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近世思想史

2015年11月21日 (土)

藤田覚『幕末から維新へ シリーズ日本近世史⑤』(岩波新書、2015)

点検読書48

①歴史――日本近世史

②幕末維新期の腫瘍な要素としての欧米列強・天皇・民衆が登場し始めた18世紀末からを幕末と理解することで、徳川政権の国防意識が継続されていたこと、天皇が突然注目されたわけではないこと、近代化をスムーズに受け入れた民衆という流れが無理なく理解できる。

③内外の危機に伴って幕府の「御威光」低下と天皇の浮上、外国船の接近、アヘン戦争の衝撃、近代化の準備としての近世の教育、開国から幕末の政局、五箇条の誓文まで。

メモ
大政委任論(p.36~37)
伊勢貞丈『幼学問答』(天明元年〔1781〕)
「徳川家康は天皇から日本国を預かって国政を行ない、歴代将軍は天皇から任命されて国政を担当していると説明し、だから将軍は天皇の臣下であると説いた。」

本居宣長『玉くしげ』(天明六年〔1786〕)
天皇→将軍→大名という「御任(みよさし)」=政権委任の秩序があると説明。

松平定信「将軍家御心得十五ヶ条」(天明八年〔1788〕)
日本の国土と人民を天皇から預けられていると説明。


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2013年1月31日 (木)

吉田松陰の朝鮮論

吉田松陰の松下村塾は、明治政府の指導者を多く輩出したことで知られ、また彼らと松陰の思想的影響の関係から、後々の明治国家の対外政策に結びつけた議論もある。つまり、日本の「大陸侵略」の思想的源流は、松陰にある、というような。

では、松陰の対外政策、とりわけ朝鮮に関する認識は、どのようなものであったのか。彼が、朝鮮に関して述べているところを抜書きしてメモとして書いてみたい(引用は山口県教育会編『吉田松陰全集』(大和書房、一九七二~一九七四年)大衆版全10巻・別巻1)。

まず、少壮の兵学者であった松陰の第一の思想的転換として、水戸学との出会いがある。その水戸学との出会いは、1851年(嘉永四)暮から脱藩して出かけた東北遊学中の水戸訪問時の會澤正志斎との出会いにある。松陰は、平戸遊学の際に、會澤『新論』に出会っていたようだが、写本を入手したわけではなく、またじっくりと読むこともなかったようである。当時の松陰はあくまで兵学者であり、兵学研究に必要な部分だけ、『新論』にもふれた可能性があったものの、松陰の思想的転換を期した「國體」に関する箇所は読んでいなかったか、意識しなかったか、の可能性が高い。松陰が、「國體」および日本の歴史に関心を持ち始めたのは、江戸に出てから「長州の人間は日本の歴史を知らない」と周囲の人間に言われるようになったためである。水戸の會澤に出会うことで、その感を強く認識し、勉強しなおした。そこで出会ったのが、周辺諸国を「懾服雄略」する皇族=天皇の姿であり、そこにこそ「皇国の皇国たる所以」を発見した、という流れである。そして、その勉強の中で発見したのが朝鮮である。

「栗原良三に復する書」(一八五二(嘉永五)年六・七月頃、六巻三一六~三一七頁)
「皇朝、武を以て国を立つ。其の盛時は高麗・新羅を懾服して使を百済・任那に駆りしこと難からざりしなり。寛平に至りて、新羅来寇す、則ち撃ちて之れを却けたるも、是の時は古の雄略復た見るべきなし、而れども防守は尚ほ人ありき。其の他は則ち言ふべきものなし。……豊関白起るや、三韓を鏖にし、有明を圧し、勢将に古の略に復せんとす。不幸にして豊公早く薨じ、大業継かざりしは惜しむべきかな。然れども余威猶ほ百蛮に震ひて数世に延ぶ、盛なりと謂ふべし。降りて近時に及んでは、事言ふに忍びず。……国威の衰頽、最も未だ曾て有らざる所なり」

「皇朝、武を以て国を立つ」。朝鮮半島に進出し、それらを「属国」として扱ったという「歴史的神話」にこそ、「皇国」が他の国との相違を示すところであり、豊臣秀吉の「朝鮮出兵」は「古の略」を復活させたものである。しかし、それが終わってからというものの「国威の衰頽」は、甚だしいものである、と。松陰の「國體」の発見、すなわち「尊王」と、天皇の下に周辺諸国を武力によって「懾服」させることがリンクしており、両者は不可分な存在なのである。

