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評論

2016年5月 2日 (月)

船橋洋一『21世紀 地政学入門』

点検読書183

文春新書(2016年)刊。


国際政治


米国の衰退により、地政学的リスクが高まっている。本書で言う地政学的リスクとは、地理や歴史のような変えようのない要素、さらには民族と宗教のような変え難い要素が、国の戦略や外交に大きな影響を及ぼし、それが国家間の摩擦をもたらすようなリスクである。現在の日本の周辺では、北朝鮮の崩壊リスクが高まり、中国は海への戦略的意志を明確にするようになってきている。日本という国の位置は、アジア太平洋地域で覇権国ならんとする国に対して、抑えこむか友好国になるかすることで、多大な戦略的価値を持っている。そのためにも、国際政治の舞台で、単なるコマとなるかプレイヤーとなるかは、地政学的直観力が必要とされる。


五部構成

1:ロシア・朝鮮半島・アラビア半島の地政学的リスク(第1章)

2:国際経済におけるリスク(第2章)

3:中国というリスク(第3章)

4:アメリカの対中戦略(第4章)

5:日本の政治(第5・6章)

コメント
 中国というやっかいな隣国といかに付き合っていくか。これが本書の核となる内容です
 著者によれば、米国は衰退したとはいえ、日本にとってもっとも重要な国であることは変わりなく、さらなる同盟の深化をすすめつつ、中国の挑発には乗らずに抑止力を強化しなければならない、ということになります。前者の日米同盟のさらなる密接化は、集団的自衛権の行使容認やTPP締結など、現在の安倍政権の路線を意味するのでしょうが、問題は後者です
 後者の「中国の挑発」とは、靖国参拝を含む歴史問題です。中国が、歴史問題を外交問題として提示し始めたのは、80年代からで、その攻勢が強まりだしたのは90年代初頭から2000年代初頭の江沢民国家主席時代の中国でした。
 日本側としては、何度も繰り返される内政干渉や思想の自由を侵害するとも言える中国側の主張に反発が生じてしまい、歴史問題で修正主義的な主張をすること(「日本は侵略国家ではなかった」)や、靖国参拝をするということが対中強硬路線のあかしとなる政治的カードとなってしまいました。
 しかし、こうした中国の姿勢は、単に中国側の主張を押し付けたいということではなく、中国の主張に反発を引き起こして日本が孤立化することまで予想に入れた戦略であることを忘れるな、と著者は述べます。つまり、日本は、東京裁判の判決結果を含むサンフランシスコ講和条約、「敗戦国」であることを受けれたことを前提に国際社会に復帰しました。それにも関わらず、戦後の国際秩序の歴史観に挑戦することは、戦後秩序そのものへの挑戦である、と戦勝国たる米・英(ヨーロッパ)・露という大国に宣伝することを可能にします。それは必然的に、日本を孤立化させることになります
 日本が、中国や韓国のいいなりとなって「侵略国」であることを受け入れることは屈辱である、そうした気分はあると思いますし、それに反発した主張を掲げ、実行する政治行動は、気分がいいかもしれません。しかし、それは「現在」の日本が国際社会の中で存在感を示すのに、何の役に立つのでしょうか。場合によっては、中国・韓国の言いなりにならないことが国益である、という主張が、かえって国益を損ずることになりかねません。
 本書が述べていることは、そういうことです。もし真剣に日本が憲法を改正し、陸海軍を復活し、国連の常任理事国入りなど国際社会の中で一等国としての存在感を示したいならば、過去は切り捨てて、「侵略国」であることを明確に受け入れて、危険がないことをアピールするしかありません。過去に固執することは、日本民族としての誇りは保たれるものの、国際社会の中に存在する国家としての日本の存在感を低下させることになります。
 ここには、「真の国益」とは何か、という問題が表出します。過去に拘り、民族といての一体感を保持することで、国内的に同胞を思いやる平和な共同体としての日本を望むか、過去の日本は現在の日本とは異なることを受け入れ、新国家・日本として「現在」の国際社会の中で活躍する名誉ある地位を得るか。どちらを得るかということかと思います。
 おそらく日本の誇りを大事にして軍事的な独立・強化を目指したい人々は、その両方を望むのでしょうが、それはどうやら難しいようです。もし、可能ならば、20世紀初頭の「侵略国」であったことを受け入れた上で、徐々に過去の日本の言い分を聞き入れてもらうようにするしかないでしょう。つまり、国際社会の中で平和的な軍事活用に積極的に参加して信頼感を増していった上で、当時の日本の立場や他の諸外国の行動の妥当性について理解を求めていくしかないのです
 本書が述べていることは、そうしたことかと思います。歴史問題や靖国にこだわることは、中国の巧みな戦略の手のひらで踊っているだけである。歴史修正主義的な対中強硬派の人たちは主観的には中国と戦っているつもりでも、中国政府からすれば、お手軽な援軍だと思っているのだと自覚する必要があります
 安倍首相の一回限りの靖国参拝は、国内の強固な支持を与えてくれる保守層への最後のファンサービスと考えるべきですし、慰安婦問題の解決や過去の加害の責任を認めた戦後七十年談話とは中国の挑発に乗らずに、国際社会の中での大国化を目指した宣言であると言えるでしょう。その点で、安倍首相は感情的なナショナリストに見えて、冷徹なリアリストなのかもしれません。
 歴史観における戦後国際秩序への挑戦というのは、結果的には憲法第九条を守ることになります。憲法第九条がある限り、国連の常任理事国になることはできないでしょう。国連憲章第43条第1項と第45条に、国際平和や国際的強制行動の際には、安全保障理事会に兵力を提供するように求められています。「軍隊」を持たない国が、その責任者になるというのはありえません。自分たちは、兵力を出さないのに、軍事行動を行える決定権を持つというのは虫のいい話でしょう。左派はそもそもどのような国際紛争にも関わらない、というのが主張ですから、国連の常任理事国入りには興味がありません。そもそも憲法第九条があるのなら、軍事同盟たる国連などに参加すべきではないのかもしれません。このように考えると、右派と左派は、お互いに助けあって、日本の「戦後レジーム」を維持するのに寄与しているといえます
 国家の独立とその名誉を第一と考える保守派にとっては、民族的な純粋性にこだわって現状維持か孤立化を選ぶか、過去は過去として受け入れて「現在」の日本の大国化を選ぶかか、そうした選択の時がきているのでしょう

