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日本中世史

2016年8月30日 (火)

内藤湖南「応仁の乱について」

点検読書226

『日本の名著41 内藤湖南』(中央公論社、1971年)収録
原著は、『日本文化史研究』(弘文堂、1924年)収録


日本文化論――日本中世史


歴史は、下級人民が徐々に向上発展していく過程であり、日本社会において応仁の乱こそ、その転換期であった。日本の歴史を考えるにあたっては、応仁の乱以後のことをしていれば良い。それ以前というのは、外国同様にみなすべきだ。この時代は、旧来の貴族社会を徹底的に破壊し、貴族文化というものを民衆化したのである。


4部構成

1:貴族社会から民衆社会への移行

2:下克上とは

3:尊王心の民衆化

4:思想・文化の民衆化

コメント
 まずは本書のキモであり有名な一節を引用しておきましょう。

「だいたい今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っていおったらそれでたくさんです。それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っていれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります。」(83頁)

 湖南によれば、応仁の乱以前というのは、氏族制度における貴族たちの社会であったが、この応仁の乱以後の戦国時代において、ほとんんどの名家は滅びてしまい、明治の時代になって華族に叙せられた旧大名家はこの時代に出てきたものである、といいます。
 つまり、この時代に徹底した社会変動があった、というのです。それを湖南は「下克上」と呼んでいます。通常の「下克上」の用法は、陪臣にすぎない家臣が順々に上の主君を押さえつけてゆく状態を指すのですが、当時の用法は「最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する、もっと激しい現象を、もっともっと深刻に考えて下克上と言ったのである」(87頁)と述べています。
 日本は、ヨーロッパ諸国にくらべて上下の社会階級の格差がないというのが、明治時代以来の考えでした。その一方で、敬語表現や所作など人間の距離感の取り方の堅苦しさというものがあって、かつては厳しい身分差別がありました。
 どういうことかというと、本当に社会階級のある社会では、話す言語も食べる物も食べ方も享受する文化も貴族と平民とでは異なります。そして、両者の接触もほとんどありません。そうした差というのは征服・被征服民族という歴史的経緯と1000年レベルの生活スタイルの違いによって生じます。
 一方で日本の場合は、さまざまな言葉遣いや所作で差別というものをつくっていますが、話す言語は同じですし、食べる物も豊かさに差があるだけで基本的には同じですし、食べ方に大きな違いはありません。そして、吉原など外の身分を取り外して遊ぶ場もあり、交流もないことはなかったのです。
 こうした差というものは何かと謎を解くのが、湖南の主張でしょう。つまり、日本は、応仁の乱以後の戦国時代において、徹底して旧来の社会階級・身分制度を破壊してしまったのです。それ以前というのは、集団のトップは旧秩序に関わる身分のある人物しか就けませんでした。東国武士団における源頼朝がそうですし、鎌倉幕府における摂家将軍・宮将軍です。しかし、戦国時代になるとトップは、あくまでも実力です。旧体制における身分と全く関わりのなかった豊臣秀吉が天下人になれたことからもよく分かります。また、天下を取った徳川家康も東国からフラリとやって来たという伝説がある人物の子孫に過ぎず、出自は謎です(参照)。
 このように、律令国家時代においては、神話的な「天孫族」系と「国津神」系など明確な支配・非支配集団の区分があったのですが、戦国時代以後になると、それはありません。同じ人間の実力によって、支配・被征服が区分されたのです。ですから、逆に様々な規制を設けて身分差別を演出しなくては、支配者と被支配者の区別がつきません。そのためにも、基本は同じ言語・所作であるにもかかわらず、あえて人為的に上の者が「貴様」といえば、下の者が「あなた」というように差をつけたり、上座・下座という座る位置を決めたり、不「自然」な差別をつくったといえるでしょう。
 いってみれば、現在の高所得者が低所得者と差をつけるためにブランド品を身につけるようなものです。両者は、所詮は同じ平民であり、また平民同士同じ情報と価値観があることが前提となります。なぜなら、もし低所得者層がそのブランドを知らなければ、そうしたものを身に着けていたとしても、差別という点で何の意味もないからです。
 また、こうした元々おなじ「平民」が支配者と被支配者に別れたわけですから、同じ「同族」として被支配層を大切に思う気分というものも生まれました。その点が、人民は領主の持ち物にすぎないと考える諸外国の貴族や官僚との違いを生み、またそれが極端な圧政に進まなかったために、急激な革命を引き起こさなかった原因ともなるでしょう。革命は、すでに戦国時代で成し遂げていたのですから。
 以上のように、この湖南の講演録は、短いながらも日本史における謎のいくつかを解き明かすヒントが散りばめられていて、日本史に関心のある人には必読のものでしょう。

評価 ☆☆☆☆

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2016年6月30日 (木)

神田千里『織田信長』

点検読書211

ちくま新書(2014年10月10日)刊


日本中世史


戦前においては尊王家と革新性によって評価され、戦後においては「天下」統一を目指した伝統破壊者として革新性をさらに推し進めた評価がなされてきた織田信長。本書は、戦後語られてきた伝統破壊者という評価が妥当かどうか、また織田信長は本当に統一国家を作ろうとした人物であったのか。そもそも「天下布武」の「天下」とはどの範囲を述べたものなのかを再検討する。


四部構成

1:将軍・天皇との関係(第一・二章)

2:「天下布武」の実像(第三・四章)

3:宗教との関係(第五章)

4:「革命児」信長の姿(第六章)

