ブログランキング

Amazonサーチ

無料ブログはココログ

世界史

2016年11月21日 (月)

竹下節子『キリスト教の真実』

点検読書241

副題は「西洋近代をもたらした宗教思想」
ちくま新書(2012年4月10日)刊


宗教史――キリスト教


世俗化を目指す近代主義によって、キリスト教の歴史は意図的に歪められてきた。古代ギリシア思想の復興は、それを押しとどめてきた中世のカトリックを無知蒙昧と退け、カトリックを主敵とするプロテスタントからも批判を受ける。さらには、カトリック・キリスト教憎しがために、近代ヨーロッパの科学は、古代ギリシア文化のアラビア語訳を通して発展したという「神話」まで制作された。本書は、それらの誤解を解きほぐし、二項対立に陥らない歴史としてのキリスト教を描く。


七部構成

1:ギリシア・ローマ世界から生まれた宗教としてのキリスト教(第1章)

2:暗黒の中世の嘘(第2章)

3:政教分離と市民社会(第3章)

4:自由と民主主義(第4章)

5:資本主義と合理主義(第5章)

6:非キリスト教国の民主主義(第6章)

7:平和主義とキリスト教(第7章)

コメント
 興味深かったのは、俗説としてよく聞かれる「古代ギリシア文化は、キリスト教世界では失われて、イスラム世界でアラビア語訳で受け継がれ、ヨーロッパ人はアラビア語訳を通して、ギリシア文化を再発見した」というのは、たいへん疑わしい、ということをはっきりと指摘しているところです。

 本書によれば、キリスト教の修道院を通して、古代ギリシア文化の知の継承は行われ続けており、「頑迷で蒙昧なキリスト教徒」と「進取で寛容なイスラム世界」というのは神話にすぎない、と指摘されています。カトリック教会の教育研究機関たる「大学」の中での学問の自由がなければ、宗教改革も生まれなかったであろう、というのが本書の主張です。

 また、ではイスラム世界は、一般に言われるように税金さえ納めれば宗教の自由を認められた「寛容」な世界だったかといえば、そんなことはいえない、というのが確かなところらしい。

 例えば、アッバース朝に敗れて755年にイベリア半島に逃れてきた後期ウマイヤ朝のラフマーン三世の時代に古代世界の知の集積が進んだのは確かであるらしいのですが、それまでの君主たちのラテン語撲滅政策によって、キリスト教徒はアラビア風に改名を強制され、行政もアラビア語で統一されたというのです。つまりは、古代ギリシア・ローマ世界の文献が、アラビア語訳されたというのは、それ以外を使用してはならなかった、ということが前提にあったのでした。そうしたわけで、これらが行われる前には当然キリスト教側の不満が高まって暴動が起きますし、それに対する虐殺も行われたわけです。そして、それはイスラム・ユマニスムを体現したラフマーン三世の後継者たちにおいても、キリスト教やユダヤ教の信者に改宗か、追放か、死のみの選択をあたえ、すべてのキリスト教徒の投獄とユダヤ人の殺戮を決定したりもしているのでした。こうした行為は、西洋近代史の中では英雄のように扱われているスレイマン一世なども同様に、1535年にはチュニジアでユダヤ人の虐殺を行っているし、1554年にはアルメニアでイスラムへの改宗を拒んだキリスト教徒を虐殺していたそうです

 著者によれば、「キリスト教徒の愚かさや頑迷や残酷さの例はあちこちで何度も強調されているのに対して、イスラムの「寛容神話」の方は無批判に受け入れられている不均衡があることは明らかだ」(102頁)ということで、あえてイスラム世界の「不寛容さ」を指摘しているのですが、歴史的事象に関する美談は眉につばして聞く事が大事ということでしょう

 あとなかなか面白かったのは、政教分離に関するところで、イギリスにおけるカトリックと国教会の距離は今でも残っている例として、トニー・ブレアの夫人が熱心なカトリックで、ブレアは首相当時は国教である聖公会にとどまっていたが、引退してすぐにカトリックに改宗したということで、公職・顕職にある人間の帰属宗教は今でも政治的にはデリケートな問題であったとか。日本におけるキリスト教徒の割合は1%程度なのに、首相のキリスト教徒の比率は10%を超えると言われていますが、日本はその点、無頓着ですよね。

 それはともかくなかなか独特な語り口と視点の持ち方で、ぱっと見理解できないところはありますが、ざっと読む分には何か学ぶところもあるかと思います。

評価 ☆☆

よろしければ、クリックお願いいたします。


本・書籍 ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

2016年8月25日 (木)

岡本隆司『日中関係史』

点検読書223

副題は、「「政冷経熱」の千五百年」
PHP新書(2015年9月1日)刊


世界史――日本・中国


古代以来、日本と中国は疎遠であった。日本にとって中国は身近な外国であり憧憬の対象であったものの、政府間の交流も民間・知識人間の交流も少なく、とりわけ政府間の交流はお互いに誤解し合ったものであった。関係が密になると関係が悪化し、疎遠になると摩擦が起きる。こうした日中間の特徴を卑弥呼の時代から日中戦争が始まるまでを描く。


四部構成

1:「東アジア」秩序から隔絶する古代日本

2:政府間交流の途絶と経済の密接化(倭寇の時代)

