ブログランキング

Amazonサーチ

無料ブログはココログ

日本史

2017年8月15日 (火)

加藤弘之とフルベッキ

 清水唯一朗『近代日本の官僚』(中公新書、2013年)を読んでいたら、次のような記述があった。

この前後、フルベッキに学んだ門下生には、大隈のほか、副島種臣、江藤新平、大木喬任(以上、佐賀藩)、大久保利通(鹿児島藩)、伊藤博文(山口藩)、加藤弘之(幕臣)ら、のちの維新官僚として新政府を担う人材が集まっていた(37頁)。

 ここに登場する「フルベッキ」とは、オランダ系アメリカ人宣教師のグイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)で、幕末の時期に長崎に布教のために1859年11月に来日し、長崎英語伝習所の後身たる済美館と、1865年に佐賀藩が長崎に設けた致遠館に招かれて、英語や政治経済を教えた人物である。
 さて、ここで疑問に思ったのは、フルベッキの門下生として「加藤弘之」の名が上がっていることである加藤は、明治期の啓蒙思想家、教育行政官僚として活躍した人物で、吉野作造に言わせると「日本で最初に立憲政治を紹介した人物」、またドイツ語を最初期に学習した人物として知られる。
 その加藤が、フルベッキの門下生とは初耳だったので、驚いた。で、この出典は何かと思ったが明記されていないのでわからない。で、「加藤弘之 フルベッキ」とGoogleで検索してみると、Wikipediaの加藤弘之の項目が最初にヒットし見てみると、次のよう書かれてあった(2017年8月14日閲覧)。

外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩校弘道館で学んだ後、済美館や遅延館でフルベッキの門弟として学ぶ。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。

このようにフルベッキの門弟として明記されている。
 なかなか驚くのは、出石藩の藩校を出た後に、先にふれた長崎の済美館や致遠館に入って、フルベッキの下で学び、幕臣となった、というのである。多くの加藤弘之に関する評伝の経歴では、藩校の後は一時期、佐久間象山の下で学び、その後、再び江戸に出て、大木仲益の日習堂に入門し、その後、蕃書調所の教授手伝に採用された、というのが一般的である。生前の自伝の年譜でもそうなっている。
 もっとも、Wikipediaの「来歴」欄は、以上のような一般的な経歴を記しており、略歴のところだけが突出して異常なのである。どうもこの編集は、2017年4月22日に行われたらしいのだが、この記述に根拠はあるのだろうか。
 根拠となっているのは、出典とされる西田真之「フルベッキと明治15年森林法草案」(『明治学院大学法学研究』101号、2016年10月)という論文で次のようにある。

長崎奉行所の済美館や佐賀藩の設置した致遠館で、江藤新平・大木喬任・加藤弘之・細川潤次郎等、後の明治政府の法制度改革の中枢を担う人々の教育活動にあたった(232頁)。

なるほど、これが根拠となるのだが、さて西田氏の論文の根拠となる出典は何か、というとこれもはっきりしない。フルベッキに関するものとして、これまた当時のお雇い外国人の一人グリフィスの"Verbeck of Japan"が紹介されていたので、Kindleで購入して、ざっと見てみたが、済美館や致遠館に関する箇所には加藤は出てこないし、7割ぐらい読んだあたりで、「翻訳の仕事を箕作、加藤、細川に手伝ってもらった」、というところにかろうじて見つけたぐらいである(pp.282-3)。
 他にあったのは、梅渓昇『お雇い外国人⑪』(鹿児島研究所出版会、1971年)と言うものがあるが、同著者の『お雇い外国人 明治日本の脇役たち』(講談社学術文庫、2007年)は手元にある。本書の原著は1965年で、記述としては似たものであると思われる。これを見るとあったのである。

この長崎における門下生に、大隈重信、副島種臣、江藤新平、大木喬任、伊藤博文、大久保利通、加藤弘之、辻新次、杉亨二、細川潤次郎、横井小楠ら、後年、明治新政府の高官、指導的人物が輩出した(73~74頁)

最初の清水著と西田論文の文章に似ている。では、梅渓著の参照先は何かというと、先のグリフィスの著作と尾形裕康「近代日本建設の父フルベッキ博士」(早稲田大学『社会科学討究』第7巻第1号、1961年)が挙げられていた。グリフィスの著作には、該当する記述はない。
 では、尾形の論文ではどのように書かれているのか。

こうしてかれは済美、致遠両校で、英語・政治・経済・軍事・理学などを教授した。この長崎における門下生から大隈重信・副島種臣・大木喬任・伊藤博文・加藤弘之・辻新次・杉亨二・何礼之・岩倉具定・岩倉具経・江藤新平・中野健明・細川潤次郎・大久保利通・横井小楠ら、後年政府の高官として天下を左右した人材が続出した(4頁)。

 これまで挙げてきた文献は、この中から著者が重要と思った人物を抜き出したといえる。さらに、この尾形は、何を参照して、これを書いたかというと、どうも戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」(『太陽』第1巻第7号、1895年)のようだ。

氏の交際せし人、或は其門下の学生には岩倉侯、大隈、大木、伊藤、井上の諸伯、加藤弘之、辻新次、杉亨二、何礼之、中野健明、細川潤次郎の諸君あり、故大久保侯あり、江藤新平氏あり、横井小楠あり、英和辞典を著はしし柴田氏あれば美談逸事多しといえども氏の狂謙なる敢て当年の事を語らず、この伝記さへも氏自らは語るを好まず、強いて写真は借り得たりといえども、其小伝さえ知るに由なく幸に教友ワイコフ氏が氏の小伝を偏せしゆゑ、其稿を借読し加ふるに余が記憶にある所を以て書記せしなり。詳細なる伝記は他年の後に世にあらはるゝ事もあるべし(1365~6頁)。

これを一読してみれば分かるように、戸川はフルベッキと「交際せし人」と「門下の学生」を区別せずに羅列している。どうも尾形は、これを全て「門下の学生」にしてしまったようである。
 この中で確実に「門下の学生」といえるのは、「岩倉侯」=岩倉具定・岩倉具経兄弟と大隈重信、何礼之ぐらいではないだろうか。ここには述べられていないが、副島種臣などが著名な門下といえるかもしれない。他は、例えば横井小楠などは甥の横井佐平太と太平がフルベッキの授業を受けた関係で「交際」があったらしいというものだし、細川潤次郎もフルベッキが東京に来てからの交流であったし、大久保利通・伊藤博文・井上馨レベルになってくると、その多忙さから幕末の時点で「門下」というより「交流」であろう。つまり、大部分の者は「交際せし人」と言うのが正しそうである。

 以上を整理すると、

  • 戸川残花がフルベッキと「交際せし人」と「門下の学生」を区別せずに名前を羅列した。
  • それを見た尾形裕康が、故意か勘違いか不明だが、全てを「門下の学生」と論文に書いた。
  • フルベッキについて調べる研究者は、まず尾形論文または尾形論文を参照した梅渓昇の著作を読むために、それを確認せずに信じてしまった。
  • Wikipedia編集者のような非研究者は、大学教授が書いているものだからと信じてしまった。

だいたい、こういう流れであろう。
 さて、最初に私が違和感を抱いた加藤弘之だが、加藤はこの時期は江戸の蕃書調所、その後身の開成所で助手や教授のような役職にいたのであって、長崎には行っていない。フルベッキは、英語、オランダ語、ドイツ語、フランス語を使えたとは言うものの、日本で教えていたのは、主に英語である。加藤は、英語も少し勉強したらしいのだが、ドイツ語訳のダーウィンの『種の起源』を読んでいたぐらいにものにならなかった。Wikipedia氏のいうように済美館や致遠館で長きにわたって、フルベッキの下で勉強していたとは思えないのである。そもそも済美館はともかく致遠館は早くとも慶応年間にできたのだから、そんな時期に幕臣である加藤が佐賀藩の学校には行かないだろう。
 また、加藤は、当時の洋学者にしては珍しく洋行していない。この点も、例えば中村隆英の死後出版された『明治大正史』では、加藤がドイツに留学したと書かれていたが、これもよくある誤解である。加藤は、正月休みに熱海に温泉に行くぐらいで、ほとんど遠出はしない。祖先教こそ日本の国体とか言っていた割には、明治に入ってから故郷の祖先の墓参りには2回ほどしか行かないほど、旅行嫌いなのだそうだ。江戸で十分に学問できるのに、旅行嫌いな加藤がわざわざ長崎には行かないだろうし、そもそも1860年代以降になると長崎で外国語を学ぶのは西日本の人々である。東日本の人は、江戸か横浜か、機会があれば海外へ行くだろう。
 加藤とフルベッキが交流していたのは、加藤が大学大丞として教育行政にあたってた時期に、フルベッキが大学南校の教頭をしていたからである。大学大丞としての加藤は、大学南校の長も兼ねていたから、すでにこれは教師と生徒の関係ではないだろう。ちなみに『高橋是清自伝』上巻(中公文庫、1976年)に次のような記述がある。

