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第二次世界大戦

2015年12月 7日 (月)

石川禎浩『革命とナショナリズム 1925-1945』(岩波新書、2010)

点検読書63

副題は「シリーズ中国近現代史③」。

①歴史――中国

②孫文が残した遺書は、国民党、家族、ソ連に宛てたものであった。そのため、彼の後継者は容共連ソの国民党か、蔣介石か、また中国共産党か、と正統性を争うようになる。この時期は、この三者の争いと協調の時代であり、また日本の侵略、ソ連との関係が問題となってくる。

③孫文の死とその後継者たち、南京国民政府と北伐、中国共産党、日本の華北進出と統一戦線、盧溝橋事件以後の戦時下中国。


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2015年11月30日 (月)

岩波新書編集部編『日本の近現代史をどう見るか』(岩波新書、2010)

点検読書56

シリーズ日本近現代史⑩

①歴史――日本史

②シリーズ各巻の著者が、それぞれの時代を捉える際の問いを掲げ、それに答えていくことで、日本の近代史を見る時の要点を論じる。

③幕末期における幕府外交の再評価、近代日本における天皇の役割、日清・日露の戦争の影響、大正デモクラシーの二重性、概念・用語の解釈をめぐる争いの30年代、分立的な政治組織・責任主体の不明および日中戦争の問題、占領改革における連続と断絶、軽武装と所得再分配が高度成長を可能に、グローバル化と現実感の希薄化のポスト戦後、「軍部」・「家族」・「植民地」の通史。


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2015年11月13日 (金)

大沼保昭・聞き手江川紹子『「歴史認識」とは何か』(中公新書、2015)

点検読書40

副題は「対立の構図を超えて」

①評論――歴史

②「歴史認識」をめぐる問題に関しての基本的な事実関係の確認を通して、その事実の認識と解釈に国内外の人々の間で違いがあることを前提に、なぜ対立する相手との違いが生じるかを理解する必要がある。

③東京裁判について、講和と国交正常化、戦争責任と戦後責任、慰安婦問題、「歴史認識」問題の歴史と国際比較。これらの問題を大沼氏の学問的知識と市民運動に関わってきた体験を踏まえて、高い倫理性や開き直りに陥らずに、間違えもし反省もするが永久に謝罪し続けることなどはできない「俗人」的感覚を忘れないで、「歴史認識」問題を論じる。

2015年10月31日 (土)

三輪公忠『松岡洋右 その人間と外交』(中公新書、1971)

点検読書27

①伝記――日本

②国際連盟脱退、日独伊三国同盟締結と大日本帝国崩壊の原因を作った時期に脚光を浴びた松岡洋右は、従来考えられていたほど、それらに責任があるのか。彼の人生と同時代の精神史から読み解く。

③生い立ち、アメリカ留学、外務官僚、近衛文麿との出会い、満鉄、衆議院議員、国際連盟脱退、満鉄総裁、外相、戦犯そして病死。英米への好意と嫌悪のジレンマに悩んでいた日本人のアイデンティティの危機表現としてのファナティックな天皇崇拝を軸としつつ、日独同盟によって、英米との新たな平和共存を模索し挫折した人物として松岡を描く。

2015年10月24日 (土)

「ミュンヘン」を忘れるな?

表題のミュンヘンとは、1938年9月29日のミュンヘン会談のことである。

この会議は、イギリスのネビル・チェンバレン首相、フランスのエドワルド・ダラディエ首相、イタリアのベニート・ムッソリーニ首相、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統の四者が会談し、「チェコスロバキアのドイツ人居住区、ズデーテンラントのドイツへの割譲を認める」妥協案をヒトラーに提示し、ドイツとの戦争を避けた宥和政策の典型として知られる。

しかし、この「ミュンヘン」の教訓とは、いたずらな妥協策が現状打破国をつけあがらせ、その膨張主義的な志向を止められず、結局はより大きな災難=第二次世界大戦を生み出してしまった、とされる。

もし、この時、チェンバレンが強硬策に出たら、ヒトラーも引き下がらざるを得ず、そのヒトラーの弱腰がドイツ国内の軍部によるクーデターを誘ってヒトラー失脚というストーリーや、仮に戦争になっても1938年中にはドイツを屈服できたはず、つまり第二次世界大戦は起きなかったのだ、と指摘される。

このようなわけで、例えば、現在の中国に対する諸国家の対応について、ミュンヘンの例が持ちだされるということがあったりする(参照)。

しかし一方で、ジェイムズ・F・ダニガン&アルバート・A・ノーフィ『第二次世界大戦 あんな話こんな話』(大貫昇訳、文春文庫、1995)の中に「チェンバレンは名宰相か」というチェンバレン再評価を述べた箇所がある。