このように「武」の国であったはずの日本が、米国艦隊の「武」に威圧されて、条約を結んでしまった。再度の来航時にこそ、日本の「武」を輝かせて往時の栄光を取り戻すべしと開戦に期待した松陰は、肩透かしをくらって、行き場のないエネルギーを密航して欧米に学ぶという真逆の発想で試みるが失敗し、投獄される。そして、そこでまたまたもてあましたエネルギーを誇大妄想ともいえる「懾服雄略」論を述べることで癒そうとする。

『幽囚録』(安政元年)
「朝鮮と満洲とは相連なりて神州の西北に在り、亦皆海を隔てて近きものなり。而して朝鮮の如きは古時我れに臣属せしも、今は則ち寖(や)や倨る、最も其の風教を詳かにして之れを復(かえ)さざるべからざるなり。」(二巻五三頁)
「日升らざれば則ち昃(かたむ)き、月盈たざれば則ち虧(か)け、国盛んならざれば則ち替(おとろ)ふ。故に善く国を保つものは徒に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり。今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礟足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加・隩都加を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満洲の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺圉を守らば、則ち善く国を保つを謂ふべし。」(第二巻五四~五五頁)。

ここでも朝鮮の服属を古代の「歴史的神話」に根拠を見出して主張し、さらにはシベリア、満洲、東南アジアへの進出までをも述べるにいたる。しかし、ここで注意すべきは、他のカムチャツカや満洲・台湾・ルソンなどの「収め」るとは異なり、琉球とともに朝鮮の服属は、「朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ」であり、武力による併合ではなく、それらの独立した国家として残しつつ、「朝貢」の対象と見ていることである。

ここには松陰の国際秩序認識の特徴がある。つまり、同等の国際関係を結ぶ主権国家(「敵国」と表現する)と、「敵国」に相当する大国に朝貢する「属国」、「交地・争地」(『孫子』の表現)という無主の地という区分があり、アメリカ・ロシア・英国・清国などは「敵国」であり、琉球・朝鮮は「属国」、カムチャツカや台湾などは「交地・争地」と認識しており、それぞれへの対応は異るのである。そのため、「交地・争地」は「敵国」同士で領有権を争う地であるため、併呑の対象であるが、「属国」は必ずしもそうではないのである。

「今大いに船艦を打造し北は蝦夷を収め西は朝鮮を服し、駸々然として進取の勢を示し候はば、群夷自から手を収むべし。何となれば縦令一度近づき少利を得るとも、又其の本国を襲はれん事を恐るるなり。計此れに出でずんば永久を保するの策に非ず」(安政元年十二月十二日付書簡、七巻二九九頁)

大艦隊を建造して蝦夷・朝鮮を征服すれば、西洋列強は日本を恐れて手を出しては来ないだろう、と述べつつも、蝦夷は「収め」、朝鮮は「服し」と、単なる土地と認識する「蝦夷」と統治機構が存在する「朝鮮」とで区別している。

「魯・墨講和一定す、決然として我れより是れを破り信を戎狄に失ふべからず。但だ章程を厳にし信義を厚うし、其の間を以て国力を養ひ、取り易き朝鮮・満洲・支那を切り随へ、交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし」(安政二年四月二十四日付書簡、七巻三六四頁)

こちらでは、米露と講話してしまったのだから、こちらから講和を破って信頼を失うよりも、逆に厳密に守って信頼を強化し、その間に国力を増強させ、朝鮮・満洲さらには清国をも「切り随へ」、交易で失った分を土地の拡大によって取り戻すべきだと述べつつも、

『清国咸豊乱記』(一八五五〈安政二〉年五月二十六日)
「朝鮮を来たし満洲を収めんと欲すれば則ち艦に非ずんば不可なり。是れ余の本志なり。今は未だここに及ばず、則ち巨艦待つべきなり」(二巻一四九~一五〇頁)

「治心気斎先生に与ふる書」(「野山雑著」、二巻一五二頁)
「宜しく章程を厳にし約束を謹みて、其れをして驕悍(きょうかん)に至らしめざるべし。間に乗じて満洲を収めて魯に逼り、朝鮮を来たして清を窺ひ、南洲を取りて印度を襲ふ。三者当に其の為し易きものを択びて之れを為すべし。是れ天下万世継ぐべきの業なり。天下の勢、或は未だここに至らざれば則ち退きて吾が国を治め、武を偃し文を修め、賢能を招き士民を養ひ、声息を潜めて形跡を歛むるも、猶ほ以て一方の安を受けてこれを子孫に伝ふるに足らん。……是れを之れ勉めずして船を造り砲を鋳るを是れ事とす、是れ僕の甚だ惑ふ所以なり」

朝鮮は「来す」つまり、朝貢に来させるべきであって、「取る」わけではない。また、近隣諸国への侵略構想は、あくまで「余の本志」「万世継ぐべき業」であり、「巨艦」を持てない状態での当面は、その追求はひかえるべき、と述べている。