3:「鎖国」の時代

4:漢語化する日本と日本化する中国とその破綻

コメント
 現在の日中間の関係はとてもイビツです。野田佳彦内閣で尖閣諸島を国有化して以来、政府間交流がなくなり、第二次安倍晋三内閣でそれが復活したものの、毎日のように尖閣諸島沖で中国船が挑発行動に出ていて、諸外国から不安視されています。
 そうした表われか、日本側の対中投資は一時期に比べて低下しています。しかしその一方で、日本の訪日外国人が年内にも2000万人を突破するかもしれないという報道がありましたが、3分の1ぐらいが大陸中国、香港、そして台湾といった「中国人」です。つまり、政府間の関係は、上手くいっていないのですが、密な民間交流とまではいかないまでも、日中間の人の交流は増加しているのです。
 これは一体どうしたことなのか。これが本書の問題意識であり、その回答として、日中政府間の関係はもともと疎遠であり、それにも関わらず、モノとモノとの取引は密接であったというのです。
 日中間の政府間交流が密でなかったのは、お互いが異なる世界観の中で成立していたから、ということらしいです。歴代の中国の王朝はやはり世界の中心であって、平等な関係というのはありえないのです。あくまで中国と付き合うのなら、他の国は中国皇帝に臣下の礼を尽くさなければなりません。しかし、日本は中国本土とは離れていたために、直接的な影響関係が少なく、孤立しても生きていけましたから、わざわざそうした義務を引き受けることは「屈辱」と考えるメンタリティがあったというのです。
 つまり、中国という国は、自分たちの世界観があって、それに見合うものとしか正式な関係は築かないという「原則」があります。その一方で日本は、そうした「原則」からは自由でありたい、という中国側からすれば「非常識」な国であると言えましょう。こうした点は、現在の中国も同様です。その「原則」は「歴史認識」となりましょう。「歴史認識」という問題は歴史的事実ではなく、まさに「認識」であって主観的なもので世界観に連なります。しかし、中国側が設定した世界観に見合わない態度を示すのは「非常識」であり、正式に交流するに値しません。相手の「歴史認識」に合わせて正式な政府間交流を密接にさせて、日中間の経済交流を密にするというのは、足利義満が「日本国王」として朝貢一元体制に適合しつつ、勘合貿易の利益を得ようとしたことと似ています。そして、どちらも日本人のメンタリティとしては、非難の対象となったのでした。
 どうもそうなると、天皇の権威に挑戦しようとする成り上がりものが中国との関係を密にしようとして、そうしたものを必要としない権力基盤の強い者が対中関係に冷たい印象があります。
 つまり、公家勢力を圧倒して太政大臣になった新興勢力の平清盛であり、同様に足利義満、また尊王家とも言われていますが中華趣味のあった織田信長、戦後では田中角榮、小沢一郎氏がそれにあたります。また、近代日本において、対中関係の改善に尽力した幣原喜重郎外相とそれを支える濱口雄幸、若槻禮次郎両首相は学歴エリートですが成り上がり者の民主主義者です。それに対して、東国武士に強固な支持があった源頼朝、幼い時から公卿としての地位があった足利義持、これも武士層から強い支持のあった徳川家康、三世議員で最大派閥を背景にする小泉純一郎氏と安倍首相。戦前では、薩長藩閥出身者が中国に対して冷静な態度を取ります(侵略意図がある人たちは、また別でしょう)。
 このように日中関係というのは、対外関係の難しさとともに、国内政治における野心というものとも絡み合っているという印象を持ちます。本書は、日中戦争や戦後の日中外交といった関係が密になった時代を扱うのではなく、逆に俯瞰した視点で、政治的に疎遠でありつつ経済的には密接であった1500年という常態によって、現在の日中関係の見方にヒントを与えてくれます。

評価 ☆☆☆

よろしければクリックお願いします。


本・書籍 ブログランキングへ

2016年8月20日 (土)

マルク・デュガン『FBIフーバー長官の呪い』

点検読書220

訳者は、中平信也。
文春文庫(2007年2月10日)刊
原著は、Marc Dugain, La Malèdiction D'edogar, Editions Gallimard, 2005.


世界史――アメリカ


FBI長官として長きにわたってアメリカに君臨したジョン・エドガー・フーバーの側近が残したファイルを元に、第二次大戦からフーバーの死までと、彼が敵視したケネディ一族の歴史が語られる。


1:第二次世界大戦とジョセフ・P・ケネディの時代(1~10)

2:ジョン・F・ケネディの登場と反共時代(11~18)

3:JFKの時代と暗殺事件(19~33)

4:ロバート・ケネディとフーバーの死(34~39)

コメント
 本書は、フーバーを通してみた戦後アメリカ史であり、またその戦後のアメリカ史とは、取りも直さずケネディ家の歴史である、というのが読み取れます。
 本書で、描かれるJFKはとにかく「女狂い」です。ケネディというと、例の誕生日の時の、マリリン・モンローの「ハッピーバースディ」の歌が有名で、二人の関係が話題になります。しかし、ケネディにとって、モンローは数ある恋人の中の変わり種に過ぎず、常に複数の女性とだらだらと交際を続けていたらしいのです。本書の中では、はっきりと「セックス依存症」と呼ばれています。また、本書によると、どちらかと言うと真面目で慎重な弟・ロバートともモンローは関係を持っていました。ケネディ家ではこうしたことは珍しいことではなく、一人の女性を父親から息子たちへ、兄から弟たちへ、というように譲渡され共有されていた、といいます。戦死した兄・ジョセフの恋人に会いに行ったジョンが、その女性とベッドをともにするという弔い方をしてもいたそうです。
 ですから、こうした事実が国民に知れ渡り、アメリカという国家の威信が崩れることを防ぎたい。そのように思う人々がいることは自然であるし、そうした総意が彼の暗殺につながった、と本書では述べられています。CIAの犯行を本書は匂わせていますが、それだけではない、アメリカ全体の意志なのだ、という主張のようです。
 本書の中で、語り部のクライド・トルソンは、「私見ですが、共産主義に一度なった者は、死ぬまで共産主義者であることをやめません」(398頁)と述べていますが、こうした考えの人が米国の連邦警察を構成しており、そして盗聴・監視を思いのままにしていたとすると、かなり恐ろしい国ではあります。このセリフは、次期大統領候補となったロバート・ケネディが、カミュに関心をもっているという発言から、カミュの専門家に話を聞きに行ったところで出たものですが、カミュに関心を持っただけで危険思想の持ち主と懸念されたのです。
 今年のアメリカ大統領選で、アメリカ基準では急進左派のサンダース氏が、民主党の予備選挙で健闘しましたが、以前であれば完全に監視対象でしょうし、スパイと思われてもおかしくなかったでしょう。自由の国アメリカは、現在の斜陽時代になって、やっと「自由」の国になったのかもしれません。
 それはともかくとして、どこまで本当かは分からないものの、アメリカ裏面史としては、興味深い作品でした。

評価 ☆☆

よろしければクリックお願いします。


本・書籍 ブログランキングへ

2016年6月 4日 (土)

落合淳思『殷』

点検読書202

副題は「中国最古の王朝」
中公新書(2015年)刊


世界史――中国


『易経』や『孟子』、『韓非子』など春秋戦国時代の文献での断片的なエピソードや、『史記』で語られる殷王朝の「歴史」は後代につくられた創作である。19世紀後半から発見され始めた殷王朝の同時代史料である甲骨文字を読み解くことにより、殷王朝の軍事や祭祀、王の系譜。支配体制や統治の手法を再現、解明することができる。


四部構成

1:甲骨文字の発見から、その資料的価値(序章)

2:殷王朝前期・中期の社会と支配体制(第1~3章)

3:中期から後期の年代史(第4~6章)

4:殷王朝の歴史的位置(終章)