コメン
 本書のメッセージは、現在の我々があって欲しい英雄像としての信長ではなく、歴史史料から確認できる真の姿を再確認しよう、というものです。
 やはり信長というのは、日本史上における最大の英雄の一人なのです。天下統一を目指し、将軍権力や天皇・公家勢力などの従来型の権力ではなく、新しい政治権力のかたちを創出しようとし、革新的な軍事戦略、経済政策を推し進めた不世出の天才。こうしたイメージで語られるわけです。これは、非常にわかりやすい。
 しかし、実際のところを覗いてみれば、ともに上洛を果たした足利義昭を機内から追放したものの、将軍の官位を奪おうとはせず、義昭の子供を将軍として扱おうとまでしていたようです。彼は、世間の評判というものに敏感で、将軍を殺害してしまった三好三人衆のような本当の伝統破壊のニヒリストとは一線を画していた人物でした。信長は、将軍暗殺という事件に衝撃を受けて、自身の花押を平和の象徴である麒麟の「麟」の字に変えるほど、将軍の権威というものに敏感な人物でした。
 そのため、信長は、義昭追放後も将軍として彼を立てていたために、朝廷から将軍を推任されても受けることはありません。それよりも公家として生きることを目指しましたし、辞官してからも嫡子の信忠にそれらの官位を譲っているのであって、朝廷をないがしろにしているわけではなかったようです。正親町天皇に譲位を迫ったというエピソードも、従来、譲位の儀式を執り行ってきた室町将軍の地位が不安定で譲位すらできなかった天皇に対して、自分が将軍の代わりに儀式を執り行う、と提案しただけで、天皇の意向も汲んでの提案だったというのです。現に天皇の方で、その気がなくなれば、譲位の話は立ち消えになったのでした。
 また、信長の標語たる「天下布武」も天下の統一を目指したものではありませんでした。「天下」は近畿地方を指す言葉で、将軍をともなって上洛を果たすというその時期の信長の目標を述べたに過ぎず、実は小大名との共存という従来の室町幕府の路線とそれほど変らないものを目指していたようです。たしかに信長の外交政策は、まずは平和的な交渉を持とうとするのですが、相手側が応じないのでやむを得ず倒すということが多かったように思えます。そのため、結果としての統一政権ができていったのであって、もともとの目的があったわけではなかったようです。
 以上のように、近年の信長の「実像」に迫るという路線の解説本です。戦前の田中義成的な尊王心を持って統一政権を樹立しようとしたという明治国家的な信長像の修正と発展が戦後の信長像だったわけですが、もう少し慎重に見てはどうか、ということなのでしょう。大体のところは、私にとっての信長像に近いな、というものでしたが、本書を読んですべてがすっきりするというわけでもなさそうです。
 例えば、信長=非尊王家としていわれるところに、信長が実際に天皇に謁見した記録がないことや安土城の中華趣味から信長が天皇を超える中国の皇帝のようなものを目指していたとされることが指摘されていますが、本書にはとくに言及がないようです。その点の謎が解けないままなのですが、近年の信長研究というものがどういう傾向にあるのかを知るには格好の著書です。

評価 ☆☆

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2016年6月23日 (木)

諏訪勝則『古田織部』

点検読書210

副題は「美の革命を起こした武家茶人」
中公新書(2016年1月25日)刊


日本史――日本中世史


織田信長に仕えて調略の才を発揮し、羽柴秀吉の下で天下統一に貢献。その後は、千利休の高弟として茶の湯を学び、利休の死後は茶の湯の第一人者として公武にわたる人脈を築く。しかし、大阪夏の陣に際して、内通を疑われて、切腹を余儀なくされた文人武将の生涯。


1:信長時代(第一章)

2:豊臣政権下の利休門人として(第二・三章)

3:関ヶ原から大阪夏の陣まで(第四・五章)

4:古田織部の実像(終章)

コメント
 古田織部といえば、漫画の山田芳裕『へうげもの』の主人公として現在では知られています。本書でも「はじめに」でふれられています。私もそんな人物いたなぁぐらいの知識で『へうげもの』を読んで、古田織部を主人公にするとは驚きました。この作品の印象が強くて、京都に行った際に、とくに注目ポイントになっていない仁和寺の織部灯籠をみて、いや~、革新的だ、とか思うきっかけになったものでした。
 本書は、手堅く古田織部の生涯を史料を通して描いてくれています。しかし、素人の私が関心をもつのは、その死の謎です。
 織部は、大阪夏の陣の後に、大坂への内通を疑われて、親子ともども切腹を申し付けられ、財産が没収されている。この死の原因について、織部の家臣・木村宗喜が大坂方と通じて京を放火するという計画が発覚して捕縛されたことに、織部が関わっていたことが疑われたからだといいます。筆者は、この木村の捕縛は可能性が高いとしつつも、織部の命という点は支持できない、としています。
 筆者の見立てによれば、織部が築いていた徳川方、豊臣方といった武家ばかりではなく、公家衆にも広がる織部の人脈ネットワークを脅威と感じた徳川政権による排斥であったというのです。これは、公家衆や仏教勢力らの庇護者として隠然たる力を持った豊臣秀次が秀吉によって退けられたことと同じだといいます。つまり、政治権力が及ばない横のつながりを潜在的な脅威として排除される運命だったというのです。
 たしかに徳川政権は、徹底して大名・武家・公家・宗教勢力との横のつながりを排除することを心がけていました。公儀の許しのない勝手な婚姻を許さないというのは、その典型であるし、徳川時代初期の男色禁止なんてのも横の強固なつながりを恐れたためともいいます。徒党を許さない。これが当時の政治権力の第一の方針でした。本書は、その点を述べているのかもしれません。しかし、それだけ織部は隠然たる力を持っていたんだろうか、という疑問もなきにしもあらず。やはり謎ということかもしれません。
 最後に気になるのは、織部とともに「伏誅」された息子の広重の妻かめが仙石秀久の娘だということです。今現在、現役で何でこいつが主人公なんだよ、というか上手いところ見つけてきたなという異色の主人公を据えた戦国時代漫画の二代巨頭『へうげもの』と『センゴク』が結びついていたんですね。この点がなかなか興味深かったです。

評価 ☆☆

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2016年5月23日 (月)

福田千鶴『後藤又兵衛』

点検読書197

副題は「大坂の陣で散った戦国武将」
中公新書(2016年)刊


日本史――日本中世史


大坂の陣で華々しい戦死を遂げ、後年、歌舞伎や講談で快男児として描かれた後藤又兵衛。後藤は、黒田孝高に見出され、後継者の長政の第一の重臣として出世を重ねながらも出奔し、長い浪人生活を経て、豊臣秀頼の招きに応じ、大坂城に入城する。本書は、後藤の生涯と戦国武士とは何かをテーマに据え、その実像に迫る。


