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ナショナリズム

2016年4月 6日 (水)

エマニュエル・トッド『シャルリとは誰か?』から見る日本政治

承前

 著者の分析の特徴は、家族構造というものを中心に据えている、という点です。つまり、家族内、とりわけ親子・兄弟関係がどのようなものかによって、文化や価値観が変わってくるというものです。
  親に権威があって一人の相続人を決めるような兄弟間の不平等な家族構造を直系家族、親に権威があるものの相続に兄弟間の差別がない上に結婚した息子たちと 両親が同居する家族構造を外婚制共同体家族、相続上の権利が兄弟間で平等な上に親と同居せず各兄弟が独立して生計を立てる平等主義核家族、親と同居せず各 兄弟が独立して生計を立てるものの遺産相続に関して親に決定権があるという意味で平等ではない絶対核家族。こうした家族構造が、人々の価値観や意識に関 わってくるというのです。
 家族構造と価値観との関係と政治的志向の左右をまとめると以下のようになります。

・直系家族:権威主義的不平等→社会民主主義・自民族中心主義

・外婚制共同体家族:権威主義的平等→共産主義・ファシズム

・平等主義核家族:自由・平等→無政府主義・自国軍国主義

・絶対核家族:自由・非平等→労働党社会主義・自由孤立主義

  例を直系家族で見ると「兄弟が不平等ならば、人間は個々に不平等であり、民族も不平等であり、普遍的人間は存在しない。異邦人、ユダヤ人、イスラム教徒、 黒人は、その本性からして異なる」となりますし、平等主義核家族で見てみると「兄弟が平等ならば、人間はみな平等であり、民族も平等であり、普遍的人間が 存在する」と考えます。これらの家族構造というのは、だいたい国や地域によって傾向性があります。また、個人の志向について考える際にも、こうした家族構造を見ることは可能かもしれません。
 現代日本の政治家の中で、緊縮財政派と積極財政派で考えてみます。というのも、著者によれば、直系家族的不平等主義は、財政政策によって苦境にある人々を支援するという傾向にはなく、緊縮気味の政策をとる傾向があると述べているからです。政治家の家族構造から政策傾向が見えてくるかもしれません。
 まずは緊縮派の代表として、小泉純一郎元首相は、小泉氏は祖父の又次郎、父の純也に継ぐ三代目の政治家一家と生まれ、姉と弟がいるのですが、姉一人と弟が私設秘書となっております。そうなると「直系家族」の典型と見ることができます。また、緊縮派の谷垣禎一自民党幹事長も、父・専一を継いだ二世議員で、弟がやはり谷垣氏の秘書となってます。これも兄弟間の不平等があって父親に権威のある「直系家族」でしょう。あと自民党で代表的な緊縮派の代表選手の石破茂内閣府特命担当大臣も、祖父・市造、父・ 二朗を継いだ三代目の政治家で、姉二人の後の一人息子で政治家になっているのですから、「直系家族」です。その上、石破氏はプロテスタント系のクリスチャンです。トッドによれば、ルター派の予定説は、救済の可能性が生まれ持って神の意志によって決定されているという点で不平等主義だというので、石破氏は、 トッド理論からすると筋金入りの不平等主義者であるといえます。
 一方で野党・民進党の岡田克也代表。彼は、スーパー「岡田家」の経営者の次男として生まれております。岡田家のちのイオングループを継承したのは長男の元也氏です。これは、おそらく幼少時から決まったことだと、岡田氏が考えて、自身は官僚、政治家の道を歩んだのかもしれません。さらに岡田氏の弟にあたる三男は、母方の家の養子になっているそうです。このように考えると、岡田氏の志向 を家族構造から考えると明確に「直系家族」です。彼の政策志向が、財政健全化重視の緊縮財政、反リフレ派であるのもうなずけるような気もします。
 では、現首相の安倍晋三首相は、どうでしょうか。安倍氏は、祖父が安倍寛、父が安倍晋太郎で三代目の政治家です。また、母方の祖父が岸信介であり、一族を広げるとかなり多くの政治家を輩出している家のようです。
 では、兄弟はというと、兄と弟がいて、安倍氏は晋三という名前ですが次男です(兄と安倍氏の間に隠し子でもいたんでしょうか)。兄は、「寛信」といって、父方の祖父の寛、母方の祖父の信介から一字をもらっているんですから、いかにも後継者らしい名前ですが、政治家にはならなかったようです。で、弟は、岡田氏 同様に母方の岸家の養子となって現在政治家となっています。
 こうなると上記の政治家たちと少々事情が異なるようです。つまり、小泉、谷垣、石破 各氏は、嫡男として政治家となった直系家族の典型です。岡田氏は、兄が嫡男で次男であるから別の道を歩んだという差別された側の直系家族の一員です。一 方、安倍首相は、長男ではなく次男で後継者となっています。これは、父親に相続の決定権があったか、息子に相続放棄の権利があったか、という「絶対核家族」の特徴があります。そうすると安倍首相の志向は、不平等を積極的に認めるわけではないが、不平等を容認する自由主義である、といえます。つまり、英米型なのです。政治的志向は、左に振れれば、現状維持的社会政策で、右に振れれば孤立主義ということになります。
 こうなると安倍首相が、中途半端 なリフレ派ということが理解できるように思います。アベノミクスの3本の矢の「大胆な金融政策」は、失業率低下を促し有効求人倍率を引き上げました。この点では、反リフレの人々にくらべれば、もっとも苦境にある失業者に雇用を生み出している点で不平等を積極的に認める方向にはありません。しかし、消費税増税を認めてしまった点、年金や健康保険など社会保険料を年々値上げしている点、社会保障の支出を抑制している点を見ていくと、少々不平等への対策が不十分に思えます。その点を、先日のスティグリッツ、クルーグマン各氏に指摘されたように思います。
 こうしたことが、トッド理論から見ることができました。何となく納得できるような気もしないではありません。では、外婚制共同体家族や平等主義核家族の例はないかと主要政治家の中から考えてみたのですが、日本共産党の志位和夫委員長や吉田忠智社会民主党党首や福島瑞穂前党首には兄弟についての情報がありません。小沢一郎生活の党代表は、石破氏と同様な家族構成ですし、松野頼久前維新の党代表も姉妹に挟まれた長男です。なかなか見当たらないのです。サラリーマン家庭出身の菅直人元首相は、姉一人の二人姉弟なので平等主義核家族なのかとも思いますが、妻の実家が医師一家で、次男が獣医をやっているのをみると、そちらの方が直系家族的とも思えないこともないです。
 日本の政治における平等主義の弱さというのは、こうした政治家のというより、一般の日本人の家族構造に由来するのかもしれません。


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2016年4月 5日 (火)

エマニュエル・トッド『シャルリとは誰か?』

点検読書162

文春新書(2016年)刊。
副題は「人種差別と没落する西欧」。
訳者は堀茂樹。


社会学――フランス


2015年1月、ムハンマドを冒瀆した風刺画を掲載した新聞『シャルリ・エブド』が襲撃され、それに対して「私はシャルリ」をスローガンにフランス全土で大規模なデモが起きた。しかし、このデモは、単なる暴力に対する抗議活動ではなく、近年フランスを覆いつつある自己欺瞞に満ちた無自覚な排外主義であった。本書は、「私はシャルリ」と名乗った人々を、人類学的、宗教社会学的、階層的に分析し、自身の宗教であったカトリックを冒瀆する権利を他の宗教にも及ぼそうとするライシテ(世俗主義)とカトリック的不平等の容認という「ゾンビ・カトリック」、現在もしくは近い将来の年金受給者という高年齢層、中産階級以上の管理職・上級職、緊縮財政と自由貿易を志向するEU支持者という特徴が見られると主張する。これらの無自覚な不平等容認と経済政策の志向が、若者たちの職や夢を奪い、イスラム系の若者たちを過激な活動へと追いやっている要因となっている。


六部構成

1:無信仰者の増大によるアノミー化と新しい信仰対象としてのユーロ。
2:「シャルリ」の社会学的解明。
3:「平等」という価値の衰退。
4:不平等化する左翼と平等化する右翼。
5:イスラム教徒の可能性。
6:結論。

