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日本文化論

2016年9月 6日 (火)

岡崎久彦『隣の国で考えたこと』

点検読書231

中公文庫(1983年6月25日)刊
原著は、日本経済新聞社(1977年)刊


日本文化論――韓国・朝鮮


日本人は「日本人の唯一の親類」である韓国と韓国人を、もっとよく、もっと正確に知る必要がある。お互いに知り合うことで、感情的な対立が目立つ両国関係に、はじめて正しい国交も民間交流も可能となるだろう。


4部構成

1:お互い嫌いあう日韓関係(1~2)

2:言葉と容貌の日韓同祖論的考察(3~4)

3日韓関係を古代史と近代史から考える(5~7)

4:日本への誤解をとく(付録)

コメント
 さて問題です。つぎの引用文の(  )内に入る言葉を考えてみてください。

「日本では、まだまだ大学によっては、歴史とか言語とか朝鮮半島関係のことを研究することに対して(  )的な学者、研究者、学生の間で強い反発や反対があるそうで、ある人などは、中国問題を研究するのならわかるが、なぜ朝鮮問題を研究するのかわからないといわれて、責められたといいます。また、韓国研究のため訪韓を決めた学者を、「それでお前の政治的立場がわかった」と、なかば軽蔑的な目で見る人もいたといいます。」(81頁)

 いかがでしょうか。

 答えは「進歩」です。

 今の若い人には、伝わらないかもしれませんが、「進歩」派とは、左派・リベラル派を指す戦後日本の歴史用語です。以上の引用部を読めばわかるように、冷戦期の日本において、知識人も含めて多くの日本人が朝鮮半島についての関心が低く、また韓国ともなると進歩派の学者にとっては「軽蔑」の対象だったのでした
 それが今どうしたことでしょうか。「嫌韓」といえば、右派・保守派の専売特許となってしまっています。時代が変わると180度ものの見方が変わるのです。こうした点を考えてみると、ある国やある対象に対するイデオロギッシュな人の意見というのは、その時の政治情勢によってコロコロと変わるあてにならないものであるということです。そして、そうしたもののフォロワーたる嫌韓派というのは、右派とか左派ではなく、思想的な相違ではなく、単なる民族差別主義者にすぎないのです。
 現在、あるいは数年前まで韓国好きや韓国への擁護的な発言をすると、「あいつはサヨクだ」とか「韓国人だ」とか言われたようですが、そういうことを言う人というのは、別に右派・保守派ではなく、単なる民族差別主義者にすぎなかったです。少し前に生まれたなら、「進歩」派の発言に耳を傾けて、韓国の悪口を言っていたことでしょう。その時代において韓国支持は、保守反動の右翼というのが、当時の傾向だったのですから。
 そうした時代に、「韓国のことをもっと知ろう」と擁護的な内容が書かれているのが本書です。そして、この著者こそ、若き日の安倍晋三氏の将来を嘱望し、また現実にブレーンとして集団的自衛権行使の憲法解釈変更に努め、その実現を見て生涯を終えた岡崎久彦その人だったのです
 岡崎は、現役の外交官時代から強固なアメリカ中心の「自由世界」陣営の支持者で、評論家としての彼の持論は、アングロ・サクソンと協調していれば、日本の自由と民主主義と繁栄が約束される、というものでした。ですから、湾岸戦争はもちろんアフガン戦争もイラク戦争もその倫理的当否は別として日本政府は支持を打ち出すべし、と主張していました。筋金入りの親米派です。
 その筋金入りの親米派で、左派・リベラルが大嫌いな安倍晋三首相のブレーンたる「保守反動」が、朝鮮の植民地化の歴史を忘れてしまっている日本人を憂い、そればかりか当時一部で流行していた「騎馬民族征服説」を取り入れて、日韓同祖論的な立場で、日本と韓国は「親類」であると主張していたのでした。
 私は、2012年当時に安倍晋三氏が自民党総裁に返り咲いた時、嫌韓的な人々が安倍氏を歓迎していたのですが、「この人たちは、裏切られるか、手のひらを返すに違いない」と思っておりました。安倍首相は、この親韓派の岡崎久彦をブレーンとしていたのでしたし、首相が敬愛する祖父の岸信介は親韓派の代表的人物であったからでした。もっとも、安倍首相は、韓国の言いなりになることはありませんでした。韓国側が親中外交の失敗に気づくまで待ち続け、日本に目が向いた時に即座に慰安婦問題の合意に達するという外交手腕を示しました。こうした事態に、一部に「裏切られた」と反感を持った人もいたでしょうが、概ね好感を持って迎え入れられたので、「手のひらを返す」ことにした人もいたでしょう。
 こうした現在との落差を楽しむ本でもいいのですが、現在と変わらない日本人の心性を描いた箇所も興味深いです。

