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日本政治史

2016年9月 5日 (月)

筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』

点検読書230

副題は、「二大政党制はなぜ挫折したのか」
ちくま新書(2012年10月10日)刊


日本政治史――昭和史


普通選挙導入を争点とした第二次護憲運動を機に成立した戦前日本の二大政党による政党政治は8年で終わりを告げ、軍部の台頭を許すこととなった。多くの人に期待された政党政治が信頼を失い、軍縮の時代を迎えるなど苦難を迎えていた軍部が急に支持されたのはなぜか。本書は、加藤高明護憲三派内閣から犬養毅政友会内閣までの各内閣の人事、政策、そして事件におけるマスメディア、宮中、軍部の役割に着目して歴史社会学的に論じていく。


六部構成

1:加藤高明護憲三派内閣と政党政治の確立(第1章)

2:第一次若槻禮次郎内閣と「劇場型政治」の開始(第2章)

3:田中義一内閣と宮中・非政党勢力の台頭(第3章)

4:濱口雄幸内閣とロンドン海軍軍縮条約(第4章)

5:第二次若槻禮次郎内閣と満洲事変(第5章)

6:犬養毅内閣と政党政治の終焉(第6章)

コメント
 1924年から1932年の8年間は、日本における本格的な政党政治の時代でした。帝国憲法ができてから、いやそれ以前の明治14年の政変頃の福澤諭吉以来、求められてきた二大政党による政権交代可能な政治というものが実現したのがこの時代でした。
 この時代があったからこそ、1945年7月に出されたポツダム宣言において「民主主義的傾向の復活強化」と書かれ、占領政策が間接統治になったとも言われております。現に、戦後の二番目の内閣は、この時代に活躍した外交官であった幣原喜重郎が首相をつとめていました。
 しかし、その時代はたったの8年で終わりを告げ、今度は極端な軍国主義体制へと転換しました。その原因は何か、というのが本書の述べるところです。
 まず第一の画期点は、加藤高明を引き継いだ第一次若槻禮次郎内閣で、解散総選挙ができなかったこと、です。もし、この憲政会単独内閣で、解散と勝利により衆議院に基礎を置く内閣の基盤を固めることができたら、政党政治を確立できたかもしれません。しかし、若槻には、その勇気がなかったのでした。若槻に言わせれば、朴烈怪写真事件や松島遊廓事件などのスキャンダルで追い詰められ、その状態で選挙となれば、負けてしまうかもしれないと心配したこと、さらに選挙よりも話し合いで予算案と震災手形関連法案を優先させた方がよい、ということだったそうです。本書では、若槻内閣を「大蔵省的」と評していますが、大蔵次官出身の若槻は、官僚が政治家になったの典型的人物でしょう。官僚は、予算・法案の成立こそが第一であるが、責任を取りたくないという体質があります。また、世論の動向に無頓着です。朴烈事件のように、現在から見て「大した問題ではない」と思ってしまうようなものも、当時においては大逆事件を企てた人物を司法当局が優遇したことは大問題だったにも関わらず、「詰らん問題」と捉えて、普通選挙導入後の大衆政治にまったく疎かったといえます。
 この怪写真事件と大衆政治の問題につき、上杉慎吉の指摘を引用していますが、なかなか鋭いものです(97頁)。

複雑なる政策問題では民衆的騒擾は起るものではない。政府が皇室を蔑ろにしたと云う簡単なる合言葉は耳から耳に容易に伝わり伝わる毎に人の感情を激するの度を増すものである」(上杉慎吉「朴烈問題解散及現内閣の身体に関する意見」『牧野伸顕関係文書』書類の部)

 今日だとどうでしょうか。「平和」「民主主義」か、また大きい影響力を持つのは「改革」でしょうか。若槻には、こうした大衆感情というものへの共感がまったくないのでした。そうした官僚政治家を二回もトップに据えざる得ないのが、憲政会とその後継の民政党の問題であったといえるでしょう。
 しかし意外だったのが、現在において評価の低い若槻ですが、首相就任時には、首相就任に反対の声がなく、原敬につぐ二人目の「平民宰相」とされて伝記が二冊も刊行され、政治評論家の馬場恒吾が「原敬氏と匹敵すべき力量、手腕、性行」(『政界人物風景』、331頁)と評していたそうです
(53頁)。こうした過大な期待が、現実にぶつかると大きな失望にぶつかるということは、我々の時代は民主党政権で経験済みなのでよく分かります。

 政党政治失敗の第二の点は、議会もしくは政党外勢力を自ら引き込む悪手をあえてしていた、ということです。田中義一内閣の際には、野党の民政党(憲政会)は、水野錬太郎文相が辞任を天皇に申し出たものの慰留されたので留任したということを発言してしまった「優諚」問題で天皇の政治利用を突き、また不戦条約における「人民の名において」という文言を問題視して攻撃し、張作霖爆殺事件においても議会勢力が言論や選挙ではなく、宮中の力によって内閣を倒してしまいました。
 また、濱口内閣では、濱口らは天皇や宮中、マスメディアを味方につけることでロンドン海軍軍縮条約締結を実現させ、一方の野党の政友会の鳩山一郎は統帥権干犯を論難して内閣の権限を制限しようとしましたし、第二次若槻内閣の頃には、鳩山一郎や森恪らの主流派が、今村均陸軍作戦課長・永田鉄山軍事課長・東條英機編成動員課長らと懇談して、陸軍と協力した倒閣運動を試みていました。先の統帥権干犯問題とともに鳩山一郎が、軍の台頭に寄与した役割は大きいといえます。

 こうした政党政治家そのものの問題とともに、著者は二大政党というものは政権を争っているのだから、「選挙で当選するために、また反対党との競争に勝つために政党が様々な方策を用いるのは当然のことであり、そのことにできるだけ寛容でなければ政党政治は維持できない」(285頁)と日本のメデイアと有権者の政治的未成熟を指摘しています。こうした政党の動きを「党利党略」として否定し去ってしまうと、既成政党への不信感が高まり、官僚・軍部・天皇・新体制などの「第三極」への期待が高まってしまう、と警鐘を鳴らします。
 本書が書かれたのは、2012年の半ばぐらいですから、たしかにこの時期、民主党政権への失望感と谷垣自民党への不安感があって、橋下徹氏が率いる大阪維新の会が日本維新の会へと国政進出を展開していた時期でした。二大政党への不信感から「第三極」への期待が高まっていた時期に書かれていたのでした。当時の大阪維新の会が、危険だったかどうかは好き嫌いがあるところですが、政治経験が少なく、政党組織も未成熟な政党が中心となって内閣を率いるというのは、結局のところ、風まかせのポピュリズムに陥ってしまいますから、民主党政権以上の混乱があったかもしれません。
 まさかその後、石原慎太郎氏が合流して支持率を一気に低下させて、自民党は安倍晋三氏が総裁に返り咲いて、新しい経済政策を主張するようになるとは、誰も予想できませんでした。今では、既成政党の復活劇があったので、こうした戦前の政党政治の失敗というのは流行らなくなったかもしれませんが、当時においては良い視点だったのではないか、と思いますし、経済政策などへの言及が少ない点などに不満はありますが、図式が分かりやすく、良い本に思えました。