四部構成

1:後藤又兵衛の系譜(第一章)

2:黒田家士官時代(第二・三章)

3:大坂入城とその最期(第四・五章)

4:後藤又兵衛から見る戦国武将(終章)

コメン
 後藤又兵衛。本書冒頭にも書かれているように、戦国時代に詳しい人ならば、その名を知っているものの一般的な知名度で言えば、それほどではない人物です。かくいう私も、大坂の陣で、真田信繁とともに活躍し戦死を遂げた人物というぐらいの認識で、とくに印象はないのです。というのも、本書でも述べられているように、後藤又兵衛は、歌舞伎や講談といったかつての庶民文化の中で活躍していた人物ですが、昭和も半ばを過ぎるとそうした文化は庶民のものではなく、一部の日本文化好きの趣味の対象となってしまい一般的に知られるものではなくなってしまったこと、また時代劇というものが衰微して、テレビドラマ等で後藤又兵衛の活躍を知ることがなくなったことも一つの要因でしょう。もっとも、一昨年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で、後藤又兵衛が出ていたので、最近の人は知っているのかもしれない。ただ、私はそれを見ていなかったので、後藤が黒田家に仕えていたことすら、知らなかった、というぐらいの後藤認識でした。
 それぐらいの後藤理解だったので、何で彼が大坂の陣でそれほど重要な人物として扱われ、また引き抜き工作の対象になったのか、また庶民人気の理由もよく分からなかったんですね。本書を読んで何となく分かったような気がします。彼は、ほとんど一からスタートして、本人の力量のみで黒田長政の右腕と称されるまでの重臣に出世し、城まで持たされたにもかかわらず、主君との考えの違いから、そうした地位を投げ捨てて、浪人生活をおくり、さらに華々しく戦場で散っていった。まさに戦国武将の美学に生きた人物だったのですね。
 本書によれば、彼は、播磨とい土地から切り離されて九州の地で知行を受け、また戦場で命を預けれられる主君の下に生きるという中世の武士=戦国武将として生きることを望んだのだそうです。そのため、家名の維持というを長政を裏切り、命を預けるに足る豊臣秀頼という人物に最期を託して、戦国武将として死に、そして名を残すという平安末期の武士の誕生以来の本当の意味での「武士道」の名誉のために生きたということのようです。
 つまり、「一所懸命」という言葉に表れるように、土地と武士は結びついていたのが中世の武士だったわけですが、藤堂氏の法令「殿様は当分の御国主、田畑は公儀の田畑」というように、土地に根付いていた中世の武士は否定され、将軍の命で自由に土地を移動させられる近世の武士の時代がやってきました。また、中世の武士は、武士個人(そしくは一族)が自らの命を預けられるに足る主君とともに戦場で名を挙げるために戦うということを理想としてきました。しかし、戦国大名の黒田孝高から近世大名の長政への継承に象徴されるように、近世大名は自身の家名の存続を第一に考えるようになり、そのためには家臣を見捨てることも厭いません。現に、第一の重臣であった又兵衛が大坂に入ったことを聞いた長政は、すぐさま公儀に弁明書を書き、又兵衛の親族狩りを行ない、その上、又兵衛暗殺まで計画します。また家臣の方も、主君に忠誠を尽くすのは、本人の武名を上げるためではなく、家名を存続することを目的とするようになります。このように、戦国武将と近世の武士は、性質的に変わっていったのでした。
 その点で、後藤又兵衛と大坂の陣で散っていった人々というのは、近世を拒んで中世の武士として生きたかったといえるでしょう。そして、後藤又兵衛は、その象徴だったのでした。
 なかなか興味深い本で、これで今回は視聴している『真田丸』の後藤又兵衛(哀川翔さんが演じるそうです)を予備知識を持って見ることができそうです。また著者は、牢人問題を取り扱いたいということで、戦国最後で江戸時代最初の牢人問題の噴出である大坂の陣の主役の一人を扱ったそうですが、やはり次は由井正雪になるのではないでしょうか。この由井正雪も講談の主役の一人で、明治時代から庶民に親しまれた人物ですが、近年は忘れられてきています。そして、慶安の変こそ、牢人問題の最後の解決と言えそうな事件なのですから、著者の目的と有名だけどよく知られていないものを取り上げるという新書のスタイルにピッタリとしたテーマではないでしょうか。次回作に期待しております。

評価 ☆☆☆

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2016年5月17日 (火)

八幡和郎『江戸300藩読む辞典』

点検読書193

副題は「歴史ドラマが100倍おもしろくなる」
講談社+α文庫(2015年)刊。


日本史


全国の47都道府県別に、戦国時代から幕末までの流れを、とくに300藩すべての成り立ちと統治ぶりを中心に追いかけ、名所旧跡なども紹介することで観光案内の役割も果たす。また、歴史コラムや関係年譜、石高順、大河ドラマ一覧、県藩対照表、大名家一覧、主要大名家の家系図なども付録として収録。


三部構成

1:江戸時代の統治構造と三都、愛知県について(第1~3章)

2:中部地方、近畿地方、中国・四国地方、九州・沖縄地方、関東地方、東北・北海道地方(第4~9章)

3:江戸時代を再考する意味(第10章)

コメント
 あるようでなかった本であるといえます。各藩、各県について書かれたものはあるし、現在ならWikipediaを開けば、結構詳しいことまで分かります。しかし、文庫サイズ300頁ほどで、江戸時代の諸藩の成り立ちから状況やその後についてのだいたいの事を把握できる本というのは貴重なものです。
 また、著者は、江戸時代礼賛の風潮には疑問を持っていて、北朝鮮みたいなもの、と的確に表現している。どうも現代の日本人は、ワイドショー的報道番組で、北朝鮮がやたらと特集されるように、人事としての独裁国家が好きなようです。自由で豊かにはなったけれど戦争をする国になった明治時代よりも、不自由と飢餓の不安がつきまとう軍事的独裁国家の江戸時代を好む心性はどこか通じるのかもしれません。たしかに、北朝鮮も軍事独裁国家だけれども、朝鮮戦争以来、威嚇以外の本格的な戦争はしていませんし、停滞した平和国家が好きな人が少なくない割合でいるのかもしれません。経済成長よりも、増税して再分配という大きな政府の停滞した時代を望んでいる人もだいたいかぶっているようにも思えますが。
 本書は、「歴史ドラマが100倍おもしろくなる」が副題になっているように、実は江戸時代よりもそれ以前の戦国時代に多く記述を持っています。ですから、著者としては、江戸時代というのは戦国時代・安土桃山時代の遺産を食いつぶした時代だったのだ、という意図もあったのかもしれません。
 それにしても、本書は、自分のルーツにあたる地域や居住地が、どんな成り立ちであったのかを知るには便利なものです。通読するというより、折にふれて、該当箇所を開くという「事典」として使える本です。