この著者たちが主張するところによれば、まず当時のドイツ軍と英仏連合軍の軍備比較をしなければならないという。

1938年末の軍備比較
ドイツ軍:65個師団~70個師団(地上軍)
      パンツァー機甲師団(5)、機械化師団(7)
      新鋭戦闘機2850機
連合軍:80個師団~85個師団(英7個、仏75個)
     軽装軍師団(3)、機械化師団(3)
     戦闘機2350機(英900機〔内、新鋭機は2~300機〕、仏1450機〔ほぼ旧式〕)

比率は地上軍 独:連合軍=1:1.12
     戦闘機 独:連合軍=1:0.8

以上のように比較すると、量で見ると英仏連合軍はドイツに引けをとらないのであるが、質で見れば、一目瞭然でドイツの方が優位にあり、勝ち目がなかったのである。

その上、ドイツが侵略の対象とするチェコスロバキアの軍は16個師団、戦闘機600機と一見したところ戦力になるものの、予備将校の5分の1がドイツ人(ズデーテンラント居住者)なので期待することはできない。また、周辺国でもポーランドはドイツ側に付く可能性があり(不可侵条約締結済み)、ソ連のスターリンはドイツと事を構えたくなかった。そして、チェンバレンがミュンヘン会談前に各司令官に諮問したところ、ドイツ空軍を防ぐことができないと聞くに及んで、宥和政策を取らざるをえないと判断したのである。

しかし、翌1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻するに至って、チェンバレンは最後通牒を提示、9月3日に宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。

では、この時の戦力比はどうだったであろうか。

師団数 ドイツ80個師団  連合国90個師団
戦闘機 ドイツ3600機   連合国3700機(英1900機 仏1800機)

連合国軍の戦闘機は、英国ではハリケーンやスピリットファイヤーなど最新鋭機が数百機、仏国でも新鋭機が数百機配備されたという。

比率は地上軍 独:連合軍=1:1.16
     戦闘機 独:連合軍=1:1.31

以上のように、たった一年で英仏連合軍は飛躍的に軍備を増強して、ドイツ軍を凌駕していたのである。それを背景に満を持して、ドイツに宣戦布告できたといえるだろう。

このように見てみると、チェンバレンは、必ずしも弱腰だったわけではない。自己と相手の実力を冷静に計算した上で、その時々の判断をしたのである。だから、ミュンヘンの教訓を持ちだして、独裁国家、現状打破国家には無条件に強行手段を取らなければならない、と考えてはならない。あくまで実力の範囲内で、物事を判断しなければならない。そうした冷静な判断力を欠いてしまって、妥協しては相手に足元を見られる、強硬手段に出れば相手が押し黙る、と判断して失敗した国の子孫としては、そっちの方も忘れないでいて欲しいと考えてしまうのである。

2015年10月18日 (日)

点検読書14 中田整一編・解説『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』(講談社文庫、2010)

点検読書についてはこちら

①自伝

②真珠湾攻撃部隊を率いた海軍中佐の自叙伝と解説。

③誕生から海軍兵学校、海軍大学校を経て「赤城」の航空戦隊隊長、真珠湾攻撃、ミッドウェーでの負傷、敗戦、戦後のキリスト教への回心と伝道活動と晩年までの記録。

コメント
真珠湾攻撃についての陰謀論はいまだに聞かれるが、この自叙伝を読むと、たとえアメリカ側が日本政府を追い込み、日本政府や軍の動きを察知して、開戦の意思があることを把握していたとしても、その攻撃先が真珠湾であるとは考えなかったことがよく分かる。

当時の日本海軍の航空隊による魚雷攻撃可能の水深は60メートルだった。これは他の国の航空隊でも同じであろう。しかし真珠湾は海深12メートルであり、魚雷攻撃が可能であるとは考えなかったのである。その油断と淵田をはじめとする日本の航空隊の訓練によって、真珠湾攻撃は成功したのであって、アメリカ側が真珠湾に誘い込んだというのは無理な議論なのであった。

2015年10月 9日 (金)

点検読書4 ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』(文春文庫、1986)

点検読書についてはこちら

①歴史――第二次世界大戦

②日米開戦によって強制収容所に送られるなど苦境に立った日系アメリカ人たちは自ら激戦地に身を捧げることでアメリカへの忠誠をあかし、それがために戦後の豊かな日系人社会の基礎を築いた。

③日米開戦から日系人の苦境、出征、ヨーロッパ戦線での活躍を当事者への取材を通して描いている。

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