しかし、1856年になると、松陰にとって切迫した事態が訪れたらしい。

『丙辰幽室文稿』(一八五六〈安政三〉年)
「久坂玄瑞に復する書」(二巻四一五頁)
「今の計たる、疆域を謹み条約を厳にして、以て二虜を覊縻し、間に乗じて蝦夷を墾き琉球を収め、朝鮮を取り満洲を拉き、支那を圧し印度に臨みて、以て進取の勢を張り、以て退守の基を固めて、神功の未だ遂げたまはざりし所を遂げ、豊国の未だ果さざりし所を果すに若かざるなり」
「外征論」(一八五六〈安政三〉年五月頃、二巻四五一頁)
「「夫れ坤輿の形勢は、合はせざる能はざる者あり、合はせざるべからざる者あり。我が奥越の如きは、地脈接続し、合せざる能はざる者なり。三韓・任那の諸蕃は、地脈接続せずと雖も、而も形勢対持し、吾れ往かずんば則ち彼れ必ず来り、吾れ攻めずんば則ち彼れ必ず襲ひ、将に不測の憂を醸さんとす。是れ合はせざるべからざる者なり。」

「琉球を収め、朝鮮を取り」とそれまでは服すれば良いとされた地域も、併呑や武力侵略の対象となる。おそらくクリミア戦争が同年3月に終了したことで、英国などの西洋の強国の目が東アジアに向けられることを警戒し、その前に朝鮮などを「合はせざるべからざる」地域を認識し、また先に日本が獲得しなければ、西洋に取られてしまうという危機意識が、このような提言に結びついたと考えられる。

しかし、松陰の「懾服雄略」という大戦略は、この時期に更に一変する。

一八五六〈安政三〉年六月~十二月の松陰の読書傾向に、それまでまったく読まれていなかった本居宣長、平田篤胤らの国学・神道系著作が激増し、水戸学・漢学系著作が激減している。さらに漢学系著作も黙霖が松陰に貸した山県大弐『柳子新論』と山鹿素行『中朝事実』の二つの尊王論的著作だけである(素行の著作は一八五六年頃から始まった著作蒐集の一環)。この時期こそ、松陰に「転回」をもたらした黙霖との書簡論争の時期(同年八月下旬)にあたっている(桐原健真『吉田松陰の思想と行動』東北大学出版会、二〇〇九年、一五九~一六三頁)。

この時期から松陰の対外政策は、武力侵略論(懾服雄略)から、交易による「航海雄略」へと転換したのである。それは、それまでの水戸学経由の尊王論では、「皇国の皇国たる所以」は、武力によって周辺諸国を威服させる能動的なものであったが、国学経由の尊王論では、天皇がいるというそれだけで「皇国の皇国たる所以」が証明できる、と松陰は考えるようになり、現状で不可能な武力による「攘夷」もしくは対外侵略は必要とされなくなったのである。

そのため、最晩年の対外政策論では以下のようになっている。

「対策一道」(一八五八〈安政五〉年四月中旬)
「凡そ皇国の士民たる者、公武に拘らず、貴賤を問はず、推薦抜擢して軍師舶司と為し、大鑑を打造して船軍を習練し、東北にしては蝦夷・唐太、西南にしては流虯〔琉球〕。対馬、憧々(しょうしょう)往来して虚日あることなく、通漕捕鯨以て操舟を習ひ海勢を暁り、然る後往いて朝鮮・満洲及び清国を問ひ、然る後広東・咬(カ)ル〔口偏に留〕吧(パ)〔ジャカルタ〕・喜望峰・豪斯多辣理、皆館を設け将士を置き、以て四方の事を探聴し、且つ互市の利を征(と)る。此の事三年を過ぎずして略ぼ弁ぜん。然る後往いて加里蒲爾尼亜を問ひ、以て前年の使に酬い、以て和親の約を締ぶ。果して能く是くの如くならば、国威奮興、材俊振起、決して国体を失ふに至らず。」(四巻三三二頁)。

武力侵略によって東アジアに進出するのではなく、「航海通市」によって進出へと転換し、

「続愚論」(一八五八〈安政五〉年五月下旬)
「清国・朝鮮・印度抔の近国へ出掛け候様成され候はば、数年の内航海の事は大いに行はれ申すべく存じ奉り候」(四巻三五〇頁)

通商の利益増進に期待し始めている。
一方で

「商船漸く増し、土貨漸く殖え、而して互市漸く盛んなれば、乃ち軍艦を造る。軍艦には必ず砲銃を備へ、士卒を充て、商艦は以て輜重に当つ。ここに於て欧羅・米利も、遠くして到るべからざることなし、而して朝鮮・満洲は之れ言ふに足らんや」(同上)