評価 ☆☆☆

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2016年4月 4日 (月)

西寺郷太『プリンス論』

点検読書161

新潮新書(2015年)刊。


音楽評論


卑猥な歌詞と猥褻なヴィジュアル。しかし、黒人ミュージシャンとしてマイケル・ジャクソンと肩を並べる偉業を成し遂げたプリンスという存在を同じ音楽家として師と仰ぐ著者が、生い立ちから音楽分析、さらには人種の坩堝としてのアメリカという社会的背景をからめて論じる。


四部構成

1:著者とプリンスとの出会い(プロローグ)。

2:出生から『パープル・レイン』革命まで(第1章・第2章)。

3:絶頂期の80年代後半と混迷の90年代(第3章・第4章)。

4:2000年代の復活と円熟、そして「さらなる自由へ」(第5章・第6章)。

コメント
 かつて『週刊少年ジャンプ』で『ジョジョの奇妙な冒険』が連載していた時代。巻末のコメント欄で、荒木飛呂彦先生が「プリンスのベストが出て、毎日、仕事場でこればかり聴いている」と書いていました。その時は、『ジョジョ』は第四部の序盤から中盤に差し掛かる辺りで、私が『ジョジョ』を単行本を買って読むようになった時期にあたります。
 当時、私は中学生で、聴いていた音楽はなぜかYMOと井上陽水という渋めな子供で、洋楽を聴きたいなと思っていたが、ビートルズとマイケル・ジャクソンぐらいしか知らず、でもどっちも何故かダセーな―とか思って、でも何を聴いていいか分からない、という状態でした。そこで、愛読していた漫画の作者が、大ファンだというプリンスの名前を頭に刻みこみ、神奈川県に展開していたディスカウント量販店のダイクマのCDコーナーで見つけて、自分の小遣いと相談しつつ、『ザ・ヒッツ&Bサイド』は高くて買えず、『ザ・ヒッツ1』を購入したのでした。
 で、聴いてみる。1曲目は「ビートに抱かれて(When Doves Cry)」。鳴り響くねじれたギター、「ドゥドゥドゥ」というドラム音とフニャけたシンセサイザー、そして初めて聴く低音ヴォイスのプリンスの歌声。

地味だ。

 正直な感想は、これである。そして、続くフニャけた軽い曲の「ポップライフ」。当時の『ジョジョ』の舞台の1999年を題した曲「1999」は、期待していただけに、そのオープニングの仰々しさに「ダセー」としか思わなかったのでした。そして、泣きのバラードなんて、中学生には興味もなければ、聞きたくもない。
 でも、せっかく初めて買った洋楽CDです。しかも、そんなに小遣いのない中学生ですから、しかたなく繰り返し聞くと、何だかよく感じてきたんですね。いや、もしかしてこの「ビートに抱かれて」ってのは、すごい曲なのではないか。「アップタウン」、とてもダサいけど、聴いてて気分がいいぜ、とかになってきたんです。
 それで、『ザ・ヒッツ2』の方を買ったら、こちらはドハマり。一曲目の「戦慄の貴公子(Controversy)のカッコイイこと、「ウォナ・ビー・ユア・ラヴァー」の裏声の気持ちよさ、「リトル・レッド・コルヴェット」のソウルフルな歌声、「ポープ」のかっこ良すぎるラップ。最高でした。そこからはプリンスをずっと追いかけてきました。『レインボウチルドレン』までは。その程度のファンレベルの私にとって、本書はプリンス再入門に最適なものでした。
 私の「ビートに抱かれて」の感想は、後に音楽家になった著者とそれほど変わらないことに安心感を覚えました。しかし、音楽家となった著者の解説を読むと、「登場する楽器、異常に少ない!」、とりわけベースが入っていない。それなのに、ビートを利かせたダンスミュージックになっている。と、これほど画期的な曲だったとは、音楽は聴くだけの私にはまったく分からない構造でした。
 ただ地味だという感想は、間違っていなかったのでした。著者が、述べているように、日本の歌謡曲というのは、どちらかと言うと音をつめ込むようなゴージャスなアレンジメントが多く、またBPMも早めか遅めでミディアムテンポが受けない、という音楽環境があるようです。私の感性というのはまったくそれにはまっていて、「ビートに抱かれて」の少ない音、日本の楽曲に比べてゆっくりとしたBPM127という曲なので、地味で間延びした感じがして、とっつきにくかった、ということだったのでしょう。
 この分析だけでも、本書を読んだかいがあったというものです。その他にも、私は、日本人ということもあったし、『ザ・ヒッツ』のジャケットが白黒写真で、プリンスが黒人であるという意識はほとんどなかったのですが、初期における黒人音楽として周囲の視線、とりわけローリング・ストーンズ前座事件などはまったく知らなかったことですし、プリンス自身の音楽的来歴の中で人種を越境する音楽センスを磨き、しかも戦略的に黒人からの敵意を持たれずに、白人をうならせる音楽づくりをして、黒人音楽の社会的地位を押し上げた、という視点は興味深かったです。
 また、先に私が、ビートルズやマイケル・ジャクソンを「ダセーな―」と思ってしまった理由。それは、「ウィー・アー・ザ・ワールド」に参加したミュージシャンたちが大人も認める子供にとってダサい存在になってしまったから、という著者の分析によるところがあるのかと思います。ビートルズは、学校の音楽の授業で「ヘイ・ジュード」を歌うというように、国家「公認」の現代音楽です。さらにテレビに出てくるオヤジどもが褒め称えるような存在です。これはマイケル・ジャクソンも同じですね。チャリティー活動というのは、それ自体は立派な行為だと思いますが、「ウィー・アー・ザ・ワールド」ぐらい大規模なものとなると、少々辟易としてしまいます。それに対して、プリンスは、背が低いので大柄なミュージシャンたちと並んで歌いたくない、と推測される理由によって、これを回避したことで、「良識ある大人公認」のミュージシャンとなることを避けられたがために、現在までも現役で活動できた、という分析はうなずけるものがあります。そういえば、『ザ・ヒッツ』の渋谷陽一氏による解説も、その点にふれられていて、私がプリンスを聴き続けることができたのも、そうしたエピソードがあったからかと思います。
 あと印象に残ったのは、著者がプリンスのライブに行った日、1996年1月8日。多分、私もその場にいたんですよね。著者よりも全然、席は悪いところでしたが、パルコのチケット売り場のおねーさんが、「見えやすいところを選びますね」と選んでくれた二階席の正面にいたんです。私は、著者ほどの衝撃は受けなかったものの、人生初めてのライブ参加ということで、印象深い日でした。
 しかし、何よりも著者のおかげでプリンスを再び聴きたくなりました。旧作も新作も「アルバム」で聴きたい。聴きやすいよりも、何回でも聴いて沁みてくる音楽。そんな体験をプリンスはさせてくれる。