コメント
 殷王朝というと、やはり最後の王・紂王による「酒池肉林」や猛火の上に油が塗られた銅製の丸太を置いて、その上を歩かせる炮烙という刑罰、比干の心臓をえぐったり、気に入らない諸侯を干し肉にしたりと、暴虐の限りを尽くし、孟子に言わせると「匹夫」紂という男が殺されたのは知っているが、王が殺されたのは聞いたことがない、と王の資格までも剥奪される暴君の代名詞のイメージが強烈過ぎます。
 本書によると、こうした紂王=帝辛のエピソードとは、後代の創作で、帝辛はとくべつに特徴のある人物ではなく、前代の帝乙と同じように軍事訓練や祭祀を頻繁に行なう王であったといいます。
 では、どうして殷王朝は滅びたのか。本書は、史料からは都の「商」近辺に位置する「盂」という都市の反乱とその討伐をきっかけに、殷が衰退し周に取って代わられた、ということらしいのです。しかしながら、この「盂」の反乱の理由は、史料からは明確にはわからず、著者の推測では、帝乙と帝辛と二代にわたる殷王朝の集権化に諸侯が反発を起こし、これをきっかけに滅んでいったのではないか。そのように述べております。
 つまりは帝乙・帝辛という改革派の君主が、諸侯連合体という殷王朝の旧来の支配体制から中央集権体制へと移行しようとしたが失敗して、逆に諸侯の一つであった周に滅ぼされてしまった、というのでしょう。ちなみに帝乙も『史記』によれば、「無道」の王として描かれています。そして、紂王こと帝辛の生来の有能さや諸侯いじめのエピソードというのは、改革派で諸侯の地位を低下させて、中央集権化を果たそうとした、ということの名残のような気もします。
 こうした想像は、歴史家である著者ではなく、小説家の役割かもしれません。しかし、本書によって解き明かされた殷王朝の生の姿を知ることによって、想像力はより確かなものとなると思います。私としては、殷王朝は縁遠い世界ですから、もう少し物語的にしてまとめて欲しい気がしましたので、そういった方面に才能のある方が、殷王朝の年代記を書いてほしいなぁと思った次第です。

評価 ☆☆

よろしければクリックお願いします。


本・書籍 ブログランキングへ

2016年6月 2日 (木)

君塚直隆『物語 イギリスの歴史(上)』

点検読書201

副題は「古代ブリテン島からエリザベス1世まで」。
中公新書(2015年)刊。


世界史――イギリス


紀元前6世紀頃のケルト人渡来から、紀元前1世紀半ばのカエサルのブリタニア遠征、ローマンブリタニアの形成と崩壊、そして5世紀前半から150年をかけて流入したアングロ人、サクソン人、ジュート人らアングロサクソン人がブリトン人を殺戮し、西端に追いやられた「ウェアルフ(異邦人)」と呼ばれた地域がウェールズ、アイルランドから渡来し北方へと住み着いた「スコティ(略奪)」するスコットランド、そしてアングロサクソン人によって支配されるブリテン島の大部分にあたるイングランド。これらを主とするイギリスの歴史は、この語、七王国時代、デーン人の征服、ノルマン人の征服を経て、征服王朝の君主の下、在地領主たちの抵抗が、議会制度へと発展していく。本書は、ウィリアム征服王以降のアングロ=ノルマン王国の君主たちと、在地領主たる貴族たちの抵抗の結果としての議会という二つの軸でイギリスの歴史を物語る。


六部構成

1:古代ブリテン島(石器時代、ケルト人流入、ゲルマン人の流入、七王国時代、デーン人の征服、ノルマンディ公ギョームによる征服)

2:ノルマン王朝の時代(ノルマンディ公ギョーム=ウィリアムの戴冠、ヘンリ1世の「アングロ・ノルマン王国、皇妃マティルダとスティーブンとの内乱)

3:アンジュー帝国の時代(ヘンリ2世の大帝国、リチャード獅子心王の遠征と虜囚、ジョン王とマグナ・カルタ、帝国の崩壊)

4:プランタジネット朝の時代(在地領主たちの議会)

5:百年戦争とバラ戦争(フランスへの征服戦争とランカスター家とヨーク家の戦い)

6:チューダー王朝の時代(ヘンリ8世の国教会確立とイングランド王国の独立維持)

コメント
 中公新書の『物語 ○○の歴史』シリーズは、「物語」と題している割には、著者の個性が強く出すぎて、その国民が自分たちの国の「物語」として理解しているような英雄豪傑たちの活躍よりも、社会史的な問題関心からあえて、そうした支配層の戦争や政争による興亡の歴史を廃したものがいくつかあります。日本で言えば、源平合戦の一ノ谷や壇ノ浦のエピソード、戦国時代の桶狭間、長篠、本能寺の変がない歴史を「物語」といえるか、といったところです。
 本書は、そのツボをシッカリとおさえています。本書は、まったく真逆の王たちの物語であり、議会として勢威を誇ろうとする在地領主たちの戦いの歴史を主としています。これこそ『物語 ○○の歴史』として読みたかったものではなかったか、そんな気がします。社会史的関心による民衆の歴史というのは、こうしたその国の歴史の軸となるようなものを経て興味が出てくるわけで、新書版の『物語シリーズ』はこうでなくてはなりません。はやく『物語 アメリカの歴史』と『物語 ドイツの歴史』の新装版を出すべきだと思いますね(『アメリカの歴史』はあれはあれで面白かったのですが)。
 本書を読んで分かることは、イギリスの王室というのは、あくまで征服王朝、主にフランスを本拠地とする領主を君主として戴いており、そうした外部の有力者を王として必要としつつも、実質的には在地領主たちのコントロール下に置きたい。その結果が議会とマグナ・カルタや権利請願、選挙法など国制に関わる諸法(憲法)による支配として結実していることです。似たような力関係によって、誰も互いに王として認めることのできない貴族たちが、外部から君主を呼び寄せて、バランスを取る、その上で実質的支配権を貴族たちが握ろうとする、ということになります。
 何となく、日本と似ているのではないか。そんな気がします。日本の皇室の起源がどこにあるか分かりませんが、一度、他の領主層と異なるものとされると、そうしたものが存在することで、座りが良くなるのです。こうした慣行は、武士の時代も皇室に連なる貴種を将軍として戴き、あとは有力家臣団で実際の政治を行なう。また、明治維新後の天皇国家も同じでしょうし、戦後の政党政治もまずは官僚という外部の権威を推しいだき、近年は世襲議員という貴種を戴くことで、座りを良くするという慣行になっています。あとは、外圧を利用するというのも、似たような印象もあります。
 それはともかくとして、本書は、我々一般人が「イギリスとは何ぞや」と考えるに際しての、基本的な歴史であり、そしてまたイギリス人自体が考えているであろうイギリス人の「物語」をシッカリと学べる作品となっています。だいたいこんなのは知っているよ、というマニアの方には不満でしょうが、そうした人は新書なんて読まないわけですから、これぐらいのものをもっと揃えてほしいものです。

評価 ☆☆☆☆

よろしければクリックお願いします。


本・書籍 ブログランキングへ

2016年5月 6日 (金)