評価 ☆☆

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2016年8月31日 (水)

塩田潮『戦後政治の謎』

点検読書227

副題は、「自民分裂を予感させる「30の真実」」
講談社+α新書(2008年9月20日)刊


日本政治


鳩山一郎の日本自由党結成から福田康夫の突然の辞任会見までの自民党を中心とした戦後政治を描き出す。そこから見えてきたのは、政治的統合が欠如し、首相のリーダーシップが発揮できない分権的な政党システムであり、そうした旧態依然たる自民党の時代が終わり、野党転落も含めた分裂、再編、再出発は不可避である。


4部構成

1:日本自由党結成から自民党結成まで(一~三)

2:岸信介から中曽根康弘の自民党全盛期(四~十四)

3:リクルート事件から非自民連立政権成立まで(十五~二十)

4:自社さ政権から二大政党の時代へ(二十一~三十)

コメント
 本書が描く戦後政治史というか、自民党史は分権的な派閥の連合政権に基いて成立していたがために、常に足の引っ張り合いの陰謀が渦巻き、首相がリーダーシップを取れない、というものでした。つまり、首相の功績が、自分たちの政党の全体の功績と感じられずに、首相の出身派閥の功績となり、また自分たちの親分の首相への道のりが遠くなると感じさせるために、あまり成果を挙げさせないようにする、というのが当然であったわけです。
 それを変えるために、同じ政党同士が競い合う中選挙区制から当選者が一人の小選挙区制に変えることで、政党の統一感を強化したのでした。そのためでしょう。例えば、小選挙区制実施後の政権である橋本龍太郎内閣は、行政改革を成し遂げましたし、弱体とされた小渕恵三内閣ですら、日米防衛協力のためのガイドライン法、憲法調査会設置法、国旗・国歌法、通信傍受法を含む組織的犯罪対策法、改正住民基本台帳法などの法案を通しました。これらは、かつてだったら一つの内閣が一法案通せたぐらいの重要法案とされ、まかり間違えば内閣が吹っ飛ぶとされたような法案だったそうです。しかし、それを弱体とされた小渕内閣が通せたのです
 考えてみれば、当時の政治番組などでは、野中広務官房長官のちに幹事長の専制と非主流派から呼ばれていた時代で、かつての自民党はもっと自由だった、と非主流派の意をうけた政治評論家たちが述べていました。それが変わったのです。
 しかし、そうした新しい流れは小渕首相の下の野中広務氏や小泉純一郎首相など強力なリーダーシップを発揮できる人物がいないと実現できないという属人的なもので、自民党はそれに対応できていない。そのように、この2008年段階には思われて、政界再編か野党転落は免れないというのが、著者の見立てでした。そして、それは正しかったのですが、その次の民主党も寄せ集めの選挙互助会という自民党的な体質を残しており、同じように政治的統合の弱さによって崩壊の道をたどったのでした。そもそも自民党の分裂によってできた政党だけに、そうした分裂、陰謀、足の引っ張り合いという遺伝子を残していたのかもしれません。それが解消したのが、「安倍一強」といわれる現在の自民党なのでしょう。

つづく

評価 ☆☆

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2016年8月18日 (木)

成沢光『政治のことば』

点検読書218

副題は「意味の歴史をめぐって」
講談社学術文庫(2012年8月9日)刊
原著は、平凡社(1984年)


政治学――日本政治思想史


日本史の中の基本的な語を選んで、それらが文献に現れた用法上、どのような特質をもっているか、他の語との意味連関や語義の異動および、それらの変化を手がかりとして日本における政治意識の諸側面を歴史的に明らかにする。


四部構成

1:古代政治のことば。

2:古代・中世の国際関係のことば。

3:近世都市社会のことば。

4:近代政治の権利と統治。

コメント
 本書は、タイトルが「政治の言葉」ではなく、「政治のことば」とあるように、日本語=和語に注目して、日本における政治的語彙の特質を明らかにしています。
 例えば、「ヲサム」という言葉は、あるべき静態的秩序を前提として、ある対象をあるべき場所へ落ち着かせることを意味している、と指摘されています。亡骸を墓にヲサメるし、収穫物を蔵へヲサメるのです。そして、政治秩序においても、君主が土地・人民をヲサメるのであるし、人民は税をヲサメるのです。
 最後の例で見られるように、日本の支配―従属関係において、モノ、コトバ、行為が授受される時、支配者の行為と被支配者の行為とに共通の言葉が用いられているように、両者は依存関係にあることが分かります。同じことばの互酬関係によって、両者の関係が成立しているのです。一方的に、治めるのでなければ、納めるわけでもないのです。これは、いわゆる君民共治の国柄を表しているといえますが、逆に言うと責任主体の曖昧化がことばの上でも表れているといえるでしょう。
 こうした日本の政治構造を特徴づけるものとして、「マツリゴト」があります。この「マツリゴト」は、「祭事」と「政事」とで同じ漢字を当てることで祭政一致というような考えが出ていますが、本書を読むとどうもそうとも言えないようです。というのも、天皇は「マツリゴト」=「政」ということばの主体ではあるのですが、律令制以後において実際に執行する「マツリゴトヒト」は三等官以下の判官を意味することばであったといいます。そして、古代において「マツリゴト」ということばが当てられた漢字に「機」ということばがあり、これは「ハカリゴト」とも当てられています。この「機」=「マツリゴト」=「ハカリゴト」の場合は、君主の側近くで「謀」を司る者という意味合いがもたれるのです。
 こうなると「マツリゴト」も、天皇が主体でありつつ、天皇のために「ハカリゴト」をする側近が主体である「マツリゴト」でもあり、人民への直接支配と天皇のための「奉仕」を意味する「マツリゴト」をする下級役人が主体でもあります。そしてまた、天皇自身も領土・人民に対して「マツリゴト」すると同時に、神に対して「マツリゴト」=「祭祀」を行ってもいます。こうなると、先ほどの「ヲサム」が、互酬関係にあるのと同じで、その責任主体が曖昧です。
 天皇は全体を治めているようで、その方策を立てるのは側近で、実際に行なうのは下級役人です。何か問題が起きた時に、天皇は、臣下の進言を受け入れただけだし、側近は提案しただけだし、下級役人は実行しただけです。そして、そうした行為のすべてを同じことばで表すことで、行為主体を曖昧にする。いかにも日本の政治構造らしい姿が、ことばの上でも確認できたというわけです。
 本書はまた、「権利」ということばの「権」には「イキホヒ」という「力」というかエネルギーのようなものイメージさせる用法があったそうです。そのために、西洋語のrightなどにあった「正義」というような意味合いが抜け落ちてしまって、自らの自由・身体・財産等を守り、またそれを行なう基盤となるようなもの、「力」の印象が強くなってしまったというのです。そのために、権利には、好き放題行なうという印象が強くなり、それを抑制する義務が伴うべき、という考えが定着してしまったという指摘は、興味深いものです。果たして、西洋語のrightの方に、自らの生命を含む所有物を守る能力とともに、わざわざ義務を言うまでもなく、その適切な使用が含まれているか、分かりかねますが、知識として持っていた方が良いもののように思います。
 本書は、以上のように、ことばというものが我々のものの見方に影響を与えているという考えのもとに、日本における政治意識の原点をことばのうちに探りだすという、興味深い内容になっています。本書を読むことによって、一段深い政治への見方ができるかもしれません。