「富国強兵」をふまえた対外戦略論として整備するようになった。

同時期に、松陰の「竹島」開墾策というものがある。この場合の「竹島」は、現在話題のなっているものではなく「鬱陵島」のことである。この鬱陵島について、松陰は、以下のように述べる。

「桂小五郎あて書簡」(一八五八〈安政五〉年二月十九日付、八巻三八~三九頁)
「此の段幕許を得、蝦夷同様に相成り候はば、異時明末の鄭成功の功も成るべくかと思はれ候。此の深意は扠て置き、幕吏変通の議、興利の説今日の急に候へば、竹島開墾位は難事に非ざるべし。是れ一御勘定の主張にて行はれ申すべくと黙算仕り候。委細玄瑞存知の事に付き御運籌下さるべく候。天下無事ならば幕府の一利、事あらば遠略の下手は吾が藩よりは朝鮮・満洲に臨むに若くはなし。朝鮮・満洲に臨まんとならば竹島は第一の足溜めなり。遠く思ひ近く謀るに、是れ今日の一奇策と覚え候」

長府毛利藩の医家興膳昌蔵という人物の「竹島(鬱陵島)」開墾論を紹介し、幕府への働きかけを依頼し、

「久坂玄瑞あて書簡」(一八五八〈安政五〉六月二十八日付、八巻六八頁)
「英〔口偏に英〕夷既に拠るとも苦しからず、矢張り開墾を名とし交易をなし、因つて外夷の風説を聞くこと尤も妙、英〔同上〕夷既に拠れば別して差捨て難く候。左なく候てはいつ何時長門などへ来襲も測るべからざるなり、寸板も海に下す能はざるの陋を破るには是れ等にしく妙策は之れなく候。黒龍・蝦夷は本藩よりは迂遠、夫れよりは竹島・朝鮮・北京辺の事こそ本藩の急に相見え候」
「英〔同上〕夷闢きかけたれば尚ほ可なり。何分一寸なりと外へ張出さねば相捌けず候。水軍を仕向くると云ふは尚ほ愚論なり。水軍にて行けば彼を備をする、商船で行けば彼れも商をするなり」(八巻七〇頁)

竹島は既にイギリスの領有に帰しているとの風聞もあったが、この情報を疑問としたうえで、万一イギリスが専有していた場合はこれと交易を行なおうと計画する。これは鎖国下からの閉塞状況を打ち破る策として提示されている。

「桂小五郎あて書簡」(一八五八〈安政五〉七月十一日付、八巻七五頁)
「朝鮮に懸け合ひ、今に空島に相成り居り候事無益に付き、此の方より開くなりと申し遣はし候はば異論は之れある間布く、若し又洋夷ども已に彼れが有と相成り候はば致方なし。開墾を名とし渡海致し候はば、是れ則ち航海雄略の初めにも相成り申すべく候」

この書簡に見られるように武力侵略から交渉による進出に転換している。しかし、朝鮮王国を平等と見ていたわけではない(「申し遣はし候」)。また、先の書簡に見られるように、交渉主体は幕府である。なぜなら、朝鮮王国は清国に服属しており、その朝鮮と天皇の政府が平等な関係を結ぶことは、清国との関係を乱してしまう。そのため、天皇の政府の「幕府」にすぎない徳川政権とでは交渉はできるが、天皇の政府が行うことはできないのである。

以上のように、松陰の対外政策には、尊王論とリンクしている。『日本書紀』の記述から知るようになった「武」によって立つ国としての日本の中心には天皇がいる。武力行使によって周辺諸国を畏怖させる天皇を中心とした神話の世界の国にあこがれ、それを根拠に海外雄飛を目指す。そして、そこには当然のように国家に階層が存する。天皇と格が同じなのは、他の国に依存しない主権国家のみであり(「敵国」)、他の国に臣事する国は格下であり(「属国」)、その他の統治機構がないような地域は国ではない(交地・争地」)。松陰にとって朝鮮は「属国」であり、また「歴史的」に「皇国」に服属する国であったはずである。そのため、旧に復するためには朝鮮は武力によって「属国」待遇にしなければならないのである。