コメント
 「私はシャルリ」運動が、報じられるのを見て、正直、私は不快感に襲われました。暴力による殺戮という手段の凶暴さは当然批難されるべきだが、自分たちの正義を疑わず、他者の大切にしているものを冒瀆して、それを言論の自由や世俗化という権利や価値・習慣にすり替える西洋人的傲慢さに辟易とさせられたわけです。そうした自己反省のなさが、そのような悲劇を引き起こしたのではないか。そのように思ったのでした。そうした懸念が実現したように11月13日にパリの連続テロ事件が起きました。詳しく報道は接していませんが、このテロに対して「私はシャルリ」デモのような傲慢な行為は行われていないようです(Wikipediaを拝見するとデモがあったのは何故か「日本」でだということです)。
 本書は、まさにその点をついたがために、フランス本国では批判に晒され、著者はメディアでの発言を控えたといいます。そうした時に発言の機会が与えられたのが、日本の『読売新聞』であったことに「安堵感、開放感、孤独からの脱出感」を味わったと著者は述べております(3頁)。やはり日本のメディアでも、あの騒動に違和感を抱いた人が多かったということでしょう。
 本書による排外主義とは、アノミー論で説明されます。つまり、フランスの共通意識を担っていたカトリックが1965年から90年にかけて世俗化によって衰退し、次の唯一神としてEU及び統一通貨ユーロが信仰の対象として選ばれました。しかし、2005年の欧州憲法条約案の国民投票での否決に見られるようにEUへの懐疑が広がり始めました。こうして共通意識を失って人々がアノミー化し始めたところで、シャルリ・エブド事件が起きたことで外国人恐怖症という共通意識が出来上がってしまった。これが「シャルリ」だということです。
 では、こうしてできあがった「私はシャルリ」の「シャルリ」とはどういう人々だったのでしょうか。著者は、デモ参加者の多い都市の特徴から分析し、彼らは高年齢層の管理職・上級職で、もともとカトリックが盛んだったものの世俗化が進んだ都市が多かったといいます。それに加えて、家族構造の特徴が、権威主義的な直系家族が多い地域に見られるとします。
 一見すると、こうした特徴から見られる参加者像は、高所得層で知的な穏健な人々に見えます。また、本人たちも自分たちは、人種差別に根ざした極右的排外主義ではない普遍主義的な穏健な市民であると考えていると思います。しかし、著者はそこに危険があるといいます。つまり、無自覚さがある、というのです。
 彼らは、もともとカトリック教徒だったのですが、徐々に進んだ世俗化によって、自身の宗教を冒瀆する権利を得るようになりました。そのため、ムハンマドを冒瀆する風刺画を認められないとするムスリムの考え方に反発を覚えます。そうして、自分たちのライシテ(世俗化)という価値観を他の宗教信仰者に対して強制するという傲慢な態度を取らせます。
 しかしその一方で、物分りの良い顔をしたい彼らは、多文化主義の名の下に、移民の差異の尊重を訴え、進みつつあった結婚による同化を押しとどめてしまいました。これも無自覚な差別です。
 さらに彼らは、高所得層で、現在または将来における年金の受給者となる人々です。そうなると財政の健全さが自分たちの利益になりますので、緊縮財政を支持します。また、安定した所得があるので、通貨高の政策を取ることが利益になります。これは自由貿易支持にもつながり、自由貿易によって他国から安い商品を輸入し、さらに通貨高政策をとれば、そうした商品はさらに安く手に入れることができます。
 しかし、これらは裏を返すと、若者たちにとって不利なものとなります。まず通貨高政策とリンクした自由貿易は、他国から商品やサービスを受けるわけですから、国内産業が衰退します。国内の企業が、通貨高という足かせで国際競争力が低下する中、安い他国の商品に対抗して値下げ競争が起きるので、商品価格が低下、つまりデフレが生じます。
 デフレが生じると企業利益が低下しますので、人件費を低く抑えようとします。しかし、すでに雇用している人を簡単に解雇する訳にはいかないので、新規雇用を控えようとします。そうすると割りを食うのは、若者たちです。若者たちは就職ができず、低賃金で生き延びていくか、失業し続けることになります。
 では、この失業した若者たちへの支援をどうするかというと、通常ならば、失業保険の充実や公共事業などで就労機会を増やす財政政策を行わなければなりません。しかし、財政健全化の名の下に緊縮財政が行われますので、そうした支援は見込めません。
 つまり、「シャルリ」に象徴される人々が志向する政策は、単に無自覚な外国人恐怖症による排外主義だけではなく、若者たちを食い物にするシルバーデモクラシーであり、さらに若者たちの中でももっとも苦境にあるマグレブ諸国出身のイスラム系移民の若者を追いやります。こうして「シャルリ」によって、苦境に立つイスラム系移民の若者たちは、現状を打開するために、「シャルリ」によって象徴される現体制が避難する「イスラム国」の組織に参加することになります。現体制にとっての「悪」は、現状打破を求める者にとっては救世主になるものなのです。
 著者は、こうした無自覚な排外主義、「年金+消費物価格低下」を求める既得権益者を象徴的に「シャルリ」と呼んでいるのですが、これはフランスにおける「リベラル左派」の人々を指します。ユーロ支持ということで自国にこだわらない普遍主義で、消費増税によって健全な財政を実現して福祉国家の維持を訴え、商品価格の低い住みやすい国造りを求めています。自由貿易否定は排外主義で、通貨安やインフレ政策は商品価格を上げることになるから、人々の生活を脅かす。リベラルだったら、否定しなければならない。こういうことです。
 これって、そっくりそのまま日本のリベラルですな。以前紹介した松尾匡『この経済政策が民主主義を救う』で、中央銀行による金融緩和とそれに基づく財政政策は、欧米基準では「リベラル左派」の政策だ、と述べられていました。しかし、松尾著でも述べられているように、こうした政策を訴えるのは、欧米での現状の「リベラル」に満足できない「左派」の政策のように思えます。つまり、日本もヨーロッパも「リベラル」は、「年金+消費物価格低下」という緊縮財政とデフレが好まれていて、そのために苦境にある若者たちがより「左派」に引き寄せられている。こうしたことだと思います(つづく)。


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2015年12月 1日 (火)

安田浩一『ヘイトスピーチ 「愛国者」たちの憎悪と暴力』(文春新書、2015)

点検読書57

①社会評論

②属性に対する攻撃を不均衡な数的優位の下、攻撃することをヘイトスピーチという。ヘイトスピーチは人を壊す、地域を壊す、社会を壊す。

③どのような現象か、在特会という現象、ヘイトスピーチの定義、韓国人から被差別民・外国人への拡大、ネットでの攻撃、未知への恐れ、ヘイトスピーチへの規制の動きとワキの甘い政治家たち、敵を見つけ敵を吊るす、不寛容の拡大。


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2012年10月20日 (土)

戦後保守と90年代(2)

前回のつづき。

 第一次大戦後の時代状況によって、戦争非合法化、ナショナリズムの勃興に背を向けて、満洲事変以後の日本の対外政策は、「侵略」としかいいようがない、と喝破した林健太郎は、次に、細川護煕内閣成立時に、細川首相が「あの戦争は侵略戦争であった」と発言したことに保守論壇の中から批判が出たことに対して、「あの戦争」=大東亜戦争とは何であったか、と論じることになった。

 それが、「「東京裁判史観」というもの」(『正論』1993年11月号、『歴史からの警告』にて「「東京裁判史観」論議」と改題)である。

 林は、戦後半世紀、平和条約から40年、日韓、日中の国交正常化から30年、20年を経た今日、新内閣がこの問題を事新しく取り上げるのには反対であり、不要かつ有害であるものの、細川演説に反対する人びとの「東京裁判史観の克服」=満洲事変以後の日中戦争は自衛戦争、大東亜戦争は東亜解放の戦いであって、今日その諸民族が独立しているのは日本のおかげという言論には違和感を表明する。

 もっとも、林も「東京裁判史観」というものそれ自体には反対で、国際法的に認められないものであり、判決にも間違いが多く、何よりもソ連が戦勝国に入ったため、ソ連の国際法違反がネグレクトされている等々の問題が多く、この判決に我々が拘束されるべきではない、と考えている。しかし、上記の自衛戦争、民族解放戦争は「事実」に反しており、中国に対し日本はその国民の意志に反して武力占領したのだから「侵略以外の何もの」ではないし、諸民族が独立したのは日本が負けたからであって、日本が占領中に独立させたものではない、とする。

 この発言を、保守論壇誌である『正論』で述べたせいか、同誌上で批判が起こった。その批判の論点は、1943年のビルマ、フィリピンの独立政府の成立の件(田中正明)、日中戦争に関する認識の誤り(総山孝雄)などである。

 まず、大東亜戦争下の民族独立に件について。

 1943年5月31日、日本政府は「大東亜政略指導大綱」を決定し、対満、対華、対仏印、対緬(ビルマ)、対比(フィリピン)について「成るべく速に独立せしむ。独立の時機は概ね本年十月頃と予定し極力諸準備を促進する」と記されてあった。