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著者の新譜。前半の楽曲は、プリンスへのリスペクトを感じます。特に「スパイシー」。

2016年3月25日 (金)

小室直樹『日本国民に告ぐ』

点検読書155

クレスト社(1996年)刊。
副題は「誇りなき国家は、必ず滅亡する」。


評論


1982年の歴史教科書に検定における「近隣諸国条項」、90年代以降の「従軍慰安婦」問題に端を発して、日本の歴史教育は「反日史観」に彩らられるようになった。戦時期における問題への謝罪には賠償が伴い、さらなる援助を求められれば、財政危機にある日本は破産する。今般の歴史問題は、マスコミの自己検閲による自由な討論の排除というデモクラシーの危機であり、また愛国心を毀損させる教育の蔓延は日本人をさらにアノミー化させ、社会のルールが失われ、無規範となり、合理的な意思決定ができなくなってしまう。それは、かつて著者が「スターリン批判」におけるカリスマの失墜がソ連を崩壊させると予言したように、日本を滅亡に導いてしまう。


三部構成
1:「近隣諸国条項」、「従軍慰安婦」問題による歴史教育の自虐化と謝罪に伴う挙証責任(第一・二章)。

2:近代国家・日本のつくられ方(第三・四章)。

3:戦後日本の「急性アノミー」化(第五・六章)。

コメント
 本書を読むと、90年代後半の空気感のようなものが伝わってくるような気がします。
 昭和において、ほそぼそと一部の奇特な読書人にのみ受け入れられてきた右派的な言論が、なぜあの時代において大衆化したのか。
 自由主義史観研究会の『教科書が教えない歴史』(1995~98年)の大ヒット(当時は、『王様のブランチ』でも紹介されていたのです)、新しい歴史教科書をつくる会発足(1996年)と教科書検定合格(2001年)、小林よしのり『戦争論』の大ヒット(1998年)等々。これらが、この時期にあらわれた事象だったわけですが、同時代に生きたものとしては、何となく、「言論の自由というものが、この国にはないのではないか」、そういった気分で支持されていたのではないか。そんな感じがしたのです。
 現在のネット右翼の人も、ネット上で、主にテレビ・メディアで報じたり論じたり主張したりされないようなことを見聞きして、衝撃を受けて、そういった情報を信じてしまう。これは、その情報の確度が高いことによる支持というよりも、既存のメディアが報じないことを見聞きしたことによる新鮮さによるもののような気がするのです。彼らの原動力は、自分の国が貶められているという感情面は当然あるとしても、より大きなものはアンチ・マスメディア気分というものが大きいのじゃないでしょうか。
 そこにあるのは、様々な意見というものが公平に発言機会を与えられて、そうした討論の上で、どちらが正しいかを見ている人に判断させるのではなく、事前にマスメディアの方で自己検閲して、自分たちが正しいと思うもののみが表に出て、それ以外が闇に葬られている。しかも、日本を悪くいうものは言論の自由を謳歌しているのに、日本を正当化するものにそもそも発言権がない。そういったものに違和感や反感があって、右派的な言論の内容の当否など関係なく支持する、という気分が醸成されたのではないか。そんなふうに思うわけです。
 本書では、こうしたマスメディアの自己検閲を問題とします。戦前の当局からの検閲による言論弾圧は、伏せ字という目に見えるかたちで行われていたが、日中戦争が起きた頃(1937、8年)になると、印刷直前での差止めは経済的負担であるから、編集者による自己検閲が行われるようになったといいます(44~45頁)。こうなると伏せ字時代のように問題のある内容を読者にそれとなく知らせることなく、何の痕跡も残さずに言論統制が可能となります。こうして紙上に載らない意見は「世論」ではなくなります。そして、この自己検閲制度は、軍部がいなくなったからなくなるのではなく、占領軍の意を迎えるようになり、占領軍が去ってからも、同様の制度を維持し続ける。そして、自己検閲によってつくられた「世論」という名の「空気」が支配すると、それ以外の発言はますます現れなくなる。

「戦前日本のマスコミが主戦論を拡大再生産したように、戦後日本のマスコミは、占領軍をさえ出し抜いて、「自己検閲」のシステムによって、反日史観を拡大再生産して、しっかりと日本の社会に根づかせてしまった。……反日史観に反対する者は、条件反射的に排斥され、学界からも言論界からも追放される仕組みができあがってしまった。それとともに、反日史観としてヴェクトルの向きが固定されたマスコミの自己検閲“制度”も確立された」(53頁)。