評価 ☆☆☆☆

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2016年5月19日 (木)

『細川護貞座談』

点検読書194

細川護貞 聞き手 光岡明・内田健三
副題は「文と美と政治と」
中公文庫(1990年)刊

原著は『細川護貞座談』(中央公論社、1986年7月)


日本史


室町以来の細川家十七代当主にして、近衛文麿の女婿で秘書官、細川護煕元首相の父親という著者が、狩野直喜に教えを受けた文の世界、父・護立に誘われた美の世界、岳父・近衛文麿に導かれた政治の世界を虚心坦懐に語る。


三部構成

1:漢学の素養を語る文の世界(愛一部)

2:細川幽斎以来の文化・芸術の大名家の歴史を語る美の世界(第二部)

3:戦時下の史料『細川日記』の裏話と人物論の政治の世界(第三部)

コメント
 一月前の熊本地震の犠牲者の中に、東海大学の農学部の学生がいたことに、神奈川県出身で小田急線に「東海大学前」という駅を知っていた身としては驚いてしまいました。そんなところにも東海大学あるのか、でもなぜに熊本の阿蘇になんかあるんだろうか、と。
 熊本藩主細川家十七代当主の著者の熊本出身の政治家評の中に松前重義が登場します。松前は、逓信省の官僚であったが、後に反東條英機の動きに参加するようになり、フィリピンのマニラに勅任官にも関わらず二等兵として派遣され、復員後、学校を創設した。それが、現在の東海大学になりました。つまり、東海大学の阿蘇キャンパスというのは、松前の故郷に錦を飾った象徴的な施設だったのでした。これなら納得です。

 本書は、熊本藩主細川家の子孫であり、近衛文麿の女婿で秘書官であり、反東條運動の動きを活写した『細川日記』の著者が、文と美と政治について縦横無尽に語った作品です。

 文の世界では、著者が学んだ京都大学の教養主義的な雰囲気が語られます。また、京都大学人脈で語られるエピソードが面白い。昭和十九年の初夏に、西田幾多郎、佐々木惣一、狩野直喜が集まって会食していた際に、当時、大日本言論報国会の会長として権勢を誇った徳富蘇峰の話題に及ぶと、佐々木惣一が「蘇峰の主張は時勢とともに移り変わるような気がしますが、彼の本質はなんでしょうか」と尋ねると、腕を組んで座っていた西田幾多郎が「それは変わるということだ」と力強く答えて、一座は微笑をもって迎えた、という話(33~34頁)。まさに蘇峰の本質をズバリと言い当てていて興味深いし、苦々しく思われていた雰囲気が伝わります。

 美の世界では、主に細川家について語られるわけですが、なぜ細川忠興が豊臣を裏切って徳川についたかのエピソードとして、秀次事件に連座して、忠興が秀次から三百両の金を借りていて、その使いみちが問題となって秀吉から忠興は切腹を命じられそうになったそうです。問題は、使いみちなので三百両をすぐに用意して返金すれば、事なきを得ます。その時、細川家の重臣・松井康之が徳川家康に借金を申し出て、家康はすぐさま貸すのではなく、上げることにして忠興は事なきを得て、恩を着せた、という話が、後の関ヶ原の戦いでの忠興の動きにつながったというのです(122~123頁)。
 また、千利休について。もともとお茶は、大勢集まった宴会で飲まれるもので、その場では唐物などの品評会なども行われて、目利きには賞金が出るというものだったから、金はかかるし鑑賞眼が試されるというものだったそうです。そこに飽きたらなさを感じてわび茶などを考えだしたのが紹鷗や利休でした。そして、さらに利休のこの小規模での茶会という発想と信長の茶会出席は特権であるという考えが結びついて、この時代の茶道が成立したのですが、秀吉は誰でも参加できる、そして派手な茶会を催すようになります。そうすると、秀吉と利休の間の方向性の違いが出て、対立し始めます。また、朝鮮出兵によって、博多商人との関係を重視し始めた石田三成からすると堺商人の利休が権力を持つことは政策上、好ましくありません。その上、利休は家康とも関係が良好でしたので、そうしたことが重なって、殺されたのではないか。そうした推測が出ております(117~121頁)。ホントの話かどうかは、分かりませんが、細川家の当主という権威からの発言で、何となく説得力があります。