西村貞二『教養としての世界史』

点検読書185

講談社現代新書(1966年)刊。


世界史


「世界史」とは、世界の国々、あるいは民族の歴史を並べたものではなく、一見バラバラな歴史も実は相互に緊密に連関している、そういう統一的な見地に立って、世界史的把握をえるために、大胆な省略をしつつも、地中海世界とアジアに始まる世界史の肖像画を描いている。


七部構成

1:エジプト・メソポタミア・地中海東岸のオリエント世界

2:インドと中国の古代アジア

3:中世のヨーロッパとアジア

4:近代のヨーロッパ

5:19世紀までのアジア

6:帝国主義の時代

7:第一次大戦からの現代

コメント
 50年前の新書です。ですから最新の世界史事情として述べられているのは、ベトナムへの米軍の介入ということで、古いといえば、古いです。しかし、特に古さを感じさせないのは、マルクス主義などの特定の史観があるわけではなく、常識的な叙述が続くからでしょう。
 しかも、分かりやすいのです。
 封建制というものがあります。しかし、同じ「封建制」という言葉を使っていても、西洋のフューダリズムと中国を中心とした封建制は意味が変わってきてしまいます。西洋のフューダリズムは、あくまで君主と諸侯の個人契約という観念で成立しています。君臣間の関係は、情誼的なものではなく、あくまで契約によって成立しており、君主が約束を違えば、家臣は主君に服従する義務はありませんし、そもそも契約以上の忠誠=軍事的義務はありません。ところが古代中国の封建制は、王族・功臣・土豪を諸侯に封じて地方の統治にあたらせ、彼等に封邑を与える代わりに、貢納と軍事的義務を課します。ここまでは、それほどの違いはありません。古代中国の場合には、君臣間の個人的契約という観念がなく、むしろ家父長制的な色彩が濃く、祖先の祭祀その他、各種の行事を通して、本家と分家との団結を固めようとする宗法制度という性格が強いというのです。つまり、西洋の場合には、各種領土はあくまで諸侯の所有物であり、共同意識はそこにしかありません。「国王」という名前で誤解がありますが、国王に忠誠義務があっても、その国王の下での共同体意識は希薄なのです。それが古代中国の場合には、封邑を諸侯に与えきってはいるものの、あくまでその封邑は与えられたものであって、実際の所有権はともかくとして意識としては君主につながるものと考えています。つまり、周王という君主の下での共同体意識というものが厳然とあったのでした。バラバラではあっても、中国=天下という統一した共同体意識が存在したといえるでしょう。その辺りで点を割り合いズバリと書いております(47~48頁)。
 世界史をしっかりと学んだ人には常識であるものの、一般的に誤解のあるヨーロッパの世界史的位置も、近世までは東高西低という文明の格差があったことを述べ、東オーマ帝国=ビザンチン帝国が1000年の命脈を保ったがゆえに、それが緩衝帯となって、ヨーロッパをイスラム帝国から守ってきたこと(82~84頁)、またイスラム世界の存在がヨーロッパとしての統一意識を促したということ(90頁)も言われてみれば、そのとおりだけど考えたことなかったな、というような目からウロコな指摘に満ちています。
 また、宋の王安石の改革に関しての記述で、「これにたいして、保守派が反対をとなえる。科挙にとおった役人は秀才ぞろいであって、弁も筆も立つ。理屈屋が多い。そういう連中にかぎって、他人のあげ足とりはやるけれども、不言実行にむいていません」(92~93頁)という箇所は非常に納得できます。エリートほど、こういう人多いんだよね。
 このように、平易であるものの、含蓄ある指摘とコンパクトに纏める力というのは、著者の歴史知識に裏付けられた深い教養がなしているのでしょう。近年の類書は、新書であるにもかかわらず、バカに分厚いものもありますが、これはそういったことに裏打ちされた引き算能力の低下が招いているかも知れません。大体でいい、という歴史把握には本書は古いものの、有益です。

よろしければクリックお願いします。


本・書籍 ブログランキングへ

2016年3月20日 (日)

上山安敏『魔女とキリスト教』を読む

点検読書152

講談社学術文庫 1998年刊(原著 人文書院 1993年刊)。
副題は「ヨーロッパ学再考」。


西欧史――西欧思想史。


魔女崇拝は、古代オリエントの豊穣神信仰と使者を弔う亡霊信仰を祖型としていた。キリスト教およびその母胎となったユダヤ教は、いかにこの信仰と向き合ったのか。ユダヤ教から魔女像を引い継いだキリスト教は何故に苛烈な弾圧を魔女に加えたのか。この疑問を実証歴史学だけではなく、民族学・精神分析の成果を取り入れつつ解き明かしていく。


三部構成
1:魔女崇拝の起源とユダヤ・キリスト教徒の衝突。

2:魔女狩りの実態。

3:ヨーロッパ思想の中の魔女。

コメント
 本書を一読しての感想は、「これはヨーロッパで人権や良心の自由が発展するわけだわ」といったところです。
 そもそも魔女というのは、古代オリエントを発祥とする大地母神信仰を起源とし、ギリシアでのアルテミス信仰、ローマでのディアナ信仰などなどに対して、ユダヤ・キリスト教側が規定したものだそうです。こうした原始宗教は、供犠といったかたちで生け贄を要求しますし、性的なシンボルを聖なるものとして崇めたり、参拝の後の精進落としというわけで神殿の近くに売春宿があったり(日本の伊勢神宮にも内宮と外宮の間に遊郭があった)と性的に潔癖な彼らにとって邪教に思えたのでした。
 キリスト教は、ローマ帝国でめでたく国教になったわけですが、上記のアルテミス信仰のような原始宗教はローマの宗教的寛容の下で生き残り、逆にローマの北上とともにヨーロッパ各地に広がります。つまり、ローマを発信源として、キリスト教と大地母神信仰がヨーロッパに広がり、その衝突の一つのかたちが魔女狩りとなったことのようです。
 魔女狩りといえば、有名なのが「水による審問」である。これは、全村民監視の下、容疑者は両手両足を縛られて、三回水の中に放り込まれる。浮かんでくれば有罪、沈めば無罪である。悪魔の魂は軽いと考えられていたので魔女なら浮かぶ。しかし、沈んで無罪となっても溺れ死ぬことには変わりはない、というやつですね。
 これも本来はライン川沿岸に居住していたケルト人の風習で829年に異教として禁止されていたのが、15世紀から17世紀にかけて復活したのだそうです。魔女という異端への弾圧のために異教の方法がキリスト教の名の下に行われたのは、皮肉ですな。
 魔女狩りは、もともとは独身や寡婦など孤立して生きている女性、乳児死亡率の高い時代の産婆など民衆から見て異質な者、また恨みを買いやすい対象(逆恨みだが)が、その被害にあっていました。しかし、後々になると市長や裁判官、聖職者など土地の名望ある人物まで対象となり、さらには家族・知人同士が誣告や拷問による自白で魔女崇拝者とされて処刑されていきました。
 発端は、異質なものへの差別です。著者は、ユダヤ人迫害と魔女狩りが同時代に起き始めたことに注目し、キリスト教の信仰が最高潮に達した時に、こうした現象が起きたことを指摘しています。
 しかし、私は逆なのではないか、と思います。ユダヤ人迫害は、十字軍の失敗によってキリスト教の権威が危うくなった時期に起きました。十字軍自体が、異質なものへの排除の運動だったわけですが、その運動が内側へ向かったのが、ユダヤ人迫害です。それまで国際貿易の従事者として特権を持っていたユダヤ人に矛先が向いたのは、異質なものをつくりだして、もう一度キリスト教の体制をたてなおす必要があったのでしょう。それと同じように、宗教改革によって動揺したキリスト教が、敵を必要とした結果だったのでしょう。これは、カトリック側もプロテスタント側も変わらず、元来はカトリックがリードした魔女狩りも、三十年戦争で荒廃し、疑心暗鬼が生じた後には、プロテスタント側も同様に敵が必要となったということです。
 このように、他者からの誣告、自白の強要、内心の審査によって、殺し合いが起きれば、まず内心の自由=良心の自由、つまり表に出さなければ何を考えていても構わないという自由は人権として確保されなければなりません。また、刑事裁判において確実な証拠を原告(国家、検察)が提示できなければ無罪という推定無罪の原則が発達せざるを得ないでしょう。
 『ローマの歴史』を読んでも思ったのですが、西洋史というのは、とにかく人が人を平気で殺す歴史です。日本の歴史においても大量殺戮は、なかったわけではないが、これは比ではあるまい。彼らが、権利や法の支配を発達させ、また人権意識に敏感なのは、そうした歴史、人間への怖れが底にあるからなんでしょうな。