 そもそもフィリピンは、1898年、スペイン植民地からアメリカの植民地に変っていたが、アメリカは1907年にフィリピン議会を開設し、1916年にはアメリカ議会を通過した「ジョーンズ法(フィリピン自治法)」によって将来の独立を約し、1934年には、十年間の独立準備機関(コモンウェルス期)をおいて独立を認める「タイディングス=マックダフィ法(フィリピン独立法)が成立し、フィリピン議会もこれを承認していた。1935年にはフィリピン憲法が議会の議決と国民投票によって成立し、フィリピン人によるコモンウェルス政府、大統領、副大統領を置き、数年後の独立が既定となっていた。日本は、その時期に進攻・占領したのである。

 日本軍政下のフィリピンは、フィリピン人による行政委員会がつくられたが、大統領と副大統領は米国に逃れ、既存の政党その他の政治団体は禁止され、新聞ラジオも管理下に置かれた。上記の「大東亜政略指導大綱」が出された後、1943年6月には「比島独立指導要綱」が作成され、10月14日にはラウレルを大統領とする「フィリピン共和国」成立が宣言された。しかし、日本と同盟を結んだフィリピン政府は、軍事行動に関して日本軍が全権を行使するだけでなく、戦争遂行のためフィリピンの資源を自由に開発、使用することが定められ、日本軍の現地調達の原則から現地住民からの収奪となり、怨嗟を受けること少なくなかった。

 林は、その領内に膨大な外国軍隊が存在し、その行動およびその維持のための手段が外国の全権に任されている政権を独立国と呼ぶことはできない、と述べ、フィリピンの独立は、日本の敗退とともに復活したコモンウェルスによる総選挙(1946年4月)の結果として7月4日のフィリピン共和国の成立をみたのであって、軍政下の政権が独立政権の体をなしていないのはもちろん、フィリピン人にとってもコモンウェルスの継続が正統な政府であった。

 ビルマに関しては、フィリピンと事情は異なり、1930年代からのイギリスに対する独立運動、1939年頃からの日本軍のビルマ独立派への援助があった(アウンサンを中心とするビルマ独立義勇軍)。1942年5月にビルマ全土を支配下に置き、ビルマ独立義勇軍とともにビルマ入りした日本軍は、ビルマ民衆から歓迎され、アウンサン率いる独立義勇軍はビルマ防衛軍に改編され、42年6月、軍政の下、バ・モーを首班とする行政府を設立した。さらに「大東亜政略指導大綱」をもとに、8月1日にバ・モーを国家主席、アウンサンを国防大臣とする政権が成立した。

 このようにフィリピンと異なり、ビルマでは義勇軍の参加により、一定の独立というかたちを整えたが、ビルマの対外貿易の中絶によって消費物資は不足し、軍票の発行による物資購入はインフレを招き、また軍事的必要のためビルマ人の強制労働も行なわれた(泰緬鉄道など)。そこで、当初はビルマ人に歓迎された政権も、一年後にはアウンサン自身が、「我々の独立は紙上の独立に過ぎない」という演説を行なうようになり、政権内でも反日蜂起の相談が行なわれ、多くの党派を連ねた抗日統一戦線「パサパラ」の結成となった。

 こうした反日気運が高まる中、日本軍は1944年3月インパール作戦を決行し、失敗して7月にビルマに退却した。そして45年3月、英印軍のビルマ進出を迎え撃つため日本軍とビルマ国民軍がラングーンから出撃すると、その途次ビルマ国民軍1万5千が反乱を起こして人民独立軍と称し、英印軍と協力して日本軍と戦った。日本軍は5月ラングーンを放棄し、8月連合軍に降伏する。

 戦後は、イギリスの軍政の後、総督制が復活したが、アウンサンを中心に独立運動が盛り上がり、イギリス本国でもアトリー労働党内閣が植民地独立の方針に転じたので、1947年1月ロンドンでアウンサン・アトリー協定が調印、その後アウンサンが暗殺されるなど紆余曲折を経て、47年4月制憲議会の選挙が行われ、その議会で9月、独立国の憲法が採択され、12月「ビルマ独立法案」がイギリス議会を通過し、1948年1月4日をもってビルマ連邦共和国が誕生した。

 以上のように日本がビルマを独立させたということはできない、というのが林の見解である。

 また日中戦争に関することは、前回と同様、謀略による満洲事変、冀東防共自治政府、冀察政務委員会と、中国民衆と知識人の抗日気分を醸成したことが問題であり、英米両国が蒋介石を援助したことによって、蒋介石=英米帝国主義勢力、日本軍=アジア解放勢力とすることはできず、領土内で軍事的占領を広げる日本軍に抵抗するのは当然であるし、その力が足らない場合は外国の力を借りるのは当然である、と林は述べる。

 さらに第一次大戦後の戦争違法化、ナショナリズムの勃興という視点を再説し、前者を「英米本位の平和」とする観点には、日本に「白人の横暴」を非難する資格があるか、と問い、第一次大戦中に中国に対して行なった「二十一箇条要求」、それに先立つ朝鮮の「三・一運動」に厳しい鎮圧行動を引き起こしたではないか、と述べる。後者に関しては、日本の朝鮮問題にあたるイギリスのアイルランド問題に関して、第一次大戦直前に自治法案が成立していたし、アフリカでは第一次大戦中にイギリスはエジプトを保護国としたが、独立運動が激しく1922年エジプトを独立国とした。アジアではインドに自治を与えることは不可避であるとイギリスは認識しつつあった。第一次大戦後は、西欧列強においても民族・独立運動は、必ずしも無視しうるものではなかったのである。

 林は、「「大東亜戦争」によって日本がアジア諸民族を解放したと主張する人は、中国民族や韓民族はアジアの民族でないと主張するのであろうか」とその矛盾を突いた。

 これに対し、現在も活躍されている小堀桂一郎氏が、批判を展開し、林は満洲事変以降の日本の軍事行動を日本の自衛戦争とし大東亜戦争はアジア解放の戦いであったという主張は〈歴史の事実に反する〉というが、それは「事実」ではなく「解釈」であり、「相手の〈解釈〉を圧服することは許されない」と批判した。また小堀氏は、竹山道雄の「日本が「アジア解放」の掛声をもって無謀な戦争をつづけた後に、結果としてはアジア諸国が独立することになったが、これは日本の意図からよりもむしろ歴史の成行きからそうなった」という文章を引用して、林は「アジア諸民族の解放・独力といふ歴史の展開を敢へて日本の国家的意志と切離して考へ、極力日本の功績を奪ふ様な方向に解釈を打ち立てられようとしてゐるかに見受けられる」と批判した。

 林は、これに対して「解釈」問題はわかりきったことで、「実際にあった事実を無視していたりしたら、その意見はまちがっていると言わなければならない」と応答した。後者に関しては、林は、まさに竹山の言っていることを言っているのであって、小堀氏こそが竹山の「日本の意図」であったものを「日本の国家的意志」と混同しているのではないか、と批判した。

 小堀氏の批判は、これ以外にも「不戦条約」を持ち出すのは理想主義的過ぎるなど多岐にわたるが、論点の繰り返しとなるのでやめておこう。

 この90年代初頭に現われた保守論壇誌『正論』内での林健太郎をめぐる歴史認識論争は、それまで保守と進歩(革新)との間で行なわれてきた歴史認識論争が、保守論壇「内」でも分裂がはじまった、ということを表出させた。それまでは、「反共」という一点で連携していた戦後保守が、これによって分裂したのである。

 この林の歴史観は、日露戦争までは良かったが昭和にはダメになったという司馬遼太郎の歴史認識(「司馬史観」)に近いものがある。林は司馬より10年上ではあるものの、同時代を生きた者として、同様の認識を示したのかもしれない。

 また林の批判者からすれば、林自身は批判的ではあるものの勝者の歴史である「東京裁判史観」に近いとも感じられよう。しかし、林が指摘しているように同時代においても満洲事変に対して批判的な論調が論壇誌にもあったのであり、日中戦争や大東亜戦争に批判的であったからといって、東京裁判史観であるとか占領期の洗脳とはいいきれないだろう。また、常々「国益」や「現実主義」ということを強調する保守派が、「国益」のためではなく「アジア解放のため」というロマンティクなスローガンで国費を消尽させ、敗戦を招いた戦争を肯定するというのもおかしな話であり、そんなお人好し国家は批判されてしかるべきであろう(斎藤隆夫などはこの立場)。大東亜戦争を否定し、徹底した「国益」追求の中国「進出」は肯定できるなら、首尾一貫しているが(逆にアジア解放の理念を信じるなら、中国「侵略」は否定せざるをえないだろう。竹内好などは一面でそうであった)。