 最後の政治の世界は、戦時下から終戦後までの期間を語ったものです。
 よく終戦の聖断ができたのなら開戦断念の聖断も出せたのではないか、という疑問について言われますが、著者に言わせると、第一にそうした方法があるということを近衛文麿が気づかなかったという点、そして、当時の国民が開戦に必ずしも反対でなかったから聖断による断念は不可能であったろう、というのです(166~167頁)。
 たしかにこれは考えられると思います。やはり我々は、結果から歴史を見てしまっているようです。2・26事件の例が出されますが、政府が機能停止状態という異常事態であるから、天皇が意思を表明したのであって、開戦時は政府はあり、重臣たちも意見を言える状態でした。そうした状態で、天皇が自分の意思を強行することはできません。そして、首相が天皇の意思に委ねるという方法は、それ以前にはなかったわけですから、これは鈴木貫太郎首相の発想が優れていただけで、それ以前には思いもよらぬものだったのでしょう。また、あの戦争は敗北したから、国民も戦争を回避したかっただろう、と考えてしまいますが、それまで勝てるわけのない清国・ロシアと戦って勝ってきてしまったのですから、国民からすると相手が大国だから戦争しないという選択肢はあまり重視されなかったのかもしれません。そうした点から考えると、この聖断による戦争回避というのは、あまり現実味がなく、別の要因について考察した方が価値があるように思います。
 また近衛文麿と松岡洋右のエピソードも興味深いです。
 近衛文麿は、とくかく頭脳明晰で国民人気も高い人物でした。漢学者が書いた難しい漢字ばかりの詔書草稿を下読みもせずに朗読し、読み終わった後に、少し読みにくい字があったから、別の読みに変えておいた、と即座に文意を変えずに別の言葉を差し替えることもできるほど、高い教養を持っていたそうです。
 そんな近衛ですが、開戦間際の時期、実は彼は痔疾を患っていたそうです。いまで言う痔クッションというドーナツ形の座布団がないと座れないほどであったそうで、車に乗車中に急ブレーキで痔に痛みが走ると温厚な近衛が大声で叱りつけたといいます。つまり、この時期、近衛はその痛みによって正常な判断はできないし、政治に集中することができない状態であった、というのです。そんな時に、重大な決断が迫られていたのですから、困ったものです。著者によれば、首相辞任の頃に受けた痔の手術をしてから人が変わったようになった、といいます。もし痔疾がなければ、戦争を避ける努力をもう少しできたのではないか、と著者は言いますが、これはどうなのでしょう。この方の問題は、それ以前の1937年の首相時の判断からあったわけで、近衛が優れていたのは責任のない裏方にある時だけで何か責任を持たされるようなことは痔があろうがなかろうができなかったのではないでしょうか。著者は、近衛は勇気がないと言われるがそんなことはない、戦争末期には潜水艦にのってイギリスに行って和平交渉をしようとしたのだから、といっていますが(214頁)、現に行かなかったわけですし、蒋介石との首脳会談もルーズベルトとの首脳会談もスターリンとの首脳会談も話だけはあるものの、いずれも行ってはいないのですから、やはり近衛を評価するのは難しいわけです。
 頭脳明晰で教養があって、家柄もよく、人気も高く、見た目も良かったわけですが、そういう人が政治家として有能かといえば、そうではない、ということの典型ではないかな、と思います。やはり、政治家としての評価の判断基準は、政策にあるんだと思います。政策を基準にして行動してくれれば、国民としては、恩恵の受け方も分かりやすいし、責任の追求もやりやすいです。
 そして、松岡洋右。著者に言わせると彼は外務大臣として1941年の独伊歴訪の時点で、精神異常を発していたというのです。というのも、シベリア鉄道で移動中、秘書官が大臣のところへ行って話をして、ケリが付いて別の秘書官が入っても、そのまま話を続けていたというのです。秘書官たちも困ったそうですが、シベリア鉄道に乗っている間中、ずっとしゃべり通しだったというのです。また、著者自身も松岡に書類を持っていた際にも、ずっとしゃべり通しで困っていると、秘書官が「細川さんが来てます」と話しかけると、「あ、そう」と著者が来ていることに気づいていなかったようなのです。そうした異常な状態の人物が、大臣の職にあり、独伊を歴訪し、スターリンと会談して日ソ中立条約を結んでいるわけですから、スターリンにいいように操られていても、おかしくはないわけです(223~224頁)。昭和天皇も松岡には異常性を感じていたようですが、大臣在任中のそうした言動に何か察していたのかもしれません。まぁ、こういう人物を大臣として辞めさせるのに内閣総辞職をしなければならない、というのも、やはりあの帝国は異常な国であったのだ、と言えそうです。正常な判断ができなくなっていた。そういう国であったようです。
 こうした面白エピソード満載な座談で、いろいろな想像が広がります。しかし、こうした古い教養人たちは、常に中国の古典が読まれなくなったことを嘆いていますが、そうした古典教養に深い人物たちで構成されていた政府がまともな判断をできず、一度国を滅ぼしていることに何の反省もないというのに驚かされます。漢学の素養は、あった方がいいと思います。しかし、それと政治家としての評価は別でしょう。そもそも漢学の素養を試されて政権の中枢に入るというシステムを持っていた中国の歴代王朝がどうであったかを考えれば、その結果は知れるでしょう。近年も漢学の素養が高い野党党首がいましたが、特に彼を評価する人はいないでしょう。ですから、漢学礼賛もほどほどに、といったところでしょうか。

評価 ☆☆☆

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2016年5月12日 (木)

幣原喜重郎『外交五十年』

点検読書189

中公文庫(1987年)刊。
原著は『外交五十年』(読売新聞社、1951年4月)。


自伝


大正・昭和期に外務大臣・総理大臣として活躍した外交官・幣原喜重郎の口述による回想録。昭和25年9月5日から11月14日にかけて61回にわたって『読売新聞』に掲載された日露戦争から首相拝命までの回顧とエッセイが収録されている。初めて「幣原外交」と個人名を冠された外交とは何であったのか。本人の証言により、再構成される。


二部構成

1:日露戦争から首相拝命までの回顧録
  ・日露戦争をめぐる日米・日露関係
  ・排日移民法をめぐる日米関係
  ・政党内閣時代の大陸政策・対米英協調外交=「幣原外交」時代
  ・政党内閣崩壊後の回顧
  ・首相拝命

2:人物・時代についてのエッセイ
  ・外務省入省のいきさつ
  ・イギリスについて
  ・元老・重臣たちの回顧
  ・中国・朝鮮について
  ・アメリカについて