評価 ☆☆☆


本・書籍 ブログランキングへ

2016年3月19日 (土)

モンタネッリ『ローマの歴史』メモ2

前回のつづき。

警句集

・「農民王」と「商人王」
 ローマの建国の父・ロムルスをはじめとする四代目までのローマは、ラテン人・サビーニ人などの農民を主としていた。し かし、五代目の王としてルキウス・タルクイニウスが王に選出された。彼は、ティトゥス・リヴィウスによれば、「彼は王に選ばれるために策を弄した最初の人 で、平民の支持を得るために一場の演説を行なった」と評される人物である。ルキウスは、ラテン人ではなく、商業を主とするエトルリア人であった。そのエト ルリア人が、王に選出されると、ローマの対外政策が侵略的となった。その理由として、モンタネッリは次のように言う。

「農民は、戦争が始 まると土地を捨てて出征し、田畑を荒廃させなければならない。その逆にエトルリア人にとって戦争はいいことずくめだ。消費が増え、武器はどんどん売れる。 戦勝のあかつきには新しい市場が手に入る。古今東西、事情は変らない。企業家、知識人、商人から成る都市は、農民の意に反して戦争を望む。そして実戦に当 るのは農民なのである。」(46頁)

 資本主義は帝国主義的侵略戦争を引き起こすというマルクス主義的な歴史観ではあり、私は必ずしも正 しいとは思わない。土地を経済的地盤と考える農業的な経済観では、土地や現地民の略取やそこからの搾取が行われがちであるが、交換による差益を獲得するこ とを目指す資本主義的な発想では、戦争による侵略よりも自由貿易による儲けの方をとる。つまり、略奪経済か貿易経済かである。
 しかし、一方で実際に利益あるなしを度外視して、戦争の推進者、または参加方針をとるものと反対者を比べると、この商業と農業の支持基盤の差を感じなくはない。
  戦前期の日本では、近衛文麿を中心とした知識人グループと都市大衆、エリート軍人たる統制派、金融資本家などが戦争を推進する一方で、「反軍演説」で著名 な斎藤隆夫は兵庫の農村を支持基盤とした政治家であるし、陸軍内の統制派に対する反乱を起こした皇道派は農民を基盤とする兵士たちに近い下士官たちで中国 進 出には慎重な人々であった。また、イラク戦争での自衛隊派遣に関しては、横須賀という都市部選出の小泉純一郎首相に対して、広島の農村部選出の亀井静香氏 が反対する、という構図であった。経済や社会観における保守と改革が、戦争を軸とすると反対と推進で逆になる、という逆説があるのだ。そうしたことを思い 出して、この商人と農民の対比というのは、なかなか鋭い視点だと思った次第。

・「武勇伝」と負け戦

「負けいくさに武勇伝はつきものである。負けた時には「栄光のエピソード」を発明して、同時代人と後世の目をごまかす必要がある。勝ちいくさにはその必要がない。カエサルの回想録には武勇伝は一つもない。」(69頁)

 これはまったくその通りで、古代ギリシアのスパルタの王レオニダスは200万のペルシア軍を300人で互角に戦ったという伝説的な人物ですが「負 けいくさ」ですよね。日本においても、「日本一の兵(つわもの)」真田幸村(信繁)は「負けいくさ」で輝いた人ですものね。だいたい武勇に優れた人という のは、負けた方にいるものです。三国志の蜀とか。

・個人崇拝と民主主義
「かれが告発したのは個人崇拝の最初の兆候である。それが社会を腐敗させ、民主主義を破壊するに至る。その後のローマ史の歩みは、かれの洞察と危惧の正しさを十分に証明している。」(192頁)

 これは、護民官マルクス・ポルキウス・カトーが、アフリカから凱旋したスキピオ・アフリカヌスとその弟ルキウスがアンティオコス王から受けた賠償 金の明細を元老院に報告するよう要求したが、ルキウスが拒否したことに対して、カトーが批判をつづけたことに対するコメントです。つまりは、凱旋将軍とい う英雄に対しても適法な要求をあえてする必要をカトーは理解していたのではないか、ということです。
 これはまったくその通りだと思います。やは り、政治家を判断するには、本人である有権者たる自分の代理人としてシッカリと行動しているか、を基準にすべきであって、「○○さんは信頼できるので、お 任せすれば大丈夫」「○○さんのやることは正しい。批判する奴は売国だ」という個人崇拝的な、属人的な政治判断は、民主主義を危うくする、ということで す。
 「○○さんがやることは正しい」では、有権者は受け身になってしまいます。あくまで有権者が本人であり、自分の頭で考えた自身の求める政策 や自分自身の利益を実現してくれる人を支持すべきです。あくまで代理人にすぎない政治家に啓蒙されてそれを支持するというのは、民主主義ではなくなってし まいます。