しかし、国学を学ぶことで、武力による畏怖という天皇像から、天皇の存在そのものが「皇国の皇国たる所以」を発見した松陰に対外侵略は必要がなくなる。交易によって強国となり、西洋列強と対等な関係を結ぶことが現時点では必要な措置へと転換し、武力侵略は後景に退いたのである。とはいうものの、朝鮮が清国に臣事し続ける限り、日本と朝鮮は平等な関係にはならない。明治日本が、朝鮮の独立にこだわったことの源流には松陰の認識が関わったかもしれない。しかしながら、松陰がこだわりを捨てた武力による対外戦略は、次のヨーロッパ諸国の国際秩序の中では、うまく戦争を遂行する能力によって、相手の力を計るという共通認識があり(ポール・ケネディ『大国の興亡』)、日本は軍事強国として東アジアで戦争を行わなければ、その一員として認められない世界へと足を踏み入れた。松陰の「懾服雄略」からの脱却は、「皇国」論の枠組みではなく、次の西洋の国際法秩序の中で復活を遂げたというわけである。その後の日韓関係と松陰とのつながりはまた別の次元のお話なのであった。


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2011年7月23日 (土)

『兵学と朱子学・蘭学・国学』メモ

前田勉『兵学と朱子学・蘭学・国学』(平凡社選書、2006年)のメモ。

「武威」の国家原理

「法是礼節之本也。以法破理、以理不破法、背法之類、其科不軽矣」(武家諸法度)

→近世の国家では、「理」(=良心)に基づいて、自分なりに善悪是非を判断すること自体を禁止(14~5頁)

「武威」の国家と朱子学(17~20頁)

朱子学が近世日本の支配思想と一時期考えられたのは、1843年に完成した『徳川実紀』に徳川家康が林羅山を幕府に登用したことをもって、朱子学が「文」の中心におかれたことを示唆しているが、この逸話は、『徳川実紀』編纂当時、羅山の子孫である林家の創った神話を鵜呑みにしていたからである。朱子学が、いわゆる「官学」として認められるようになったのは寛政異学の禁以降のことである。

そもそも天地、天下国家、人間の万事万物を貫く、普遍的な「理」への確信、さらに「理」そのものである自己の本性への絶対的な自信があった朱子学が、「理」に基づく善悪是非を判断すること自体が禁止されていた「武威」の国家と相いれるはずがなかった(佐藤直方「我心ヨリ外ニ頼ミ力ニスルコトハナイ」、『韞蔵録拾遺』巻二八)。

しかし、朱子学は君臣関係・父子関係を人間の本性に根拠づけ、人間が生きていく限り、逃れることでのできない絶対的な関係とする世俗秩序内の倫理であったため、仏教などの宗教のような衝突はなかった。しかし、あるべき君臣関係を説いた朱子学は、現実の君臣関係との間に常に緊張をはらんでおり、もし現実の君主が「天理」=「義」に反している行いをしていたとすれば、臣下はそれを批判して諫言することが求められ、それが受入れられなければ、君臣関係を解消するか、君主を打ち倒す「革命」さえも認める一種の理想主義を内包していた。

兵営国家のイデオロギーとしての兵学

「兵法は国家護持の作法、天下の大道なり」(北条氏長『士鑑用法』)とあるように、軍隊の統制法によって、平時の国家を統治することができると兵学者は主張していた。近世日本の兵学は、組織戦に基づいた議論をしており、機構としての近世軍隊の基本的構成単位である「備」は、騎馬部隊の武士を戦闘力の中心としながらも、槍部隊の徒士、弓・鉄砲部隊の足軽だけでなく、非戦闘員である百姓や職人をも補助的な要員として編成されていた。それは厳格な「軍法」によって維持された命令―服従の貫徹する、タテの組織であった。この「軍法」支配という点が、「法」の支配で貫徹される武家諸法度に適合的であり、また、百姓や職人も含んだ「備」という考えが、平時の政治にまで拡張できた(21~2頁)。

徳川家康の「国家有機体説」

『東照宮御遺訓』によれば、「国家」は「鳥」に譬えられる有機体であり、「大将」から「百姓職人町人」までの「一切の国民」はその有機体の構成要素であって、それぞれの役を担っている。その一つの構成要素が欠けても、「千万の敵に向い千里の道を行」く「国家」は機能しなくなってしまうため、武士だけではないすべての人々がそれぞれの職務を賦課され、有用を強制される(22~3頁)。

「役立たず」

近世日本では「遊民」は、「国の用」に無用者で、侮蔑され差別された。当時は、「役立たず」という語は、障害者のことを指す言葉として使われることがあった。これは人夫役賦課が可能かどうかが基準であった。つまり、近世国家はすべての人々が「有用」であることを強制する国家であった(23~4頁)。

蘭学者の特徴

蘭学者たちは、自分の仕事を、単なる個人の「功業」ではなく、「天下後世ノ裨益」(大槻玄沢『蘭学階梯』巻上)という「日本」全体の利益、「国益」意識があった。さらに、生まれながらの身分によって所属が決定されているのではなく、蘭学に従事する仕事・業績によって集団が結ばれた。蘭学者たちが帰属しようとしたのは、これまでの身分や藩や、「イエ」ではなく、仲間意識・帰属意識が強い「社中」であり、その中にいまだ整えていない「日本」という「藩」や身分を超えた共同体を遠望していた(32~3頁)。