コメント
 「幣原外交」で有名な幣原喜重郎の回顧録。一読驚いたのは、読みやすいことでした。一つ一つの見出しに起承転結がしっかりしている。すべてを通して読まなくても、一つの見出しをそれだけ読んでも十分楽しめるエッセイになっているのです。幣原って、そんな文才があったのか、と思ったのですが、解説を見て合点がいきました。これは口述筆記であり、しかも各見出しごとに毎日、新聞で連載されていたものなんですね。新聞は、連載といえども毎日読むわけではありませんから、各回で一つの話になっていなければ、読む方としては気分が悪いです。そのため、本書の一つ一つのエピソードが連続した話にもかかわらず、各見出しごとで完結した話になっているのです。当時の読売新聞の編集の技量というものを感じられる本です。
 と、内容よりも編集の見事さばかりに目がいってしまったのですが、内容に関しては、面白いのですが、どうも軽妙に語りすぎていて、かえって真実味が薄れてくるようにも感じてしまいました。
 例えば、ポーツマス条約を締結し、世論による囂々たる非難を浴びて帰国した小村寿太郎を新橋駅で迎えて、小村の両脇に立って、もしもの時の護衛をなった人物は誰だったのか。本書では、桂太郎首相と山本権兵衛海相となっています(31頁)。幣原自身が見たと言っているのですから、それが正しいのでしょうが、一方で伊藤博文と山縣有朋ががその役割を果たしたという見方もあるようです(Wikipedia)。ちなみに小村の秘書官であった本多熊太郎の小村についての評伝『魂の外交』(千倉書房、1941年)によりますと、新橋駅のプラットフォームで小村を囲んだのは、桂首相、山本海相に加えて、寺内正毅陸相の三人で取り囲んだそうです(231頁)。これは、1935年4月に記述したものらしいのですが、一体本当のところはどうなのでしょうか。
 また、1927年の南京事件につき、幣原外相が日本の砲艦に発砲をを禁じる訓令を出したが、事実誤認で、居留民たちがシベリア出兵時のニコラエフスク事件を想起して、抵抗をやめてくれ、と嘆願したことにあったとこを指摘しています(116頁)。これは、どうやら確からしいのですが、日本人居留民が略奪にあったことは認めているものの、その被害については「幸い殺害を免れた」として、ずいぶんクールなのです。本人もこれらの対応で、自身に怒りが集中したことを認めているものの、こうした大衆感情を考慮しない官僚的な行動が、後の強硬路線を生んだということへの、反省の色は見えません。エリート外交官てのは、こうしたものなのだろうな、という気がします。
 それが現れているのが、エッセイに含まれたサー・エドワード・グレーのエピソードです。1915年、メキシコに油田を持っていたベントンという経営者が、メキシコ人の利権回復運動の暴発により殺害されてしまいました。イギリスとしては、居留民保護を目的に軍艦の派遣を決めたのだが、南北アメリカの不干渉主義=モンロー主義をとるアメリカ合衆国から待ったがかかりました。イギリスとしては、英艦派遣はしないが代わりにアメリカが英人保護に責任をもってくれ、と依頼したところ、そんな責任はアメリカにはない、と突っぱねられました。そこで、アメリカはケシカランという話になります。
 イギリス議会で、それが取り上げられます。質問者は、外相グレーに、メキシコの事件について事実関係を問いただします。外相は、それがあったことを当然に認めます。そこで質問者が、なにか行動を取るのか、と質問すると、外相は「何の手段も取りません」と答えたというのです。
 日本の外交官としては、大変なことをいったと思っていたのですが、翌日の新聞各紙はグレーの答弁を賞賛しています。これはどうしたものか、とイギリス人記者に聞いてみると、イギリスが強硬に軍艦を派遣して、アメリカと関係を悪くして戦争でも起こったら大変だ、騒ぐだけ無駄だしイギリスの国威を失墜させるから黙っていた方がいい、という認識だから、だというのです。
 それに対する幣原の感想としては、以下のとおり。

「イギリスの一般国民が、いかに外交上の問題について常識をもっているかということは、この一例でも判るが、それは日本なんかでは想像も出来ない。イギリスの外交官が国際場裡で光っているのは、一般国民にこの常識があって、大局を見ており、これを押して行けばどうなるかと先を見る。そうすれば余計な喧嘩をしてはつまらんという気になる。その見限りの早いことは驚くべきものがある。このイギリス人の常識ということを考えると、そういう国民ならば、外務大臣はどんなに仕事がやり易いだろう。私らがそんな答弁をやっていたら、もうニ、三度は殺されていたろうと思うと、この点は羨まずにはいられない。」(256~257頁)

 ここで幣原が言っている「余計な喧嘩はつまらん」と感じるイギリス人の「常識」というものは、たしかに羨ましいし、そうした強さが高貴さを我々も持ちたいとも思います。しかし、幣原は、こうした立派なイギリスの一般国民に対して、感情的で幼稚な精神風土の日本国民という差を見ているだけで、同情心がないんですね。国民に責任を持たない外交官ならば、そうしたクールな心で外交を舵取りしてほしいものですが、彼は大臣として国民に責任ある立場として活躍した者なのだから、幼稚な国民を軽蔑していいるだけではなく、そうした幼稚さを勘案しつつ、外交をやってもらわないと、どこかで反動が来てしまうようなきがするんですよね。そこが幣原に欠けていたところではないか。そんな気がするのです。
 もっとも、このエピソードの次にある政治家と新聞記者のついてのコメントは、現在も頷くところが多いです。

「今言ったように、イギリスの議会では議員が質問しても、否定の場合には「ノー」と答弁すればそれで済むが、日本の議会では、「そんなことがあるものか」とか、「なぜここで話せないのか」とかいって食い下がる。あるいは食い付いて離れない。新聞記者の態度も全くこれと同じで、外国の記者は、こちらが「ノー」といえばそれきりであるが、日本の記者となると、四方八方から突っ込んで、どうしても泥を吐かせようとする。それが泥がなくてもである。」(257頁)

 先日のTPPの特別委員会をめぐる騒動もそうでしたが、日本の議会も記者の態度は100年たっても変わらないようです。こちらは、大衆の感情の問題とは異なり、自分たちがエリートなのだという自覚の無さが原因となっているような気がしますので、どうにかしてもらいたいな、と思った次第です。
 読んでみて損はないように思えます。ただ憲法9条幣原発案説(218~222頁)に関しては、マユツバで読まなければならないようです。ただ、幣原としては、「国民の一致協力」という国家は成り立たないと考え、自身の発案という神話をつくりだして、戦後日本というものを安定させようとしたのではないか。そんなふうに思えます。必要な嘘だったといえるでしょう。またここに大衆をバカにしているところがあるような気もしますが。

評価 ☆☆☆

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2016年4月27日 (水)