 著者に言われるまでもなく、「自由討論こそデモクラシーの根本」。しかも、2014年に『朝日新聞』が、「従軍慰安婦」問題における「吉田証言」を取り消しましたが、90年代において、これらはすでに多く主張されていたのでした。そうした信憑性が高い意見も、テレビメディアで公平に論じられることなく、排除されてきました。
 だから、90年代後半の右派運動は、そうした空気への異議申し立てだったのではないかな、という気がするんです。だから、案外、日本のデモクラシーの発展には寄与したのではないか、という気もするんです。一般的な「民主主義を守れ!」という運動はテレビ・メディアにも好意的に取りあげられることがあるのに、彼らはメディアからの後援もなく排斥されていたのもかかわらず、声をあげていたのだから。発言の当否はともかくとして、そこは評価すべきではなかったか、と当時の傍観者としては思うわけです。
 では、著者は、何ゆえに「反日史観」を問題とするのか。それは、「急性アノミー」をさらに悪化させるためだといいます。
 著者にいわせると、近代デモクラシー国家というのは、宗教と愛国心なしには成立しない。宗教は絶対神との契約という観念を人々に植え付け、それは国家と国民との統治契約や、対等な当事者間の人と人との契約を準備させます。絶対者との契約の観念なしに、契約を守るという意識が生まれようがないということです。また、愛国心無きところ、人々は企業や役所など機能集団にその連帯感を吸収され、より広い普遍的な規範が成立しなくなる。つまり、機能集団が共同体化すると、その集団の利益や正義が優先され、外部の国益や社会的正義が無視されてしまう、ということになります。例を上げれば、内部告発のようなものはNGと思われるし、サービス残業のような過剰労働が容認される風土をつくりあげてしまう、ということになります。このように宗教と愛国心がなくては、個人間はもとより政党と有権者の約束が守られないことに不感症となり、また社会正義を実現するという意識が生まれようがない、ということです。
 そのため、明治国家がせっかくつくり上げた宗教としての「天皇イデオロギー」は「人間宣言」によって廃棄されて契約観念が根づく契機を失い、反日教育による愛国心への毀損が日本国家という共同体を弱体化させ、機能集団に吸収され、そこからはじき出された人々は孤立化し、アノミー化する、というのが著者の主張です。
 なかなかすごい主張だという印象を受けてしまうけれども、彼が目指すところは、日本を近代国家とする、というものなのです。彼が、参照する著者は、丸山眞男、大塚久雄、川島武宜と戦後を代表する「進歩的文化人」であって、本書で主張されるような右派的な言論においては「悪の象徴」のような人物たちを参照して論じています。著者自身、上記の人々の謦咳に接して学問の研鑽をした人物でした。著者の発言が過激だと思えるのは、近代国家の凶暴さというものを、「進歩的文化人」が戦略的にわかりにくくしていたところをハッキリと述べているところにあるのではないか、とも思えます。
 また、著者は、愛国教育をすべしと主張していますが、別のところで、アメリカは教育において、アメリカの旧悪を教えることはないものの、研究においてはそれが盛んであることを強調しています。あくまで、反日史観批判は教育現場のことに限られることは留意すべきであり、彼が近代史において参照しているのが、羽仁五郎や井上清らの共産党系の歴史学者であることに注意を要します。
 著者は、日本の特徴として、日本国民と政治は保守的であるが、マスコミと知識人は反日であると述べています。小室直樹は、丸山眞男を「日本で唯一の政治学者」と崇拝するほどの近代主義者でした。しかし、彼の著作というのは、タイトルがどぎつくて、丸山ら岩波文化人の読者のような「良識的」な人が決して手に取らないようなものです。これは何なのだろう、と考えたのですが、結論としては日本の近代化は保守的大衆の啓蒙にある、という戦略なのではないか。そんな気がしてきたのです。
 つまり、彼の著作はタイトルやテーマは保守的な、右派的な人が喜びそうなものを持ってきます。しかし、彼の著作は必ず近代国家の原則について説明する箇所があり、また大日本帝国の失敗について繰り返し述べられているのです。
 こうした近代主義的な言論を述べる他の著者は、皇室に無関心か廃止論者で、愛国心を否定し、大日本帝国の旧悪を強調します。しかし、本来、近代主義的な言論を届けなければならない一般大衆には逆に届かなくなってしまいます。彼らは、皇室制度を支持し、自民党を支持し、それなりの愛国心があって、歴史においても誇りを持ちたい人々です。そして、彼らが実際の政治を動かしています。近代主義を日本に根づかせるには、彼らを説得しなければなりません。しかし、正直な近代主義者の言葉は、最初から拒否反応を起こしてしまうのです。
 その点を小室直樹は意識したのではないかと思います。彼自身の強烈愛国心があったことは否定できませんが、それにも増して、保守的な日本国民の啓蒙、これが彼の著書が一見右派的でありながら、その根拠となる知識人や著作が左派リベラルが多い理由ではないでしょうか。保守的な読者が、これを入り口に丸山や大塚やヴェーバーを読むことを願って。

評価 ☆☆☆


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2016年3月14日 (月)

小室直樹『世紀末・戦争の構造』(徳間文庫、1997年)

点検読書148

副題は「国際法知らずの日本人へ」。


評論


国民一人ひとりが、国際政治、国際法、国際関係を理解するためには、近代的戦争、国際政治、国際法を生んだキリスト教の根源に遡らなければならない。また、近代ヨーロッパは、イスラム世界との対決を媒介にして生まれたので、イスラム抜きに近代を体得することはできない。こうした宗教社会学的理解を踏まえた上で、戦争の意味の変遷と国際政治、国際法の展開を概説する。