日本人は、少なくとも自国より小さい国については、日本を甘やかし、チヤホヤしてくれる国以外は好きになれないのではないでしょうか。日本人を嫌う民族に対しては、その原因を日本が作ったかどうか考えてもみず、かえって、その国の特徴の中で日本が嫌いになる理由となるようなものを見つけて、はじめから先方が日本を嫌いだったという風に自分で錯覚してしまうのではないでしょうか。」(29頁)

 韓国と台湾に対する日本の現在の保守的な人々の視点というものが、どうもこんな感じです。植民地統治の内容についての当否は様々な議論があると思いますが、閔妃暗殺事件や韓国併合を実行に移してしまったこと、三・一独立運動の時の提岩里事件などに配慮せずに、反日ばかり攻めるのはフェアではありません。また、親日的な台湾というイメージですが、尖閣諸島領有権問題で最初に火をつけたのは1970年の台湾の中華民国政府であることを忘れてしまっているように思えます

 次は、日本は言論が自由で、左翼的な革命スローガンが公然と主張される一方で、三島由紀夫の事件のように大日本帝国の亡霊のような事件が起きることに、韓国では不安を感じているということについて。

「しかし、ほとんど確実に言えることは、日本はどっちにもならないということです。といっても、過激なことを言っている人が現にいて、相当数の支持者もいて、これが野放しになっている以上どうなるかわからないという心配ももっともなのですが、現在の日本の圧倒的多数の人々は、戦後の自由民主主義のぬるま湯の中にどっぷり浸っていて、誰もそこから出る気はありません。このことも、口で言っただけでは、韓国の方にはわからないでしょう。日本に来て住んでみれば、自然にわかるとしか言いようがありません。
 これに限らず、日本では言論が完全に自由なので、断片的に韓国に伝わる評論から日本人の真の考え方を識別することは極めて困難です。この困難をさらに倍加させるものとして、左翼の意図的なプロパガンダと、これが空気伝染して、韓国の悪口を言えば進歩的であるかのようなムードがあります。」(286~287頁)

 戦後70年の間に何度「軍靴の音が聞こえる」と言われたことか。ワイマール憲法下のナチスの台頭が比喩的に紹介されたことか。しかし、日本人は少々保守的な政権を支持し続けながらも、大きな変化を望むことはなかったのでした。後段の「左翼」は「右翼」に、「進歩」は「保守」と言い換えると現在にぴったりでしょう。もっとも、日本の「左翼」が、日本側の修正主義的発言を韓国に御注進して、韓国側の反発を招いて、そのリアクションに日本の保守派が反発して、結果的に日韓離間となって、中国や北朝鮮がニッコリという高等戦術なのかもしれませんが、どちらも似たようなものです

 このように今から読んでもなかなか含蓄深い戦後保守のあり方を見せてくれる良い古典です。10年前に保守的な出版シリーズで復刊されていたようですが、どのような受け入れ方をされたのでしょうか。

評価 ☆☆

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2016年8月30日 (火)

内藤湖南「応仁の乱について」

点検読書226

『日本の名著41 内藤湖南』(中央公論社、1971年)収録
原著は、『日本文化史研究』(弘文堂、1924年)収録


日本文化論――日本中世史


歴史は、下級人民が徐々に向上発展していく過程であり、日本社会において応仁の乱こそ、その転換期であった。日本の歴史を考えるにあたっては、応仁の乱以後のことをしていれば良い。それ以前というのは、外国同様にみなすべきだ。この時代は、旧来の貴族社会を徹底的に破壊し、貴族文化というものを民衆化したのである。


4部構成

1:貴族社会から民衆社会への移行

2:下克上とは

3:尊王心の民衆化

4:思想・文化の民衆化

コメント
 まずは本書のキモであり有名な一節を引用しておきましょう。

「だいたい今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っていおったらそれでたくさんです。それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っていれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります。」(83頁)