『岡田啓介回顧録』と第19回総選挙

承前

 天皇機関説事件は、民間においては蓑田胸喜ら原理日本社、貴族院においては菊池武夫ら旧軍人が批判の急先鋒でしたが、衆議院における批判者は当時議会多数派でありながら野党に転じていた立憲政友会でした。政友会は、第二次若槻禮次郎内閣の後を襲った犬養毅内閣下の総選挙で景気対策を訴えて地滑り 的な勝利を得ました(466議席中301議席)。しかし、周知の通り、1932年5月15日に犬養首相が海軍将校に射殺されて、政党内閣は終焉します。それを引き継いだのは、斎藤實内閣だったのですが、この内閣は政友会・民政党という二大政党から大臣を出す挙国一致内閣だったのでした。
 しかし、政友会としては、おさまりがききません。本来なら首相が急死した場合、同じ政党から後継首相が出るべきです。原敬内閣後の高橋是清内閣、加藤高明内閣後の若槻禮次郎内閣、濱口雄幸内閣後の第二次若槻禮次郎内閣しかりです。それにもかかわらず、犬養後継は、政友会の新総裁・鈴木喜三郎ではなく、海軍大将の斎藤實になってしまいました。そこに不満があります。
 斎藤内閣までは何とか協力しようとしう姿勢は見せたものの、斎藤内閣後が再び海軍大将の岡田であったのです。これでは、納得ができません。政友会は野党に転じ(入閣した床次竹二郎、山崎達之輔、内田信也は除名)、岡田内閣を倒閣して政権奪取を狙っていたのでした。天皇機関説事件がこじれてしまったのも、この倒閣・政権奪取のためなら何でもやるという意欲が先走ってしまったためであると思われます
 そうした情勢の中で、満を持して、総選挙となりました。結果は、与党である民政党が第一党(205議席)、政友会が175議席と激減、そして7議席から22議席へと約3倍に躍進したのが社会大衆党など無産政党でした。とりわけ社会大衆党は1党で18議席と存在感を見せております。
 これにより政党内閣復活の目が出てきました。というのも、元老の西園寺公望は、普通選挙法施行後の初めての総選挙で、内相として「天皇中心主義」を掲げて、野党・民政党の「議会中心主義」を攻撃した鈴木喜三郎政友会総裁を首相にふさわしいと考えていませんでした。その鈴木がこの第19回総選挙で落選しました。また、第一党となった民政党は、前総裁の若槻禮次郎が元首相として重臣の列に加わっており、次期首相選出において有利な位置にありました。岡田が退陣を決断すれば、政党内閣復活は目前だったのです。
 しかもです。本書の証言によれば、総選挙にあたり、岡田は興津の西園寺を訪ね、住友から100万円の援助を受けるよう助言され、受け取っています。そのカネの使いみちですが、内閣書記官長の迫水久常の「これからの日本では健全な無産政党を発達させる必要があるので、その方面へいささか援助しては」と進言され、岡田は民政党が与党だから表立ってはできないが、任せると言って、迫水から社会大衆党の書記長の麻生久に資金が提供されたというのです(152頁)。そして、この選挙での社会大衆党躍進につながったのでした。
 このように考えると、当時のエリート層は、岡田内閣後に、町田忠治民政党と麻生久社会大衆党の連立内閣を考えていたフシがあったのです。
 この幻の内閣が、果たしてどのような役割を果たしたかは分かりません。民政党というのは、昭和恐慌を引き起こした悪しき緊縮財政の傾向がありました。もっとも、緊縮財政の権化・濱口雄幸は死亡し、井上準之助も暗殺されていましたし、斎藤・岡田と続く高橋是清の財政政策を与党として支持していたのですから、心配はないのかもしれません。その上、この時期には、高橋蔵相も緊縮に向かい始めたように、インフレが懸念される事態にありましたので、緊縮派の民政党の内閣がふさわしかったといえます。民政党の対軍の緊縮路線と社大党の社会福祉路線が合致して、予算内の軍事費が社会保障費に切り替われば、一気に1970年代まで政治が変わったともいえます。
 しかし、この期待をぶち壊したのが、2・26事件でした。そして、この後継内閣の廣田弘毅内閣で、軍部大臣現役武官制が復活するに及んで、政党内閣がほぼ困難となります。1937年4月30日の第20回総選挙で社大党が躍進しているので、民主主義的展望がまだあった、7月7日の盧溝橋事件さえなければ、という考えもありますが、廣田後の宇垣流産内閣や米内光政内閣の結果を見れば、現役武官制によって、政党内閣はさらに不可能になっていたことは明らかでしょう。そう考えると、2・26事件による軍の影響力増大と廣田弘毅内閣の成立は、ターニングポイントであったといえます。
 天皇機関説事件と2・26事件という二つのエポックが発生してしまったのが、岡田啓介内閣であり、またそれは戦前期における自由主義復活の最後の機会をリベラル派の海軍大将の首相が担っていたんですが、それは不幸にして、また優柔不断な決断によって、なくなってしまった。本書は、どうも当事者意識の低いリベラル派軍人の回顧録でした。

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2016年4月26日 (火)

『岡田啓介回顧録』と天皇機関説

点検読書180

中公文庫(1987年4月)刊。
原著は、岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社、1977年12月)。


自伝


海軍大将から天皇機関説事件、2・26事件時の首相となった岡田啓介の自伝。生い立ちから大正・昭和期の政治史を中心に淡々と述べられ、2・26事件の詳しい回顧と重臣として東條内閣倒閣に尽力したことを中心に語られる。付録として、ロンドン海軍軍縮会議時の日記も収録。