 この林健太郎論争以降にも、こうした昭和の戦争論争は断続的につづき、現在にも時おり顔を出している。もっとも、現在では大東亜戦争が実際に「国益」にかなったものかどうかよりも、諸外国との歴史論争においての理論武装としてのそれ、つまり「肯定論」でなければ、諸外国につけいる隙を与えるから、という政治的な要因が大きいような感もある。

 つまり、かつての左翼史観が現にある政治体制に対して正統性を減殺し自身の正統性を強化しようという政治闘争であったように、現在では諸外国に対して同様のことをしている政治闘争なのだろう。やはり、90年代以降、政府が歴史についてふれる機会が増えてしまったことが、これら不毛な議論の最大の要因であったろう。

 閣僚発言や首相発言から端をはっした林健太郎の歴史論争は、戦後保守の分裂を明らかにしたとともに、政治の歴史への言及が復古的な歴史認識を呼び起こすきっかけを生じさせるものとしての教訓があったかもしれない。

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2012年10月17日 (水)

戦後保守と90年代(1)

 「戦後保守」とは何か。

 最も簡単な定義は、冷戦期に左翼でない人、つまり反共産主義者(反共)であることであった。冷戦期の左翼は、本気で日本に社会主義革命が起こると考えていたし、またその実現性が少ないと感じると、社会主義陣営に有利なように「非武装中立」という自覚的な左翼でない人をも魅了する政策課題を挙げて、ソ連の日本侵略を容易にしようとしていた。また、資本主義は帝国主義に転化するというレーニンの考えから、資本主義陣営の代表である米国を侵略勢力と考えることで、敗戦の記憶からの「反米」感情をも包み込むものであった。

 これに対するかたちで、戦後保守は、ソ連との対抗の点で、米国との同盟重視、自由主義経済への信頼によって経済成長を成し遂げようとした人々である。

 これ以外の一般的な共通点としては、天皇への崇拝感情、キリスト教を含む宗教を背景とする倫理的態度、欧米文化への高い教養、マルクス主義的歴史観への違和感、というように、「オールド・リベラリスト」の風貌を受け継いだ人々と言えただろう。また憲法制定時に「オールド・リベラリスト」の多くが、違和感を持ったように憲法改正も共通の課題であった。

 しかし、この連合は、90年前後の冷戦の終結とソ連の解体によって、終了して分裂した。そのあらわれとなったのが、林健太郎の昭和史認識をめぐる論争であった。

 林健太郎(1913~2004)は、近代ドイツ史を専門とする歴史学者で、戦前においてはマルクス主義者で、戦後になってから保守的な実証主義的歴史学者となった、生来の反骨精神の持ち主である。その後、東大総長、自民党の参議院議員を歴任した。1968年の東大紛争時には、全共闘の学生に8日間監禁されて論争を挑まれたものの、その態度が立派であったことなどから、思想的立場を超えて、敬意を持たれたという。

 その林が、1988年に竹下内閣の奥野誠亮国土庁長官が「日中戦争は侵略意図がなかった」等の発言をしたことに対して、批判した(以下林『歴史からの警告』中公文庫、1999年より引用)。

 林は、奥野長官の「日露戦争はロシアの南下を防ぎ独立を守るための戦争であった」という認識には同意しつつも、「日本だけが侵略国とされるのは耐えられない」と日露戦争と日中戦争を混同するような発言を問題視した。

 林によれば、日中戦争は盧溝橋事件という「偶発」事件をきっかけとしたものの、それ以前の張作霖爆殺事件、満洲事変、満洲国樹立、冀東防共自治政府、冀察政務委員会と、日本の大陸進出して、中国の反日ナショナリズムを刺激した。林は「これを侵略と言わずに何であろう」と述べた(108頁)。

 林は、前述のように日露戦争には高い評価をし、この戦争が非白人のナショナリズムに火をつけたものの、日本は逆にこれを抑圧する態度に出た。盧溝橋事件の発端となった北京近郊の日本軍駐留が条約で認められた権利であったとしても、ナショナリズムが覚醒したあとでは、自民族の領土内に外国の軍隊が駐屯して支配力を行使している時に、その撤退を求めるのは自然の勢いであり、合法的な運動によってそれを実現することが望めないならば、実力によって反抗するのもやむを得ない。ましてや、日本軍は満洲において合法性を踏みにじっていたのだから、という。

 「日本だけが侵略国とされる」に関しては、世界の大勢は第一次大戦後、戦争を排した国際協調が時代の指導精神となり、さらに従前の後進的諸民族にナショナリズムが勃興し、その力が抑えがたいものとなった、という時代状況を述べる。

 日本は、前者において、ワシントン会議における中国大陸の領土保全を約束した九カ国条約に加盟し、不戦条約締結国となり、国際連盟の主要な構成国となっていた。後者においては、パリ講和会議において、人種差別撤廃を訴えながらも(全員一致を理由に否決)、占領下の朝鮮民族や中国人へのナショナリズムに理解を示さずに抑圧に回ったこと、を指摘する。

 これらの観点から、満洲事変前後の日本の行動は、時代状況に適合しない行為であり、また柳条湖事件の実行者もそれを理解していたがために、満鉄線路爆発を中国人の行為と偽装することでおこなわざるをえなかったのだ、とした。

 また、蒋介石政権の中国共産党討伐が最終段階に入っていたのもかかわらず、内蒙古と華北への侵略行為が中国人の反日機運を醸成し、それを共産党はたくみに利用し「抗日民族統一戦線」を可能にさせたとして、日本軍の行動が中国共産党の勢力拡大にもっとも影響をあたえた、と主張した。

 林は、以上のことを述べつつも、奥野発言が外国からの干渉を招き、またそれに乗っかるマスコミや野党の姿勢を批判しつつ、他につけこまれる不用意な発言は慎むべきと戒めた。

 この時は、まだ冷戦が終わる前のことであり、それほどの批判はあらわれなかったようだ。しかし、90年代以降の大東亜戦争を巡る議論で、林は保守派内から批判を受けることになる。戦後保守の分裂は、その時に見られたことであった。 (つづく

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2012年2月23日 (木)

立国は私なり、公に非ざるなり

さきほど国会中継をみていたら、福澤諭吉の「立国は私なり、公に非ざるなり」を引用して、個人個人がしっかりしなければ、国は成り立たない、というような趣旨のことを言っていた。

よくこの言葉を引用して、個々人の自立を促して、国家に頼らないようにしよう、という主張をする人がいる。たしかに福澤諭吉は

「人々自ら己れの利を謀りて、他人に依頼せず又他人の依頼を受けず、一毫も取らず一毫も与へずして、独立独行の本文を守りたらば、期せずして自から天下の利益となり、天下は円滑に治まるべし」(「漫に大望を抱く勿れ」)

というように、国家はもちろん他人の世話になるようなことのない個人の育成と、そうした他人同士が競争する市場社会化を目指していた。そして、その強い個人によって構成される国家という意味で、

「一身独立して一国独立する」(『学問のすゝめ』第三編)

という言葉もある。

しかし、「立国は私なり~」と「一身独立して~」は、文脈の中身が異なっている。

後者の「一身独立して~」は、物の考え方や経済基盤で独立したものを持ってないような者は、「他によりすがる心」が生じる一方で、国の支配を人任せにしているため、「報国心」がないとされ、「人に依頼する者」は他人にへつらう心があるから、外国人に対して毅然とした態度を取れない、「独立の気力なき者」は強者を利用して「悪事」をなす。こうしたものばかりでは国は守れないから、しっかりと教育すべきである、というナショナリズムの主張である。前記の議員さんが、もし引用するなら、こちらの方がふさわしかったであろう。

前者の「立国は私なり~」は、国家よりも個人が大事、とたまに誤解する人がいる。しかし、これは「瘠我慢の説」の冒頭にある言葉で、人々が世界のいたるところに生活していても「各処におのおの衣食の富源あれば之に依て生活を遂ぐ可し。又或は各地の固有に有余不足あらんには互に之を交易するも可なり。即ち天与の恩恵にして、耕して食ひ、製造して用ひ、交易して便利を達す」るのだから、「何ぞ必ずしも区々たる人為の国を分て人為の境界を定むることを須ひんや」と記したように、自然の状態では国家や国境などなく、各地に固有の不足したものや余ったものを「交易」すれば足るのに、何故人々は「人為の境界」などを必要とするのか、と問う。市場社会がうまく回れば、国家など必要ないのに、と。