六部構成
1:近代の基礎をつくったキリスト教の歴史。

2:イスラム教の歴史(なぜ近代を生み出せなかったか)。

3:国際法の確立(ヨーロッパにおける絶対主義の確立)。

4:湾岸戦争で戦争の概念が変わった。

5:国際法を理解できない日本人。

6:アメリカン・デモクラシーでは湾岸戦争を正当化できない。

コメント
 湾岸戦争で国際政治のルールが変わった。
 これが本書の主張である。それはどういった意味か。
 かつての国際政治とは、列強政治であった。ナポレオン戦争後のウィーン会議は、ナポレオンを打倒したイギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンと敵国であったフランス、これら五大国にのみ発言権があった。ナポレオン戦争において重要な役割を果たしたスペイン、ポーランド、イタリア諸国は何ら口出しできなかったのである。ヨーロッパの秩序を決定したウィーン体制自体は、フランス二月革命(1848年)において終焉を迎え、ナショナリズムの時代が来たものの、列強政治は終わらなかった。そのナショナリズムの実現=独立国家の確立も列強の協力や承認なしには不可能であった。その例として、フランスの協力を得て、オーストリア軍を撃退して独立を果たしたイタリアがある。また、プロイセンの帝国化も巧みな外交によって、列強の干渉を受けずに、戦争を遂行できたことにあった。
 こうした列強政治は、日本とアメリカの登場によって、ヨーロッパだけではなく、全世界大に広がったものの、基本は変わらなかった。こうした列強政治をやめるための国際連盟が設立されても変わらない。
 象徴的なのは、日本が起こした満洲事変への対応である。国際連盟に加盟する小国がいくら制裁を求めても、列強が日本と事を構える気がなかったので、何もできなかった。日本はむしろ国際連盟を脱退して列強との二国間交渉によって事態を解消しようとしたほどであった。また、第二次大戦の前哨戦たるミュンヘン会談もイギリス、ドイツ、フランス、イタリアの大国だけでチェコスロバキアの領土問題を決定した。1939年の独ソ不可侵条約におけるポーランドとバルト三国の運命も独ソという大国間の交渉によって決められた。
 第二次大戦後もこれと変わらない。むしろ新しく設立された国際連合は、常任理事国という大国の拒否権を認めている分、小国の発言権が強かった国際連盟よりも列強政治の制度化を意味していた。そして、冷戦が起きれば、多くのことは米ソの会談で決めることができた。
 それを変えてしまったのが湾岸戦争である。サダム・フセイン率いるイラクによるクェート進攻に対して、国連安保理で米ソが協力してイラクの即時撤退要求と武力行使容認決議を可決した。つまり、米ソのみならず国連加盟国の総意としてイラクに対する非難と制裁を決めたのである。しかし、イラクはクェートから撤退せず、湾岸戦争へと至った。これにより、列強の決定が国際政治を決めるという慣例は終わった。フセインの行動によって、国際政治は完全に転換したのである。しかも、湾岸戦争は、これまでのアメリカの戦争の正当化の論理=自由と民主主義を守る、という原則からも外れ、クェートの専制と差別を回復するための戦争としてアメリカンデモクラシーの正統性を傷つけてしまった。

 小室直樹というとソ連の崩壊を予言した人物として有名であるが、本書における湾岸戦争によって国際政治の原則は変わったという予言も全く的を射ていたものであったろう。その後の国際政治は、アメリカの正統性の低下とあいまって、まさに国際政治秩序の流動化であった。そして、現在においても北朝鮮への国連安保理での制裁決議が全会一致で決められても、金正恩国防委員長の行動を止めることはできていないのである。この淵源は湾岸戦争にあった、という指摘は、刊行当初読んだ時にはピンとこなかったが、二十年近くして読み返してみると、なるほどこういうことか、と膝を打った次第。小室直樹恐るべし。

評価 ☆☆☆☆


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2016年3月 1日 (火)

小室直樹『これでも国家と呼べるのか』(クレスト社、1996年)

点検読書138

副題は「万死に値する大蔵・外務官僚の罪」。


評論


財政破綻を目前にして、大蔵官僚は経済を分からなくなり、外務官僚は土下座外交のつけとして他国への援助をし続ける。この国の問題は、こうした官僚たちの責任を問うシステムがないことであり、それはキャリア官僚制に起因するエリートは失敗の責任を負わないという戦前以来の規範が生き続けていることに問題がある。


三部構成
1:外務官僚の罪(第一・二章)

2:日本官僚制論(第三章)

3:大蔵官僚の罪と経済論(第四~六章)