五部構成

1:生い立ちから海軍将校時代。

2:陸軍の大陸進出とロンドン海軍軍縮会議など昭和期の政軍関係。

3:組閣から2・26事件まで。

4:東條内閣倒閣運動など重臣としての活動。

5:付録としてロンドン海軍軍縮会議時の日記。

コメント
 昭和期の転換点の二つが、この著者の内閣時代に起きています。
 天皇機関説事件と2・26事件です。
 前者は、これまで大日本帝国憲法下で慣行とされてきた内閣中心の政治、すなわち統治権は天皇が持つものの、統治の責任は内閣が持つというもの責任内閣政治を理論づけた美濃部達吉の天皇機関説を内閣が公式に「国体明徴声明」として否定したものでした。
 一般的に美濃部の天皇機関説が、政党内閣を理論づけたと言われますが、それは美濃部理論の応用であって、もっとも重要な点は帝国憲法に規定のない「内閣」を統治の中心として理論的に位置づけたことにあります。つまりは、帝国憲法第五十五条第二項の法律・勅令・詔勅の副署についての拒否権を大臣に認めることで、天皇の意志よりも大臣の意志を優先させ、政治の責任を明確にすることと、『憲法義解』における第五十五条解釈の「国ノ内外ノ大事」についての連帯責任、内閣官制第五条の閣議の必要ということから、内閣が政治の中心であることを理論づけたのでした。政党内閣は、もし連帯責任があるなら、同じ意見を持ったものが内閣を組織した方が効率が良いというもので、内閣中心政治の運用が効率的に行われるために必要だ、という論理でした。
 この内閣中心の政治理論であった天皇機関説が否定されたことは、ロンドン海軍軍縮問題で発生した統帥権干犯という発想の根拠、陸軍参謀本部や海軍軍令部といった天皇直属の統帥部へのコントロールが効かなくなるということを意味していました。つまり、天皇機関説を葬り去ることで、内閣の統治責任が否定され、天皇の意志=統帥部の意志を拒否できるものがいなくなることになります。
 天皇機関説の肝は、憲法第五十五条の副署拒否権のように内閣の統治責任が明確であるところにあったのですが、これが否定されると、天皇の意志(=軍)をコントロールすることができなくなりますし、天皇は君主無答責の原則で責任を取りませんので(天皇の意思を利用した軍も責任がない)、無責任体制が完成します。これにより、戦争の歯止めはなくなります。成功すれば金鶏勲章を得て多額の年金が貰える(参照)上、失敗しても天皇直属の機関としての統帥部の失敗=君主無答責の原則で責任を問われない。とすれば、戦争することが軍人にとって合理的でした。これでは、軍が戦争を起こそうとするのも当然となります(原田泰『日本国の原則』を参照)。
 天皇機関説事件とは、このように明治国家の性格をガラリと変えてしまったものでした。岡田は、その時の首相であり、本人自身は美濃部学説を否定するものではなかったのですが、言質をとられるのを恐れ、天皇機関説を否定してしまい、「国体明徴声明」を出さざるをえないところに追い込まれます。
 その上、2・26事件が起きます。ここで言及したいのは、2・26事件そのものよりも、その数日前の1936年2月20日にあった第19回衆議院議員総選挙です(つづく)。

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2016年4月22日 (金)

小原直『小原直回顧録』

点検読書177

中公文庫(1986年)刊(原著は、小原直回顧録編纂会〔1966年〕刊)。


自伝


司法官僚として、大逆事件、シーメンス事件、朴烈事件、帝人事件などの重要事件に関わり、天皇機関説事件や二・二六事件時の司法大臣であった著者の自伝。


四部構成

1:生まれと育ち。

2:司法官僚として向き合った事件(日糖、大逆、シーメンス、大浦兼武、朴烈、帝人の各事件)。

3:司法大臣として入閣(天皇機関説事件、二・二六事件など)。

4:司法制度についての論評。

コメント
 小原直1877~1967)の自伝。河井継之助で有名な長岡藩出身の著者は、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法省へ入省する(1902年)。その後は、地方の裁判所の検事、東京の控訴院の検事、東京地方裁判所次席検事、司法次官、東京控訴院長などを歴任し、岡田啓介内閣では司法大臣を拝命。司法官僚として、着実に出世を重ね、さらに戦後も第五次吉田内閣で法務大臣となった。
 こうした人物の自伝なのですが、やはり怖いのは、絶対に誤りを認めない、という姿勢です。例えば、大逆事件は宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作が現に天皇暗殺の計画を持ち、さらに爆弾も準備していたわけであるから、旧刑法116条の適用は免れないものの、参加に踏ん切りのつかなかった幸徳秋水、参加を断っていた森近運平や幸徳と喧嘩別れしていた坂本清馬などはフレームアップであろうと、通常は言われます。
 しかし、著者は戦後出版された本書で、はっきりと「戦後いろいろの批判があり、中には、「でっち上げ」だというものがある。が、それは私にはどうしても考えられない。〔中略〕被告人はいずれも、宮下、菅野、新村、古河らの計画に対して多少の差があるが、それぞれ関連を持ち、何かの形で、その進行を助けていた。しかも、そのことを各関係者が自ら供述している」(43~46頁)。だから、適切であった、というのです。
 確かに、幸徳は、彼らとの謀議に関わったし、奥宮健之は爆弾製造のアドバイスもし、森近運平は、古河を推薦したのでしょう。しかし、それは、「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタ者ハ死刑ニ処ス」を適用して死刑を執行してしまったのが、やり過ぎという批判であって、その関与を否定しているわけではありません。しかし、著者は、計画を知っていたのに止めなかったから、死刑は当然という姿勢です。
 また、著者は、戦後生き残った坂本清馬が再審請求をしていることを批判しています。この請求は、1967年7月5日に最高裁が棄却したことで名誉回復が行われなかったのですが、司法界の大ボスである著者はこの年の9月8日まで生存しています。そう考えると、著者が担当した事件である大逆事件の司法判断が覆ることはなかったのだろうな、という気もします。
 さらには、昭和期の司法ファッショ事件として著名な帝人事件に関しても、著者は無罪判決が出たのは仕方がないものの、検事局は控訴すべきで「悔いを千歳に残した」を批判しています。
 このように本書は、事件の評価そのものについては疑問なしと言えないものではないのですが、明治から大正、昭和にかけて世を賑わせた事件の裏側と、これらを捜査する側のものの考え方を知るには良いものかと思います。

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2016年4月 7日 (木)

芳澤謙吉『外交六十年』

点検読書163

中公文庫(1990年)刊(原著は自由アジア社〔1958年〕刊)。


日本史――自伝


1874年生まれ、1899年に東京帝国大学文科大学英文科卒業後、外務省入省。厦門、上海、ロンドンの領事館に勤務の後、本省政務局、駐支公使、駐仏大使、犬養内閣での外務大臣、貴族院議員として日蘭交渉の従事、枢密顧問官として終戦を決めた御前会議に列席し、戦後は初代の駐台湾大使となった外交官の自伝。


四部構成

1:生まれから大学卒業まで(第一章)。

2:外務省勤務時代(第二章~第六章)。

3:貴族院議員・枢密顧問官時代(第七章~第十章)。

4:初代駐台湾大使(第十一章)。

コメント
 英文科出身で外務省に入省し、犬養毅の娘を妻とした異例の経歴を持つ外交官の自伝。
 全体としての感想は地味に尽きるのだけれども、ところどころ興味深い話が掲載されている。 