 湖南によれば、応仁の乱以前というのは、氏族制度における貴族たちの社会であったが、この応仁の乱以後の戦国時代において、ほとんんどの名家は滅びてしまい、明治の時代になって華族に叙せられた旧大名家はこの時代に出てきたものである、といいます。
 つまり、この時代に徹底した社会変動があった、というのです。それを湖南は「下克上」と呼んでいます。通常の「下克上」の用法は、陪臣にすぎない家臣が順々に上の主君を押さえつけてゆく状態を指すのですが、当時の用法は「最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する、もっと激しい現象を、もっともっと深刻に考えて下克上と言ったのである」(87頁)と述べています。
 日本は、ヨーロッパ諸国にくらべて上下の社会階級の格差がないというのが、明治時代以来の考えでした。その一方で、敬語表現や所作など人間の距離感の取り方の堅苦しさというものがあって、かつては厳しい身分差別がありました。
 どういうことかというと、本当に社会階級のある社会では、話す言語も食べる物も食べ方も享受する文化も貴族と平民とでは異なります。そして、両者の接触もほとんどありません。そうした差というのは征服・被征服民族という歴史的経緯と1000年レベルの生活スタイルの違いによって生じます。
 一方で日本の場合は、さまざまな言葉遣いや所作で差別というものをつくっていますが、話す言語は同じですし、食べる物も豊かさに差があるだけで基本的には同じですし、食べ方に大きな違いはありません。そして、吉原など外の身分を取り外して遊ぶ場もあり、交流もないことはなかったのです。
 こうした差というものは何かと謎を解くのが、湖南の主張でしょう。つまり、日本は、応仁の乱以後の戦国時代において、徹底して旧来の社会階級・身分制度を破壊してしまったのです。それ以前というのは、集団のトップは旧秩序に関わる身分のある人物しか就けませんでした。東国武士団における源頼朝がそうですし、鎌倉幕府における摂家将軍・宮将軍です。しかし、戦国時代になるとトップは、あくまでも実力です。旧体制における身分と全く関わりのなかった豊臣秀吉が天下人になれたことからもよく分かります。また、天下を取った徳川家康も東国からフラリとやって来たという伝説がある人物の子孫に過ぎず、出自は謎です(参照)。
 このように、律令国家時代においては、神話的な「天孫族」系と「国津神」系など明確な支配・非支配集団の区分があったのですが、戦国時代以後になると、それはありません。同じ人間の実力によって、支配・被征服が区分されたのです。ですから、逆に様々な規制を設けて身分差別を演出しなくては、支配者と被支配者の区別がつきません。そのためにも、基本は同じ言語・所作であるにもかかわらず、あえて人為的に上の者が「貴様」といえば、下の者が「あなた」というように差をつけたり、上座・下座という座る位置を決めたり、不「自然」な差別をつくったといえるでしょう。
 いってみれば、現在の高所得者が低所得者と差をつけるためにブランド品を身につけるようなものです。両者は、所詮は同じ平民であり、また平民同士同じ情報と価値観があることが前提となります。なぜなら、もし低所得者層がそのブランドを知らなければ、そうしたものを身に着けていたとしても、差別という点で何の意味もないからです。
 また、こうした元々おなじ「平民」が支配者と被支配者に別れたわけですから、同じ「同族」として被支配層を大切に思う気分というものも生まれました。その点が、人民は領主の持ち物にすぎないと考える諸外国の貴族や官僚との違いを生み、またそれが極端な圧政に進まなかったために、急激な革命を引き起こさなかった原因ともなるでしょう。革命は、すでに戦国時代で成し遂げていたのですから。
 以上のように、この湖南の講演録は、短いながらも日本史における謎のいくつかを解き明かすヒントが散りばめられていて、日本史に関心のある人には必読のものでしょう。

評価 ☆☆☆☆

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2016年5月19日 (木)

『細川護貞座談』

点検読書194

細川護貞 聞き手 光岡明・内田健三
副題は「文と美と政治と」
中公文庫(1990年)刊

原著は『細川護貞座談』(中央公論社、1986年7月)


日本史


室町以来の細川家十七代当主にして、近衛文麿の女婿で秘書官、細川護煕元首相の父親という著者が、狩野直喜に教えを受けた文の世界、父・護立に誘われた美の世界、岳父・近衛文麿に導かれた政治の世界を虚心坦懐に語る。


三部構成

1:漢学の素養を語る文の世界(愛一部)

2:細川幽斎以来の文化・芸術の大名家の歴史を語る美の世界(第二部)

3:戦時下の史料『細川日記』の裏話と人物論の政治の世界(第三部)

コメント
 一月前の熊本地震の犠牲者の中に、東海大学の農学部の学生がいたことに、神奈川県出身で小田急線に「東海大学前」という駅を知っていた身としては驚いてしまいました。そんなところにも東海大学あるのか、でもなぜに熊本の阿蘇になんかあるんだろうか、と。
 熊本藩主細川家十七代当主の著者の熊本出身の政治家評の中に松前重義が登場します。松前は、逓信省の官僚であったが、後に反東條英機の動きに参加するようになり、フィリピンのマニラに勅任官にも関わらず二等兵として派遣され、復員後、学校を創設した。それが、現在の東海大学になりました。つまり、東海大学の阿蘇キャンパスというのは、松前の故郷に錦を飾った象徴的な施設だったのでした。これなら納得です。