フルベッキ先生は、当時文部省の顧問、開成学校の教頭として、随分顕職の人にも知己が多かった。高位高官の人たちが外国の事情を知りたいと思う時には、まずフルベッキ先生を訪ねて教えを乞うた。就中、加藤弘之、辻新次、杉孫三郎などいう人々は、しばしばやって来て、先生の教えを受けた(150頁)。

米国での奴隷契約から解放されて日本の帰国した高橋是清は森有礼の家で書生をしていたが、森が米国赴任するに際して彼を託していったのが加藤とフルベッキであった(92頁)。その後、紆余曲折を経て、高橋がフルベッキの家で寄寓していた時のことを回想しての上記の記述である。
 たしかに加藤が「先生の教えを受けた」とは書かれているものの、これは「先生」と「門弟」の関係ではなく、友人同士の交流といえるであろう。例えば、知人の中国人に現在の中華人民共和国の政治や社会について教えてもらったとしても、「門弟」にはならない。単なる情報交換である。
 以上のように、Wikipediaの記述は、現在のところ間違っていると断定して良いだろう。編集したWikipedia氏もしくは編集を趣味にしている方におかれましては、是非とも削除して正常化して欲しい。

 もっとも4月に編集した方に罪はない。その方は、誠実にも出典を明らかにしているからだ。問題なのは、西田氏をはじめとする大学教員である。
 彼らも尾形や梅渓のような大家が書いているのだからと信用してしまったのであろうが、先行研究をそのまま内容を確認せずに参照してしまうのは危険なのである。しかも、西田氏の論文は、いつか単著に収録されるかもしれない。そうすると、大学の紀要論文ですらWikipediaに参照されてしまうのだから、単著だとますます人目にふれる。清水氏の著作は、中公新書という地方の図書館にも並べられるようなシリーズの一冊であるし、この作品は全体としては名著と言って良いものであるから、20年後ぐらいに文庫化されるであろう。そうすると、梅渓の著作が何の訂正もなく40年後に文庫化されたように、後世に誤解を再生産してしまう。
 もっとも、彼らが加藤や細川が確実に長崎でフルベッキの授業を受けたということを論証していただければ、それはそれでありがたいことである。ふとした誤解が、実は新説を生み出し、それが確実となれば、それは素晴らしいことである。
 すでに多くの閲覧者数をもつネット事典に影響を与えたのだから、どこかの段階で訂正をするか、新説を打ち出していただくことを願う次第である。

なお

村瀬寿代「長崎におけるフルベッキ人脈」(『桃山学院大学キリスト教論集』第36号、2000年3月)
西岡淑雄「細川潤次郎とフルベッキ」(『英学史研究』第24号、1992年)

を参照した。手元にない史料の孫引きをさせていただきました。

よろしければ、クリックお願いします。


本・書籍ランキング

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

2016年11月25日 (金)

荒畑寒村『寒村自伝』つづき

承前 

 こうした戦後の政治的・思想的混沌状況の中で、寒村の友人の小堀甚二の再軍備論が興味深かいです。小堀は、戦前のプロレタリア文学者であったが、右派主導の日本社会党に不満で、寒村や山川均、向坂逸郎らと社会主義労働党準備会を立ち上げた人物でした。しかし、小堀が、ここで再軍備論を主張したために分裂し、解散に至ったのですが、その主張が興味深いのです。

 この労働党準備会の中で、もっとも「進歩的文化人」のような発想をするのは向坂逸郎で、彼はソ連は社会主義国であるから侵略はしない、だから日本に軍備は必要ない、という主張です。山川均は、そこまで思い切りは良くなく、ソ連が社会主義国だから侵略をしないとはいえないが、日本が軍備を持つとかえって侵略の対象となりかねないので、軍備は持つべきではない、と結論は向坂と同じです。

 こうした再軍備反対論に対して小堀は、次のように述べます。

「日本には今でも厳として軍隊があって、ブルジョア秩序の維持に当っている。しかも普通の軍隊とちがって、この軍隊は単にブルジョア秩序の維持に当っているだけでなく、他国の権益の維持にも当っている。占領軍がそれだ。/われわれは講和条約締結後、この外国軍隊を、日本人によって組織された最大限に民主主義的な軍隊とおき替えようというのだわれわれは観念の中でなら、軍隊のない国家を想像することもできる。しかし現実の世界では、自国民で組織された軍隊がなければ、他国の軍隊がこの真空状態をうずめる。だから自国民で組織された軍隊を否定することは、外国軍の駐屯を肯定することだ。だからまた、それは日本の植民地化を肯定することであり、あり得べき第三次世界大戦において少なくとも日本国土の戦場化を肯定することでありまた日本の労働者階級に対して社会主義のための闘争を断念することを要求するものだ。」(422頁)

 つまり、駐留米軍という資本主義世界の秩序維持部隊であり、かつ日本の植民地化を促進する軍隊を撤退させるためには、日本人自らが軍隊を持つべきだという主張です。彼の言う「最大限に民主主義」的な軍隊とは、宣戦、動員、召集を国民代表の議会が掌握するものを指します。また、モデルとしては、明治国家の師団化する前の鎮台兵であり、また民兵制度を考えています。つまりは、防衛目的のみの全国民参加の軍隊というものです。過去において、こうした発想は中江兆民の「土着兵」構想に見られます。

 小堀のこの考え方は、社会主義実現という目的に奉仕するものです。というのも、資本主義世界の代表である米軍が日本に駐留している間には、どう考えても日本の社会主義化は不可能です。この点は、他の現在に至るまでの基地闘争を行っている左翼運動家と同じでしょう。左翼運動家は米軍を撤退させた後には、非武装中立、または裏の目的としてソ連などの社会主義国の日本への侵入がその真空状態を埋めることで、日本の社会主義化を可能にするとします。しかし、小堀は、第2次大戦前後からのソ連の東欧への侵略を批判していますし、朝鮮戦争は当時としての珍しく明確に北からの南への侵略を明言して批判しているように、社会主義国建設は他国の力を借りるのではなく、自らの力で勝ち取るものです。ですから、米軍の撤退と自国軍建設は表裏一体なのです。軍備を持たないことは米軍か、ソ連軍を呼び込むことにしかならないのです。「今日の再軍備反対論者」は「無意識に侵略国家に奉仕している」も同様と指摘されています(434頁)。さらには、次のようにも述べています。

再軍備問題について何らの積極的意見をもたず、ただ反対反対と叫ぶことによって、再軍備に関する一切のイニシアチーヴを保守勢力に委ねている」(425頁)

 つまり、再軍備について真面目に考えないということは、保守勢力の永続支配を認めることにしかならずに、結局ところ、社会主義国建設を真面目に考えていないということになるというのです。

 こうした小堀の構想が左翼勢力の中で合意を得ることができたら、戦後日本は随分と変わったものとなったでしょう。楽観的には、最左翼が再軍備論を唱えたので、日和見のリベラルも軍備に関して真面目て考え出して、他の自由世界の中での社会民主主義政党のように米国と協調しつつ、社会主義政策を実現する政党ができていたかもしれませんし、極端な場合だと、日本に小堀らの社会主義勢力が政権を取って、社会主義の一党独裁政権ができていたかもしれません。どちらにしても、現在よりも安全保障についての議論の風通しの良さがあって憲法の改正が行なわれていたかもしれません。それが良いかどうかは分かりませんが、現実に政権担当が可能な政党が一つしかない状態や憲法解釈を官僚に委ねるような現実の戦後日本よりも「民主」的な政治運営が行なわれていたでしょう。