例えば、抑制的な伊藤博文に対する、アグレッシブな児玉源太郎
 児玉源太郎といえば、司馬遼太郎『坂の上の雲』の影響で、大変魅力的な戦術家で、日露戦争の際に早期講和を政府に求めていたので、穏健な人物に思えますが、1906年の満洲問題協議会で、満洲における軍政を続けようとする児玉参謀総長に対して、伊藤が激しく反対したというエピソードが有名です。
 本書で述べられているのは、それ以前の1900年、義和団事件に時のこと。児玉源太郎は台湾総督としていました。台湾では、対岸の福建省出身者が多く、両地域の関係は政治的にも経済的にも密接なものであったといいます。そのため、児玉はかねてから福建省の領有を考えていたようです。そうした時に、北支で起きた義和団事件の余波が南にも波及し、厦門にあった西本願寺出張所が火災になり、それをきっかけに厦門港外に軍を輸送船で派遣した上に、軍艦高千穂その他二隻を港内に停泊させました。この危機一髪の際に桂太郎陸軍大臣が厦門占領中止を命じる電報を打って事なきを得たのですが、伊藤博文からの厳重な忠告が政府を動かしたとのことです。
 このように考えると、児玉というのは、占領地域民と関係の深い地域は、安全保障上、勢力下に置く必要があるので進出していく、という日本軍の拡大戦略に忠実というか、その先鞭をつけた人物であるようにも思えます。それに対して、一世代前の元老たる伊藤博文は、できるだけ抑制するという慎重な態度を示したということになります。

 日露戦争前のイギリスの日本認識
 以前に『日本の百年3』で、日清戦争以前の日本は諸外国から清国の一部であると思われていたというエピソードを紹介しましたが、外務当局者からしても日露戦争までは日本の国際的プレゼンスは非常に小さなものだったといいます。
 その例として述べられているのが、林董公使と英国首相ソールズベリー候ことロバート・ガスコイン=セシルとの会見のエピソード。
 1900年、林董は、公使として赴任し、首相兼外相であったソールズベリー候に会うために外務省へ訪れた。取次の者が、先に来ていた外交官を送り出してから、「ジャパニーズ・ミニスター」と声高に招き入れると、ソールズベリは「プリーズ・カムイン・サイアミース・ミニスター」と言って迎え入れたといいます。「サイアミース」とは、Siameseのこと。当時のタイ人(シャム)の英語表記です。日本は、タイと間違われるくらい馴染みのない国だったわけです。2年後に日英同盟を結ぶとは思えないほどの、存在の軽さだったのでした。ちなみに1905年12月に日本公使は大使へと昇格します(公使は、外務大臣にあてて派遣、大使は国家元首にあてて派遣されます)。日露戦争で勝利するまで、日本はイギリスに大使をおくることができなかったということになります。近代日本の戦争に関して、様々な議論がありえますが、戦争を遂行して勝利しないと、一人前とはみなさない野蛮でマッチョな西洋人によって世界のルールが決められていたということを忘れるべきではないでしょう。

 蒋介石と昭和天皇
 戦後に飛びますが、著者は、戦後に戦犯指名はされなかったものの、公職追放となります(1946年4月)。しかしながら、1951年8月に追放解除となり、1952年8月25日に台湾の初代大使を任命されます。
 そして、同年9月26日に、昭和天皇に謁見した時に、次のような言葉を述べられたといいます。
「蒋総統に会見する場合、日本軍の中国大陸に於ける敗戦の当時、蒋総統が部下に対し、"仇に報ゆるに恩を以てせよ"との命令を発せられたるため、何十万という多数の我が軍民が無事中国を引き揚ぐることを得たことは、私の忘るることの出来ないことであって、蒋総統に深く感謝している旨伝えてもらいたい」
 この伝言を著者は、蒋介石に伝えると、「御謝辞を有り難く感ずる旨」を述べたといいます。蒋介石は、かつて日本の第13師団に隊付として実習した経験から、日本の軍民との交流や日本の歴史の知識を持っていたため、日本の天皇に対する敬意を表していたといいます。それを表すように「カイロ会議の時、ルーズベルト米大統領が天皇制廃止を主張したのに対し、敢然これに反対したため、ルーズベルトの説が会議に於て採用されなかった次第である」(252頁)ということがあったようです。
 戦後日本において自民党内の右派と人ほど、台湾への思い入れが強く、中華人民共和国との国交正常化に反対の意志を示したのですが、この戦後の穏健な処置(それが中共との戦争を有利にすすめるためのものであっても)と天皇への敬意にあったのかな、と思います。しかし、近年において蒋介石評価というのは、右派の中で下がっているようですから、戦後の保守と現在の保守とは異なるものなんでしょうな。

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2016年1月31日 (日)

小室直樹『消費税の呪い』(光文社、1989)

点検読書113

副題は「日本のデモクラシーが危ない」。


政治評論


税制こそデモクラシーの初歩である。自主課税なきところデモクラシーなし。しかし、竹下登内閣下で決定された消費税は、選挙で有権者の同意を経ないばかりか、大蔵省と自民党税制調査会の内々で内容を決め、議会は抵抗せずに同意してしまった。これは、今後の税制改革の際のモデルケースになってしまい、日本のデモクラシーを危うくする。


四部構成
1:一般消費税以来の中小企業の反対運動に屈してインボイス式の消費税を導入できなかった過ち(1,2)。
2:大蔵省主税局と自民党税調とのインナーサークルによる税制改正という手法は、自主課税というデモクラシーの根幹を破壊した(3)。
3:政治家に対する軽蔑からデモクラシーは成長する(4)。
4:教育の既得権益化が教育改革を阻む(5)。

メモ
「近代デモクラシーの特徴は、被治者が為政者(政治権力者)を選ぶことにある。その選び方の手続きが確定されていなければならない。」(120頁)

山中貞則自民党税調会長語録
「首相には口をはさむ能力はない。まだ懲りないのか、このおしゃべり野郎……」(中曾根康弘首相の売上税発言について)
「政府税調を軽視するつもりは決してない。無視するだけだ」
「山中発言について野田毅(大蔵省OBで税調の中堅議員)はいう。
「山中さんにしてみれば、税制なんて議論し出したらキリがない。まとまるものもまとまらなくなる。さまざまなバランスを考慮して、最後にストンと落とす。それができるのがプロで、自分しかいない。素人がゴチャゴチャいうな、といいたかったんでしょう」(田原総一朗「中曽根がハメられたトリックプレイ」『週刊文春』)」(125頁)
←野田毅の傲慢さは、山中貞則以来の税調の伝統だったのか。その税調の決定を覆しただけでも、安倍首相は日本のデモクラシーに貢献したといえるのではないか。


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