コメント
 何とも手が出しにくいすごいタイトルの本ですが、中身はいつもの小室直樹でした。

 簡単にまとめると、まず外務官僚の罪とは何か。
 本書が公刊された1996年は、前年の村山談話やそれ以前の細川護熙首相の「侵略戦争」発言、宮澤喜一内閣時代の河野談話と、歴史認識をめぐる話題が盛り上がっていた時期にあたり、それぞれ過去について謝罪することが良識ある態度とされていた。その点を著者は、批判する。
 曰く、謝罪には補償が伴うことを理解しているのか。ナチス・ドイツの例を見ても分かるように、戦争犯罪には時効なしという国際的な潮流の中で謝罪すれば、無制限の補償の責任を追うことになる。また、中韓の歴史観を改めさせるとの主張は内心の自由を侵すもので近代デモクラシーの敵である、とのことである。
 90年代というのは、こうしたイデオロギーの対立の時期だったんだな、と感慨ひとしおです。しかし、よく考えて見れば、こうした謝罪外交が、国内の右派勢力を勢いづけて、謝罪するにもしないにも、左派も右派も目を光らせるという面倒な時代が続いたわけです。安倍政権の「戦後70年談話」は、右派・左派の人々には評判がイマイチなものの、そういった連中はそれぞれ二百万人程度、合わせて四百万人で国民の3%程度と割り切ってほっとくしかないと思います。穏健な保守派は、概ね受け入れているし、諸外国もこれを根拠に補償を求めるということもなさそうです。そこで穏健なリベラルであって欲しい民主党の岡田代表がこれを批判したというのは、返す返すも残念なことでした。この辺で終わりにしてほしいものです。
 次に日本官僚制論ですが、ここが本書の肝となる部分ではないか。
 曰く、日本において機能集団たる会社や官僚の世界が共同体となっている。共同体においては、普遍的に適用される規範ではなく、ウチとソトで区別される。その最たるものが、「エリートで主流に立つ人々は、他の人々とは違った特別な規範が適用される」、つまりエリートの失敗が不問に付されるということで、戦時下のエリート軍人と一般兵との相違と外務省のキャリア官僚とノンキャリとの待遇の相違をあげている。
 まぁ、ここですよね。結局のところ、それぞれの共同体において、処罰する側の人というのは、幹部候補としてその共同体に入りこんだ人なわけです。そうなると彼らにとって、幹部候補=エリートは身内であって、守るべき対象なのです。そうなると評価が甘くなる。
 これをどうするか。今後、同一労働同一賃金というように労働環境が変わると、役職につく者とプライベートを大事にしてまぁまぁ生活できれば良いという人とで、生き方を選べるようになるわけです。しかし、そこでその選択が採用時、つまり総合職と一般職やキャリアとノンキャリのように区別されてしまうと、結局同じことになりかねない。やはり完全に労働市場を自由化して、採用時はすべて非正規のような扱いとして、役職につくものはその中からやる気のあったもの、もしくは外部から経験を積んだ人を連れてくるというかたちにしないとまずいでしょうね。でも、日本の企業は官庁が変わらないと自分たちで変える気がないのですから、まずはキャリア官僚制を廃止する。これを何とかしないと労働市場の自由化も難しいような気もします。著者は、明治のジャーナリストは筆一本で、新聞社を渡り歩いたことを例にとって、戦前は労働市場が自由であったことを指摘してますが、それも1893年(明治26年)の文官任用令、つまり現在まで続くキャリア官僚制が始まると徐々に狭まって、「時代閉塞の現状」へとつながっていったんじゃないかと思います。だから本丸はキャリア官僚制廃止にあるのでは、と思う次第です。
 しかし、外務省の例として、杉原千畝の戦後における免職が述べられているのですが、かつて岡崎久彦は、「あれは外務省の命に反したからとかではなく、彼がノンキャリだから戦後の人員削減の対象となっただけ」と述べられていて、何か釈然としないものを感じたが、彼自身の外務省擁護とキャリア的姿勢から発せられた言葉だったからだろう。

 最後は、大蔵官僚の罪と経済論です。
 曰く、大蔵官僚はバブル対策を誤り、経済を停滞させ、そのツケとして国債を発行して財政政策を行なっているが、それは銀行に国債を買わせて民間への貸出を減らすクラウディング・アウトを引き起こしている。行なうべきは資本主義の原点にかえって、規制撤廃など自由化した上で、有効需要を刺激するケインズ政策を行なうべきである、という。
 つまり、順序が逆ということですが、ここに金融政策がすっぽり抜けているのが、固定相場制時代に経済を学んだ人の欠点が出てしまったということかな、と思う。現在のアベノミクスを見て、著者は何を言うだろうか。彼の弟子たちは、否定的な態度を示している人がいるようだが、案外、肯定的に評価するんじゃなかろうか。

評価 ☆☆☆


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2016年2月17日 (水)

山田昌弘『なぜ若者は保守化したのか』(朝日文庫、2015年)

点検読書126

副題は「希望を奪い続ける日本社会の真実」。


評論――社会学

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2016年2月 5日 (金)

小室直樹「アメリカの逆襲』(光文社、1980年)

点検読書117

副題は「宿命の対決に日本は勝てるか」。


評論


日中関係は日米関係である。日本経済の活路は中国市場にあるが、中国への進出は日米関係を危機に陥らせる。そして日本とアメリカは、国家の成り立ち、性質も正反対であり、その点を理解しないと日米関係の理解は深まらない。


五部構成
1:共産圏の市場開放が、日米関係を悪化させる(1)。

2:日米安保は日本封じ込めの同盟であり、日本の大国化は同盟関係をに危機をもたらす。自由貿易は、本来、イギリス帝国主義のイデオロギーで、アメリカは保護貿易で成長した。しかし、日本は自由貿易の受益者であるので、表面的に自由貿易に拒否の態度を示して、アメリカの自由貿易擁護の姿勢を納得させるべく努力すべき(2)。

3:戦争をするために合理的に造られた軍事国家アメリカと、平安時代・江戸時代・戦後といくども戦争放棄した平和国家日本(3)。

4:社会契約は神との契約のアナロジーで成立しており、アメリカこそ人造国家かつ宗教国家の典型である(4)。

5:トラウトマン交渉、ハル・ノート、真珠湾攻撃、勝利の機会を全て棒にふった日本の外交・軍事音痴。

メモ
徴兵制と労働者の発生(32頁)
「近代史においては、徴兵制と近代労働者の発生とは、深い関係があるのである。徴兵制をしいて大衆に軍隊教育をほどこすことは、産業社会成立のために必要不可欠な単純労働力を大量に生み出すための有効な前提条件となる。/“軍隊は労働力をつくる”というテーゼは、ヨーロッパ諸国においても、わが国においても、実証ずみである。近代軍隊におけるきびしい没人格的な訓練こそ、与えられた目的のために労働を組織化する契機を与えるものである。」

←中国の労働者は、有望だという根拠の一つであるが、近代ヨーロッパの後発工業国(ドイツ)や非西欧の日本などがこれに該当する。しかし、軍隊をなくした戦後の日本はどうであったろう。もっとも、60年代の高度成長期に主導的な役割を果たした世代というのは、軍隊経験があったかもしれないし、過酷な労働である農業労働者の次男・三男というのもあったろう。しかし、その後は、ともなると心もとない。これが先進国の成長率の鈍化を意味するのだろうか。企業が、運動部出身を求めるのは、これを補完する役割があるからだろう。

