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文学

2016年6月13日 (月)

樋口一葉『ゆく雲』

点検読書209

『樋口一葉小説集』(ちくま文庫、2005年)所収

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2016年5月26日 (木)

遠藤周作『沈黙』

点検読書199

新潮文庫(1981年)刊
原著は、新潮社(1966年3月)刊


小説――国内


舞台は島原の乱後、キリスト教への弾圧がさらに激しくなった日本。ローマ教会に、日本で宣教していたリスヴァン・フェレイラ教父が棄教したとの報告があった。フェレイラの棄教という不名誉を雪辱するため、どのような迫害を受けても潜伏布教をするとの計画のもと、フェレイラの元教え子のロドリゴたち三人の司祭が日本に派遣される。その内、一人は途中病に倒れ、ロドリゴとガルペの二人が日本に上陸する。途中のマカオで出会った日本人・キチジローの手引で、隠れ切支丹の集落を訪れ、告解を与えるロドリゴたちであったが、役人の捜索が始まる。ロドリゴはガルペと別れて逃走するが、キチジローの密告により、捕らえられる。一方、ガルペも捕らえられ、ロドリゴの目の前で処刑される。キリシタン弾圧を担当する奉行・井上筑後守と通詞や沢野忠庵ことフェレイラの説得による棄教には抵抗したものの、井上が発案したロドリゴに拷問をかけるのではなく、日本の信者たちをロドリゴが棄教するまで、拷問し続け、そのうめき声を聞かせ続けるという「拷問」に耐えかねて、ロドリゴは踏み絵を踏むこととなり、日本人の名前を与えられ、64歳まで幽閉されながらも生きながらえた。


四部構成

1:フェレイラの棄教報告からロドリゴらの派遣まで(ノンフィクション風)

2:マカオ到着から日本潜伏、ロドリゴ捕縛まで(ロドリゴの書簡)

3:ロドリゴの移送と棄教まで(第三者視点の小説)

4:その後のロドリゴ(歴史史料風)

コメント
 戦後を代表するキリスト教文学の古典です。
 内容に関しては、上記のとおりなのですが、興味深いのは、フェレイラが述べる日本の宗教的土壌でしょう。

「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった……だが日本人がその時信仰したものは基督教の教える神でなかたとすれば……」(189頁)

「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない……日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」(193頁)

 戦国時代の日本に紹介されたキリスト教は、大名から庶民層に至るまで爆発的に流行したのですが、その内容というのは、本来のキリスト教的な神ではなく、日本的な浄土教的な極楽浄土へと導いてくれる神となってしまいました。その信者たちが、死をも厭わぬ信仰を持ったのは、その極楽浄土への転生を信じてのことでした。そこには、内面における神との対話、つまり倫理・道徳といった規範の内面化は行われません。大日如来に比定されたデウス、菩薩となったマリア、図像に描かれたイエスを拝むという行為によって、現世の苦を和らげ、死後の平安を手に入れるという形式に拘るようになっていきます。
 その点が、本作の踏み絵という行為につながっていきます。つまり、外部に見えるかたちで自己の信仰を告白することに重要性を与えているのです。それは、ロドリゴが移送される際に、人々が激しく罵って、自分が切支丹ではないことの告白の代わりとすることも同様です。
 本作の主人公のロドリゴも踏み絵を求められ、それを実行することによって棄教したとみなされます。それは、外部から棄教したとみなされるものの、内心において、イエスとの対話を体験することで真の信仰を得るという話ともいえます。
 しかし、逆にいうと、日本における宗教というのは、あくまで外部にあらわれるものです。もっとも、すべての宗教は、その規範や儀式があって、それを目に見える形で実行することが信仰を表すことになります。しかし、宗教が根強く浸透した地域では、内心における信仰まで魔女裁判のように疑惑の眼が向けられるように、外面だけではなく内面までも審判の対象になります。それが、日本の場合は、外面さえ取り繕えば、内心は問わない、ということになるようにも思えます。日本における宗教弾圧、思想弾圧は、基本的には政治に口を出し始めた時だけです。非常に現世的な日本人は、現世を超えた存在に根拠を持つ信仰・思想集団の現世への介入を嫌います。そうした対象には、苛烈な暴力が与えられます。その一方で、それが外部に表れないならば、そこを攻める訳にはいかない、そういった不文律があるように思えます。
 本作は、日本における宗教と真の信仰を描いた作品と言えます。ロドリゴは、宗教としてのキリスト教を棄て、内面における信仰を獲得します。それは、最後の「切支丹屋敷役人日記」にかいま見えます。ロドリゴは、江戸の切支丹屋敷で監視下に置かれて、キリスト教に関する報告書などを公儀にあげる生活をしています。そのロドリゴの元に「吉次郎」という人物が中間として雇われていました。つまり、ロドリゴを売ったキチジローですが、ロドリゴは、イエスが自身を売ったユダを許したように(復活後に会った弟子が十二人という伝もあって、そこにユダがいたともいう)、キチジローを許しています。これは、彼が宗教としてのキリスト教を棄てつつも、イエスへの信仰を強固したものともいえます。その周辺では、隠れ切支丹騒動が起きているようですが、それはキリスト教に関わる被造物を持っていたことで、信仰が問題とされているわけではなさそうです。そして、信仰を強固にしたロドリゴは、64歳まで生きながらえたのでした。ここに、真の信仰と日本的「良心の自由」の問題が描かれているように思います。