 本書は、熊本藩主細川家の子孫であり、近衛文麿の女婿で秘書官であり、反東條運動の動きを活写した『細川日記』の著者が、文と美と政治について縦横無尽に語った作品です。

 文の世界では、著者が学んだ京都大学の教養主義的な雰囲気が語られます。また、京都大学人脈で語られるエピソードが面白い。昭和十九年の初夏に、西田幾多郎、佐々木惣一、狩野直喜が集まって会食していた際に、当時、大日本言論報国会の会長として権勢を誇った徳富蘇峰の話題に及ぶと、佐々木惣一が「蘇峰の主張は時勢とともに移り変わるような気がしますが、彼の本質はなんでしょうか」と尋ねると、腕を組んで座っていた西田幾多郎が「それは変わるということだ」と力強く答えて、一座は微笑をもって迎えた、という話(33~34頁)。まさに蘇峰の本質をズバリと言い当てていて興味深いし、苦々しく思われていた雰囲気が伝わります。

 美の世界では、主に細川家について語られるわけですが、なぜ細川忠興が豊臣を裏切って徳川についたかのエピソードとして、秀次事件に連座して、忠興が秀次から三百両の金を借りていて、その使いみちが問題となって秀吉から忠興は切腹を命じられそうになったそうです。問題は、使いみちなので三百両をすぐに用意して返金すれば、事なきを得ます。その時、細川家の重臣・松井康之が徳川家康に借金を申し出て、家康はすぐさま貸すのではなく、上げることにして忠興は事なきを得て、恩を着せた、という話が、後の関ヶ原の戦いでの忠興の動きにつながったというのです(122~123頁)。
 また、千利休について。もともとお茶は、大勢集まった宴会で飲まれるもので、その場では唐物などの品評会なども行われて、目利きには賞金が出るというものだったから、金はかかるし鑑賞眼が試されるというものだったそうです。そこに飽きたらなさを感じてわび茶などを考えだしたのが紹鷗や利休でした。そして、さらに利休のこの小規模での茶会という発想と信長の茶会出席は特権であるという考えが結びついて、この時代の茶道が成立したのですが、秀吉は誰でも参加できる、そして派手な茶会を催すようになります。そうすると、秀吉と利休の間の方向性の違いが出て、対立し始めます。また、朝鮮出兵によって、博多商人との関係を重視し始めた石田三成からすると堺商人の利休が権力を持つことは政策上、好ましくありません。その上、利休は家康とも関係が良好でしたので、そうしたことが重なって、殺されたのではないか。そうした推測が出ております(117~121頁)。ホントの話かどうかは、分かりませんが、細川家の当主という権威からの発言で、何となく説得力があります。