 しかし、こうした小堀の議論は、受け入れられるものではありませんでしたし、これをきっかけに社会主義労働党準備会も解散を余儀なくされます。本書の主人公である荒畑寒村は、小堀に同情的ではあるものの、現実に侵略の危機があるとは思えないという情勢判断の下に、再軍備には反対の立場でいました。とはいうものの、寒村は、小堀と山川均・向坂逸郎らとの対話は可能で、落とし所があるであろうと考えていたそうです。しかし、その見通しは甘く、分裂していまします。その点について、寒村は次のように指摘します。

「私はこの問題に関する主張の相違は、もっと自由な相互の討議によって調整できると信じていたが、そういう親切な同志的な方法をとらないで直ちに準備会と絶縁した山川君の態度を、私は深く遺憾とせざるを得なかった。意見の相違を、同志的な愛情と理論的な究明によって、徹底的に解決しようとはせず、排斥するのでなければ黙殺するのが日本の社会主義者の悪い伝統だ。」(431頁)

 ここが問題ですね。現在も同様だと思います。これは、多分、左翼だけの問題ではないと思います。おそらく右翼の方もそうでしょう。福澤諭吉は、幕末にイギリスに出かけた時に、違う政党に属して対立している者同士が親しく食事をしている姿を見て、理解するのに数日かかったと『福翁自伝』で述べていますが、日本の政治運動の世界はまだまだ封建社会の住人なのでしょう。こうしたところを乗り越えない限り、融通無碍な保守政党に勝つことは出来ないでしょう。でも、まぁそれでこそ左翼であり、右翼なのですが、それを薄めたリベラル勢力がそんななのだから、いかんのでしょうけどね。

 それはともかくとして、本書はなかなか興味深い社会主義運動の裏面史を垣間見せてくれる良書です。

評価 ☆☆☆


本・書籍 ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

2016年11月24日 (木)

荒畑寒村『寒村自伝 下巻』

点検読書243

岩波文庫(1975年12月16日)刊


日本史――自伝


サンディカリズムに傾倒した大杉栄と決別し、日本共産党結成へと荒畑寒村は同士らと動く。そして、その結成を報告するためにモスクワへと旅立つ。下巻は、ロシア行きと労農派の動向、戦時下と戦後の社会主義運動の内幕を語る。


5部構成

1:第一次日本共産党結成(1)

2:ロシア周遊(2~5)

3:共産党解散と『労農』(6~8)

4:戦時下(9)

5:戦後の社会主義運動(10~14)

コメント
 上巻は、随分前に読んだのですが、やっと下巻に目を通すことができました。しかし、期待していたほど、戦時下の社会主義者の動きや「あの戦争」についてのコメントがそれほどないな、という印象を持ちました。
 というのも、戦後の記述で、野坂参三が「戦争中、反戦運動をしたのは共産党だけだった」と述べたのですが、寒村の感想としては「そんな事実が果たしてあったかなかったか、海外に亡命していた野坂君よりも空襲下の日本に生活していた私たちの方がよく知っている」(349頁)というものでした。つまり、特に目立った運動などはなかったので、それを書いていないだけのようです。それだけでも本書は、無意味な「神話」に彩られていない誠実な記録とも言えます
 また、生粋の左翼である寒村は、党派的に発言をするのではなく、社会主義者の原則としてものを考えるために、戦後の堕落した共産主義者・社会主義者には痛烈な批判をしています
 例えば、彼の共産党への反感は、彼らの「祖国」であるスターリン支配下のソ連に対する甘い味方をするところに向けられます。

「スターリンは他国と他民族を併呑掠奪しながら、偽善的にもなお平和を唱えているのだ。そして各国の共産党はソ連の行動を是認し、日本に原爆が投下された時、彼らの機関紙は筆をそろえて称賛したではないか。日本が他国を侵略するのはもちろん悪い。だが、ロシアは果たして日本を侵略していないか。単に社会主義国という金看板に眩惑されて、こんな資本主義国の侵略政策と選ぶところのない不正不義に憤慨も、反対も、糾弾もしない社会主義者なんて犬にでも食われるがいい。」(351~352頁)

 これと同様のの趣旨として、「進歩的文化人」批判も痛烈です。

わが国でも、思想と表現の自由を守る護民官である筈のいわゆる進歩的文化人が、戦争の間は軍部の侵略政策に尻尾をふり、戦後は面をおし拭って民主主義を唱えている。かつてはヒットラーを神格化し、国民の自由と人権を絞殺したナチスの虐政に迎合した彼らは、今やスターリンを神の如く崇拝し、中世の異端焚殺の如き血の粛清と強制収容所の奴隷労働とをもって、思想と表現の自由を弾圧しているソ連の全体主義体制に対しても、批判の口を閉ざすことを進歩的と考えている。社会主義者の中にさえ、ソ連に対する批判をただちに反動的と認めるような傾向がある。こういう日本の文化的風土に反対して、民主的自由のためにたたかう運動の意義は、決して欧米に劣るものではない。」(437~438頁)

 かつて冷戦時代には、「アメリカの核は悪の兵器、中ソの核は善い兵器」ということが公然と言われていたそうですが、荒畑寒村のように主義思想に生きる人間にとって、こうした空気や属人的な価値判断に左右される無原則な大衆的知識人は度し難いものたちであったのでしょう。

 また、社会主義者・寒村の本領が発揮されるのは、現憲法を保持して社会主義建設などできない、とはっきりと述べているところです。「現在の憲法は生産手段における私有財産制、階級的支配、賃金制度の労働力搾取を含意する資本主義制度の上に存している」(482頁)のだから、社会主義政党が議会多数派を制した暁には、当然のごとく憲法を改正して社会主義国家建設に勤しむとします。

 しかし、当時の社会党は、耳に心地よいことしか言いません。社会主義国家建設という原則よりも、世間からの批判を恐れているからです。

それもこれも、ひっきょう社会党がジャーナリズム恐怖症にかかり、社会主義の究極目的、革命の必然的段階である独裁政権を、大胆に公言することを憚っているからだ。革命は一の階級がその意志を他の階級に強制するものであって、議会主義的民主主義からの飛躍なしには行なわれない。その意味で、革命の本質は暴力的であり、現に民主主義そのものが暴力革命の所産ではないか。」(482~483頁)

 ここまでいってもらえる気分がいいものです。自分たちの原理原則から考えれば、憲法改正を主張すべきなのに、護憲政党で通そうとするところに欺瞞があります。こうした欺瞞に加えて、日本の左翼・リベラルが信用されないのは、先に指摘さていたように、あまりに党派的であることに加えて、批判を恐れて耳障りの良いことをいって、平気で嘘をつき、さらにそれが嘘であることを忘れて、嘘を本気で主張し始めることでしょう。その最たるものが、民主党政権でした。彼らは、本当の目的を隠して嘘をついて政権の座を占めたというよりも、嘘を本気で信じてしまって確固たる原則もプランもなかったので、何もできずに結局のところ官僚にいいように取り込まれるという政権でした。
 寒村のような確信的左翼は、支持する気はないものの、やはり人間、原則を信じることが最も裏切られることの少い正直な生き方を可能にするのでしょうし、周りから見ていても気分が良いものです

つづく

よろしければ、クリックお願いいたします。


本・書籍 ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

2016年11月23日 (水)

トク・ベルツ編『ベルツの日記(上)』つづき

承前

明治33年5月9日
「一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいいながら伊藤は、操り人形を糸で躍らせるような身振りをしてみせたのである。」(204頁)

 有名なベルツのコメントです。これを読むといかに伊藤博文が、皇室を軽んじているかのように見えるが、この皮肉の対象は皇太子ではなく、有栖川宮をはじめとする天皇家周囲の皇族と貴族たちに向けているのかもしれません。ベルツは、次のように続けています。

こんな事情をなんとかしようと思えば、至極簡単なはずだが。皇太子を事実操り人形にしているこの礼式をゆるめればよいのだ。伊藤自身は、これを実行しようと思えばできる唯一の人物ではあるが、現代および次代の天皇に、およそありとあらゆる尊敬を払いながら、なんらの自主性をも与えようとはしない日本の旧思想を、敢然と打破する勇気はおそらく伊藤にもないらしい。この点をある時、一日本人が次のように表明した。「この国は、無形で非人格的の統治に慣れていて、これを改めることは危険でしょう」と。」