儒教の華夷観念

日本の華夷観念は武威に基づくものであって、中国本来の礼教文化に基づくそれとは異なっていた。前者は中華と夷狄の区別を、戦国時代の敵と味方の軍事的範疇で捉えるものであって、後者のように夷狄も礼教文化を身につければ中華になるという流動性はなかった。王道思想に基づく中国の華夷観念では、自己の優越的な礼教文化に他者は自発的に靡き同化するとされるの対し、武威の華夷観念では、他者との関係は敵―味方の関係しかありえず、敵対者を物理的な強制力によって排除・征服するか、それができないときには卑屈に屈従する。中国の華夷観念は理念的には開かれたものであったが、日本のそれはできるだけ閉じようとする指向を持っていたといえる。しかし、両者の共通点もある。それは力の優劣での対外観も文明の有無のそれもともに単一の尺度で国際関係を上下に階層づけている。つまり、一元的な価値基準によって国際関係を捉え、異なる多様な価値観の共存を認めないことにおいて両者は等しく、ここに「武国」日本の華夷観念がこれまで中国・朝鮮のそれと同一視されてきた理由もあったと思われる(115~6頁)。

泰伯皇祖説

江戸時代の儒者の華夷観念では、額面通り受け取って、日本を「東夷」として中華を崇拝する傾向が強かった。そのため、日本を強引に普遍的な「中華」と結びつけようとする論説が生まれた。その極端な例が泰伯皇祖説である。それは、日本の天皇の祖先は、『論語』の中で、孔子によって「至徳」と称賛された呉の泰伯であるという説で、室町時代の五山の僧侶中厳円月がはやく唱えたといわれているが、江戸時代、この泰伯皇祖説は儒学者の間で、かなり支持を集めていた(山崎闇斎らは否定)。近世日本の朱子学の祖林羅山もその一人である。この羅山をはじめとする儒者は、日本も普遍的な「中華」の内にあることをこの泰伯皇祖説によって証明しようとしていたのである。ここでは、天皇の万世一系性を否定するという過激な議論もなされていた(佐藤直方・三輪執斎など)(119~20頁)。

幕末日本の二つの選択肢

一つは、ペリー来航時での速やかな軍事的な対応にみられるような富国強兵の路線である。軍事力=「武威」による欧米列強への屈伏を受け入れ、一刻も早く軍事力を増強して「万国対峙」の体制を構築しようとする考えで、明治国家はこの路線を選んだ。これは神功皇后の「三韓征伐」のような「武国」日本の神話を鼓吹して、朝鮮・中国への侵略に突き進むことでもあった。もう一つは、朱子学的理念から受け入れた「万国公法」の普遍的理念のもとでの国家間の対等性・平等性の認識を深化させる路線である。それは、アジア連帯への可能性であった。この二つの選択肢をもちえたことで日本は、朱子学を国教とする朝鮮や中国とは異なる道を進みえた。近代ヨーロッパの国際関係が主権平等を建前としながらも、現実には軍事力を主とする物理的な力によって主権国家間の関係が定まるものとすれば、前者の側面を朱子学的な理念の延長として、後者の力関係として国家間を考える現実的な側面を「武国」日本にふさわしい考えとしてそれぞれ使い分けることができた(129~30頁)。

2011年7月22日 (金)

近世の天皇論

前田勉『兵学と朱子学・蘭学・国学』(平凡社選書、2006年)第4章より。

研究史

・「公武融和の金冠的権威部分」としての天皇の役割を論ずる深谷克己『近世の国家・社会と天皇』(校倉書房、1991年)。

・公家の宗教諸集団の関連に注目する高埜利彦『近世日本の国家権力と宗教』(東京大学出版会、1989年)。

・朝幕関係史の久保貴子『近世の朝廷運営』(岩田書院、1998年)、藤田覚『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年)。

・思想史研究での安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波書店、1992年)。

→「近代天皇制」に関わる基本観念①万世一系の皇統=天皇現人神と、そこに集約される階統秩序の絶対性・不変性②祭政一致という神政的理念③天皇と日本国による世界支配の使命④文明開化を先頭にたって推進するカリスマ的政治指導者としての天皇

中核となる①は「いわゆる「天壌無窮の神勅」を根拠に、天照大神以来の一系性をそれだけで絶対的価値として強調したのは、十八世紀末の本居宣長以来のことである」と本居宣長の画期性を指摘。