 最後の政治の世界は、戦時下から終戦後までの期間を語ったものです。
 よく終戦の聖断ができたのなら開戦断念の聖断も出せたのではないか、という疑問について言われますが、著者に言わせると、第一にそうした方法があるということを近衛文麿が気づかなかったという点、そして、当時の国民が開戦に必ずしも反対でなかったから聖断による断念は不可能であったろう、というのです(166~167頁)。
 たしかにこれは考えられると思います。やはり我々は、結果から歴史を見てしまっているようです。2・26事件の例が出されますが、政府が機能停止状態という異常事態であるから、天皇が意思を表明したのであって、開戦時は政府はあり、重臣たちも意見を言える状態でした。そうした状態で、天皇が自分の意思を強行することはできません。そして、首相が天皇の意思に委ねるという方法は、それ以前にはなかったわけですから、これは鈴木貫太郎首相の発想が優れていただけで、それ以前には思いもよらぬものだったのでしょう。また、あの戦争は敗北したから、国民も戦争を回避したかっただろう、と考えてしまいますが、それまで勝てるわけのない清国・ロシアと戦って勝ってきてしまったのですから、国民からすると相手が大国だから戦争しないという選択肢はあまり重視されなかったのかもしれません。そうした点から考えると、この聖断による戦争回避というのは、あまり現実味がなく、別の要因について考察した方が価値があるように思います。
 また近衛文麿と松岡洋右のエピソードも興味深いです。
 近衛文麿は、とくかく頭脳明晰で国民人気も高い人物でした。漢学者が書いた難しい漢字ばかりの詔書草稿を下読みもせずに朗読し、読み終わった後に、少し読みにくい字があったから、別の読みに変えておいた、と即座に文意を変えずに別の言葉を差し替えることもできるほど、高い教養を持っていたそうです。
 そんな近衛ですが、開戦間際の時期、実は彼は痔疾を患っていたそうです。いまで言う痔クッションというドーナツ形の座布団がないと座れないほどであったそうで、車に乗車中に急ブレーキで痔に痛みが走ると温厚な近衛が大声で叱りつけたといいます。つまり、この時期、近衛はその痛みによって正常な判断はできないし、政治に集中することができない状態であった、というのです。そんな時に、重大な決断が迫られていたのですから、困ったものです。著者によれば、首相辞任の頃に受けた痔の手術をしてから人が変わったようになった、といいます。もし痔疾がなければ、戦争を避ける努力をもう少しできたのではないか、と著者は言いますが、これはどうなのでしょう。この方の問題は、それ以前の1937年の首相時の判断からあったわけで、近衛が優れていたのは責任のない裏方にある時だけで何か責任を持たされるようなことは痔があろうがなかろうができなかったのではないでしょうか。著者は、近衛は勇気がないと言われるがそんなことはない、戦争末期には潜水艦にのってイギリスに行って和平交渉をしようとしたのだから、といっていますが(214頁)、現に行かなかったわけですし、蒋介石との首脳会談もルーズベルトとの首脳会談もスターリンとの首脳会談も話だけはあるものの、いずれも行ってはいないのですから、やはり近衛を評価するのは難しいわけです。
 頭脳明晰で教養があって、家柄もよく、人気も高く、見た目も良かったわけですが、そういう人が政治家として有能かといえば、そうではない、ということの典型ではないかな、と思います。やはり、政治家としての評価の判断基準は、政策にあるんだと思います。政策を基準にして行動してくれれば、国民としては、恩恵の受け方も分かりやすいし、責任の追求もやりやすいです。
 そして、松岡洋右。著者に言わせると彼は外務大臣として1941年の独伊歴訪の時点で、精神異常を発していたというのです。というのも、シベリア鉄道で移動中、秘書官が大臣のところへ行って話をして、ケリが付いて別の秘書官が入っても、そのまま話を続けていたというのです。秘書官たちも困ったそうですが、シベリア鉄道に乗っている間中、ずっとしゃべり通しだったというのです。また、著者自身も松岡に書類を持っていた際にも、ずっとしゃべり通しで困っていると、秘書官が「細川さんが来てます」と話しかけると、「あ、そう」と著者が来ていることに気づいていなかったようなのです。そうした異常な状態の人物が、大臣の職にあり、独伊を歴訪し、スターリンと会談して日ソ中立条約を結んでいるわけですから、スターリンにいいように操られていても、おかしくはないわけです(223~224頁)。昭和天皇も松岡には異常性を感じていたようですが、大臣在任中のそうした言動に何か察していたのかもしれません。まぁ、こういう人物を大臣として辞めさせるのに内閣総辞職をしなければならない、というのも、やはりあの帝国は異常な国であったのだ、と言えそうです。正常な判断ができなくなっていた。そういう国であったようです。
 こうした面白エピソード満載な座談で、いろいろな想像が広がります。しかし、こうした古い教養人たちは、常に中国の古典が読まれなくなったことを嘆いていますが、そうした古典教養に深い人物たちで構成されていた政府がまともな判断をできず、一度国を滅ぼしていることに何の反省もないというのに驚かされます。漢学の素養は、あった方がいいと思います。しかし、それと政治家としての評価は別でしょう。そもそも漢学の素養を試されて政権の中枢に入るというシステムを持っていた中国の歴代王朝がどうであったかを考えれば、その結果は知れるでしょう。近年も漢学の素養が高い野党党首がいましたが、特に彼を評価する人はいないでしょう。ですから、漢学礼賛もほどほどに、といったところでしょうか。

評価 ☆☆☆

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2015年12月25日 (金)

安丸良夫『神々の明治維新』(岩波新書、1979)

点検読書79

副題は、「神仏分離と廃仏毀釈」

歴史――日本史

維新政府が打ちだした神仏分離の政策と、仏教や民俗信仰に対して猛威を振るった排斥運動の過程は、日本人の宗教観に影響を与えた。つまり、初詣など宗教色の弱い儀式には参加できるものの、自身の問題としての宗教へのハードルの高さを感じてしまう、というように。

戦国時代から幕末までの為政者による宗教政策の事例を追うことで、世俗権力優位=世俗権力の神格化という特徴を論じ、明治新政府による神仏分離を含む宗教政策が論じられる。次に廃仏毀釈の事例、政府による神の統制・序列化の国家神道の試み、民衆の宗教生活の変動、国家神道路線の破綻と国家優位の「信教の自由」体制の確立。