 これを読んでみると、ベルツが感じた伊藤の「放言」とは、皇太子の自由を束縛している皇族の「礼式」について述べているのであって、伊藤自身が天皇や皇太子を操り人形と考えているわけではなく、周囲の皇族が操り手として批判の対象となっているとも読めます。というのも、それ以前に次のような記述があったのです。

3月23日
「本日、葉山御用邸で東宮に関して、すなわちその健康状態が五月の成婚にさしつかえないか、どうかの点について、重大な会議があった。橋本、岡の両医に同意を表して自分は、わずかの懸念はあったが、さしつかえなしと述べた。懸念とは、体重が昨年の程度にどうしても達しないことである。しかし天皇への報告では、この点にはっきりと触れてはならないことになっている。それは、誰よりも天皇が、まず東宮の体重の増すことを望んでおられるからである。伊藤侯や、有栖川宮や、側近の人たちは、もはやこれ以上成婚を延ばすことはできないという意見なのだ。それというのも、あらゆる東洋の風習とは全然反対に、東宮が成婚前に他の女性に触れられないようにすることに決定をみたからである。そんな次第で自分も、一般の事情や特殊の事情から見て、早い成婚が東宮に良い影響をもたらすだろうと思う。」(197頁)

 つまり、皇太子、のちの大正天皇なのですが、結婚前の性体験は許されないと決められたために、早めに結婚させた方が良いという記述なのですが、この点が名うての好色漢である伊藤博文などには、「礼式」に縛られた「操り人形」と思えたのかもしれないのです。この決定というのが、どういうプロセスで、誰に決定権があったかは分かりません。近世に比べて、天皇の血統というものの重要性が格段に増加したという事情と、「万世一系」という神話を守るためにも、必要な処置だったのでしょう。しかし、伊藤にその決定に参加していないとすれば、こうした感想をもって、他の皇族に当てこすりをするのも分かる気もします。こうした点を考えると、この伊藤の「放言」は、傲慢な元老の発言というよりも、天皇といえども一定の自由は許されるべきだと考えるリベラルな忠臣・伊藤博文という印象にもなります。この点の専門家の知見はどうなっているのでしょうか。

 次は、義和団事件についての母国ドイツの動向についてのコメントです。

明治33年8月1日
「ドイツ皇帝は、清国派遣軍の出発に際して一場の演説をされたが、その演説がまた、あらゆるドイツ人を赤面させずにはおかないものなのである。皇帝はこういわれたそうだ「捕虜は無用だ、助命は不要だ!」と。すなわち、暴徒と化した清国兵が、かれらの国土の一角を平和の最中に奪い取った強国の公使を殺害したからといって、自身のキリスト教を到るところで表看板に押し立てているキリスト教徒の君主が、相手の清国の罪のない人たちを――たとえ武器をすてた場合でも、かまわないから――殺してしまえと命令しているのだ! こんな文明にはへどが出る! それでいて将来、この同じ国で自己の勢力をはりたいというのだ! このような考えの残忍・非道徳極まる点を度外視するとしても、すでに政治的見地からいって狂気のさたである。事実、やり方が狂気のさただ――つまり、われわれの敵すべての手に、われわれを亡ぼす武器を計画的に握らせるというやり方!」(220~221頁)

 ベルツは、若き日には統一ドイツを目指す運動に参加し、さらに普仏戦争にも志願して従軍する熱烈な愛国者なのですが、当日記に書かれている母国への評価は非常に厳しい。詳しいことは知りませんが、おそらく統一ドイツにおける自由主義派に属していたのかもしれません。そうした目から見ると、とりわけビスマルク退場後のヴィルヘルム二世の政治姿勢には憤懣が堪えなかったという雰囲気が伝わります。
 その上、以上の発言です。これは19世紀最後の年の発言です。20世紀に入ると大日本帝国の一部の将兵が同様のことを考え、さらに実行してしまって、問題になり続けていることはよく知られています。現在でも、「捕虜」の定義等々で責任に対して否定的な向きがありますが、「武器を捨てた」無抵抗な「暴徒」を殺害することは、恥ずべきことと考えるのが常識的な「文明人」の考え方です。帝国主義真っ盛りの時代の知識層の考えがそうなのですから、現在ではさらにそうでしょう。その点を考慮に入れて、諸外国に対して「愛国活動」をしてほしいものだと思います。過去はどうにもならないのですから。

 下巻は、まるまる日露戦争のことらしいです。そのうち、アップします。

評価 ☆☆☆

よろしければ、クリックお願いいたします。


本・書籍 ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

2016年11月22日 (火)

トク・ベルツ編『ベルツの日記(上)』

点検読書242

訳者は菅沼竜太郎。
岩波文庫(1979年2月16日)刊


日本史――明治時代


明治9年にお雇外国人として訪日したドイツ人医師・エルウィン・ベルツ(1849~1913)の日記。上巻は、来日した明治9年から日露戦争前夜の明治37年2月3日まで。


6部構成

1:エルウィン・ベルツ小伝

2:訪日(明治9年から15年)

3:憲法発布から日清戦争の時代(明治21年から32年)

4:教職を退く(明治33年から35年)

5:インドシナ・韓国周遊記(明治35年から36年)

6:日露戦争前夜(明治36年から37年)

コメント
 本書は、とくにコメントすることもなく、興味深いところを抜書きすれば、その魅力は伝わると思います。

明治9年10月25日
「ところが――なんと不思議なことには――現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした〔言葉そのまま!〕」とわたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。なかには、そんな質問に戸惑いの苦笑をうかべていましたが、わたしが本心から興味をもっていることに気がついて、ようやく態度を改めるものもありました。」(47頁)

当時の日本人の雰囲気について、よく引用される有名な箇所ですね。最後のところを読むと、外国人に対する羞恥心と警戒心から本心を隠しているとも読めますが、こうしたスッキリした日本人のメンタリティが新しい環境に急速に馴染むことのできる特質を作っているのかもしれませんが、過去を学ぶことをしないので、何度も同じ話題について最初から同じ議論をして以前の議論から積み重ねることができない、という残念な傾向も作っているかもしれません。

明治9年11月3日
「当地もだんだんと居心地が悪くなってきた。騒乱がいよいよ不気味に拡がってゆくからである。今では首都ですら、もはやあてにならないと政府が認める有様である。先日のこと日本橋附近で、下総に渡るため舟を雇おうとしていた十四名の士族が、大格闘ののち警官隊に取抑えられた。警官二名が殉職した。千葉県で大暴動を計画する書面が、かれらの手もとから発見された。・・・・・・首都に事実大暴動が起こって、暴徒の一群が外人の家を略奪し、これを虐殺することを思いついたとしたならば、われわれはまったく処置なしである。」(52頁)

これなども面白いです。現在の紛争後の途上国へ赴任した人の気分というのは、このようなものなのでしょう。現在の我々は、過去にこうした「危険」な国だったことを忘れがちで、諸外国のことを見てしまいますが、他人事ではなかったのでした

明治11年3月17日
「築地、島原の劇場へ。『西郷と鹿児島の変』、すなわち昨年の事件が上演されていたが、その芝居たるや、朝の六時から晩の八時まで続き、日本人を極度に熱狂させている。だがわれわれ西洋人にとっては恐ろしく退屈なものである。」(70頁)

しかし、西南戦争の翌年とは早いですね。これは戦勝を祝う気分なのか、西郷人気なのか、反政府気分の強さなのか。そのあたりが気になるところです。

明治22年2月16日
「日本憲法が発表された。もともと、国民に委ねられた自由なるものは、ほんのわずかである。しかしながら、不思議なことにも、以前は「奴隷化された」ドイツの国民以上の自由を与えようとはしないといって憤慨したあの新聞が、すべて満足の意を表しているのだ。」(138頁)

