平静
小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。

第十二 純潔
性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これに耽りて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。

第十三 謙譲
イエスおよびソクラテスに見習うべし。

と列挙し、一週間に1つずつ実現できるように自身に課すのです。十三週間で一周りし、一年で四周できますので、その間にこれらが習慣として身につくというのです。
 ちなみに「謙譲」の詳しい説明は、少し後に書かれていて、自己主張をしないということを意味しています。つまり、相手の間違いを指摘したり、断定的な物言いは避けるということです。相手が明らかに間違っていても、「時と場合によってはあなたが正しいかもしれないが、今回はこう考えてはどうだろうか」など、遠回しに諌めたり、「絶対に」とか「間違いなく」といった言葉は使わずに、「と私は思う」とか「と私は想像する」など遠慮がちに意見を言うということを意味しています。イエスやソクラテスが、そうした人物だったかは微妙な気もしますが、議論を仕掛けたり、自分の意見というものを相手に押し付けるようなことはしないようにしよう、ということでしょう。
 また、本書は、ご丁寧にこの習慣のノートの記載方法まで載せられていて、実行を迫ります。そう考えると本書は自己啓発書の元祖のような位置づけもできるでしょう。フランクリン自身も述べているように、自身の幸福な人生は、こうした「工夫」によって生きたためだ、としています(147頁)。だから、悩みを悩みとして生きるのではなく、悩みを克服し、人生哲学を確立して、それを習慣にすれば、悩むこともない、という非常に楽観的な生き方ができる、ということになります。
 こうして考えると、変化が多くそれに対応するために悩み多き資本主義社会で生き抜くための精神修養法の原点を本書に見るように思えます。つまり、自己啓発大国アメリカの原点であり、近年は少々変わってきたのかもしれませんが、快活で精力的なアメリカ人の原点が本書にあるのかもしれません。

評価 ☆☆☆☆

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2016年1月30日 (土)

穂積陳重『復讐と法律』(岩波文庫、1982)

点検読書112

原著は1931年。


法学


人類のみならず生物一般は、自己または自己に関わるものへの攻撃に対して報復をする性質を持っている。国家権力に代表される公権力の目的は、社会治安の維持にある。しかし、統一国家の不在など、公権力の制御や範囲が限定的な場合、公権力は紛争の被害者各人の自力制裁によって補完される必要がある。そのため、公権力が弱体な時代において、復讐(=敵討)は道徳的にすぐれたものとして称揚される。著者は、人間の本質における報復感情と公権力弱体時代における補完的な治安維持機能として、復讐は容認されていたが、公権力が整備・充実した時代となるに従って、復讐義務者の制限、政府による事前承認の必要、敵討から賠償への転換、復讐禁止時代へと法が進化してきたことを明らかにする。すなわち、「法の起源は自力制裁の公力制裁に転化するにあり」(245頁)。


四部構成
1:「法の起源に関する私力公権化の作用」(1916年)
 法の起源は、私的制裁の公的制裁への転換と捉え、刑法の起源は復讐、民法の起源は差押にあるとして、主に日本における「敵討」の伝統の武士道、儒教、封建制(分権制)からの影響を述べ、明治維新後の統一国家化に応じて、江藤新平司法卿の果断によって「敵討」が禁止されたところまで論じる。

2:「復讐と法律」(1921年頃)
 キリスト教圏・イスラム教圏・儒教圏はもちろんのこと、南北アメリカ・アフリカ・南太平洋地域の諸民族の報復=復讐から法律への進化する過程を論じる。著者のライフワークであった『法律進化論』第一部「法源論」中の「原力論」の未定稿。

3:「差押は民事法の起源なり」(1911年)
 民事法の起源は、自力制裁による差押にあるとして、個人の力による強奪・押領から集団の力、公権力による差押までの進化の過程を述べる。

4:「刑法進化の話」(1888年)
 刑法は復讐の進化したものであるという主張の下、復讐の時代、復讐制限の時代、賠償の時代、刑法の時代と進化の過程を述べる。賠償によって復讐に替える時代の特徴として、貨幣の登場を挙げ、「貨幣は貿易の媒なり」という経済学者の格言から「貨幣は平和の媒なり」と貨幣経済の登場が復讐の廃止につながったとの指摘をしている。

メモ
日本における復讐
「復讐は人類社会の一般的現象なるが故に、いずれの国にも存在したものではあるが、特に本邦においては、文化がよほど高等の域に達したる時代まで存在したものである。即ち文化の進度に比較して、永くこの現象の持続したのは本邦を以て第一とすべきである。その理由として、私は第一に武士道を重んじたること、第二に支那の徳教即ち儒教の影響したること、第三に封建制度が存在して法権の統一を欠きたること、この三つを算えようと思う。」(30頁)

「赤穂義士」の影響
「平出鏗二郎氏の著『かたきうち』に拠りて慶長十年より元治元年に至るまでの間にあった七十八件の敵討の場合について見るに、その中にて士の敵討は四十七件あって過半数を占め、平民の敵討は都合二十六件にて、その中農民は二十件、工商は四件、その他が二件であり、その他不明が五件であるが、これを元禄以前及び元禄以後に区分して見ると、元禄以前は士二十二件平民一件であったが、元禄以後においては士二十五件平民二十五件で、同数となっている。此の如く、元禄に赤穂義士の敵討があってより後に至って、平民の敵討も多く行われるようになったのは、すこぶる注意すべき現象であるが、此の如きは畢竟復讐を以て美徳となし、善行となして、これを賞讃奨励したのによるものであって、復讐の観念が武士階級は勿論百姓町人に至るまで如何に深く人心に浸潤していったかは、前記の事実によってこれを知ることが出来る。」(32頁)