メモ
1.政治権力者の神格化への道をひらいたのは織田信長(23頁)
  現世と来世を「総見」する至高神=信長を祀る総見寺
  →これ以降、現世の権力者功績あるものが神として祀られることに(東照宮など)。
   ←中世までは非業の死を遂げたものへの御霊慰撫であった。

2.長州の淫祠破却(39~41頁)
  村田清風の天保改革の一環
  基準は延喜式神名帳に記載のある神が正祀で、そうでないものは淫祀
  (国学者・近藤芳樹の進言による)

3.国家による祭祀の統制思想(42頁)
  徂徠学派→中井竹山・履軒→水戸学・平田国学→水戸・長州藩による淫祀整理へ

4.徳川時代の反秩序的宗教の序列(43頁)
  キリスト教≧かくれ念仏・不受不施派≧一向宗・日蓮宗
  ≧流行神や御霊≧民俗信仰≧仏教一般

5.大教院体制=国家神道体制の破綻(199頁)
  国家神道体制破綻に最も影響力があったのは島地黙雷の政教分離論や浄土真宗の大教院離脱、さらには真宗信徒らの各地の抵抗による。

6.啓蒙思想家の「宗教自由」論(209頁)
  信教の自由よりも政教分離に関心が集まり、おおむね宗教に否定的。


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2015年12月21日 (月)

西郷、龍馬、そして幕府再評価

 昨日取りあげた鶴見俊輔編『日本の百年1 御一新の嵐』によると、西郷隆盛は、明治新政府に満足しない人たちが、その不満を託するもっとも適切な人物であったという。西郷自身は、幕末期の政治構想や人脈・政治的力量は高く評価されるものの、その最期に関するかぎり旧士族にかつがれた素朴な軍人かも知れない。しかし、彼の新政府の批判者として屈することなく戦った彼の姿勢とその死はさまざまな空想を生んだという。

 例えば、以下のような西郷に対する空想や思慕が生まれた。

1.幕府側諸藩出身者

内村鑑三
 内村は、高崎松平家(譜代八万二千石)家臣馬廻格五十石取りの家に生まれている。その彼の著書『代表的日本人』には、日本の維新は西郷の維新であり、西郷は清教徒革命のクロムウェルの比せられるべき人物として取りあげられている。

新渡戸稲造
 新渡戸は、戊辰戦争の際に官軍と戦った盛岡藩(外様二十万石)の藩主の用人の子として生まれている。彼もまた英国人に西郷を説明する際に、西郷は米国のリンカーンに比べ得る人物である、と述べたという。

2.右翼

 右翼一般において、西郷は理想的人物像として尊敬の対象となっており、大川周明にとっては、自分の母親と西郷とはひとしく自分の生涯を安楽にしてくれたありがたい導師である、と述べている(『安楽の門』)。

3.大衆文学

 大衆文学において、西郷はかっこうの題材となり、林房雄『西郷隆盛』(1939~70年)、海音寺潮五郎『西郷隆盛』(1955~56年)をはじめとして多くの小説の主人公となっている。しかし、これら史伝タイプの伝記小説ではなく、西郷の影を追う伝奇小説への影響も見逃せない。その一つが押川春浪『武侠の日本』(1902年)で、そこではフィリピン独立運動の謎の軍師として、生きていた西郷を登場させている。また獅子文六『南の風』(1942年)では、カンボジアにあらわれた西郷の落し胤を迎えて新興宗教をつくろうとする筋書きとなっている。

4.尊敬する人

 次に「尊敬する人物」としてあげられる西郷である。

 1938年11月の東京帝国大学の調査
1位 西郷隆盛225票 2位 ゲーテ132票 3位 キリスト105票 4位 東郷平八郎99票 5位 釈迦93票 6位 吉田松陰90票 7位 カント85票 8位 乃木希典62票 9位 日蓮62票 10位 野口英世 58票

他を押しのけた西郷人気である。宗教家・軍人人気の中に野口英世が入っているあたり、昭和期の子供向け伝記シリーズの常連になる素地ができていたということか。

 ちなみに1963年の東大法学部の調査になるとこんな感じである。
1位 シュバイツァー51票 2位 マルクス24票 3位 矢内原忠雄21票 4位 ラッセル16票 5位 リンカーン14票 6位 ベートーベン13票 7位 福澤諭吉11票 7位 毛沢東 11票 8位 ナポレオン11票 10位 レーニン10票