 そういえば、本書は、安倍晋三首相の愛読書である、という話があります。たしか、昔の『産経新聞』の「私の一冊」のようなタイトルの連載で、当時、新進気鋭の若手政治家であった安倍さんが本書を挙げていたのでした。どんな内容かはあやふやなのですが、多分、岸信介の安保騒動と関連づけて、政権の安定と、現在そして将来の国民の平和と安全を秤にかけて、後者のために長期政権を諦めた、というような話だったように思います。つまりは、目に見える形での現在の栄光(宗教的信仰)よりも人々のために政権を捨て去る(拷問を受ける人を助けるために棄教)ということをアナロジーとして捉えていたような。違ったかな。
 たしかに現在の「神」は、民意にあります。安保騒動時に、国会を取り巻く大群衆という目に見えた国民が彼に反対しています。しかし、総選挙で勝利している議院内閣制の政権ですから、どれだけ大勢のデモが反対しようとも、現憲法下のルールとしての正統性は岸政権にあります。ですから、彼は安保改定と心中して、退陣する必要はなかったのです。しかし、退陣を約束しないと、このデモに恐れをなした与党から裏切り者が出てしまって、安保改定は実現できなくなってしまいます。目に見える群衆とそれを利用する与党政治家に屈して安保改定を引っ込めて政権を維持するか、現在・将来の国民のためにあくまで改定にこだわるか。決断を迫られるわけです。そこで、岸は後者を選択します。民意とは目に見える民衆のことではなく、過去・現在・未来へとつながっていく国民の意思であると判断し、その幸福のために決断したといえます。真の信仰を選んだのです。

 多分、そんなような内容で、政治家の決断について、自身の満足や周囲の眼ではなく、民衆のための決断の重要性を説いていたのではないか。そんな記憶です。
 とすると、この数日で、安倍首相は、似たような決断に迫られます。消費税増税について、どのような決断を下すか。解散総選挙を行なうのかどうか。現に生きている民衆のための決断が求められます。

評価 ☆☆☆

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2016年5月24日 (火)

『フランクリン自伝』

点検読書198

松本慎一・西川正身訳
岩波文庫(1957年)刊


自伝


科学者であるとともに出版業者、哲学者、経済学者、政治家でもあったベンジャミン・フランクリンの自伝。蝋燭・石鹸製造の父のもとでの修行から始まり、印刷工をしながら著述活動を行い、経営者となり、州会の役人、義勇軍連隊長などを経験し、州会を代表して領主との交渉のため英国に滞在するまでが述べられる。自伝としては未完成ながら、フランクリンという人格を形成した「成功」の哲学の書として読み継がれてきた。


六部構成

1:少年期から修行時代(第一~三章)