このあたりも有名な記述です。決まるまでは、大騒ぎするものの、決まると沈黙する、という現在の日本人にもつながるいい加減さがあらわれています。

明治22年3月19日
「憲法で出版の自由を可及的に広く約束した後に、政府はすぐその翌月、五種を下らぬ帝都の新聞紙の一時発行停止を、やむを得ない処置と認めている。それは、これらの新聞紙が森文相の暗殺者そのものを賛美したからである。それどころか、詩を作って、西野の予定した第二の犠牲者芳川がまだ生存しているのを遺憾とするという意味が述べてあった! 上野にある西野の墓では、霊場参りさながらの光景が現出している! 特に学生、俳優、芸者が多い。よくない現象だ。要するに、この国はまだ議会制度の時期に達していないことを示している。国民自身が法律を制定すべきこの時に当たり、かれらは暗殺者を賛美するのだ――森の行為に対して、いかなる立場をとろうとも、それは勝手ではあるが。」

このあたりも日本人のテロリスト好きというよりも、反政府気分が強い、というところに理由があるのでしょう。次に紹介するように、日本人が明治政府を自分たちの政府だと考えるようになったのは、日清戦争という国民戦争を経てなのでした。

ベルツの手記『明治時代』より
日本では一八九〇年代(明治二十三年から三十二年まで)に共和主義の時流が、どんなに強大であったかを知っているものでない限り、局外者にはまったく理解できないことである。・・・・・・福沢(諭吉)はこの国の重要な人物で、政治の圏外では最高の有力者であり、「日本の教師」なのである。この福沢がある大きいアメリカの雑誌の通信員に対してこう言明した。「わたしは、自由なお国に感嘆はしていますが、しかしわたし達自身には、まだ共和政の機が熟してはいないのです。だから、天皇がおられるのです。だが信じて頂きたい――現在すでに、政治に関して天皇の発言を必要とする場合は、イギリスの女王と比べてもその度合は少い位です」と。この言葉は一八九〇年代(明治二十三年から三十二年まで)の教養ある日本人の大部分の気持を代弁している。こうした気分を察知した政府は、全国民のために一致団結の結束をうながす機会が、運命によって新たに与えられる――つまり韓国を原因とする清国との戦争という形で――までは、柔軟な対応が賢明であると考えた。そしてこの日清戦争は政府の希望どおりの結果になった。すなわち日本全国民は一致団結し、国軍の勝利に熱狂したのである。以前は憎まれて、いろいろと悪く言われていた「元老」を首脳とする薩摩、長州の政治家たちは、海陸にわたる日本の名声を世界中で高めた。国粋的感情が目ざめて、外国のものすべての盲目的な模倣に対する健全な反応が始まった。自由諸国の美点に耳を傾けるものが、はるかに少なくなった。議院内閣制の政府を目指す最大の絶叫者たちは、控え目となった。・・・・・・巨人清国に打ち勝った、この世界驚嘆の勝利への、更に深い根底を、日本人特有の性質の中に求めたのであるが、この日本人気質には、「皇統連綿」の皇室もまた、大きい枠割を演じていた。こうしてこの日本人気質は、国家の危急存亡のとき一段と強く発揮されるのである。天皇の人格が全面に押し出されることが、だんだん多くなってきた。学校や役所にはいずれも、天皇の写真が掲げられていて、今ではこれに祝祭の折、おじぎをしてあいさつせねばならないのである。日本の青少年の、あらゆる道徳教育の基礎を示す勅語(教育勅語)が出たが、その中で天皇は、国民の一種の父親として表されている。こうして天皇を国家の、ある程度概念的で象徴的な代表として崇拝する観念を、太古からの古びた土地ではあるが、今や改めて有利に準備を施した国土に、十分意識して植付けたのである。このような日本の指導的な為政者の企画が完全に成功を収め、時としては、企図した程度以上の成果を挙げた事実は、誰にも否定できない。」(187~189頁)

 長くなりましたが、日清戦争によって、明治の日本がガラリと変わったことが述べられています。最初に引用した自分たちには歴史はない、と述べていた日本人が日本の歴史に目覚めるわけです。これは単なる移り味の早さではなく、まさに日清戦争の勝利という歴史をつくったがために、日本の歴史をあらためて振り返ることができたといえましょう
 しかし、この福沢の発言というのは、どこかに根拠があるのでしょうか。

つづく

よろしければ、クリックお願いいたします。


本・書籍 ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

2016年9月 9日 (金)

ジョージ・アキタ他『「日本の朝鮮統治」を検証する 1910-1945』

点検読書232

共著者は、ブランドン・パーマー。
訳者は、塩谷鉱。
草思社(2013年8月28日)刊。


日本史――韓国・朝鮮


「世界で最も残虐な植民地政策だった」と言われる大日本帝国の朝鮮統治(1910~1945)は、同時代のアジアとアフリカにおける列強の植民地政策と比較して、史上最悪な「暗黒時代」といえるのだろうか。本書は、従来、"真実"として容認されてきたが、少なくとも別の観点からの見直しが必要な研究、概念、あるいは原理に対するアンチテーゼの追究という意味での「修正主義」的アプローチによって、民族主義的史観に覆われた朝鮮統治を見直す。


6部構成

1:「民族主義的史観」への疑問(1~3章)

2:朝鮮統治の指導層の認識と人々の暮らし(4~7章)

3:近代日本における司法権の独立(8~12章)

4:現代中国と同時代の植民地政策との比較(13~15章)

5:「軍国主義者」山縣有朋の実像(16章)

6:民族主義的史観を見直す近年の研究(17~18章)

コメント
 本書について、注意を要するのは、著者たちは植民地支配そのものを肯定しているのではなく、現在の韓国や北朝鮮の民族主義的史観に忠実な学者たちが主張する「
史上最悪」な朝鮮統治というのは言い過ぎである、ということを主張しているだけだということです
。日本の朝鮮統治においても、指導層と末端とでは認識が違い、虐待を行なう役人がいたということは、本書でも指摘されています。

 そのことを踏まえた上でも、日本の朝鮮統治は、李氏朝鮮時代や同時代の列強諸国に統治された東南アジアやアフリカの諸地域よりは、公平であったし、穏健であったであろう、と主張しているのです

 例えば、高宗の治世下の朝鮮は、総人口のわずか3%の富裕層によって、権力と富を牛耳っており、厳格な階層性のために民衆は救済策を求める機会を失われ、そればかりか役人たちが正規の地租に加えて特別税を徴収して、農民たちを苛んでいたことを、民族主義的史観派のC・I・ユージン・キム氏と金漢教氏の共著 Korea and the Politics of Imperialismからの引用によって論じています。

 また、日本の朝鮮統治初期の残酷さを象徴する「鞭打ち刑」は、そもそも李氏朝鮮時代に行われていたものであり、その際の鞭は「巨大な櫂状の棒」が使われ、囚人の脚の骨を砕いて不具者にしたり、死に至らしめたりしていたそうです。それが、日本統治時代の鞭打ち刑では、鞭は「節の突き出た部分を削いだ竹」で「長さは五十四センチメートルあまりで、太さは直径七・五センチメートル」。見世物としないために刑務所内の敷地内で執行され、事前に医師の検査と立ち会いのもとに、「一度に受ける……鞭打ちの数は三十回にまえに限られていた」。さらに、鞭打ちによって、肉を切り裂くことは禁止されていた、とマイケル・スプランガーヘンドリックス大学助教授の Grafting Justice: Crime and Politics of Punishment in Korea, 1875-1938 という論文で述べられていることを紹介しています。そして、この鞭打ち刑も3・1独立運動後に廃止されています。

 諸外国の植民地政策との比較では、日本統治下の朝鮮では学齢に達した児童の3分の1しか学校に行っていなかったことが指摘されるものの、フランス領のカンボジアでは5分の1、同領ベトナムでは10分の1、同国が領有する西アフリカでは更に低く、甘い見積もりでも1000人に4・7名の子供しか学校に行っていなかったそうです。識字率に関して言うと、朝鮮は50%以下であるのに対し、インドネシアで8%、仏領インドシナで10%、アメリカ統治下のフィリピンで50%以上であったそうです。フィリピンは、小学校の授業料が無料で、高等学校への進学も容易で、大学も5つ用意されていました(朝鮮は京城国立大学一つ)。こうしたフィリピンの教育水準の高さが、日本が侵攻した際の反発が強かった理由でしょうが、フィリピン以外で比較すれば、日本も多くを提供した方でしょう。