「近代天皇制」が上から「偽造された構築物」であることは周知のとおりであるが、前近代の天皇が権力側からの構築物とみることは疑問。安丸氏は徂徠学―後期水戸学の流れ(尾藤正英氏)を中心軸に据えて、これを権力側の秩序の論理とし、民間習俗・民俗信仰を反秩序・混沌として配置する図式を描いているが、神道・国学の運動が抜け落ちており、それらは民間習俗や民俗信仰と密接に結びついた自生的な「下から」の運動であった。また上からの構築物であったとしても、何もないところから「我国ノ機軸」(伊藤博文)として作られたわけではなく、前代の「日本」「天皇」という観念が遺産として存在したこと抜きには考えられない(185~6頁)。

近世の「天皇」「日本」言説の浮上過程

第一期(十七世紀)

近世国家は一向宗・日蓮宗不受不施派やキリシタンを徹底的に弾圧して、宗教的権威を否定した世俗的な「兵営国家」であった。中世日本の宗教的共同体の可能性を潰した近世国家には、神仏を背景としない別の権威として、伝統的な国家の体制と、その形式上の君主である天皇の権威が必要不可欠であった(尾藤正英「近世史序説」、『岩波講座日本歴史九』、1975年)。

この国家において、儒教や仏教は支配のためのイデオロギー装置であった(「後ノ世ヲ能ク願ヒ、神仏ヲ崇奉ル」ことは「下民ニ道ヲ教ルノ謀」〔『太平記評判秘伝理尽鈔』巻十一、若尾政希『「太平記読み」の時代』、平凡社選書、1999年〕)。

「以法破理、以理不破法」(1615年の「武家諸法度」)→軍隊の統制原理と方法=「軍法」を平時の政治に拡大した「兵営国家」。

朱子学の役割→近世前期には仏教と比べて、イデオロギー装置の一端を担うには微弱な存在であったが、朱子学の廃仏論が仏教に対して理論的に対抗するための武器を提供した。陰陽二気の聚散説(世界は気というガス状の物質によって成り立っており、それが集まって凝固すれば、固体となり、また散って雲散霧消すれば、もとのガス状の状態に戻り、死後の世界など存在しないという考え)が、仏教の三世因果説・輪廻転生説を否定した(190頁)。

世俗国家の論理:伴天連追放令(1613年)には、日本は「神国」「仏国」とされ、キリシタンは殉教を喜び死をも恐れない「邪法」とする。なぜならば、君主の現世での賞罰(儒教的)や「後世」の「冥道閻老の呵責」という刑罰と死の恐怖によって(仏教的)、「勧善懲悪の道」は保証されるのであって、キリシタンのように死を恐れなくなっては、秩序は保てない。そのため、キリシタンは「神敵仏敵」であり「国家の患」である(194頁)。

「神国」思想の萌芽:林羅山「夫れ本朝は神国なり。神武帝の天に継ぎて極を建てし已来、相続ぎ相承け、皇緒絶へず。王道惟れ弘まる。是れ我が天神の授くる所の道なり」(『本朝神社考』)と、儒学の「道」と上代の「神道」の理想を結びつけて、仏教を「西天の法」として批判。仏教側は仏教が「西天の夷法」なら儒教も「唐法の儒学無用」ではないかと批判しつつ、「日本は神国なれば神道を慎守すべし」(『百八町記』巻四、1664年)と「神国」思想と仏教を結びつけた(195~6頁)。

第二期(元禄以後)

元禄以降の商品経済の進展の中で、武士であること、町人であること、百姓であることよりも、金持ちか否かが、人間を評価する判断基準とする考えが生じた(井原西鶴「俗姓筋目にもかまはず、只金銀が町人の氏系図になるぞかし」〔『日本永代蔵』巻六〕など)。

荻生徂徠:「礼楽制度」がないため、身分の体面を守ろうとして「格式」通り着飾ろうとする奢侈化した社会では武士が商人に頭を下げて借金を頼まなければならない逆転現象が生じる(身分的アイデンティティの危機)。→カネという中性的な存在によって「分」は破壊されるようになり、権力側の対応は身分制度の再編強化しかとりようがなかった(198~200頁)。

増穂残口:神道家であった残口は、宗教家ですら「商人」のように教説を「商品」として提供する市場社会、つまりカネさえあれば「成揚者」になれる社会を批判し、「日本は神代より系図を第一にして、四民の祖神を立て、先祖の筋をちがへず。その筋といふが血脈なり」(『神国加魔祓』巻地、1718年)と、身分社会が商品経済の進展の中で不安定になり、流動化する中で、「成揚者」になれない真面目に家業に精励する律義者に幻想的な誇りを与える役割を果たした(200~6頁)。