評価 ☆☆☆

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2016年5月14日 (土)

谷口克広『信長と将軍義昭』

点検読書191

副題は「連携から追放、包囲網へ」
中公新書(2014年)刊


日本史――日本中世史


織田信長と足利義昭の関係は、長らく信長が義昭を傀儡として利用し、それに不満な義昭が周囲の大名を誘って信長包囲網を形成し、最後は直接対決の末に追放される、という筋書きで語られてきた。しかし、将軍となった義昭の権力は、従来言われていたほど弱いものではなく、また信長もそれを無視できるほど強い権力基盤を持っていたわけではなかった。本書は、両者のともに上洛した連携期から確執期、そして対立期までを描く。


四部構成

1:上洛を果たした連携時代(第一章)

2:五箇条の上書から信長包囲網形成の確執時代(第二・三章)

3:義昭挙兵と追放(第四・五章)

4:追放後の義昭・「鞆幕府」の実態(第六章)

コメント
 本書によれば、近年の研究によって、従来の革新性や強権性ばかりが強調されてきた信長像から人間的弱点も露呈した現実政治家・織田信長という人物像が提示されつつあるらしいのです。そのためか、従来ややもすればすべて妥協を許さない、計算ずくな信長像から将軍義昭を見ていくと傀儡でとるに足らない人物のように思えます。しかし、その取るに足らない存在である義昭を何年も手を出せず、直接的な対立を経ても、結局、処刑もせず将軍職の辞官もさせず、追放しか出来なかったという事実を考えると、信長の意外な「弱さ」を垣間見ることが出来ます。本書は、そうした実像としての信長像を将軍義昭というファクターから読み解きます。また、以前紹介した藤田達生氏の追放後の毛利家によった義昭の「鞆幕府」というものへの疑問も提示しています。
 本書によれば、信長と義昭との確執の始まりは、伊勢の北畠具教の居城・大河内城攻めに際して、信長が手痛い打撃を受け、その和解・講和で信長有利にとりなしたのが義昭だったから、と推測されています。従来、この大河内城攻めは『信長公記』などから信長方の圧勝と思われていたのですが、他の史料で確認すると、どうもそうではないらしい。さらに言えば、各戦闘においては信長方の犠牲が多いことが明らかになったようなのです。しかし、その結果は大河内城開城なのですから、異常事態です。そこで著者は、この講和の立役者となったのが義昭なのではないか、と推測したのです。
 これが事実とすれば、信長は感謝しこそすれ、義昭との関係が悪くなることはありません。しかし、この一ヶ月後、上洛を果たした信長が何の前触れもなく、国へ帰ってしまうという事件が起きました。同時代の史料によると、正親町天皇も「おとろきおほしめし」たほどだったそうなのです。その原因として、人々が噂したのが、義昭と信長の喧嘩だというのです。その喧嘩の原因というのが、時期的に見て、この大河内城攻めと講和にあるというのが、著者の見立てで、信長としては義昭の力を借りたということで不名誉、義昭としては将軍としての権威を発揮できたのだから自身を持ったとしてもおかしくない、ということになります。有名な五箇条の上書は、将軍としての自信を深めた義昭への牽制だというのが著者の見立てです。
 しかし、そうだとすると、信長が義昭を将軍として支えるという連合政権・二十政権論というのは少々不可解です。やはり信長は義昭を傀儡程度にしかみていなかったのではないでしょうか。
 もし北畠説得の役割として義昭を使うことも不名誉とするならば、自身の政策遂行実現のための権威として利用しようとしていたとも考えられません。信長にとって義昭は、自身の実力で将軍に就けてやったという実績づくりの象徴に過ぎず、政治的権威としての価値はゼロに等しいと考えていたのでしょうか。そうでなければ、将軍の力を借りたからといって、関係が悪くなるというのもおかしな話です。
 そうすると、この永禄12年(1569年)10月3日の大河内城開城、10月11日に上洛、11月17日の帰国という11日から17日の間に義昭と信長の間で何かあったか―義昭がよほど調子づいたことを言ったか―でないと、従来通りの義昭傀儡説が生きてくるのではないか。そんな気がします。
 それはともかく、世論の動向に敏感で、無力で憎むべき義昭を殺すことのできなかった信長と、周囲からどう見られようが気にしない厚顔無恥な義昭という「激しい性格」ながらも対照的な二人に着目した戦国史は読み物としては楽しめました。

評価 ☆☆

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2016年4月19日 (火)

磯田道史『江戸の備忘録』

点検読書175

文春文庫(2013年)刊。
原著は朝日新聞社(2008年)刊。


日本史――エッセイ


『朝日新聞』土曜版の連載を元にした歴史随筆集。中世から近世を切り開いた信長・秀吉・家康のパーソナリティなど人物論から、結婚・離婚・出生など日本人の家族の歴史、急速な近代化を準備した教育、現在長寿国となった日本の医療・衛生の歴史、税と政府の規模など、様々なテーマを掘り下げつつも、日本史を見渡せるような「歴史の肝」となる話を厳選して叙述。