 日本統治下で朝鮮の人口が増えたことは有名です。1910年の1313万人から1942年には2553万人とほぼ二倍です。もっとも、人口が増えたからといって、肯定できるものではない、という批判があります。もっともであると思います。しかし、ベルギー統治下のコンゴでは、統治開始当初の1885年には2000万人から3000万人いたとされる人口が1911年には850万人にまで減少していた、と言われると、並なことはしていたんでしょうぐらいは言えると思います。また、列強の植民地支配は、換金作物への強制栽培制度などがあったために、たびたび飢饉が起きていたといいますが、日本統治下の朝鮮では一度も飢饉がなかったそうです(186頁)。さらに、朝鮮統治初期の抵抗運動鎮圧のために強制収容所を使わなかったことも、日本の植民地支配の特徴であると指摘しております(173頁)。

 本書は、民族主義的史観派の著作と修正主義的史観派の両派の研究書を多く引用し、これまでの朝鮮統治研究を概観できるのに便利です。日本の朝鮮統治についての肯定的記述が多いことが気になる向きにしても、そういう見方があるということは知っておいた方がいいし、また肯定派も民族主義的史観派にどのような研究があるのかを知っていることが、議論の土台になってよいでしょう

 しかし、疑問点もあります。それは、本書で特にページを割いている司法権の問題をとりあげているところです。基本的には、大津事件などを指して、日本では司法権が行政権の言いなりではなく、一定の独立があり、また伊藤博文ら政府首脳部でもそれは理解されており、朝鮮統治においても法の支配というのは、それほど恣意的に行われてはいなかった、ということを述べています。
 その点は良いのですが、そこに敷衍して、最高裁判事の面々は官僚たちの決定を承認しなければならないというカレル・ヴァン・ウォルフレンの日本官僚支配論は「不見識にして論理性に欠ける日本観」であると厳しく批判しています(110~111頁)。しかし、ウォルフレンの官僚制論の批判点は、1899年の山縣有朋内閣における文官任用令改正によって、キャリア官僚制が確立し、政治主導による統治が不十分になってしまった、ということにあるかと思います。とするならば、その反論に1891年の大津事件を証拠するのは、少々反論として弱く思います
 もっとも、1934年の帝人事件においても被告がすべて無罪になっていることを見れば、その後も裁判所が司法官僚の言いなりではなかったことは確かでしょう。司法権の独立は一定の成果はあったと思いますが、幸徳事件のようなフレームアップを容認する判決もあったわけですから、それほど誇るべきものがあったかは疑問です
 また、閣議が、官僚の提案を鵜呑みにしているだけ、というウォルフレンの批判に対して、やはり大津事件の対応を持ってくるのは、筋違いに思います。文官任用令改正以前の官僚や大臣というのは、藩閥政治かも含めて、維新革命の荒波を越えてきた政治家が官僚になったというべき人々で、後の官僚らしい官僚の支配と政治家になった官僚たちの政党とは別物です。その時代の官僚政治家たち=元老を例にとっても反論にはなりません。丸山眞男以来の官僚国家批判は、明治国家の天皇のカリスマ性と元老たちの責任意識と決断力を評価しつつ、昭和期の官僚たちの責任意識の無さを批判しているのですから、ズレた批判と言えるでしょう。
 そういうような近代日本に対する認識をみると、朝鮮統治に関する見方も一面的にも思えてしまうので、本書を土台にいろいろと読んでみるのが良いのかな、と思えました。

評価 ☆☆

よろしければクリックお願いします。


本・書籍 ブログランキングへ

2016年9月 5日 (月)

筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』

点検読書230

副題は、「二大政党制はなぜ挫折したのか」
ちくま新書(2012年10月10日)刊


日本政治史――昭和史


普通選挙導入を争点とした第二次護憲運動を機に成立した戦前日本の二大政党による政党政治は8年で終わりを告げ、軍部の台頭を許すこととなった。多くの人に期待された政党政治が信頼を失い、軍縮の時代を迎えるなど苦難を迎えていた軍部が急に支持されたのはなぜか。本書は、加藤高明護憲三派内閣から犬養毅政友会内閣までの各内閣の人事、政策、そして事件におけるマスメディア、宮中、軍部の役割に着目して歴史社会学的に論じていく。


六部構成

1:加藤高明護憲三派内閣と政党政治の確立(第1章)

2:第一次若槻禮次郎内閣と「劇場型政治」の開始(第2章)

3:田中義一内閣と宮中・非政党勢力の台頭(第3章)

4:濱口雄幸内閣とロンドン海軍軍縮条約(第4章)

5:第二次若槻禮次郎内閣と満洲事変(第5章)

6:犬養毅内閣と政党政治の終焉(第6章)

コメント
 1924年から1932年の8年間は、日本における本格的な政党政治の時代でした。帝国憲法ができてから、いやそれ以前の明治14年の政変頃の福澤諭吉以来、求められてきた二大政党による政権交代可能な政治というものが実現したのがこの時代でした。
 この時代があったからこそ、1945年7月に出されたポツダム宣言において「民主主義的傾向の復活強化」と書かれ、占領政策が間接統治になったとも言われております。現に、戦後の二番目の内閣は、この時代に活躍した外交官であった幣原喜重郎が首相をつとめていました。
 しかし、その時代はたったの8年で終わりを告げ、今度は極端な軍国主義体制へと転換しました。その原因は何か、というのが本書の述べるところです。
 まず第一の画期点は、加藤高明を引き継いだ第一次若槻禮次郎内閣で、解散総選挙ができなかったこと、です。もし、この憲政会単独内閣で、解散と勝利により衆議院に基礎を置く内閣の基盤を固めることができたら、政党政治を確立できたかもしれません。しかし、若槻には、その勇気がなかったのでした。若槻に言わせれば、朴烈怪写真事件や松島遊廓事件などのスキャンダルで追い詰められ、その状態で選挙となれば、負けてしまうかもしれないと心配したこと、さらに選挙よりも話し合いで予算案と震災手形関連法案を優先させた方がよい、ということだったそうです。本書では、若槻内閣を「大蔵省的」と評していますが、大蔵次官出身の若槻は、官僚が政治家になったの典型的人物でしょう。官僚は、予算・法案の成立こそが第一であるが、責任を取りたくないという体質があります。また、世論の動向に無頓着です。朴烈事件のように、現在から見て「大した問題ではない」と思ってしまうようなものも、当時においては大逆事件を企てた人物を司法当局が優遇したことは大問題だったにも関わらず、「詰らん問題」と捉えて、普通選挙導入後の大衆政治にまったく疎かったといえます。
 この怪写真事件と大衆政治の問題につき、上杉慎吉の指摘を引用していますが、なかなか鋭いものです(97頁)。

複雑なる政策問題では民衆的騒擾は起るものではない。政府が皇室を蔑ろにしたと云う簡単なる合言葉は耳から耳に容易に伝わり伝わる毎に人の感情を激するの度を増すものである」(上杉慎吉「朴烈問題解散及現内閣の身体に関する意見」『牧野伸顕関係文書』書類の部)

 今日だとどうでしょうか。「平和」「民主主義」か、また大きい影響力を持つのは「改革」でしょうか。若槻には、こうした大衆感情というものへの共感がまったくないのでした。そうした官僚政治家を二回もトップに据えざる得ないのが、憲政会とその後継の民政党の問題であったといえるでしょう。
 しかし意外だったのが、現在において評価の低い若槻ですが、首相就任時には、首相就任に反対の声がなく、原敬につぐ二人目の「平民宰相」とされて伝記が二冊も刊行され、政治評論家の馬場恒吾が「原敬氏と匹敵すべき力量、手腕、性行」(『政界人物風景』、331頁)と評していたそうです
(53頁)。こうした過大な期待が、現実にぶつかると大きな失望にぶつかるということは、我々の時代は民主党政権で経験済みなのでよく分かります。