にもかかわらず、国家を必要とするのは「私情」である、と福澤はいう。現在の世界において人々が国民として他国の人民に臨む場合には、こうした市場社会の原則のような普遍性を前提とするわけにはいかないと考えた。つまり、そこでは自国の同胞に対しては他国の民に対するのとは異なった特別の愛着が作用するというわけである。

福澤は、国家のない状態を「公」、ある状態を「私」とし、後者を否定的に捉える思考を前提にしている。『文明論之概略』第七章で唐突に語られる戦争も支配も服従もない「文明の太平」というユートピアを語っていたが、そこにも国家はあるようでないようなものである。

それにもかかわらず、「私情」である国家への「報国心」や「忠君愛国」が、今の国際関係では必要であることを訴えた主張として、「立国は私なり、公に非ざるなり」と述べているのであって、個人の独立心が大事、と言ってるのでもなければ、国家よりも個人が大事、と述べているのではない。しかも、「報国心」(「私」)が普遍原理(「公」)にくらべて異常なものであると理解して述べているのだから、自然な感情としての「パトリオティズム」というより、意識的に持たなければならない「ナショナリズム」の主張といえるだろう。そもそも「瘠我慢の説」が、徳川政権に殉じないで明治政府に高官として登用された勝海舟と榎本武揚を批判した内容なのだから、当然といえる。

だから、「何故、国境なんてあって、みなで争いあうんだろう?」という言葉に対して使う言葉で、自立した個人の確立とか、個人が何よりも大事、という時に使うものではない。また、福澤は、国内の自由競争を強く求めたが、対外貿易に関しては異なる考えをもっていた。「経済ナショナリスト」の方には便利な言葉かもしれない。

昔の偉い人の言葉を使うのも、文脈を考えて慎重にしませんといけませんな。


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2011年9月 5日 (月)

パトリオティズムの訳語の問題

宮村治雄『理学者 兆民』(みすず書房、1988年)所収の「明治パトリオティズム覚書――訳語の歴史をてがかりに」より。

分析の材料は、中江兆民が主宰した仏学塾およびその関係者が刊行した、中江兆民校閲『仏和辞林』(1888年)、中江兆民・野村泰享『仏和字彙』(1893年)、中沢文三郎・野村泰享・阿部漸・森則義著『仏和辞典』(1898年)、野村泰享著『新仏和辞典』(1910年)。

「市民(シトワイアン)」の訳語(206~208頁)

《citoyen》の訳語は、『仏和辞林』『仏和字彙』の訳語では、「士民。自治ノ都府民。国士。尊敬ノ辞(嘗テmonsieurノ語ニ代用シタル)」。「公民。自治ノ都府民。国士。選挙人。尊敬ノ辞」となっており、幕末から明治初期において「町人」ないし「市井ノ人住民」と解する伝統的理解に対して「士」的伝統の文脈でとらえようとしていることと、「市井ノ人住民」という私的な文脈に対して、「自治」の主体、「公民」としての文脈においてとらえようとしていることに特徴がある。

これは、中江兆民『民約訳解』を通して、ルソー『社会契約論』の《citoyen》観が影響を与えている。

「この語〔citoyen〕の真の意味、近代人のあいだでは、ほとんど全く見失われている。近代人の大部分は、都会 ville を都市国家 citè と、また都会の住民 bourgeois を市民 cityen ととりちがえている。彼らは、家屋が都会をつくるが、市民がシテをつくることを知らない」(第1編第6章)

『仏和字彙』の関係箇所では、《citè》「自治ノ都府。府民。都府。府内ノ尤モ旧キ部分。市街」。《ville》「城邑。市府。市街。都府。都人士。府庁」。そして《citoyen》と対置させられた《bourgeois》「都人。中等ノ人。親方(職工頭)。庶人。船主。文人。都府住民ノ総体」と二対の概念が「自治」という言葉の有無を通して区別されている。

では、この概念を統合する《rèpubliaaque》はどうかというと「公事。政治。共和政体。共和国。集合」と、一つの政体、政治制度である以前に、「公事」そのもの「政治」それ自体を端的に意味するもので、「自治」を欠いた「政治」それ自体をありえないことを明らかにしている。

「愛国」の問題(209~212頁)

『仏和字彙』では、《citoyen》の形容詞的用法について、「愛国ノ」という言葉を当てている。

「愛国」という言葉は、少なくとも「古訓」の中には見いだせない新しいものであったと、当時の代表的儒教主義知識人たる西村茂樹は認めていた(『日本道徳論』)。

「愛国」が政府の文書の中で公的に使用されたのは、おそらく明治4年4月のいわゆる「三条教則」およびそれを敷衍した「十一兼題」が最初である。その時、「愛国」は「敬神」という国学的用語と結びつけられ「敬神愛国」という一対のスローガンとして登場した。しかし、この二つの言葉の結びつきの無理は、「三条教則」が急速に行き詰まったことに端的に現れていた。

明治における「愛国」シンボルの流布は、むしろそれと対立する側においてはじめて成立した。すなわち明治7年1月の、民撰議院設立建白と同時に設立された「愛国公党」から「愛国社」へと引きつがれ、『愛国志林』や『愛国雑誌』を機関誌とした国会期成の一大運動においてピークに達する一連の運動である。

彼らが政府の提示する「愛国」シンボルと異なる「愛国」理解をしていたのは、当時の代表的な「愛国論」を集めた『愛国論集』(三宅虎太編、1880年)には、第一に「勤王ハ愛国ト同一質ニ似テ同一ノモノニ非ズ」と「勤王」と「愛国」を区別しているところに表れており、この編者は、「愛国」を《patriotisme》の訳語として捉えている。

また「仮令ヒ王亡ブト雖モ国存ス、国亡ブルトキハ独リ王存スルコト能ハズ」との断言は、一切の行動が特定の人格に対する忠誠によってのみ正当化されえた伝統的理解を超えていく発条としての役割を「愛国」が担いえたことを示唆している。

また「義烈心」と「愛国心」を比較して、前者は「平時ニアラズシテ乱世」に発するもので、「治世ニ無用ノ長物」であり、「一国ノ元気」たる「愛国心」は「乱世」のみではなく「治世」においても発揮するものと解されている。これはヘーゲル『法哲学』の「異常な献身や行為をしようとする気持」と区別された「平常な常態や生活関係において共同体を実体的な基礎および目的と心得ることをならいとする心術」という「愛国心(パトリオティスムス)」に通じるもので、また「郷土愛」などとも区別されていた。

さらに重要なのは、この時の「愛国」が、何らかの所与の実体ではなく、献身を通じてはじめて創りだされるべき関係としてとらえる視点が働いていた。「愛国社再興趣意書」は、「数多ノ小邦国ヲ変壊シテ一大邦国ヲ成立」させるためには「全国人民相互ニ交親シ各々其方向ヲ一ニシ以テ全国一致ノ体裁ヲ成」すことの必要を強調していた。

このように藩閥という空間的障壁を超え、門閥という身分的障壁を超え、水平的方向においても垂直的方向においても自在な「交通」の中で各人が「真成ノ邦国」に向けて再結合しようとするとき、その「真成ノ邦国」に対する献身が徹底的であればあるほど「自由」や「平等」という普遍的価値はこの新しい結合を内側から支える不可欠の根拠として、実感的基盤を持ちえた。「愛国的」であろうとすることが「自由」や「平等」の普遍的価値へのコミットを強め支えるという明治の逆説がそこに成立しえた。兆民が、「愛国ノ国士」の姿を通して《citoyen》をみていたのは、こうした逆説に自覚的であったからであろう。

明治的「愛国」の終焉(213~215頁)

明治後期の『仏和辞典』『新仏和辞典』では顕著な訳語上の変化がある。

《citè》「都会。市(自治の)」。《ville》「都会。都府。市。市街。町棲ひ。町風。市民」。《citoyen》「市民、都人、都人士。公民(選挙権又は被選挙権がある)。敬称」。《bourgeois》「市民。中人士。工場主。親方。平民」。

ここではかつての「自治」という言葉がほぼ消滅し、「都会」や「市民」という両方の文脈を無差別におおうことになっている。幕末以来の、《citoyen》=「町人」「市井ノ人住民」への伝統回帰があらわれている。このように《citoyen》が無害化されたことで、「政治」それ自体を意味するものとされた《rèpubliaaque》が「政体」の一形態としての「共和政体」へと後退させられた。