五部構成

1:戦国武将、近世大名、幕末の人物論。

2:江戸の医療・教育問題。

3:古文書から見える江戸の生活。

4:日本人の性と家族。

5:政府の役割。

コメント
 上記の通り、戦国時代から明治初期までの時代の人物論から文化論までと幅広い話題を提供してくれる歴史随筆です。
 本書の間口となるのは、半分ほどを占める著名な人々の人物論になるのでしょう。しかし、これは意外とオーソドックスで、それほど面白いものではありません。
 例えば、「信長はなぜ殺されたのか」というきわめて興味をひかれる表題のエッセイでの結論は、「人を信用しなかったから」という何ともあっさりとしたものです。
 私などからすれば、いや逆に人を信用しすぎて、部下に大領土や大軍を預け、裏切られると失望して激怒し、最後もやっぱり数万の大軍を部下に動かせているにもかかわらず、少人数の付き人しか置かずに寺に宿泊していたのだから、人を信用しない人にしてはずいぶんと迂闊です。
 私は、信長って結構お人好しなんではないか、と思ってしまうんです。だから、それが裏切られると、ものすごく怒る。他人も自分と同じようにお人好しで善良な人間でないと気がすまない、という感じの人なのではないでしょうか。
 信長の戦略って、だいたいが、まずは平和的な条件交渉から入って、受け入れれば厚遇するし、あえて反抗しなければ、まだ交渉の余地はあると考えるけど、反抗したり裏切ったり親族や股肱の臣を殺した時に残虐な仕打ちをする、という真面目で潔癖だからこその怖さがあるようなきがするんです。だから「人を信用しなかったから」という評価があったということを紹介されても「ふーん」としかならないのです。
 しかし、本書は後半からの医療・教育・家族・国家のデータ編に移ると途端に面白くなります。
 例えば、江戸時代の識字率。おそらく元ネタは、ロナルド・ドーアの研究によるのかと思いますが、江戸時代の日本人の識字率は40~60%などと言われます。そうか、だから日本は急速な近代化が可能だったんだ、と愛国心をくすぐるデータなのですが、本書によれば、長野県北安曇郡常盤村の明治14年(1881年)の満15歳以上の男子のみ882人の調査によれば、

「数字も名前も自分の村の名前も書けない」35%
「それぐらいは書ける」41%
「出納帳がつけられる」15%
「手紙や証書が書ける」4%
「公文書に差し支えない」2%
「法令布達が読める」1%
「法令布達が読め新聞論説が理解できる」2%

と自分の名前を書ける程度の識字率は65%、新聞を読んで政治論説が理解できる人は2%だったということです(著者が参照している論文はこちら)。こうなると高いような気もしますが、低いような気もします。そもそも識字率とは、どの程度を想定しているか。人それぞれですから、それによって評価も変わるでしょう。もっとも、「法令布達が読め新聞論説が理解できる」は現在でも10%いれば良い方の気がしますので、これを基準に識字率を考えるのは厳しいかもしれません。
 他に面白かったのを箇条書きにしておきます。

寺子屋
 寺子屋は自習室のようなもので、先生が前に立って何かを教えるというようなスタイルではなく(『磯部磯兵衛物語』の学校風景は間違い)、また「女師匠の比率」は35・5%だったそうです(128~29頁)。

「平成」
 「元治」の後の元号選考の中に「平成」があった。しかし、「元治」が「保元と平治から一字ずつ取ったら保元・平治の乱のように禁門の変が起きた。平成も「平」の字があるからやめておこう」となったらしい(147~148頁)。

「八百長」
 囲碁好きの七代目伊勢ノ海親方に、八百長こと八百屋の根本長造が「囲碁の心得がある」と囲碁仲間として取り入って、野菜を大量に買ってもらい、さらには親方の世話で相撲茶屋・島屋の株を買い受け、大繁盛した。ある日、伊勢ノ海親方が、碁会所に行くと八百長が本因坊と対戦しており、見事な碁を打っている。自分が八百長に手心を加えられていたことを知り、親方は「あの嘘打ち野郎め」と仲間に吹聴したので、親方衆への接待ワイロを「八百長」と呼ぶようになった。つまり、「八百長」の語源は、わざと負けることではなく、「ワイロ」を意味していたのでした(158~59頁)。

「八角」
 八角楯右衛門という堺の力士は、金にこだわり、給金が少ないと、ごねて相撲を取らない、土俵では「待った」を連発して「角力の行儀あしく成りしは、八角より始る」(『翁草』)とされた(162頁)。
 現在の相撲協会理事長の八角親方(元北勝海)の名称における御先祖はこういう人物だったとか。現在、最強の横綱が「行儀あしく」なっているわけですが、「八角」という名の呪いのようなものがあるんでしょうか。

「亥年は「ブタ年」」
 日本において干支の「亥年」は「イノシシ」を意味していますが、中国・韓国など大陸においては「ブタ」を意味している。猪八戒はブタの姿をしているのは、そうした理由。ではこの転化は何を意味しているかというと、日本におけるイノシシの家畜化、つまりブタの飼育は弥生時代で終わっており、「ブタ年」という考え方が入ってきた時に、それを表すものは野生に戻った「イノシシ」だったために、「亥年」は「イノシシ年」となった(165~66頁)。

明治時代の結婚
 江戸時代から明治時代の日本人は、結婚したうちの約四割が別れており、明治半ばまで日本は、世界最高位の離婚大国であった。「離婚は今の我国に普通の習慣となり、人も見て怪まざる程」と『女学雑誌』(1886年)の社説にある(174~75頁)。

「羽柴家康」
 江戸時代には、前田・島津・毛利などの大大名はおらず、徳川の天下の時は松平賜姓といって大抵の大大名は「松平」を名乗らされていた。加賀前田家は松平加賀守、島津家は松平薩摩守、毛利家は松平長門守といった。これは豊臣政権でも同じで、徳川家康は「羽柴武蔵大納言」、つまり「羽柴家康」と名乗らされていた。そのため、豊臣・徳川の政権交代時には、加賀前田家の二代藩主の前田利長は「羽柴肥前守」、三代藩主の前田利常は「松平筑前守」で、彼らが本姓に復したのは鳥羽伏見の戦いで徳川家が「朝敵」となってから(190~191頁)。