平安時代の「死刑廃止」と復讐の復活
「平安朝時代に入りて以来、死刑の永く廃止せられたりし一事は個人をして私力報復をなすに立ち至らしむるに与って大いに力ありたるものの如し。」(100頁)
→弘仁元年(810年)の薬子の変における藤原仲成の処刑から死刑を行わなくなった上、弘仁十三年(822年)には死罪にあたるものを十五年以内の苦役にあてることにした勅によって死刑は廃止に。保元の乱の源為義の刑死(保元元年〔1156年〕)まで死刑は行われなかった。


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2016年1月 9日 (土)

ランケ『政治問答 他一編』(岩波文庫、1941)

点検読書92

訳者は、相原信作。


政治思想


啓蒙思想でも反動思想でもない実証的な歴史学の手法で、国家の本質をつかみ、それを踏まえた政治を考える。


本書は「政治問答」(1838年、5~58頁)と「歴史と政治との類似及び相違について」(1836年、59~83頁)が収録されている。前者は六部に区分できる。
1:「中庸」とは何を指すか。
2:理念・社会情勢が国家の性格を決めるということ。
3:普遍的な一般理論ではなく、個別の国家を歴史的・実証的に観察する必要があること。
4:国家は個性を持った実体として把握すべきこと。
5:国家と国民との関係。
6:国家と教会との関係。
後者は、歴史によって把握された国家の性格に基づいて政治を行う必要について。

メモ
歴史とは(67頁)
「我々は、歴史の職分は事実の集積やその聯絡によりもむしろ其理解に向けられてゐるものなることを主張する。歴史は或人の云ふやうに記憶にのみ関係するものでは無く、何よりも先づ理解力の鋭さを要求するのである。」

歴史の目指すもの(67~68頁)
「事件の原因と前提とを、次に又其帰結と結果とを観察し、人間の諸計画をば、或人々を没落に導く邪路と他の人々を勝利せしめる賢明さを併せて詳しく識別し、何故に一人は頭を擡げ他の一人は敗れるか。如何にして諸国家は或は強大と成り或は解体するかを認識すること。一言で云へば、諸事象の隠れた原因を其等の表面に現れた明らかなる形態と同じやうに徹底的に把握することが残ってゐるのである。何故なら実にこれこそ歴史の目的であり、歴史なるものの目指すところは何よりも先づ此処にあるからである。」

歴史と政治(75頁)
「歴史の職分は国家の本質をば前時代の諸事象の系列から説明し理解させることであり、これに対して政治の職分は、かくして得られた理解と認識とに基づき国家本質の一層の発展、完成に尽すことである。過去の知識は現在への理解無くしては不完全であり、現在への理解は過去の諸時代に就ての知識無くしては有り得ないのである。」

啓蒙哲学批判(80~81頁)
「蓋し前世紀の哲学者達の誤謬は、思考によつて一つの普遍的教義を案出し、すべての国家が其れに依つて統治されなければならぬと考へたことであつた。個々のものを認識するに必要な研究の粘り強い操作は彼等に依つて回避された。彼等は否定すべくも無く久しい間多数の国家を蝕み来つた公共的諸問題の腐敗堕落を憎む余り、すべてを一個の空想的最良国家形態の輪郭通りに改造しなければならぬと思い込み、千差万別の各民族に対して全然同一の法を押しつけ唯一共通の国家形態を提議したのである。そして凡そ出来る事なら如何なることでも手当り次第に試みたのであるが、就中彼等が最も高貴な、第一に為さるべき仕事と考へたのは、古来より連綿として存立せる諸制度を動揺させ引き続き絶滅させることであつた。彼等の予言に従へば、実に其処からこそ普遍的幸福の端緒が得らるべきであり、若し可能ならば黄金時代の復活も其処から起るであらうと云ふのであつた。しかし乍ら其後間も無く彼等は、人間社会の成立に役立つた原本的基礎的な諸要素を動揺させ分裂不和の中に投げ入れる所行は処罰無しには済まないものであることを身に体して分つた。彼等は、それぞれの国家には、暴力や暴力沙汰によつて後退せしめられることはあつても決して容易には全く絶滅廃棄され得ないやうな各自独特の特殊性格なるものがあることを教へられた。そして最後に彼等は、彼等自身の嘗めた数々の辛酸を通じて、外ならぬ彼等自身の煽動に依つて蜂起した最下等人達の所有欲と権勢欲とが一体どんなものであるかを悟らしめられたのであつた。さればこそ此等の空想的哲学者たちは、空気を清掃した功はあるとは云へ、同時に測るべからざる災禍を人類の上にもたらし、今日も尚スペインに於ける如く国家に害毒を流しつづけてゐるのである。」


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2016年1月 4日 (月)

猪俣津南雄『窮乏の農民』(岩波文庫、1982)

点検読書88


経済思想


昭和恐慌下の農村社会の現実の姿を、マルクス経済学者の視点で具体的に描写。


三部構成。
初篇:全国の農村を、①養蚕農村、②米作農村、③多角形農村(畑作農村)、④工場・家内工業のある農村、⑤山村、⑥漁村の六つの類型に分けて強硬の影響を分析し、また内部における階層の違いにも着目している。
中篇:政府の農村政策、特に農村経済更生運動をとりあげ、末端の農村でどう受け止められたかが述べられている。
終篇:総括部分として、小作争議に現れる地主・小作の階級対立の諸相と農民運動のあり方について述べられる。


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