 人道主義、平和主義、共産主義、民主主義、ナショナリズムと戦後の時代の混沌とした社会思想を感じ取れるような気もするが、本当の2位は「自分の父母」28票であった、というのも「公」のためではなく「私」の優先・肯定が浸透した時代でもあったのだった。

 以上のように、西郷は明治後半から昭和にかけての人々惹きつける何かがあった。それについて、鶴見氏は、押川春浪に見られるようにアジア的改革とアジア連帯のシンボルとして、また内村鑑三に見られるように明治の革命に対する再革命の理想を掲げる永久革命の理想像としての西郷像があったのだろうと指摘する。そしてまた、自分を慕って集まってきた青年たちの至らなさまで含めてその全体を愛し、ともに死ぬという共同体との心中を美しいと感じる日本人の美意識もあったのではないか、とも。

 しかし、西郷ほどではないものの、戦前の大衆意識の底流にもう一人の理想像があった。それが坂本龍馬であった。その坂本の大衆文化でのあらわれは、「月形半平太」として誕生した。

 月形半平太は、1919年6月、大坂弁天座で初めて演じられ大当たりとなった幕末時代劇に登場するオリジナルキャラクターであった。その名は劇作家の行友李風の命名によるが、福岡藩士の月形洗蔵と土佐藩士の武市半平太に由来するものの中身は坂本龍馬であった。

 第一次大戦後の平和と民主主義の理想に照らして、明治維新の志士から、尊王攘夷から尊王開国へと政治的シンボルを転換させ、また幕末維新期の土佐の公議政体派の源流の一つでもある坂本をモデルとして選ばれたのではないか。その月形は、その転換ゆえに、かつての同志から裏切り者と呼ばれて殺される。一部に根強い龍馬暗殺の盟友黒幕説の高い支持の淵源は、月形にあるのかもしれない。

 もう一つの重要な明治維新解釈がある。それは、幕府再評価である。例えば、津田左右吉『幕末における政府とそれに対する反動勢力」(『心』1957年3・4月)は、明治維新に際して、武力を元に改革をおこなった尊王攘夷派によって維新のコースは歪められた。明治の改革のより良いコースは幕臣の中の良識派の構想の中にあったが、その構想は実現されることなく、その後、百年かかった、と明治政府の否定・幕府再評価を行なっている。これは、津田左右吉の戦後もしばらく経ってからの論文であるが、保守系雑誌『心』に掲載されたものという経緯から考えると、戦後日本の革新勢力に対して、戦前の自由主義派による改革というものを擁護する意識があったのかもしれない。

 以上のように、西郷、龍馬、幕府再評価と並べてみると、どれを好むかによって、自ずとその人の政治傾向が見られるだろう。

反体制感情を持つ人    → 西郷

体制内改革の気分の人  → 龍馬

体制派知識人的な保守派 → 幕府再評価

 西郷を好む「反体制感情」というのは、その体制まるごとの革新を目指す人々である。明治国家においては、反藩閥政府であり、反西洋化であり、反資本主義、反国体などの感情で、戦後日本においては反自民党、反米、反資本主義、反戦後憲法などの志向がある人が西郷に親しみを感じるのだろう。
 一方、龍馬を好む「体制内改革」というのは、明治国家においては、帝国憲法を否定せずにその枠内で平和主義・民主主義の実現を図ろうとする人々であり、戦後日本においては戦前の軍国主義を否定しつつも憲法改正を支持する親米派、その上で社会主義革命などラディカルな改革には慎重で、政権交代可能な二大政党制の確立など、穏健な民主化を進めるタイプの人かもしれない。戦後における坂本龍馬人気は、元サンケイ新聞記者で『サンケイ新聞』に連載された司馬遼太郎の『竜馬がゆく』ということを考えれば、大体そんなところでしょう。当時の『サンケイ新聞』の路線は、あくまで反共・自民支持であって、軍国主義の日本を肯定しようという傾向はあまりなかっただろうし。司馬が、明治は良かったけど昭和はダメという主張であったし、また西郷が苦手と考えているあたり、革命幻想はなかったであろう。

 最後の幕府再評価は、政治的改革などには興味のない知識層であろう。かつての左翼系の知識人は、明治維新が好きだった。やはり何といっても体制が変革するというカタルシスと下級武士をも含めた民衆のエネルギーに肯定的であったからだ。その一方で体制化した維新政府に対しては批判的という、一貫した反体制派であったのである。しかし、近年の知識層は、社会主義革命などの民衆のエネルギーを背景にした変革に興味を失っているし、現状を肯定している。だから、彼らは、表面上は民主主義を肯定するが、民主的に選ばれた首相が何か改革しようものなら、反対の姿勢を明らかにし、そうした指導者を支持する大衆を軽蔑している保守的な人びとである。ここでの「保守」とは、何ら思想的の意味のない現状肯定である。民主主義的背景を元にした憲法改正には反対、行政改革には反対、経済政策の転換にも反対といった「保守」である。