日本の「公務員」比率
 2001年当時の日本の人口百人あたり公務員数は3・3人で、アメリカ8・1人、イギリス7・3人、フランスが9・6人、ドイツは5・8人であったとか。で、江戸時代の「公務員」つまり武家奉公人の比率はというと、著者の調査では幕末で人口百人あたり2~3人だそうです(211頁)。
 「小さな政府」は、日本の伝統と言えそうですが、公務員が多そうに感じてしまうのはなぜなんでしょうか。少ない割には権限が強いということでしょうか。諸外国の場合、私企業で雇えないような人を公共機関が面倒を見るというのではなく、役人が面倒を見るというようになっているからでしょうか。また、諸外国の場合、公共事業等の税金が投入されている場合は公務員とみなしているのでしょうか。

江戸時代より重税の現代日本
 現代日本の租税負担率は20%強、その上政府は毎年借金をしながら運営しているので、その分を加えると、政府は毎年国民の稼ぐ金の約40%を使っている。つまり国民が1万円稼ぐと、政府が4000円使うのが現代日本。では、江戸時代はというと、五公五民と言われて、年貢率50%の重税社会のように思えるが、税の対象が米だけで、その他の麦などの作物は無税だし、駕籠かきや宿屋などサービス業にもほとんど課税されていない。そのため、国民全体で見れば、約20%強に過ぎないとか(217頁)。
 まぁ、江戸時代の政府は、実質的に何もしてくれませんからね。で、上記の著者の租税負担率は、社会保障費が入っていないのかもしれません。それを入れて、借金分を足すとえらいことになりそうです。

評価 ☆☆

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2016年4月16日 (土)

藤田達生『天下統一』

点検読書172

中公新書(2014年)刊。
副題は「信長と秀吉が成し遂げた「革命」」。


日本史――日本中世史


戦国時代末期に構想された国家体制とは、数か国を領有するブロック大名が合従連衡しつつ朝廷や幕府を支えるというものであった。それに対し、信長および秀吉は、全国の領主から本主権を奪って収公し、あらためて有効な人物に大名・領主として任命し、領土・領民・城郭を預けるという発想があった。つまり、領土は公領、領民は天下の民、城郭は天下の城と位置づけられる、まさに「天下統一」のプランを持っていたがために、「革命」的存在であった。本書はまた、1573年に滅亡していたとされる足利幕府は、鞆の浦で続いており、織田政権との二重政権時代があったとし、小牧長久手の戦いで織田信雄が羽柴秀吉に敗れるまでは、織田・羽柴の二重政権時代があったと主張している。


四部構成

1:本書の目的(序章)。

2:織田信長の時代(第一~第三章)。

3:豊臣秀吉の時代(第四~第六章)。

4:結論(終章)。

コメント
 本書で述べられていることは、戦国時代の戦国大名たちは基本的には自らの本拠地を第一とする「一所懸命」の精神を持続させており、天下に号令をかけると言っても、それは本拠地を含む周辺諸国を押さえた上で、諸大名と合従連衡し、朝廷や幕府の権威を利用して優位に立つという連合政権の性格しか持っていなかった、ということです。つまり、今川義元や武田信玄が上洛を果たしても、本拠地は駿河や甲斐のままで、全国を自国同様の法制に服させるというような「天下統一」プランは持ち合わせていなかった、ということのようです。
 その点で、織田信長という人物は、本拠地至上主義的な考え方から自由で、常に本拠を変えた特異な人物です。それは、日本全体を統一的に把握するのに便利な地に本拠地を構えるという意識があったようです。そうした発想の背景には、領土・領民は各大名の持ち物ではなく、「天下のもの」、と考えたところにあります。その天下、日本全国の統治権を握って、自由に統制できる人物が天下人である、とします。ですから、「天下統一」という発想は、信長のような変わり者であるから考えられたもので、まさに「革命」とも言えるものであったらしいのです。
 いってみれば、今川義元や武田信玄の野心というものは、古代中国の春秋五覇のように他の国を完全に併呑するのではなく、残した上で優位に立つ、と言うもので、信長の「野望」というのは自身が秦の始皇帝のように全国を統一するという発想のようです(152頁)。
 現在の我々は、信長という者の登場以後から戦国時代を眺めているために、戦国大名は「天下統一」の野心があったものと考えてしまいますが、そうではなく、信長という革新者がいたから、そうしたものの見方ができるのだ、ということになります。
 また、本書では、1573年に滅亡したとされる足利幕府が、鞆の浦へ移動し、毛利輝元を福将軍として従えた「鞆幕府」が存在した、と主張します。全体の流れからすれば、田中義成以来の通説=1573年の室町幕府滅亡で良いのではないか、と思ってしまいますが、上記の通り、「天下統一」という特殊なプランを持っていた信長の革新性を理解するためには、鞆幕府の存在は必要となります。つまり、鞆幕府というのは、従来型の合従連衡による国家秩序を代表し、そこと対抗して郡県的な集権国家を目指す信長政権が戦うべき相手の象徴であったわけです。
 これは信長の後継者の秀吉に関しても言えることです。著者は、小牧長久手の戦いまでは、厳然として織田政権は続いていたと主張します。そこも全体の流れから見れば、些細な問題にも思えます。しかし、信雄によって継承された織田政権というのは、逆に従来型の合従連衡国家を代表し、秀吉が集権国家を代表しているので、そこでもこの対立を強調する必要があったということなのです。
 本書の全体の構図をつかむまでは、「鞆幕府」とか「織田信雄政権」なんて、考える必要あるのかね、と思っていたのですが、信長の革新性を理解するためには、どうやら必要らしいです。
 個人的な関心としては、「公儀」という言葉が、足利将軍、右近衛大将を叙任された織田信長、足利義昭を奉じた毛利家を指すものとして、使われていたそうです。全国的な中央政府の意味としては、豊臣政権からと言われていますが、「将軍」に任官された人やその政府を表すものとして「公儀」が使われていたようです。信長が「公儀」化するのも右近衛大将という天皇から任命される官職があることが前提となるようですから、当時における律令国家の権威は根強いものがあったようです。
 しかし、本書を流し読みした感じでは、信長が天下意識を持ったのは、中国古代の歴史の知識があったから、と述べられていますが、そもそも日本を全体として把握する視点というのは、父・信秀以来の皇室崇拝者という点があったからではないだろうか。本書では、安土城の構造やヴァリニャーノへの天皇を紹介することの拒否に見られるように、信長は自身を天皇の上に位置づけていたという考え方が述べられています。晩年は、どうだったかというのはいろいろ議論があるところだと思いますが、若き信長に皇室崇拝の気分があったのは、否定できないように思いますので、その点でのツッコミが欲しかったかな、という気もいたします。