軍事力の見方
「ここで軍事力というものの考え方を記しておこう。戦力の比較をするときに、予算規模の大小や、兵器の数や、見せかけ上の性能をくらべても、それだけでは、まったく素人だましのものにしかならないのである。/兵器の数と実践力との間に挿入すべき第一の中間項は、稼働率である。/たとえば、潜水艦を一〇〇隻もっていたとしても、稼働率が二分の一ならば五〇隻、五分の一ならば二〇隻しか動員できないことになる。三倍の兵力をもっていても、稼働率が敵の六分の一ならば、戦力比は敵の半分ということになるのだ。」(45頁)
「稼働率との連関で忘れてならないのが、故障だ。/くれぐれも忘れてならないことは、新兵器に故障はつきものだ、ということである。それも当然であって、新兵器である以上、最新の技術を駆使しなければならない。そして、”最新の技術”とは、原理的に、また実験的に、まだ十分たしかめられていない技術ということである。/新兵器はかならず故障する、これは、世界中の軍事専門家の常識だ、いや常識以前だとさえ言えるだろう。」

←ソ連の軍事力は見掛け倒し、との趣旨の箇所であるが、とりわけ二番目の引用箇所は、電化製品のことだよな、いやWindowsの新しいOSのことか、と思ってしまった。

70年代のアメリカ企業の特徴
「アメリカの企業……〔は〕、生産機械などの設備投資のための資金は、減価償却資金として企業内に積み立てておき、旧い設備をスクラップにしたときにこれを使うのだ。これならば自転車操業する必要はなく、健全ではある。/しかし、この方式にもアキレス腱はある。それはインフレにたいへん弱いことだ。せっかく設備投資のための資金を積み立てておいても、インフレが昂進してその価値がへってくると、以前の設備の何分の一の設備しか新しくは作れなくなってしまう。……さらにわるいことには、アメリカ経営者の顔が完全に株主のほうにむききっていることだ。インフレだろうが何だろうが、株式配当を維持しないと株主のきげんがわるくなる。何年か先にしか効果があらわれないような設備投資をしても、株主は評価してくれない。逆に、インフレによって資本の目減りがあって将来の生産力が落ちることが分かりきっていても、目先の利益が上がり、株主に高い配当さえ払っておけば、経営者は安泰である。」(57~58頁)

←一方でこの当時の日本の経営の特徴は、設備投資のために銀行から借り入れして、その利払のために猛烈に働くという自転車操業が特徴とされる。しかし、この70年代のアメリカの企業経営は、完全にここ20年の日本の企業と同じである。この内部留保があることが、インフレを嫌うということも、なぜ経団連などの大企業経営者グループがリフレ政策に反対なのかがよく分かる。彼らは、日本経済全体や労働者のことなどよりも、さらには自身の企業の将来の発展よりも、貯めこんだ資金の価値が目減りして、自分たちの退職金の価値が下がるのが嫌なのだろう。

自由貿易はイギリス帝国主義のイデオロギー
「ポルトガルなどは、インド航路の発見者であり、近世初頭においては、スペインと並ぶ世界帝国だったのに、だんだんおとろえてきた。生産力も、英国にくらべれば、だいぶ低い。そこへ英国が言いよってきた。ポルトガルよ、お前はうまい葡萄酒を作れ、英国は小麦を作ってやるから、自由貿易で交換すればお互いの得ではないか。これがリカード―先生の教えであり、経済の大定理である。お前はそれがわからないほどおろかではあるまいと言われて、すっかり信じこんでしまったポルトガルが、十八世紀末、リッツェン条約を結んで、自由貿易にふみきった。/これでポルトガル経済も栄え、昔日の栄光をとりもどすはずであった。ところがどうだろう。世界に冠たる英国工業の生産物の洪水のまえに、発展途上にあったポルトガル工業は根こそぎ全滅し、基幹産業は壊滅し、ポルトガル国民経済は自立してはゆけなくなった。/こんなはずではなかったと、時の宰相は厳重に英国に抗議を申しこむ。ところが、ポルトガルを呑噬(のみこむこと)してしまった英国は、手のひらをかえしたように開き直って、なんだ、お前は自由貿易を約束したリッツェン条約を守らないのか、そんなやつはこうしてくれるとばかり、軍艦をもっていってポルトガルをおどす。……こんなありさまであったから、比較生産費説は英国帝国主義のイデオロギーであると言われた。英国は言葉たくみにこれをもって他国をたぶらかし、ついにその国民経済を喰いつくしてしまうというのである。」(75~76頁)

←自由貿易反対論者が、好みそうなエピソードであるが、著者はこのように自由貿易・比較生産費説はイギリス帝国主義のイデオロギーといいつつも、日本にとっては自由貿易はあくまで有利なものであると強調する。しかし、これが有利であるということを英語で言うべきではない、ともいうのである。つまり、本来、保護貿易で栄えてきたアメリカが、何故か自由貿易こそ国益だと信じているのだから、こちらは自由貿易に抵抗しつつ、アメリカに従ってしかたなく自由貿易に参加してるのだ、というスタンスを示した方が、アメリカとの軋轢を生じないで、利益をえることができる、というのである。そう考えると、日本国内の右派と左派の半自由貿易論者という人たちは、大いに海外に日本のイメージを誤解させるために活躍してもらった方が良さそうである。


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2016年2月 4日 (木)

小室直樹『日本国憲法の問題点』(集英社、2002年)

点検読書116


評論


日本国憲法でもっとも重要な条文は、国民の生命・自由・幸福追求の権利の尊重を明記した第十三条である。しかし、これらが日本国政府によって守られていないことが最大の問題点である。


五部構成
1:バブル潰しの失態は、国民の幸福追求の権利=財産権を、拉致問題の放置は生命・自由の権利尊重義務を政府は放棄しており、憲法違反である(第1章)。

2:首相の空位を容認している憲法は問題である(第2章)。

3:愛国心を育み、労働を美徳とする教育を再興しなければ、民主主義は維持できない(第3章)。

4:官僚養成を頂点とする教育の見直しの必要(第4章)。

5:憲法第九条は「事情変更の原則」により空文化した。自衛隊は、憲法第十三条に根拠を持つ軍隊とすべき。ジュネーブ四条約の公知義務がなされていないのは、憲法第九十八条第二項の条約の履行義務違反である(第5章)。