では、《patoriotisme》はどうなったか。『仏和辞林』や『仏和字彙』では、「愛国心」と並んで「偏愛心」という訳語がそえられていた。これは「愛国心」を至上視する傾向が支配する中で「報国心(パトリオティスム)」を「一国に私する心」と呼び、「報国心と偏頗心とは名を異にして実を同ふするものと云はざるを得ず」(『文明論之概略』)と論じた福澤諭吉の視点への配慮が働いていたといえる。

しかし、こうした語感は『仏和辞典・第三版』(1902年)までは保持されていたものの、『新仏和辞典』(1910年)では「愛国心。報国心」とだけ記されるようになった。そして、《citoyen》の訳語群から「愛国ノ」という語が消えたこととちょうど符合している。

さらに『新仏和辞典』では《nationalisme》という「新語」があらわれ、「愛国主義」という訳語が与えられていた。こうして「愛国」は一方において《citoyen》の文脈から完全に切り離されると同時に、他方において《patriotisme》に保たれていた「偏愛心」的語感をふるい落とした上で成立する《nationalisme》に対してのみ結びつけられた。

感想

中江兆民が考え出した「自治」を通して自覚的につくられる共同体への献身を意味する「愛国心(パトリオティズム)」が、所与の実体としてある国家への献身へと明治期を通して変化していった過程を論じている。この背景には、租税を徴収する主体として対立的であった「天皇の政府」と「民権派」が、日清・日露の戦役を通して、とりわけ日清戦争において多額の賠償金や領土割譲をえたことで、「天皇の政府」の戦勝が国民の利益になりえるという自覚から、その対立が解消され、天皇シンボルを藩閥から奪うことが政党として国民支持を得るのに有利な状況が生まれたことと関連するだろう。「敬神愛国」は失敗したが、「忠君愛国」は戦争を通して成立したのである。

また最後の「ナショナリズム」と「パトリオティズム」の対比は、J・ホイジンガやG・オーウェルらの「パトリオティズム」からの「ナショナリズム」への批判を参照しているが、この二人の場合の「パトリオティズム」は、兆民の自覚的「自治」の論理よりも「郷土愛」のような狭い濃密な関係への献身の意味にどちらかといえば近いような印象がある。これはこれでよいのだが、兆民のシヴィック・ナショナリズム的な要素が中に浮いてしまう印象がある。もっとも、「なんらかの組織と同一視して、それを善悪を超えた次元に置き、その利益を推進すること以外にはいっさいの義務を認めない考え」というオーウェルのナショナリズム批判はあるものの、エスニック・ナショナリズムに近い要素(オーウェル「特定の場所と特定の生活様式にたいする献身的愛情」)で締めに入るのは、それまでにあまり「郷土愛」的要素を「公定ナショナリズム」に対比しているわけではない分、ちょっともったいないような感を受ける。

2011年9月 4日 (日)

民族とネイション 3

塩川伸明『民族とネイション――ナショナリズムという難問』(岩波新書、2008年)のメモ。

「新右翼」と排外的ナショナリズム(153~4頁)

「新右翼」(「極右」「右翼ポピュリズム」など)は1980年代なかばから90年代にかけて各国で台頭し(フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、ノルウェー、オランダその他)、いくつかの国では連立政権の一員として政権参加する例さえ現われた。欧州議会でも一定比率の議席を確保している。

新右翼は雑多な潮流を含むため、全体としての特徴付けは難しいが、経済グローバル化やEU統合進展の中で自己の地位が掘り崩されていると感じる社会層―客観的状況は多様だが、少なくとも主観的に「被害者」「弱者」意識をいだく人々―の不満を集約している面があり、自由主義政党と社会民主党を中軸とする既存政党システムの機能不全へのいらだちが看取される。EU統合の進展の中で、政策決定が国民の手から遠ざかっていることへの反撥もこれに重なる。こうした新右翼運動の中で大きな位置を占めているのが、外国人労働者・移民の増大への反撥であることはいうまでもない。

国家分裂の条件(157頁)

冷戦終焉期に多民族国家の解体を経験したのは、、どれも連邦制をとっていた国であり、しかも、旧来の連邦制度において「共和国」という位置をあたえらていた地域が独立国家になりやすい。2008年2月に一方的独立を宣言したコソヴォは最初の例外であった。これは旧体制下の連邦制度がその解体のあり方を規定していたことを物語っている。旧来の制度は「形式に過ぎない」という一般的にみなされてきたが、にもかかわらず、ある種の実質的な意味を持ったということがここには示されている。

アルメニア人虐殺とEU加盟(169頁)

過去の惨劇の記憶の喚起が現代政治上の争点となっている古典的な例としては、トルコによるアルメニア人大虐殺(1915年)問題がある。世界各地に住むアルメニア人ディアスポラは、この問題を繰り返し取り上げ、欧米諸国へのアピールを重ねてきた、これ自体は冷戦終焉以前から一貫して続いてきたことだが、近年、改めて注目されるようになったのは、トルコ政府が「ジェノサイド」を認めていないことがトルコのEU加盟への重要な障害となっているためである。もっとも、直接当事者でないヨーロッパ諸国とりわけフランスがこの点で強硬な態度をとっているのは、他者(アルメニア人)の悲劇を政治的思惑に利用しているのではないかとの疑念もないではない。

「加害者」の「被害者意識」(172頁)

第二次大戦期の中東欧における記憶の問題として、ドイツ占領地域(中東欧諸国のほかバルト三国やウクライナ・ベラルーシなど)で行なわれたユダヤ人大虐殺がある。というのも、それらの地でユダヤ人虐殺を担ったのはドイツ人だけではなく、反ユダヤ感情をいだいていた現地諸民族もこれに加担した例が少なくないからである。ところが、中東欧やバルト三国の多くの人々は、従来「ソ連体制の被害者」という自己意識のみを強調してきたために、自分たちも「加害者」の一員だったという事実をなかなか正面から受け止めることができないでいる。

ウクライナの歴史論争(172~173頁)

ウクライナでは、ソ連時代の1932~33年に起きた大飢饉を「ウクライナ民族に対するジェノサイド」だと認定する国会決議が2006年11月に採択され、翌2007年5月の戦勝記念日には、ユシチェンコ大統領がウクライナ・パルチザン軍(大戦中に反ソ闘争を遂行したウクライナ民族主義組織)の復権を呼びかけた。ナチのホロコーストと32~33年飢饉を同列におき、そのどちらかを否定する言論はともに刑事罰の対象とすべきだという主張も高まっている。このことはウクライナ内での歴史論争をかきたてると同時に、ウクライナとロシアの間の歴史論争の大きな要素ともなっている。ウクライナ急進ナショナリストの中には、ソ連の後継国たるロシアの謝罪を要求する声があるのに対し、ロシア・ナショナリズムの立場に立つ作家ソルジェニツィンは、飢饉は共産党上層部(少なからぬウクライナ人を含む)の失政によるもので、ウクライナ人抹殺を目論んだものではなかったと述べ、これを民族的ジェノサイドというのは挑発的なたわごとで、ボルシェヴィキ顔負けのデマ宣伝だと、激しい反発をみせた。

ナショナリズムの肯定論から否定論へ(182~183頁)

フランス革命から19世紀を通じて、そして20世紀に入ってからも第一次大戦後の「民族自決」、第二次大戦後から1960年代にかけての植民地独立といった時期においては、「国民国家」の形成およびナショナリズムを肯定的に評価する見解はごくありふれたものだった。もっとも、ナショナリズムがファシズムや領土拡張と結びついた事例もあり、それに対しては批判的な見方が優勢だったが、そうした「大国」のナショナリズムに対比される「小国」―ないしこれから国家を獲得しようとしている民族―のナショナリズムや民族解放運動に対しては同情的な見方が多かった。

この肯定的な評価が大きく後退した契機は、1990年代の旧ユーゴスラビア各地の内戦をはじめとして、世界各地で「非合理的な情念」と見なされる運動による暴力的衝突事件が頻発したことが大きい。また体制移行諸国や途上国のみならず、西欧諸国でも、移民排斥を唱える極右ナショナリズムの高まりなどが、良識ある人の眉をひそめさせるようになり、「ナショナリズムの克服」が多くの人によって唱えられるようになった。

戦後日本のナショナリズム(183~184頁)