評価 ☆☆

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2016年2月14日 (日)

村岡素一郎『史疑 徳川家康事蹟』(民友社、1902年)

点検読書124

『明治文学全集77 明治史論集(一)』(筑摩書房、1965年)所収。


日本史――日本中世史


世良田二郎三郎元信は、新田氏の嫡流の出の者を父に持ち、幼少時に僧門に入って諸国をめぐり、19の年に、松平元康の子・竹千代を誘拐し、後に元康に取って変わって松平の名を襲い松平家康として遠州・三州を平定した。そのため、元康の今川時代の妻である関口氏(築山殿)と夫婦関係はなく、その子の信康(竹千代)も実の子ではない。このことが「築山殿始末」につながり、また家康は信長や秀吉のように肉親を傷つけるような人物ではなかったことを論証。


六部構成
1:総論として貴賤交代する循環論的歴史観(第壹章)
2:世良田二郎三郎元信=家康の生誕地と出自について(第二~三章)
3:幼少期の環境(第四章)
4:家康の松平家乗っ取り(第五~七章)
5:家康と信康・築山殿との関係(第八章)
6:家康の性格(第九章)

コメント
 最近の自分の中での戦国時代ブームに乗って、こんなものまで読んでしまった。
 本書はいわゆる奇書というもので、1902年に出版されたものの再版されずに絶版されたという。しかし、その一方で序文に重野安繹が寄稿していたり、なかなか興味深い出自のある本ではある。しかし、中年男性にとって本書は、隆慶一郎『影武者徳川家康』の元ネタとして知られているが、多くの人には読まれていない奇書として知られている。私もそんな口でやっと目を通したのですが、なるほど奇書である。
 とりあえず、上記のあらすじをもう少し詳しく拾ってみる。

 まず、世良田二郎三郎元信は、新田氏嫡流の江田松本坊なる流浪の僧を父として、駿州宮の前町に生まれ、母方の祖母・源應尼の寓居である華陽院で育った。幼くして仏門に入った元信だったが、今川家の菩提寺の山中で鳥を狩ったために破門され、放浪の末に願人坊主に銭五貫で買われ、十九歳まで修行と諸国巡礼の日々を送った。

 この頃から同志らを集め旗揚げを目論んでいた世良田二郎三郎元信は、今川に人質に出された松平元康の子・竹千代を誘拐し、幼君を支えて兵を挙げようとしていた。その頃、桶狭間にて今川義元が戦死し、織田が優勢となる中、竹千代を織田のもとに人質として預け、元信は織田方として挙兵するが、今川方の松平元康に敗れ、後に元康に降る。

 元信は元康に織田にいる竹千代奪還のため征討をすすめ、元康は出兵するが、陣中にて家臣の阿部弥七郎に村正にて殺害される。元信はこれに乗じ、岡崎を攻めて元康に成り代わって三河を治め、織田と同盟を結ぶ。その際、元康の遺児・竹千代=信康を次期当主として成長まで支えるという名目とした。これが世良田二郎三郎元信あらため松平家康である。

 天正七年(1579年)の築山殿始末について、築山殿は元来、家康と夫婦関係にはなく、今川を裏切って織田につき、松平の嫡男である信康を蔑ろにする家康に反感を抱いていた。そのため、築山殿は武田勝頼に通じて家康を葬ろうとしたが発覚し、信長の命によって、母子ともとも殺された。しかし、著者は信康は身代わりが腹を切り、50年幽閉の末、死んだという伝承もあるとする。

 以上のような内容であるが、関ヶ原の戦いで入れ替わった隆慶一郎『影武者徳川家康』に比べて、桶狭間直後という、どちらかというと石井あゆみ『信長協奏曲』に近い感じはあります(違うか)。
 やはり本書の主張は、家康ほど立派な人間が妻や嫡子をむざむざと殺してしまうだろうか、という疑問からこのような奇想天外な発想をしたようであるが、後の人の歴史解釈というのはこういうこともありえるのだな、と思わせるものです。
 例えば、世良田二郎三郎元信の父親が新田源氏嫡流の僧侶であるというのは、三河に流れ着いた初代・親氏が僧侶であったという故事、織田攻めの際に元康が部下に村正で殺害されるというのは守山崩れといて知られる祖父・清康の暗殺事件、元康の子・竹千代が今川へ人質に出されるところを誘拐されて織田に預けられるが元康は織田方に向かわないというのは広忠の子・竹千代が同様に織田に人質になったが広忠は今川を裏切らなかったという話を村岡は述べる。
 村岡は、これらを家康のエピソードが前代のエピソードに入れ替わったと解釈する。後代の秘密にしておきたいエピソードを前代のエピソードにすり替えて残したというわけである。このような解釈って、『古事記』『日本書紀』の神話のエピソードが、作成時期の朝廷内の人物エピソードの反映であるという解釈に似ているように思える。
 村岡の史論はもちろん誰も真面目に受け取る者がない珍説である。しかし、古代史の以上のような解釈って、最近はどうだかしらないが、アカデミズムの世界で真面目に論じられていたものである。そうするとどっちもどっちという印象を受けてしまう。
 それはともかくとして年来の課題であった本書が読めたというのは、嬉しい限り。


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評価 ☆☆☆☆

2016年2月13日 (土)

田中義成『豊臣時代史』(講談社学術文庫、1980年)

点検読書123

原著は『豊臣時代史』(1925年、明治書院)。


日本史――中世史


『織田時代史』の続編。豊臣秀吉の出自・出身の考察から、明智光秀の誅伐、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐、奥州処分、そして朝鮮出兵に向けた交渉までを描く。著者は、秀吉を織田信長の皇室中心の政権運営、統一事業、対朝鮮・明国政策を継承者として描いている。