・国家統一と宗教

「ローマが他の諸国にまさるのは宗教によってだと思う。他国で厭うべき迷信と見なされることがここローマでは国家統一の要の役割を果たしている。す べての宗教行事が華麗に装われ、市民生活の公私両面でしごく明快に規制し、この点で宗教を凌ぐものはない。政府がこれほど大切に宗教を扱っているのは、思 うに大衆を統制するためであろう。住民がすべて物の分る人間ばかりであればそんな必要はなかろうが、大衆というものは常に暴発の危険をはらみ、盲目の激情 に身を委ねがちだから、それを抑えるためには少なくとも恐怖が存在しなければならない。」(198~199頁)

 これはローマのギリシア征服後、捕囚となったポリュビオスの言葉です。ローマは、この時点ではまだ宗教的な国家でした。それがなくなるのは、まさ にこのギリシアが思想的にローマを征服していく過程で、です。現在の我々もこれを受け入れることは、難しくなっています。日本人にあった宗教心のようなも のは、祖先教とも言える儒教化した仏教の中に見られました。つまり、「こんなことをしてはご先祖様に申し訳ない」という心理的規制でした。お盆休みに高速 道路が渋滞している間は、大丈夫かもしれませんが、これが今後どうなるか。

・「革命」の主体について

「革命が下層無産階級の中から生まれたことは決してない。常に上流階級によって生み出され、下層階級がその手足となり、被害をもろにかぶるのは上流階級である。革命とは常に階級自殺であって、一階級は内部からの崩壊なしに滅亡はしない。」(209頁)

 日本の明治維新は、武士が武士階級を自ら廃止した稀有な革命である、と言われます。たしかに完全に階級そのものをなくしてしまったのは明治維新の 最大の特徴かもしれませんが、よくよく考えて見れば、フランス革命も開明派貴族のミラボーがいたから可能になったものだし、ロシア革命もプレハーノフが貴 族出身でしたし、トロツキーは大土地所有の富農の子でした。

・「左派知識人」と民主主義

「いずれも左派の知識人で、民主主義を守る努力は何もしなかったが独裁には反対した。」(248頁)

 軽薄で裕福な社会を体現する人物として、マルクス・カエキリウス、リキニウス・カヴルス、ヘルヴィウス・キンナなどを紹介した上での批評。つまり は、この時代の豊かさ自由さを謳歌し、指導力を発揮しそうな人物が登場すると邪魔をするが、具体的な提案や自分たちが求める政策を実現するために指導者を 養成するなどはしない、ということだと思います。右派知識人の特徴は、制度・政策よりも人物崇拝に偏りがちで、これも民主主義への危機をもたらしますが、 左派知識人は有力な人物が現れると「独裁だ、独裁だ」と騒ぎ立てますが、平時においては何もしないし、自分たちの代表をつくりだそうともしない、という傾 向があるのかもしれません。それはそれで健全のような気もしますが、強力な指導者に対する距離のとり方の不安定さが共同体の危機をもたらすのかもしれませ ん。

・ブルジョアジーの政治手法

「ブルジョアジーは……貴族の特権を制限したい時には平民と組むが、国家と資本主義が危機に瀕するとなれば、貴族と元老院に味方する。」(254頁)

 これは特に説明がいらんような真理ですな。イギリスで言えば、自由党がそうでしたよね。もともとは王権・貴族の権力を制限しようとした人々であったのが、普通選挙運動には冷淡で、後にほぼ貴族の党であった保守党に吸収されてしまいました。また、日本の政党の歴史も、地主政党の自由党とブルジョア政党の改進党がくっついたり離れたりした結果、戦後に労働者の党である社会党ができるとそれぞれの後継政党らが合同して自由民主党になりました。ブルジョア層は、変幻自在です。

・寛容と軽蔑

「カエサルは敵対行為を可能な限り無視しようとした。……こうした寛仁大度には人間に対する軽侮の念が多少混じっていたのだろう。さもなければ、身 に迫る危険に対してあれほど平気でいられたはずがない。周囲に陰謀が渦巻いていること、寛仁は憎悪の鎮静剤ではなく逆にその刺激剤であることを、まさか知 らなかったわけはあるまい。敵がその陰謀を実行に移すだけの勇気を持たぬと、高をくくっていたのだ。」(295頁)

 これも鋭い批評です。通常、寛仁というか寛容の精神は、後々の人間関係を円滑にすすめるために必要なことです。しかしながら、、モンタネッリは、 明らかな敵対行為に対する寛容というのは、相手を見くびっている軽蔑の念があるから可能になるのだ、と指摘しています。やはり、降伏したもの、これからも 関係を続ける意志があるものに対して寛容であることは必要であっても、裏切り行為にはそれ相応の罰がなければ、かえって自身の破滅を招くということです。

・ブルジョア趣味

「ブルジョア趣味とは中庸の愛好であり、中庸は往々にして凡庸と相等しい。穏健、節度、それに鋭すぎない家庭的な懐疑で味つけしてあれば申し分がなかった。」(325頁)

 これはアウグストゥス時代の芸術に関する批評ですが、日本のテレビドラマとは、まさにブルジョア趣味ですな。でも、それが人々を満足させている時代は平和なのかもしれません。


本・書籍 ブログランキングへ

2016年3月18日 (金)

モンタネッリ『ローマの歴史』メモ1

 

前回ふれたモンタネッリ『ローマの歴史』は、ローマの歴史を学ぶにあたっての基礎知識とともに、漁業、農業、軍人、ジャーナリストと多彩な経歴から生まれる優れた警句なども本書の魅力の一つです。そこ二回に分けて、ローマの歴史の基礎知識と彼の警句をまとめて紹介します。

「ローマの歴史」の基礎知識

・ローマ人の名前
「子供の名は通常三つあった。まず個別の名、すなわち「呼び名」(マリウス、アントニウス等)、つぎに氏(ゲンス)の名、すなわち「姓」、最後に家の名、すなわち「苗字」である。女子には氏の名、すなわち「姓」を女性形にしていうだけで、個別名はない。たとえば、マルクス・トゥルス・アエミリウスの娘はトゥリアと呼ばれる。つまり「トゥルス氏の女」というだけである。同様に、プブリウス・ユリウス・アントニウスの妹はユリア、ガイウス・コルネリウス・グラックスのアネはコルネリアである。」(97~98頁)

 うーむ、これは分かりやすいけど、こんがらがりますな。日本で言えば、伊藤博文は、ヒロブミ・フジワラ・イトウで、娘がいれば、「フジワラコ」とか「フジワラミ」とかでイメージすればいいのでしょうか。日本でも記録に残る女性名は、「○○氏」とか「○○女」ですから、一見、ローマには個別名があるように思えますが、似たようなものなのですな。
 しかし、これで同じような名前の多いローマの人物を識別する際に、どういう一族の出身か、は分かるような気もします。ただ、姉も叔母も娘も「ユリア」で同じ名前とかは勘弁していただきたいですな。