 政党政治失敗の第二の点は、議会もしくは政党外勢力を自ら引き込む悪手をあえてしていた、ということです。田中義一内閣の際には、野党の民政党(憲政会)は、水野錬太郎文相が辞任を天皇に申し出たものの慰留されたので留任したということを発言してしまった「優諚」問題で天皇の政治利用を突き、また不戦条約における「人民の名において」という文言を問題視して攻撃し、張作霖爆殺事件においても議会勢力が言論や選挙ではなく、宮中の力によって内閣を倒してしまいました。
 また、濱口内閣では、濱口らは天皇や宮中、マスメディアを味方につけることでロンドン海軍軍縮条約締結を実現させ、一方の野党の政友会の鳩山一郎は統帥権干犯を論難して内閣の権限を制限しようとしましたし、第二次若槻内閣の頃には、鳩山一郎や森恪らの主流派が、今村均陸軍作戦課長・永田鉄山軍事課長・東條英機編成動員課長らと懇談して、陸軍と協力した倒閣運動を試みていました。先の統帥権干犯問題とともに鳩山一郎が、軍の台頭に寄与した役割は大きいといえます。

 こうした政党政治家そのものの問題とともに、著者は二大政党というものは政権を争っているのだから、「選挙で当選するために、また反対党との競争に勝つために政党が様々な方策を用いるのは当然のことであり、そのことにできるだけ寛容でなければ政党政治は維持できない」(285頁)と日本のメデイアと有権者の政治的未成熟を指摘しています。こうした政党の動きを「党利党略」として否定し去ってしまうと、既成政党への不信感が高まり、官僚・軍部・天皇・新体制などの「第三極」への期待が高まってしまう、と警鐘を鳴らします。
 本書が書かれたのは、2012年の半ばぐらいですから、たしかにこの時期、民主党政権への失望感と谷垣自民党への不安感があって、橋下徹氏が率いる大阪維新の会が日本維新の会へと国政進出を展開していた時期でした。二大政党への不信感から「第三極」への期待が高まっていた時期に書かれていたのでした。当時の大阪維新の会が、危険だったかどうかは好き嫌いがあるところですが、政治経験が少なく、政党組織も未成熟な政党が中心となって内閣を率いるというのは、結局のところ、風まかせのポピュリズムに陥ってしまいますから、民主党政権以上の混乱があったかもしれません。
 まさかその後、石原慎太郎氏が合流して支持率を一気に低下させて、自民党は安倍晋三氏が総裁に返り咲いて、新しい経済政策を主張するようになるとは、誰も予想できませんでした。今では、既成政党の復活劇があったので、こうした戦前の政党政治の失敗というのは流行らなくなったかもしれませんが、当時においては良い視点だったのではないか、と思いますし、経済政策などへの言及が少ない点などに不満はありますが、図式が分かりやすく、良い本に思えました。

評価 ☆☆

よろしければクリックお願いします。


本・書籍 ブログランキングへ

2016年8月30日 (火)

内藤湖南「応仁の乱について」

点検読書226

『日本の名著41 内藤湖南』(中央公論社、1971年)収録
原著は、『日本文化史研究』(弘文堂、1924年)収録


日本文化論――日本中世史


歴史は、下級人民が徐々に向上発展していく過程であり、日本社会において応仁の乱こそ、その転換期であった。日本の歴史を考えるにあたっては、応仁の乱以後のことをしていれば良い。それ以前というのは、外国同様にみなすべきだ。この時代は、旧来の貴族社会を徹底的に破壊し、貴族文化というものを民衆化したのである。


4部構成

1:貴族社会から民衆社会への移行

2:下克上とは

3:尊王心の民衆化

4:思想・文化の民衆化

コメント
 まずは本書のキモであり有名な一節を引用しておきましょう。

「だいたい今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っていおったらそれでたくさんです。それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っていれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります。」(83頁)

 湖南によれば、応仁の乱以前というのは、氏族制度における貴族たちの社会であったが、この応仁の乱以後の戦国時代において、ほとんんどの名家は滅びてしまい、明治の時代になって華族に叙せられた旧大名家はこの時代に出てきたものである、といいます。
 つまり、この時代に徹底した社会変動があった、というのです。それを湖南は「下克上」と呼んでいます。通常の「下克上」の用法は、陪臣にすぎない家臣が順々に上の主君を押さえつけてゆく状態を指すのですが、当時の用法は「最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する、もっと激しい現象を、もっともっと深刻に考えて下克上と言ったのである」(87頁)と述べています。
 日本は、ヨーロッパ諸国にくらべて上下の社会階級の格差がないというのが、明治時代以来の考えでした。その一方で、敬語表現や所作など人間の距離感の取り方の堅苦しさというものがあって、かつては厳しい身分差別がありました。
 どういうことかというと、本当に社会階級のある社会では、話す言語も食べる物も食べ方も享受する文化も貴族と平民とでは異なります。そして、両者の接触もほとんどありません。そうした差というのは征服・被征服民族という歴史的経緯と1000年レベルの生活スタイルの違いによって生じます。
 一方で日本の場合は、さまざまな言葉遣いや所作で差別というものをつくっていますが、話す言語は同じですし、食べる物も豊かさに差があるだけで基本的には同じですし、食べ方に大きな違いはありません。そして、吉原など外の身分を取り外して遊ぶ場もあり、交流もないことはなかったのです。
 こうした差というものは何かと謎を解くのが、湖南の主張でしょう。つまり、日本は、応仁の乱以後の戦国時代において、徹底して旧来の社会階級・身分制度を破壊してしまったのです。それ以前というのは、集団のトップは旧秩序に関わる身分のある人物しか就けませんでした。東国武士団における源頼朝がそうですし、鎌倉幕府における摂家将軍・宮将軍です。しかし、戦国時代になるとトップは、あくまでも実力です。旧体制における身分と全く関わりのなかった豊臣秀吉が天下人になれたことからもよく分かります。また、天下を取った徳川家康も東国からフラリとやって来たという伝説がある人物の子孫に過ぎず、出自は謎です(参照)。
 このように、律令国家時代においては、神話的な「天孫族」系と「国津神」系など明確な支配・非支配集団の区分があったのですが、戦国時代以後になると、それはありません。同じ人間の実力によって、支配・被征服が区分されたのです。ですから、逆に様々な規制を設けて身分差別を演出しなくては、支配者と被支配者の区別がつきません。そのためにも、基本は同じ言語・所作であるにもかかわらず、あえて人為的に上の者が「貴様」といえば、下の者が「あなた」というように差をつけたり、上座・下座という座る位置を決めたり、不「自然」な差別をつくったといえるでしょう。
 いってみれば、現在の高所得者が低所得者と差をつけるためにブランド品を身につけるようなものです。両者は、所詮は同じ平民であり、また平民同士同じ情報と価値観があることが前提となります。なぜなら、もし低所得者層がそのブランドを知らなければ、そうしたものを身に着けていたとしても、差別という点で何の意味もないからです。
 また、こうした元々おなじ「平民」が支配者と被支配者に別れたわけですから、同じ「同族」として被支配層を大切に思う気分というものも生まれました。その点が、人民は領主の持ち物にすぎないと考える諸外国の貴族や官僚との違いを生み、またそれが極端な圧政に進まなかったために、急激な革命を引き起こさなかった原因ともなるでしょう。革命は、すでに戦国時代で成し遂げていたのですから。
 以上のように、この湖南の講演録は、短いながらも日本史における謎のいくつかを解き明かすヒントが散りばめられていて、日本史に関心のある人には必読のものでしょう。

評価 ☆☆☆☆

よろしければクリックお願いします。


本・書籍 ブログランキングへ

2016年8月29日 (月)

生方敏郎『明治大正見聞史』

点検読書225

中公文庫(1978年10月10日)刊
原著は、春秋社(1926年11月)刊


日本史――明治時代


『東京朝日』の名物記者から作家となった著者の体験を踏まえた明治・大正の世相史。明治初期の外交から憲法発布と日清戦争、学生の目を通した社会の移り変わり、乃木将軍の死に直面した新聞社の本音と建前、関東大震災の記録、と明治・大正の事件を風刺的に描く。