垂加神道:「天皇」という商品によって宗教的市場に参入。「日本国」に生を受けた者は、イザナギ・イザナミの二尊と「皇天二祖」の「臣民」であって、「血脈」を相続しており、共通の祖先神話を有する日本人である限り、「皇天二祖」の勅命を守り、天皇を守護する志をもてば、死後に「神」となり「守護ノ神ノ末座」に加わることができる(211頁)。→一種の選民論を含む「新たな救済論」。しかし、「秘伝」という形で特権化したため、誰もが「神」になれるとしたわけではなかった(216~7頁)。

第三期(宣長以降の国学)

本居宣長:18世紀後半の天明期は、商品経済がますます進展し、農村では農民層の分解が進み、町に貧民が流れ込み、貧富の差は進行した。そうした社会状況の中で本居宣長があらわれる。「今の世は武士も百姓も出家も、みな鄙劣なる商人心になりて、世上の風儀も軽薄になる事ぞかし」(『秘本玉くしげ』巻下、1787年)と、タテの階層秩序を掘り崩すようなカネの力を嫌悪していた宣長は、各人が家業を勤めること、それがそのまま「天皇の大御心を心」とする神聖な営みであって、そうした生き方こそ、「神代」以来の祖先たちの生活であったことを教えるため、秘伝ではなく、万人に開かれた(読める)文献として『古事記伝』を書いた(220~4頁)。

平田派国学:宣長においては、天皇は万民に直結したが、万民そのものは能動的・活動的な主体ではなく、日々の生活の中に「天皇の大御心を心」とする意味を賦与しただけであった。平田篤胤とその後継者たちは、「大和心」を英雄豪傑的な「大和魂」に転換させ、それを支える内的根拠の一つに「神ノ御末」という名誉感情を据えた(224~5頁)。これにより、天皇と万民との一体化は、強固なタテの階層秩序の中で疎外された者に、価値のない醜い現在の自分を乗り越える理念をあたえた(228~9頁)。

明治国家の一君万民思想

近世日本の神道・国学の「下から」の運動は、宗教的権威を徹底的に圧服した「武威」の世俗的な権力国家=兵営国家において、徐々に浮上してきた「天皇」「日本」という言説が、強固なタテの階層秩序の中で疎外された人々のルサンチマンに基づく、幻想上の地位の逆転を図るものであった。「高位・有徳」があるにもかかわらず、カネを持たないために「人ニ蹴落サルヽ」(荻生徂徠『政談』)者のルサンチマンこそが、「系図」という出自の幻想を生み出し、固定的な階層秩序の中で、カネのために苦しめられている者にとって、どこに救いを見いだすのかといえば、そのひとつの隘路が、本来自分はこんな惨めな境遇にいるはずのない者だという幻想であろう。カネに対する憎しみ、それが「神国」日本へのアイデンティティ=帰属意識を強めさせた(232頁)。

こうした幻想を「上から」掬い上げて創られたのが、天皇のもとでの万民の「平等」を説く一君万民論であった(233頁)。つまり、高位高官であっても、金持ちでも、貧乏でも、無学でも同じ天皇の臣下である。通常、ナショナリズムは、「すべての人々が、富、地位、家柄などに関係なしに、はっきりと民族的な一体性を示す共通の性質を分けもっており、なにびとも、自分がそのような性質を他人よりも多くもっていると主張することはできないし、また、それを証明することもできない」(シェルドン・S・ウォーリン『西欧政治思想史Ⅲ マキアヴェリとホッブズ』、福村出版、1977年、93頁)のであるが、日本の特殊性は「俺こそ臣下の中の臣下である」とか、「我こそが股肱の臣」だという論理、つまり天皇への遠近の主張に対抗できないという不具合が生じてしまったようだ。

前田氏の議論は、かなり2000年代という「格差社会」、「若者の右傾化」とかいう時代の刻印が記されている。これ以前の渡辺浩氏の見解では、豊かな社会の実現が「中国」を「支那」という中性的な呼称に置き換えるとともに「皇国」意識の高まりを生じさせたといものであった(『東アジアの王権と思想』、1997年)。これが、豊かな社会の実現が成功者と没落者を生み、その敗者の側を癒す幻想としての観念として「天皇」「日本」意識の高まりを生んだというのである。これはコインの表と裏で、成功体験が対外意識としての大国思想を生み、また国内においての敗者がそれに慰安を求めるという図式であろう。

2000年代にこれが当てはまるかどうかは分からない。「右傾化」はどちらかというと90年代後半の経済がどん底のあたりで流行したものであり、「格差社会」がいわれた小泉政権以後は、経済政策や対米関係の認識での「右派」内の足並みが崩れ、意外と沈静化していった時期にあたっていたのだから。

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