2:経営者時代(第四~五章)

3:成功の哲学の習慣(第六~七章)

4:州政府の役人として(第八~十二章)

5:付録「富に至る道」

6:対照年表

コメント
 
本書解説において、フランクリン自身のあまりの楽観的な人生哲学に、自分の悩みの共感がほしいと思って人生の書を紐解く人には不満であろうから、「アメリカ資本主義の揺藍史」として読まれるべき、と書かれています。
 たしかに、本書の主人公フランクリンは、「同じ生涯を繰返せと言われたら、承知するつもりである」(8頁)と自身の人生を「この幸運な生涯」と称しているだけあって、悩みがないような自伝です。しかし、それは、彼が単に悩みのない幸運な人生を送ったのではなく、いかにして悩みなく人生を過ごすか、という人生哲学を確立したことの結果として、楽観的な自伝となっているようです。
 そうした彼の人格を磨くための刻苦勉励の例が、第六章の「十三徳樹立」です。彼は、正しく生きることが自身の利益になると考えましたが、単にそれを理念として自分に課すのではなく、習慣として自身の中に植え付けることを考えます。そこで考えたのが、節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、平静、純潔、謙譲という十三の徳です(137~138頁)。

第一 節制
飽くほど食うなかれ。酔うほど飲むなかれ。

第二 沈黙
自他に益なきことを語るなかれ、駄弁を弄するなかれ。

第三 規律
物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。

第四 決断
なすべきことをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。

第五 節約
自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。

第六 勤勉
時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。

第七 誠実
詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出だすこもまた然るべし。

第八 正義
他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。

第九 中庸
極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。

第十 清潔
身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。

第十一 平静
小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。

第十二 純潔
性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これに耽りて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。

第十三 謙譲
イエスおよびソクラテスに見習うべし。

と列挙し、一週間に1つずつ実現できるように自身に課すのです。十三週間で一周りし、一年で四周できますので、その間にこれらが習慣として身につくというのです。
 ちなみに「謙譲」の詳しい説明は、少し後に書かれていて、自己主張をしないということを意味しています。つまり、相手の間違いを指摘したり、断定的な物言いは避けるということです。相手が明らかに間違っていても、「時と場合によってはあなたが正しいかもしれないが、今回はこう考えてはどうだろうか」など、遠回しに諌めたり、「絶対に」とか「間違いなく」といった言葉は使わずに、「と私は思う」とか「と私は想像する」など遠慮がちに意見を言うということを意味しています。イエスやソクラテスが、そうした人物だったかは微妙な気もしますが、議論を仕掛けたり、自分の意見というものを相手に押し付けるようなことはしないようにしよう、ということでしょう。
 また、本書は、ご丁寧にこの習慣のノートの記載方法まで載せられていて、実行を迫ります。そう考えると本書は自己啓発書の元祖のような位置づけもできるでしょう。フランクリン自身も述べているように、自身の幸福な人生は、こうした「工夫」によって生きたためだ、としています(147頁)。だから、悩みを悩みとして生きるのではなく、悩みを克服し、人生哲学を確立して、それを習慣にすれば、悩むこともない、という非常に楽観的な生き方ができる、ということになります。
 こうして考えると、変化が多くそれに対応するために悩み多き資本主義社会で生き抜くための精神修養法の原点を本書に見るように思えます。つまり、自己啓発大国アメリカの原点であり、近年は少々変わってきたのかもしれませんが、快活で精力的なアメリカ人の原点が本書にあるのかもしれません。

評価 ☆☆☆☆

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2015年10月21日 (水)

点検読書17 柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫、1988)

点検読書についてはこちら

①文学評論――日本

②明治以降の近代文学は、西欧文学を模範として生まれたものの、そこに見出された「日本」「文学」も西欧近代の視点で「発見」されたもので「日本近代文学」とは「日本文学」とは異なる文脈の中から誕生した。

③「風景」「内面」「告白」「病」「児童」「構成」と近代日本文学の特徴を順に、デリダ、フーコーなどの現代思想の概念を用いて分析。

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