・キリスト教と国家
 モンタネッリがいうのは、キリスト教迫害でネロをイメージするのは「三文小説やへぼ映画」だそうです。というのも、ネロのキリスト教徒への迫害は、自身のローマ大火への疑惑をそらすためのものであって、キリスト教に対する市民や国家の反発を代表して行なったものではなかったからです。つまり、国家権力によって国家に服従しない特定の宗教を迫害したのではなく、たまたま目についた奇妙な集団がキリスト教徒であったに過ぎないのです。
 真の迫害は、キリスト教の信者が増え、大衆との接触が増えたことによります。この頃になると、キリスト教徒は呪術を使うとか、ローマ人の血をすするとか、他人を睨み殺すとか、流言が飛び始めて私刑が行われるようになります。そうなると、キリスト教を信仰するものは死罪とする法律も出されるようになりました。これは、皇帝が必要としたというよりも大衆の憎悪によるもので、皇帝はどちらかというとこの法律が適用されないように努力したようです。しかし、災厄があらわれると、大衆はキリスト教徒を野放しにした神罰という理由で迫害を始め、哲学皇帝といわれたマルクス・アウレリウスですらも、こうした迷信には抵抗できずに迫害したとのことです。
 こうした迫害の思想的源流は、皇帝への崇拝義務をユダヤ教およびキリスト教が拒否したことにあります。もともとのローマ人たちは、多神教のもとに生きてきたので、皇帝が神を名乗っても、従来の神にまた一人神が増えたぐらいで従ったのですが、唯一神を信仰する彼らは、これを拒否し、帝国側も皇帝崇拝を免除する法令を出していました。つまりは、ローマ帝国の宗教的寛容の下でキリスト教は拡大していったのでした。しかし、キリスト教の批判者ケルススは、皇帝への崇拝の拒否は国家に対する服従の義務を拒否することにつながると主張しました。つまり、皇帝崇拝も含めたローマの宗教は国家機構の一部に過ぎなかったからです。

「ケルススは、キリスト教徒がキリストを皇帝より上位に置いていること、かれらのモラルが、神々すらをも国家の公僕と見なすローマ古来のモラルと食い違っていることを発見した。これに反論したテルトゥリアヌスは、まさにその点こそキリスト教の美点なのだと言って、ケルススの非難に根拠のあることを認めた。かれは論を進めて、悪法に従わぬことこそキリスト者の義務であると宣言した。」(471頁)

 これなど日本でキリスト教で禁令が行われた豊臣政権末期から徳川時代初期の論理とほぼ一緒です。キリスト教と接触のあった国家すべてを悩ませた問題がこれなんだな、と。明治以後の大日本帝国も大隈重信が言うように、日本では宗教の自由が西洋よりもあった(参照)。というのも西洋の信仰の自由は結局はキリスト教内の宗派における自由であり、日本のように仏教もキリスト教もイスラム教も民間信仰も神道系の新宗教も認められていたわけではなかった。ただし日本の宗教の自由は、国家への服従を意味する天皇崇拝を容認するという前提で、ではあるけれど。まったく、ケルススと同じ論理だったわけですな。
 日本は、ローマ帝国のように建国神話があり、その後にギリシアなどの影響により様々な神がやってきて、国家の下の多神教が認められた国家だったわけです。つまりは、唯一神の洗礼を受けていない古代国家のまま近代国家になってしまった、ということです。これが良いか悪いかは別として、ローマ帝国を知ることは、帝国日本への理解の助けになるかもしれない。

・キリスト教はなぜ国教となったか
 上に書いたようにキリスト教は、帝国内において迫害されていたわけです。しかし周知のようにコンスタンティヌス帝の下で国教となります。これはなぜか。伝説としては、皇位をめぐって、コンスタンティヌスとマクセンティウスが対峙していた時に、コンスタンティヌスが天を仰いで十字架の影を見て、「このしるしにより汝は勝つ」(イン・ホック・シグノ・ウィンケス)の四語が空中に浮かび上がった。それに従い、十字架を軍団旗に描いて、「異教の神」太陽をかたどった敵に勝利した。これによりローマ帝国は、キリスト教により一新した、ということだそうです。これは、キリスト教への弾圧の象徴たるローマ皇帝を神とする太陽に対して、十字架を掲げて勝利したことを意味します。コンスタンティヌス帝は、拡大し続けるキリスト教の信者と、これまでの迫害・弾圧の失敗の歴史を鑑みて、キリスト教への承認を与えたといえます。しかし、著者はそれだけではない、と主張します。

「しかし、政治的打算だけと考えるのは酷だろう。キリスト教徒の道徳性に強くひかれていたことは確かだろう。キリスト教は、腐敗の極に達した帝国のただ中で、文化革命を成しとげたのである。今や、良い著述家、秀れた弁護士、廉潔で有能な官吏の人材は、キリスト教徒以外には見当たらない。司教が知事より優秀でないような町は一つもないのだ。旧来の腐敗官吏に替えて、あの非の打ちどころない聖職者たちを登用し、新帝国の幹部とすべきではなかろうか。
 革命は思想の力によって勝利するのではない。従前よりすぐれた指導階級を作り上げることに成功した時、革命は勝利するのである。キリスト教はまさにこの事業に成功した。」(475頁)

 やはり問題は、帝国内の道徳的退廃にあったと考えられるようです。昨日のエントリーで、ローマのこの内部分裂や平気で人を殺す気質、姦通の横行がキリスト教を必要とした、と書きましたが、こうした人々による統治に倦んだ人々から見ると、キリスト教徒の清潔さにひかれたのも無理はないし、統治者としても口先ばかりで使えない貴族や資産家たちよりも、廉潔で有能な人々を生み出しているキリスト教徒を利用しない手はないということです。
 そして、何よりもこうしたキリスト教徒たちが新鮮に見えたことでしょう。キリスト教が一度天下を取ってから、その厳格な道徳主義、とりわけ性道徳などは「古い」と思われがちです。しかし、カエサルを評した「すべての女の男、すべての男の女」というような人々が多くいる制限なき放縦な世界で、あえて一夫一婦制という制限を自らに課すというのは、ある意味「かっこいい」ことに思えたとしても不思議ではないのです。
 別のところで「いつの世でも、政治の世界で「復古」など考えるのは誤りと相場がきまっている」(487頁)と述べていますが、こうしたキリスト教徒の道徳心は「古臭い」ものではなく、「新しく」「かっこいい」ものであったから、成功したといえます。
 ですから、もし現在の道徳的頽廃を嘆いていて世の中を良くしたいと思うのならば、従来の宗教に頼ってはなりません。それらを参考にしつつ全く新しい宗教、思想をつくりだし、それに基づいた生活スタイルを実践した人が社会的地位が高いとか、経済的に成功していることをアピールしなければなりません。しかし、自分がつくるのではなくどこかに自分の考える道徳にふさわしい宗教であったり、セミナーでも良いのですが、そうした団体に入る場合、指導者への崇拝を会員がしていたら、それはカルトである、として参加を見合わせた方がよいでしょう。