日本をめぐる東アジアの状況は、一九五〇年代までは、「革新」の立場からのナショナリズム論が盛んであり、「愛国」という言葉も「進歩的」陣営の旗印の一つだった。これに対し、近年の状況は、日本で「自虐史観批判」とか「戦後レジームの精算」を唱える右派ナショナリズムが高まる一方、これに見合うかのように、中国・韓国の「反日」運動が高まる―そして、それが日本の「嫌中」「嫌韓」感情をさらに刺激する―という悪循環状況が生じ、そうした中で、「ナショナリズム」というもの全般に対して懐疑的な見解が次第に広まってきた。

「よいナショナリズム」と「悪いナショナリズム」区別論(184~186頁)

ごく素朴なレヴェルでは、「弱小民族(被抑圧民族)」のナショナリズムは進歩的だが「大民族(抑圧民族)のナショナリズムは反動的だという見方である(その先駆はレーニンの民族論)。しかし、ある時期まで「被抑圧民族」とみなされていた民族が、自ら意識しないうちに、いつのまにか「大民族(抑圧民族)」に転化するという例は歴史上に数多い(例として、近代日本、ユダヤ人とイスラエル、中国など)。

また時間的推移ではなく、同じ主体が「強者」であり「弱者」でもあるという二面性もある(ロシアに対して相対的「弱者」であるグルジアがアブハジアやオセチアに対して相対的「強者」であり、「ミニ帝国主義」とも呼ばれる)。

同時に「強者」でも「弱者」でもある集団が「自分たちは弱者だ」という自己意識に基づいて集団行動をとるとき、それは往々にして「過剰防衛」になってしまう。このことは一般的に、「強者」と「弱者」、「加害者」と「犠牲者」の線引きの難しさという問題と重なり、アイデンティティ・ポリティクスの難問をなしている。

ナショナリズムの二分法(189~191頁)

ネイションの基礎にエスニックな共通性があるというエスニック・ナショナリズムとネイションはエスニックな共通性に基づくものではないというシヴィック・ナショナリズムの立場。

後者の起源は、マイネッケの「国家国民」と「文化国民」の区別(『世界市民主義と国民国家』)や、ハンス・コーンの「西のナショナリズム」(合理主義・啓蒙主義・リベラリズム・民主主義と結びつく)と「東のナショナリズム」(非合理主義・ロマン主義・排他性と結びつく)の区別(『ナショナリズムの理念』)が有名である。

シヴィック・ナショナリズム論者の議論では、エスニック・ナショナリズムが優位な国は、一つのネイションの中にエスニックな異分子に対する排他的な政策や強引な同化政策が取られ、エスニックな一体性およびそのシンボルが価値をもつのは非合理的な情念に基づくから、そこでは合理主義や自由主義排斥され、そうした国の政治は多様性や自由を尊重しない権威主義に傾き、自民族中心主義・排外主義などが優勢となりやすい、と考える。一方、シヴィック・ナショナリズムの強い国では、ネイションへの帰属を承認するすべての人々が、エスニシティに関わりなく同等の権利を認められ、エスニックな多様性や個人の自由が尊重され、政治の基礎はもっぱら憲法体制の承認におかれる、とする。

シヴィック・ナショナリズムの問題点(192~194頁)

①「西」を理想化し、「東」を蔑視するオリエンタリズム的発想の一種になってしまう。

②「東」の国民国家も「西」のそれの模倣からから始まったので、無縁ではない(シヴィック・ナショナリズムと共和主義の理念によって、少数民族の迫害も行なわれうる)。

③シヴィック・ナショナリズムの国々もかつては言語的同化政策などを強力に推し進めた結果、現在がある(フランス革命後の言語・文化の同化政策)。

④ナショナリズムが特定のネイションを単位としたものである以上、当該民族の文化・伝統のような特殊で固有なものに依拠し、それと結びつきやすいのは当然だが、それは普遍性の論理と対立するものではなく、むしろ両者の結合としてあらわれることが多く、抽象的・普遍的理念を国民統合の核とするナショナリズムの優越意識と無縁ではなく、他者に押しつけることがある(フランスの「自由・平等・友愛」、米国の「アメリカ的自由」、ソ連の「社会主義インターナショナル」など)また「中進国」が「先進国」に自らの文化の固有性を対置する一方で、「後進国」に自らを「普遍的文明伝播の仲介者」と位置づけて、影響力を行使しようとした。

著者のナショナリズムについての見解(208頁)

「民族的差異というものは、(中略)、固定的なものでもなければ、必ず激しい敵対感情をもたらすと決まっているわけでもない。しかし、何らかの紛争のために民族感情が動員され、敵対感情がある程度以上煽り立てられた場合、その収拾はきわめて難しいものとなる。(中略)とすれば、抗争が起こりかける直前の段階――もしくは、小規模な抗争が起きても、まだ決定的にエスカレートしてはいない段階――で、対立感情を煽り立てるか、それとも適時に歯止めをかけるかが、非常に重要な意味をもつ。ナショナリスティックな感情そのものを一般的に否定するには及ばないとしても、それが他者への攻撃の形をとろうとするときには、その悪循環的拡大を防ぐための初期対応が何よりも必要だと思われる。」

2011年9月 2日 (金)

民族とネイション2

塩川伸明『民族とネイション――ナショナリズムという難問』(岩波新書、2008年)のメモ。

ナシオンとフランス革命(42~3頁)

ナシオンは、古い起源をもつとはいえ、もともとの意味としては、たとえば大学における同郷者団体などを指し、ある国家の領域内に住むすべての人とか、ましてそれらの人々の強い一体感と忠誠心の象徴といった意味をおいてはいなかった。しかし、革命を経験する中で、「共通の法律の下に生活し、同じ立法機関によって代表される共同生活体」という「国民」(ナシオン)観が広がった。これと表裏一体をなして、革命の主体とみなされた「第三身分」(平民)が「国民」そのものと等値され、それに属さない貴族階級は「異邦人」「革命の成果を脅かす敵」とみなされた。そのような「敵」――革命に反対する国内の敵と戦争の相手となる外国の双方――に対抗して「国民」全体の統一と連帯を重視する観点から「国民の一体性」が強調された。

ロシア革命までのユダヤ人問題(60~62頁)

十字軍時代以降のヨーロッパで迫害されたユダヤ人は東ポーランドに大量に流入し、またスペインからはオスマン帝国に流入した(当時、ポーランドもオスマン帝国も西欧のようなユダヤ人迫害をしていなかった)。18世紀末の三次にわたるポーランド分割により、その大部分がロシア帝国に引き継がれ、その結果、19世紀から20世紀前半にかけて、ロシア帝国およびその後継者たるソ連は世界最大規模のユダヤ人口をかかえこんだ。また、ハプスブルク帝国には、旧ポーランド領をはじめ各地に少なからぬユダヤ人が居住していた。これらの東方ユダヤ人(アシュケナジム)はイディッシュ語を主に使用し、オスマン帝国ではスペイン系ユダヤ人(セファルディム)が多かった。

ある時期以降、西ヨーロッパ諸国のユダヤ人の間では、言語的・文化的・宗教的に周囲の多数派に同化する傾向が広まり、「民族」としての実体的特徴の多くは薄れつつあったが、周囲の多数派からユダヤ人とみなされ、そのことを本人も意識することで、ある種の「ユダヤ性」を帯びる人々という自己意識が生じるようになった。

しかし、ロシア帝国のユダヤ人は、19世紀後半にある程度の同化傾向が始まったとはいえ、それがあまり進まないうちにポグロム(虐殺)にあい、帝政末期まで全体として同化度は低かった。大多数がユダヤ教とイディッシュ語を維持し、限定された地域に集中しているという意味では、「民族」とみなされる度合いが相対的に高かったとはいえ、居住地域での多数派ではなく、それほど濃密な密集ではないために、独自の国家をつくることは不可能であった。そうした事情を背景に、ある部分は「文化的自治」論に傾斜し、他の部分は、どこか余所の後に「ユダヤ人の国家」を建設しようという考え(シオニズム)を唱えるようになった。後にイスラエルに移住するユダヤ人のかなりの部分は、ロシア帝国およびその隣接地域から移住した人たちであった。

第一次大戦と「民族自決」(92~97頁)

多民族帝国であるロシア帝国やハプスブルク帝国領出身のカウツキーやローザ・ルクセンブルク、またレーニン、スターリンの影響により、「民族自決」が社会主義者の間で19世紀末に一つのテーマとなった。カウツキーは属地主義と属人主義の混合の「文化的自治論」を提示し、レーニンらは領土的民族自決論を提示した(63~64頁)。もっともこれらは、レーニンが権利の保有とその行使とを区別し、分離独立はあまり望ましくなく、むしろ大規模国家の維持が望ましいとしていたように、領土的一体性の維持を前提とした連邦の再編を意味していた。