 言ってみれば、エリート主義なのである。

 そのため、知的に劣る下級武士による革命よりも、幕臣たち知的エリートたちの改革にシンパシーを感じ取る。そういった感じではないか。

 近年は、西郷人気はあまりない。どうも、革命幻想というのに人々は辟易としているのである。そして、これは革命を成し遂げて体制派になった維新の元勲たちの人気の低さにも感じられる。その一方で、西郷同様に可能性の理想像として民衆に支持の高い坂本龍馬と、龍馬と龍馬好きを軽蔑して幕府を再評価する知識層。この二分化が、現在見られるのではないか。そんな風に感じた。


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2015年12月20日 (日)

鶴見俊輔編著『日本の百年1 御一新の嵐』(ちくま学芸文庫、2007)

点検読書75

①歴史――日本史

②幕藩体制への不満を背景に、黒船来航を機に、日本人という民族の自覚と新しい社会の形成を目指した時代を資料をふんだんに引用して描き出す。

③序章・第一・二・三部・終章の五部構成。序章は、鎖国下の日本から漂流し外国に滞在した人々の記録。これらが当時の日本人に海の外のユートピア像を形成した。第一部は黒船来航に対する反応と戊辰戦争における諸相。第二部は新政府側の改革とそれを受ける民衆側の意識。第三部は明治政府主導の改革に取り残された敗者を取り上げることで別の可能性・構想を見ていく。終章は現代に生きる100歳以上の人々への聞き取りの記録。個人史としての時代の変化を見る。

メモ
まぶたを裏返す習慣(68頁)
 まぶたを裏返しにしてから、その上を擦ってくすぐり、なめらかな銅製のヘラでみがく。当時の人々に眼病が多い理由か(オールコック『大君の都』中)。昭和初期までつづき、第二次大戦後すたれた。
→磨いている人はさすがに見たことがないが、まぶたを裏返しにする子供は見たことがある(1980年代)。

榎本武揚の助命(181頁)
 五稜郭開城以前に榎本は、官軍側の参謀・黒田清隆に『海律全書』(フランス人オルトランの海上国際法に関する著書の蘭訳を筆写したもの)を贈り、黒田は福澤諭吉に翻訳を依頼。福澤は数頁訳して、全体をよく訳せるのはヨーロッパで勉強してきた榎本だけだと助言して返す。黒田は、丸坊主になって助命嘆願を新政府会議で主張し、西郷吉之助も赦免を主張し、榎本は助命された。


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2015年12月 4日 (金)

三國一朗『戦争用語集』(岩波新書、1985)

点検読書60

①歴史――日本史

②昭和10年代の80余のキーワードを選び、その意味や印象的なエピソードを交えて、当時の世相を描く。


「盧溝橋」から「バンザイ=クリフ」までの戦争エピソード。
「軍神」・「玉砕」など戦時下の特殊用語。
「千人針」・「時局捨身動物」など銃後の暮らし。
「ぜいたくは敵だ」・「少国民」などの標語。
「ゲートル」・「わかれ!」などの軍隊内の用語。
「ポツダム少尉」など終戦前後の言葉。

メモ
「ポツダム少尉」とは、敗戦によって、「見習士官」が「少尉」に進級したこと。


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2015年12月 1日 (火)

安田浩一『ヘイトスピーチ 「愛国者」たちの憎悪と暴力』(文春新書、2015)

点検読書57

①社会評論

②属性に対する攻撃を不均衡な数的優位の下、攻撃することをヘイトスピーチという。ヘイトスピーチは人を壊す、地域を壊す、社会を壊す。

③どのような現象か、在特会という現象、ヘイトスピーチの定義、韓国人から被差別民・外国人への拡大、ネットでの攻撃、未知への恐れ、ヘイトスピーチへの規制の動きとワキの甘い政治家たち、敵を見つけ敵を吊るす、不寛容の拡大。


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2015年11月14日 (土)

エドワード・S・モース『日本その日その日』(講談社学術文庫、2013)

点検読書41

訳者は石川欣一。

①日本文化論

②アメリカ人動物学者モースの日本滞在記。

③東京大学への着任(1877年)、日光旅行、江ノ島、大森貝塚、北海道、九州、京都などの庶民の生活の記録。また1877年10月6日の東京大学における初めての進化論講義についても言及。

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