本・書籍 ブログランキングへ

2016年3月17日 (木)

I・モンタネッリ『ローマの歴史』を読む

点検読書151

中公文庫、1996年改版(初版は1979年)。
訳者は藤沢道郎。原著は1957年刊行。


世界史――ローマ


壮大な記念碑にみちた荘重な歴史ではなく、血と悪徳と表情と奇癖にあふれた等身大の人間のドラマとしてローマの歴史を描く。本書が対象とするのは、ローマ建国伝説の人物ロムルスからオドアケルによる西ローマ帝国崩壊まで。


四部構成
1:ローマの起源と建国の王たち(1~4)。

2:共和制ローマ(5~28)。

3:帝政ローマ(29~50)。

4:結び(51)

コメント
 裏表紙の辻邦生氏のコメントで「読みだしたら止められないような本がある」とありますが、まさに本書はそれにあたります。全然期待しないで読んでみたのだが、これは面白い。塩野七生『ローマ人の物語』にハンニバルあたりで挫折した軟弱者の私としてみれば、「ローマ、面白いじゃないか」と再発見させてくれた本でした。
 本書の特徴は、とにかく面白く読ませること。出てくる登場人物は、等身大の人間で、聖人でも偉人でもなく、また文体も荘重ではなく、ツッコミを入れつつ物語るというカタチです。しかも、歴史家ではなくジャーナリストの著書ということで、言葉にもこだわらない。ブルジョアジー、資本主義、共産主義等々と19世紀以降の言葉でズバリと当時の現象を解説してしまいます。

 しかし、本書を読むと、ローマは乱れていますな。すぐ裏切る、すぐ殺す、姦淫が横行する、と常に混乱極みです。基本的には、ピルグリム・ファーザーズの子孫である貴族層が中心の元老院が隠然たる力を持っていて、彼らの機嫌を損ねるとすぐに皇帝含め実力たちは殺される。ローマの共和制というのは、土地貴族たちの政治体制を意味しているようです。また、著者がたびたび引用するようにカエサルは「すべての女の男、すべての男の女」と呼ばれたことがあったそうだが、これはカエサルに限らず、多くの男や女が、そうした傾向を持っていた、といえるよううです。

 この流れを見ていくと、キリスト教がローマにおいて必要であったことがよく分かる。先の、すぐ裏切る、すぐ殺す、姦淫が横行するは、キリスト教の「汝の隣人を愛せよ」、「殺すなかれ」、「姦淫することなかれ」が対応しています。土地貴族や諸民族の連合体であるローマ帝国において、それぞれの利益や相違の壁を超えて、統合するような原理が必要でした。しかも、道徳的頽廃が横行している中で、慎ましい道徳的実践をしていた奇妙な集団の教えというものが、大帝国を運営していくにあたって、必要となった、ということでしょう。キリスト教に回収したテルトゥリアヌスはこう言っています。「他の人びとが分有するものをキリスト教徒は共有する。他の人びとが共有するただ一つのもの、すなわち妻を、キリスト教徒は分有する」、と(375頁)。

 あと面白いのは、建国の神話ですな。トロイア戦争の生き残りで、美の女神ヴェヌスの子といわれるアエネアスという青年が、放浪の旅の末、イタリア半島に上陸して、その地の王ラエィヌスの娘ラヴィニアと結婚して町を建設する。

 

その子アスカニウスがアルバ・ロンガ市を建設して都を移し、八代の後、ヌミトルとアムリウスという兄弟が王座についていたが、兄弟喧嘩してアムリウスが兄を追放して、その子供たちを皆殺しにする。しかし、ただ一人死を免れたレア・シルヴィアという娘がいたが、アムリウスはこの娘をヴェスタ女神のの巫女とした。

 

その巫女となったシルヴィアがある日、河原で昼寝をしていると通りかかた軍神マルスに手籠めにされて孕んでしまった。これを知ったアムリウスは激怒したものの、娘を殺さず、生まれた双子をボートに乗せて川に流した。このボートは、下流の平原に流れ着き、泣いていると一頭の牝狼が駆け寄って乳を与えて育てた。これによって狼はローマの象徴となった。

 しかし、異説もあって、この狼、実は人間で、誰かれ構わず近辺の若者といちゃついていたので牝狼とアダ名のついた羊飼いの女房アッカ・ラレンティアだ、という話もあるらしい。もっとも、このアッカ・ラレンティアが、この双子の育ての親ではあるわけだが。

 この双子の兄弟が、ロムルスとレムスといい、長じて自身の生い立ちを知るにいたり、アルバ・ロンガに立ちもどり、革命軍を組織して、アムリウスを殺して、祖父のヌミトルを王位を復した。その後二人は、かつて小舟が乗り上げたテーヴェレ河河口の地域に新王国を建設した。その名を兄弟のどちらの名から取るかを、どちらがより多くの鳥を見たかで決めようとなり、レムスが六匹、ロムルスが十二匹だったので、ロムルスが勝って、ローマと名付けられた。

 その後、些細な事で喧嘩してロムルスはレムスを殺してしまう。この日は、キリスト紀元前753年4月21日のこととされる。ローマ市民は、キリスト紀元前までは、この日を世界史の紀元元年とした。

 まぁ、こんなところです。先日、徳川家康の出自と天皇家の出自が、同様に貴種流離譚で、何代か経ってから、天下を統一した人物が現れたことを述べましたが、同じよなものですよね(参照)。

 やはり王者としての箔をつけるなら、文明の先端地域の出身で、しかもその地の神や名家の血筋を引いていて、流れ着いた先の現地の実力者の娘を妻にして国を譲り受ける、という定番がここにも見られる。現在の日本の歴史教科書だと、古代史において、「ワカタケルノオオキミ」が雄略天皇で~、欽明天皇の時に仏教が伝来して~、推古天皇の時に厩戸皇子が摂政に~、と唐突に天皇が出てきて、この人たちはどうして大和朝廷の大君になったのか、ふれられないことが多いのですが、イタリアの歴史教科書において、ロムルスの扱いはどうなっているんでしょう。参考程度に「神話です」とエクスキューズつけとけば、日本でも神武天皇ぐらいはふれても良いと思うけど。でも、面倒くさい人が増えたから、無理なんでしょうけどね。

 それはともかくとして、西洋史を復習したいけど、何を読んでいいかわからない、という人には強くお薦めしたい。

評価 ☆☆☆☆


本・書籍 ブログランキングへ

最近のトラックバック

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31