このような領土的一体性と民族自決との未分化が崩れたのは、第一次大戦時に、ドイツが「民族」という武器を利用して、戦後におけるポーランド国家復興を示唆し、ロシア帝国を揺さぶろうとし、また二月革命後に成立したロシアの臨時政府も独立ポーランド国家創設を提唱し、諸民族の独立運動を刺激したことに始まる。

ロシアの臨時政府が一九一七年三月二十七日の声明で「諸民族の自決の原則に基づく平和」を目標として打ち出したことに対応して、米国のウィルソン大統領が講和の原則として提起した「一四ヶ条」(一九一八年一月)は「民族自決」は謳わなかったがポーランド独立を明示し、戦後に民族自決を公に承認した。

ウィルソンの「民族自決」はネイションを主体としていたため、英語のネイションは主に「国民」の意味であるから、「諸国民の自決」をあらわしていた。しかし、「自決」の適用が争われたドイツ・東欧・ロシア地域では「ネイション」の同系語はむしろエスニックな「民族」のニュアンスで受け取られてしまい、またどの集団が「国家」を獲得するかが未定の段階では、誰が「国民」かをあらかじめ確定することはできなかった。

ソ連におけるユダヤ人問題(115~118頁)

帝政ロシアにおいて諸権利を制限されていたユダヤ人の間に反体制の傾向が強く、諸種の社会運動の中でユダヤ人の比重が高かったのは自然だが、革命前の社会主義政党の中で相対的にユダヤ人を抱えていたのは、ユダヤ人ブント(在ポーランド・リトワニア・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)およびメンシェヴィキであり、ボルシェヴィキに属したのは比較的少数だった。しかし、一九二〇年代になると、かつてブントやシオニスト左派に属していたユダヤ人が大量に共産党に流入し、党員中の比率を高めた。

もともとレーニンは、言語的統一や地理的集中を欠くヨーロッパのユダヤ人を念頭に「民族ではない」と考えていたが、革命後のソヴィエト政権は、ユダヤ人を「民族」として扱った。こうして民族として認定を受けた一方、帝政期の移動制限が解除された結果、大都市への移住が増大し、教育水準の高さとも相まって、言語的・宗教的同化が進んだ。このため、都市部でロシア人と混在し、高い教育を受けて社会的に活躍する人が増える中で、「ユダヤ人」としての民族的指標は急速に掘り崩された。にもかかわらず、公的制度としての民族登録制度においては「ユダヤ人」とみなされつづけ、それが固定化するという逆説的状況が生じた。

第二次大戦以前のソ連では、諸分野のエリート中でのユダヤ人の比率は概して高く、彼らはソヴィエト化の相対的な受益者としての位置を占めたが、そのことがかえって、非ユダヤ人大衆の間の「ユダヤ人=ボルシェヴィキ」同一視、およびそれに由来する反感と差別意識を増幅するという結果を招いた。

大戦期のソ連の領土拡張はユダヤ人が多数住む地域を含んでおり、ソ連のユダヤ人口は大幅に増大した。独ソ戦の渦中においては、ナチ・ドイツが露骨な反ユダヤ主義を公然と掲げている以上、ユダヤ人としてはこれへの対抗上、相対的にソ連を支持する以外に選択の余地はなかった。そのため、非ユダヤ人大衆の間の反感をさらに高める結果となり、戦後において政権は、諸分野のエリート中でのユダヤ人の突出を抑える政策をとった。また、愛国主義宣伝の中で、「祖国をもたない根無し草のコスモポリタン」というレッテルのもとでの事実上の反ユダヤ政策がとられた。しかし、晩年のスターリンがユダヤ人をまるごと強制追放しようとしていたという広く広まっている噂は、実証的根拠を欠くことが明らかになっている。

スターリンの死後、このようなあからさまな反ユダヤ主義は抑制されたが、民衆の間の反ユダヤ意識は根強く残り、一部の政治家もそれを利用し続けた。

つづく。

2011年8月30日 (火)

民族とネイション1

塩川伸明『民族とネイション――ナショナリズムという難問』(岩波新書、2008年)のメモ。

ヨーロッパ諸語における「ネイション」(14~16頁)

英語のネイション/ナショナリティは、エスニックなニュアンスがあまりなく、「民族」より「国民」の方に近い、特に、ナショナリティ(英)/ナシオナリテ(仏)の語は、「国籍」の意味で使われることが多く、その国籍はイギリスでは血統主義ではなく出生地主義によるし、フランスも19世紀末以降、出生地主義の要素が強まったから、その意味でもエスニシティとの結びつきは弱い。

英語圏の中でも多少の差異はあり、米国の場合、ネイションはほぼ完全に「国民」の意味で、エスニックな意味はない。「多数のエスニシティが、その複数性を超えて単一のアメリカン・ネイションに統合する」という発想が優勢。これに対し、カナダでは英語系ネイションとフランス語系ネイションが存在するという見方が優勢で、英国にはイングランド・スコットランド・ウェールズという複数のネイションがあると考えられている。これらでは、日本語の「国民」よりも「民族」に近い。「多民族国家」は米国ではmultiethnic stateだが、英国ではmultination stateともいわれる。だが相対的に英仏のネイションはエスニシティから遠いといえる。

一方で、ドイツとロシアでは、ナツィオーン/ナツィオナリテート(独)、ナーツィヤ/ナツィオナーリノスチ(露)の語にエスニックな意味が付着している。そのため、エスニシティに関わらない「国籍」の意味ではそれぞれシュターツアンゲヘーリヒカイト(独)、グラジュダンストヴォ(露)を使用する。

しかし、英仏同様に微妙な差があり、ドイツ語ではフォルクという言葉にエスニックな意味が込められ、またナツィオーンとナツィオナリテートとでは前者が「自前の国家」を持っているのに対し、後者はそうではないというニュアンスがあり、前者が「国民」、後者が「少数民族」ないしエスニシティという印象なる。またロシア語のナロードはドイツ語のフォルクと似通った言葉であったが、ソ連時代以降、ナーツィヤとナロードを区別して、前者はエスニックな「民族」、後者は超エスニックな「国民」とする使い分けが広まった。

パトリオティズム(愛国主義)とナショナリズム(26~28頁)

忠誠ないし愛着の対象の違いで区別する場合。一つは、パトリオティズムが「愛郷心」と訳されるような狭い範囲への愛着を指し、より広い国家への忠誠がナショナリズムとするもの。もう一つは、大小関係が逆となり、多民族国家においてはその国全体への忠誠心がパトリオティズムで、その中の一つの民族への忠誠心がナショナリズムとなる。たとえば、英国では、グレート・ブリテンへのパトリオティズムに対し、スコットランドやウェールズへのナショナリズムが対置される。

対象のコミットの仕方に注目する場合。単純素朴な愛着心や仲間意識を「愛国心」、より自覚的なイデオロギーを「ナショナリズム」と区別する見方、過度にのめり込む排他的で偏狭な態度を「ナショナリズム」と呼び、より開かれた意識を「愛国主義(ないし愛国心)」とするという区別、あるいは公共性や自由を基礎としたものを「愛国主義(愛国心)」、公共性を欠いた自己中心的意識をナショナリズムと呼ぶ議論、等々がある。

これらの議論によれば、「愛国心(愛国主義)」の語にはプラス・イメージ、「ナショナリズム」の語にはマイナス・イメージがまとわりついていることが多い。

「民族」意識(9・35頁)

エスニシティも民族も、客観的に確定しているものではなく、さまざまな区切り方が可能であり、何らかの単位を設定したり境界線を引いたりする作業はどれも絶対的なものではなく、恣意的であるほかない(杉田敦『境界線の政治学』)。

「民族」は第三者的・学者的には人為的構築物と捉えられる一方、当事者はむしろ原初的・本質的なものとして受け止められがちである。抽象理論として考えるなら言語や民族文化は絶対的・固定的なものではないにもかかわらず、子供時代の無自覚的な習得過程を経た後の成人にとっては、所与かつ変更不能のものとして受け止められ、あたかも絶対的・固定的であるかの外観を呈することになる。実際、民族感情は外からみると「つくられたもの」と捉えられるにしても、内からは「自然なもの」と受け止められてこそ意味を持つ。そのことと関係して、あれこれの国のナショナリズムが対抗しているとき、相手方のナショナリズムは「政府やマスメディアによって人為的にあおられたものだ」とみえるが、自分の方のナショナリズムは「自然」にみえるということがよくあるのも、こうした民族感情の習得過程によって説明できるだろう。

つづく。

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