メモ
・「幸福追求の権利」
著者が日本国憲法のもっとも重要な条文とする第十三条の「幸福追求の権利」の起源は、アメリカ独立宣言の「Rights, that among these are Life, Liberty, and the Pursuit of Happiness」の「幸福追求の権利」にあるが、そもそもはジョン・ロックの生命・自由・財産の自然権の「財産」にある。では、なぜ独立宣言の起草者であるトマス・ジェファーソンが、「財産」を「幸福追求」と言い換えたといえば、独立後、すべての人が財産を持てる=裕福になる、と誤解されるのを恐れたからである(33頁)。


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2016年2月 1日 (月)

小室直樹『田中角栄の呪い』(光文社、1983)

点検読書114

副題は「「角栄」は無罪である」。


政治評論


日本では、儒教的倫理で政治家を評価する傾向があるが、それこそ致命的な誤りである。政治家は権力を獲得しようとする悪魔的存在である。動機の「正しさ」や清潔さなどに惑わされず、政治家を評価することで、デモクラシーは不断の監視が必要との認識が生まれる。


八部構成
1:動機の誠実さを重視する儒教倫理ではデモクラシーは育たない。
2:角栄に対するうさん臭さと同時に魅力を感じてしまう日本国民の二極化した感情。
3:「政治家という悪魔が、権力という怪獣を獲ろうとする争い、それが政治だ」。それ故にこそ、デモクラシーを維持するためには人民による不断の監視が必要である。
4:何でも政治のせいにする儒教的発想が、行政を肥大化させて構造汚職を生む。
5:別件逮捕された角栄は日米合作の逮捕劇の被害者。
6:藤原弘達に出版取りやめを要求した角栄は言論の自由の敵であり、強く批判されてしかるべきだ。
7:戦後における「私欲追求」の象徴としての角栄。
8:実力はある。しかし、悪人でもある角栄こそが、政治的決断力という面と民衆による不断の警戒を呼び起こすという点で必要な政治家である。

メモ
立憲政治とは(40~41頁)
「立憲政治はデモクラシーに必須の前提条件なのであるが、それは憲法の条文にさえ違反しなければ何をやってもよいというものでは決してなく、前例・慣行のつみ上げのうえにはじめて成り立ちうるのだから、立憲政治の精神にそわないことは、たとえ形式上憲法に違反しなくても、決して行なってはならないのである。」

変わらぬ日本人の政治万能主義(66頁)
「デモクラシー社会の理念型では、政治がよかろうが悪かろうが、経済・社会・文化……などいっさい関係ない。自分のことは自分でしろ、とこうなる。〔……〕なんでもかんでも政治の責任にする。これほどデモクラシーからほど遠い考え方はない。/吉田内閣全盛のとき、すべては吉田茂の責任とされ、「台風がくるのも吉田のせい」とも言われたが、このおそろしく儒教的な発想法は、今でも日本を支配している。〔……〕この儒教的政治万能主義が、ともかくもデモクラシー的政治制度をとっている国で作動すると、デモクラシーはたちまち形骸化してしまう。/なにか不都合なことがあると、「それは政府の取り締まりが悪いからだ」という発想法およびそれに基づく行動が、社会にゆきわたってしまう。なにごとも、政治権力を媒介としないとできなくなってしまうのだ。」

資本主義の条件(70頁)
「マルクスは、資本主義経済の特徴は、労働力市場が成立することだと言ったが、今の日本に労働力市場はあまりない。日雇いやアルバイトなどの労働力については、市場らしいものが成立しているが、主要な企業のサラリーマンや労働者の労働力に関しては、市場などありはしない。この点、戦後日本は、明治時代にくらべてはるかに非資本主義的なったと言える。」


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2016年1月31日 (日)

小室直樹『消費税の呪い』(光文社、1989)

点検読書113

副題は「日本のデモクラシーが危ない」。


政治評論


税制こそデモクラシーの初歩である。自主課税なきところデモクラシーなし。しかし、竹下登内閣下で決定された消費税は、選挙で有権者の同意を経ないばかりか、大蔵省と自民党税制調査会の内々で内容を決め、議会は抵抗せずに同意してしまった。これは、今後の税制改革の際のモデルケースになってしまい、日本のデモクラシーを危うくする。


四部構成
1:一般消費税以来の中小企業の反対運動に屈してインボイス式の消費税を導入できなかった過ち(1,2)。
2:大蔵省主税局と自民党税調とのインナーサークルによる税制改正という手法は、自主課税というデモクラシーの根幹を破壊した(3)。
3:政治家に対する軽蔑からデモクラシーは成長する(4)。
4:教育の既得権益化が教育改革を阻む(5)。

メモ
「近代デモクラシーの特徴は、被治者が為政者(政治権力者)を選ぶことにある。その選び方の手続きが確定されていなければならない。」(120頁)

山中貞則自民党税調会長語録
「首相には口をはさむ能力はない。まだ懲りないのか、このおしゃべり野郎……」(中曾根康弘首相の売上税発言について)
「政府税調を軽視するつもりは決してない。無視するだけだ」
「山中発言について野田毅(大蔵省OBで税調の中堅議員)はいう。
「山中さんにしてみれば、税制なんて議論し出したらキリがない。まとまるものもまとまらなくなる。さまざまなバランスを考慮して、最後にストンと落とす。それができるのがプロで、自分しかいない。素人がゴチャゴチャいうな、といいたかったんでしょう」(田原総一朗「中曽根がハメられたトリックプレイ」『週刊文春』)」(125頁)
←野田毅の傲慢さは、山中貞則以来の税調の伝統だったのか。その税調の決定を覆しただけでも、安倍首相は日本のデモクラシーに貢献したといえるのではないか。


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