四部構成
1:秀吉の出自から明智誅伐、清州会議、賤ヶ岳の戦い、大坂城建築、叙任など豊臣政権樹立まで(第一~九章)。

2:小牧・長久手の戦い、佐々成政征伐、四国征伐、九州征伐、大仏建立、検地、宗教政策まで(第十~十八章)。

3:小田原征伐、徳川家康の関東入国、奥州処分まで(第十九~二十二章)。

4:朝鮮出兵まえまでの交渉(第二十三章)。

コメント
 大河ドラマの『真田丸』が面白すぎて、予習がてらに『織田時代史』に続いて、読んでしまいました。『真田丸』との絡みでみていくと、二週前の放送で織田方に奪われた上野の沼田城をめぐって、奪還したい真田昌幸、北条氏政との和睦条件として沼田城を含む西上野を北条に割譲したい徳川家康との対立の中で、昌幸が秀吉に頼って沼田城を安堵されるというエピソード(91~92頁)。

 そして、この沼田城問題が、小田原征伐の直接のきっかけとなったとは、知りませんでした。安易に軍を起こしたくない秀吉は、臣従の意味での北条氏政の上洛を求めるが、秀吉を軽蔑している氏政は行きたくない。そこで条件として出したのが、家康との約束であった沼田城の引き渡し。秀吉は、それを受け入れて、昌幸を説得し、昌幸は北条に沼田城を引き渡すこととした。その時、昌幸は、条件として沼田城近郷の名胡桃の地は真田家累代の墓地があるから、そこだけを除いて引き渡した。しかし、北条は名胡桃も奪うため、名胡桃城をあずった鈴木主水に昌幸を騙った偽書で城外に引き出し、その間に城を奪ってしまう。昌幸は、大坂に訴えると秀吉は激怒し、ついに北条攻めを決断した、というものだったそうだ。

 けっこう重要なポイントで真田昌幸って出てくるんですな。しかし、この辺りの駆け引きを草刈昌幸と北条政伸がどう演じてくれるか。大河の中盤が楽しみです。ホントこの大河って、草刈正雄が主役で草刈正雄再評価のドラマなのかもしれんな。

 それはともかく、本書によれば、秀吉というのは信長政策の後継者という特徴があるらしい。将軍ではなく関白として政権を樹立した点や統一事業、宗教における政教分離政策などにそれらが見られるのであるが、著者は外交戦略面での継承も指摘している。

 つまり、信長の対外戦略の特徴は、まず平和的な交渉によって、相手の敵対行為の停止または臣従を求める。これでうまく行けば、厚遇する。しかし、抵抗の意志を見せたり、裏切りなど誠意のない対応をした場合は、容赦なく攻め滅ぼす。これである。たしかに信長は、苛烈な処分ばかりが目にいってしまうが、延暦寺に対しても一向一揆に対しても再三利敵行為をやめるよう勧告したり、降伏勧告を行なっているのである。それにもかかわらず、抵抗をつづけ、さらに子飼いの臣下や親族を戦死させるなどした報復として、焼き討ちや虐殺を行なっている。

 これは秀吉も同じである。この点が強く出ているのが、対北条戦である。秀吉は、北条に対して、かなり時間をかけて交渉し、相手の不誠意な対応を引き出してから、軍を起こしている。あくまでウチに入る気があるかを確認し、ウチに入れば厚遇し、ソトであると確認されれば、苛烈な処分も辞さない、というのが秀吉の戦略である。まさに心理学的に言えば、「拡大された自己」である。信長も秀吉も日本人に人気のある人物であるが、まさにこのウチにいるものは大事、ソトの者は知らないという日本人の共同体意識そのものを地で行ったのがこの二人だといえよう。

 著者は、このような外交戦略から朝鮮出兵問題も同様のものと類推する。
「朝鮮征伐に就きて、世伝に従えば、秀吉始めより明及び朝鮮を帰服せしめんとする宿志を抱けるかの如くいえど、そは其結果を見て直ちに其原因を想像せるに過ぎず。凡そ秀吉が大征伐を企つる時は、必ず先ず平和手段を以て、出来得る限り之を説諭して降服を勧め、而して其対手の之を聴かずして交渉の余地なきに至って、始めて之を征するにあり。九州征伐の島津氏に於ける、関東征伐の北条氏に於けるが如き皆是なり。殊に北条氏に対しては、再三再四平和的交渉を重ねたるものにして、秀吉が性急なる、よくも忍耐せしと思わるる程気長に交渉したるにも拘らず、北条氏は之に対して誠意なく、最早寸毫の余地なきに至りて、始めて征伐に従えり。こは兵力を損せずして降服せしめんとするの計にして、蓋し此方法は、確に信長に学びし所なり。
 信長の浅井・朝倉両氏に対し、又叡山・高野山に対する態度、何れも此の如し。秀吉は之を踏襲して、内地に於ける北条氏に対してすら、平和的交渉態度に出でしものなれば、況んや海外に対しては、一層の慎重なる態度を採りし事は論を俟たず。且つ彼が海内を征するに当たりても、常に天子の命を奉じて諭し、しかも敵之を納れざるに及んで、止むを得ず之を征するにあり。即ち戦の名義を正しくす。況んや外国に対しては、一層に戦の意義を正して、単に盗賊的侵略をなさんとせるものには断じてあらざるなり。」(256~257頁)

 著者は以上のように類推し、天正十五年(1587年)五月の宗義調に命じた対朝鮮交渉においては、朝鮮に入朝を求めると同時に、明への紹介を依頼し、室町時代同様の勘合貿易の復活を求めていることに着目している。「即ち今日の語を以てすれば、国際条約を締結して、通商貿易を開かんとする事にして、其要求は正々堂々たるものというべし」(265頁)。

 この解釈は、大変興味深いが、著者はこの前交渉で筆を止めてしまっている。もし意図的であったとすると、この平和的な通商条約という解釈に無理が来たために、止めてしまったと考えられる。もっとも本書は、著者の講義ノートを元に著者の死後刊行されたものであり、意図したことではなく、著者の寿命が尽きただけかもしれないが、1910年代という大正デモクラシーの空気を吸った解釈かな、とも思えてしまう。

評価 ☆☆☆☆


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