8部構成

1:明治初期の「屈辱」外交

2:日清戦争と社会的意義

3:明治時代の学生生活

4:恐露病と日露戦争

5:明治の終わりと乃木将軍

6:プロから素人の女性の時代

7:大正の世相史

8:関東大震災の記録

コメント
 本書は、明治・大正の社会の移り変わりを社会をきりとるという新聞記者の視点から回顧した作品です。収録された作品は、世の中の変化の体験的記録という点でまとまっているものの、各作品は『中央公論』などに掲載されたものだそうです。
 本書では、乃木将軍がその妻とともに明治天皇に殉死した事件について、新聞社内で軽蔑したような会話がなされている中、できあがった新聞は賞賛の嵐というように、建前によって世論が創られていくさまや、関東大震災に当事者として体験し、徳富蘇峰が津波にさらわれて死亡したなどの噂を鵜呑みにする姿、話題になる女性がプロの芸者から女性記者や作家など「素人」へと転換していくさまなど、興味深いエピソードにあふれています。

 その中でも、興味深いのは、やはり日清戦争でしょう。
 明治国家の初めての本格的な対外戦争である日清戦争は、日本という国家を国内的にも、対外的にも決定的に変えた重要な事件であったというのです。
 著者が言うには、日清戦争までの地方の人間は、反藩閥政府的気分が強く、一つの国民という意識が希薄でしたが、この戦争によって、それが変わったというのです。

「私の子供らしい心に映ったところで見ると、憲法発布はさまで地方民の心に革新の刺激を与えないでしまった。皆な予期を裏切られたという心持ちを持ったらしかった。根本的に地方民の心を動かして、明治の新政府に服従し中央政府を信頼するようになったのは、日清戦争の賜物であったように思われる。」(25頁)

 つまり、それ以前の地方の人にとって、明治維新は薩長武士の企てた「革命」に過ぎないのであって、自分たちの政府とは考えていなかったようなのです。もちろん、人々は、「きんりん様」=禁裏様=天皇を尊いものと考えていたものの、それと同等かそれ以上に「公方様」=徳川将軍の権威が強かったようなのです。それが、この戦争の思わぬ勝利によって、中央政府の権威が一気に上昇したということでした。
 また、この戦争は、一般国民の中国観も大幅に転換させました。それ以前の日本人にとっての中国というのは、子供の頃から教え込まれる儒学の故郷であり、学校で習う「漢字」の国であり、また優れた美術品をつくる国で、お祭りの山車に置かれた人形のモデルたち、漢楚合戦や三国志の国だったのでした。
 それが憎悪する敵国へと変わり、そして思いがけぬ日本軍の快進撃に「遅れた国」という印象を持つようになったというのです。
 現在の我々は、日清戦争を勝つべくして勝った戦争で、いってみれば日露戦争の前哨戦のような扱いで見てしまいます。しかし、著者も言うように、もし日露戦争がなければ、牙山で戦死した松崎直臣大尉や喇叭卒の白神源次郎は日露戦争における廣瀬武夫中佐と杉野孫七兵曹長なみに知られていただろうし、大島義昌、立見尚文、大迫尚敏、佐藤鉄太郎の諸将は日露戦争の黒木為楨、乃木希典、児玉源太郎なみの大英雄であったろうというのです。
 現にこの箇所は原文では苗字しか書いておりませんのでしたが、私は日露戦争の方はほぼ下の名前も調べずに書けましたが、日清戦争の方は一人もフルネームが出てきませんでした。同時代人にとっての大事件とのちの人間にとっての捉え方は、これほど違うのか、と感じます。
 本書は、そうした驚きにあふれております。また、それを指摘出来るだけの透徹した視線を持っていたということもあったのでしょう。しかしながら、その著者ですら、この日清戦争で軍国熱が暑くなったものの、1926年現在では軍縮熱によって軍人の肩身が狭くなったとは、誰も想像できなかったろうと述べており(66頁)、その数年後の軍国主義を予想だにしていなかったのも面白いところです。

評価 ☆☆☆☆

よろしければクリックお願いします。


本・書籍 ブログランキングへ

2016年8月25日 (木)

岡本隆司『日中関係史』

点検読書223

副題は、「「政冷経熱」の千五百年」
PHP新書(2015年9月1日)刊


世界史――日本・中国


古代以来、日本と中国は疎遠であった。日本にとって中国は身近な外国であり憧憬の対象であったものの、政府間の交流も民間・知識人間の交流も少なく、とりわけ政府間の交流はお互いに誤解し合ったものであった。関係が密になると関係が悪化し、疎遠になると摩擦が起きる。こうした日中間の特徴を卑弥呼の時代から日中戦争が始まるまでを描く。


四部構成

1:「東アジア」秩序から隔絶する古代日本

2:政府間交流の途絶と経済の密接化(倭寇の時代)

3:「鎖国」の時代

4:漢語化する日本と日本化する中国とその破綻

コメント
 現在の日中間の関係はとてもイビツです。野田佳彦内閣で尖閣諸島を国有化して以来、政府間交流がなくなり、第二次安倍晋三内閣でそれが復活したものの、毎日のように尖閣諸島沖で中国船が挑発行動に出ていて、諸外国から不安視されています。
 そうした表われか、日本側の対中投資は一時期に比べて低下しています。しかしその一方で、日本の訪日外国人が年内にも2000万人を突破するかもしれないという報道がありましたが、3分の1ぐらいが大陸中国、香港、そして台湾といった「中国人」です。つまり、政府間の関係は、上手くいっていないのですが、密な民間交流とまではいかないまでも、日中間の人の交流は増加しているのです。
 これは一体どうしたことなのか。これが本書の問題意識であり、その回答として、日中政府間の関係はもともと疎遠であり、それにも関わらず、モノとモノとの取引は密接であったというのです。
 日中間の政府間交流が密でなかったのは、お互いが異なる世界観の中で成立していたから、ということらしいです。歴代の中国の王朝はやはり世界の中心であって、平等な関係というのはありえないのです。あくまで中国と付き合うのなら、他の国は中国皇帝に臣下の礼を尽くさなければなりません。しかし、日本は中国本土とは離れていたために、直接的な影響関係が少なく、孤立しても生きていけましたから、わざわざそうした義務を引き受けることは「屈辱」と考えるメンタリティがあったというのです。
 つまり、中国という国は、自分たちの世界観があって、それに見合うものとしか正式な関係は築かないという「原則」があります。その一方で日本は、そうした「原則」からは自由でありたい、という中国側からすれば「非常識」な国であると言えましょう。こうした点は、現在の中国も同様です。その「原則」は「歴史認識」となりましょう。「歴史認識」という問題は歴史的事実ではなく、まさに「認識」であって主観的なもので世界観に連なります。しかし、中国側が設定した世界観に見合わない態度を示すのは「非常識」であり、正式に交流するに値しません。相手の「歴史認識」に合わせて正式な政府間交流を密接にさせて、日中間の経済交流を密にするというのは、足利義満が「日本国王」として朝貢一元体制に適合しつつ、勘合貿易の利益を得ようとしたことと似ています。そして、どちらも日本人のメンタリティとしては、非難の対象となったのでした。
 どうもそうなると、天皇の権威に挑戦しようとする成り上がりものが中国との関係を密にしようとして、そうしたものを必要としない権力基盤の強い者が対中関係に冷たい印象があります。
 つまり、公家勢力を圧倒して太政大臣になった新興勢力の平清盛であり、同様に足利義満、また尊王家とも言われていますが中華趣味のあった織田信長、戦後では田中角榮、小沢一郎氏がそれにあたります。また、近代日本において、対中関係の改善に尽力した幣原喜重郎外相とそれを支える濱口雄幸、若槻禮次郎両首相は学歴エリートですが成り上がり者の民主主義者です。それに対して、東国武士に強固な支持があった源頼朝、幼い時から公卿としての地位があった足利義持、これも武士層から強い支持のあった徳川家康、三世議員で最大派閥を背景にする小泉純一郎氏と安倍首相。戦前では、薩長藩閥出身者が中国に対して冷静な態度を取ります(侵略意図がある人たちは、また別でしょう)。
 このように日中関係というのは、対外関係の難しさとともに、国内政治における野心というものとも絡み合っているという印象を持ちます。本書は、日中戦争や戦後の日中外交といった関係が密になった時代を扱うのではなく、逆に俯瞰した視点で、政治的に疎遠でありつつ経済的には密接であった1500年という常態によって、現在の日中関係の見方にヒントを与えてくれます。

評価 ☆☆☆

よろしければクリックお願いします。


本・書籍 ブログランキングへ

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2019年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31