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明治思想史

2016年8月26日 (金)

福澤諭吉「日本婦人論」

点検読書224

『明治文学全集8 福澤諭吉』(筑摩書房、1966年3月10日)、所収。
1885年(明治18年)6月4日から12日まで『時事新報』社説で掲載。


日本思想史――福澤諭吉


西欧諸国に対抗しうる国家をつくるためには、日本人の人種改良が必要である。他力として考えられるのは雑婚であるが、自力として考えられるのは日本婦人の心身を強化することで、心身ともに健康な子孫を増やすことにある。そのためにも、徳川時代以来の封建道徳がつくりだした男尊女卑をあらためて、女性に財産権を持たせることで責任意識を育て、また適度な性欲を満足させることで健康な身体をつくりだすべきである。


8部構成

1:人種改良の方法としての婦人の心身の活発化

2:婦人への財産権の確保

3:人生の三要素(形体、智識、情感)

4:婦人の再婚を蔑視する風潮は情感をそこなう

5:看過されてきた婦人の健康と性欲(「春情」)

6:婦人の再婚が普通だった中世の日本

7:男女平等の家族の具体案

8:男女平等こそが人種改良の近道

コメント
 福澤諭吉は、雑婚による人種改良論者でした。彼が、強烈なナショナリストであったことは知られていますが、民族主義者だったのではありません。今ある日本列島に存在する政権が外国に蹂躙されて、独立が維持できないことに危機感を持っていたのであって、歴史的に形成された「日本人」という民族性を守りたかったわけではありませんでした。
 その点で、福澤と対比される加藤弘之が、日本には残すべき伝統などないし、個性があるとすれば皇室と日本民族だけなので、もし人種改良しなければ滅びてしまうような弱い民族なら滅びてしまったほうが良い、と優勝劣敗の社会進化論者らしい考え方とは異なります。加藤の方がスッキリしていますが、民族主義者なんですね。
 で、非民族主義者の福澤も雑婚以外の人種改良の方法を考えていたのです。それが本稿の「日本婦人論」で、その内容とは女性に財産権をあたえて責任感をもたせること、具体的には遺産分配の際に女子に不動産を優先させるなどの処置によって私的財産を確保することなどです。また男女平等の婚姻を実現するために、結婚後の姓の創設。つまり、畠山氏と梶原氏が結婚すれば、山原氏になるなど、嫁入り・婿入りというカタチで家名を残すという習慣を改めることを主張しています。もっとも福澤は、本人が親でない人を親と呼ぶことはできない養子制度が大嫌いだったので、そうしたものを必要とする家名というのが不合理だからともいっていますが、かなり急進的な核家族主義者です。また、離婚の権利を平等にすることを主張しています。
 しかし、本稿の最大の特徴は、日本婦人の性欲の問題を認知すべきということです。かねがね日本社会では、妻妾が性的に不遇であった、と福澤は述べます。つまり、大名であったら正妻や愛妾は江戸の藩邸に残されて、大名自身は本領に数人の妾を置くことができます。また、一般武士や商人たちも、藩用や仕事で長期に家を空けることがありますが、交通事情が不十分なために妻妾を家に残していきます。そして、妻妾たちが、家で虚しく過ごすのに対して、男たちは現地で花柳の春を買いに行きます。これでは不平等である、といいます。
 もっとも、福澤は、自分は妻以外女は知らんというほど、性道徳に厳しい人物でしたので、婚姻関係にある婦人が性的に自由を謳歌せよ、と主張しているわけではありません。問題なのは、夫の死別後の寡婦です。通常、妻に死別された夫には、再婚の話が来やすいのに対して、夫に先立たれた妻が再婚することを喜ばない風潮がある、と福澤はいいます。現に、異母兄弟というのは世間に多いものの、異父兄弟というのは少ないのではないか。そうした指摘をするのです。実際のデータがないので、どうとも言えないのですが、福澤の実感ではそのようになっていたというのです。福澤によれば、これは男女平等に反するといいます。
 福澤が言うには、形体と智識と情感という三要素を満足させることが人生の目的となります。形体というのは体の健康ですからしっかりとした食事を摂ることです。智識は学問をすることです。そして情感というのは快楽を得ることによって満足します。食事を過度に摂取すれば身体の健康を損なうように、それぞれ適量の摂取が必要となります。しかし、これまでの健康に関する考察には、性欲に関して看過してきたのではないか、と福澤はいいます。この性欲の満足を得ない場合、一見健康であるものの、神経病などを発するのではないか。現に、大名の子と言うのは、衛生状態や栄養状態が良いにもかかわらず、虚弱な子が多いではないか。それは、母親の方が室内に閉じ込められた上に、主人の寵愛を常に受けられるわけではないという不満と不安が、健康を損ね、子供にも影響を与えているといいます。
 おそらく福澤の理想は、一夫一婦制を確実に実行し、適度な性生活を送ることが良いことで、不幸にも離婚や死別した際に、女性が再婚することへの世間の目を和らげることが大切だ、ということになるでしょう。
 その点で、現在でもそうした目が世間には残っているので、まだまだ福澤の考えは古びていないのではないか、という気がします。その点で、谷原章介夫妻は、福澤基準で言うと立派な家庭なのでしょう。
 さて、福澤の「日本婦人論」の本筋の内容はそんなところなのですが、一箇所気になる部分があります。東洋における男尊女卑の風潮のところで、儒教の影響が強い朝鮮では、夫と死別した寡婦の再婚には厳しい制限がある上に、婚約中に相手が死んでしまったら後家とみなされて結婚できないので、寡婦が多い、という記述があります。しかし、こうした風習には抜け穴があって、性の相手を周旋する「慇懃者」というものがあるというのです。

「深窓の少寡婦も陌頭の楊柳と共に春風に吹かれて死灰自から温気を催ふすときは、傍より竊に其温度を窺ふて通情の道を周旋する者あり。之を慇懃者と云ふ。朝鮮にて慇懃者の盛んなる、恰も一種職業の体を成して、其手に依頼するときは男女共に意の如くならざるはなし。」(115頁)

 この「慇懃者」を利用するのは、若後家だけではなく、夫に相手にされない老妻や妻妾間の争いに敗けた者、夫が単身赴任している者などがいるそうです。儒教の国という外面の厳しさの裏には人情の機微にふれる裏の制度がある、と述べる下りで以上のようなものが紹介されています。しかし、これはグーグル先生にお伺いを立てても、とくに出てくるものではないので、出典が何か、というよりも朝鮮の風俗に関する歴史を調べなければならないのかな、とも思っております。

評価 ☆☆☆

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2016年3月29日 (火)

テツオ・ナジタ『明治維新の遺産』

点検読書158

講談社学術文庫(2013年)刊。
訳者は坂野潤治。
原著は、TETSUO NAJITA "JAPAN The Intellectual of Modern Japabese Politics", Chicago, 1974.
(日本語版 中公新書〔1979年〕刊)


日本思想史


近代日本は高度な合理性の単線的発展ではなく、徳川時代から戦後日本に至るまで、「官僚的合理主義」と「維新主義」という思想傾向の論争と知的・政治的緊張に満ちた過程であったことを叙述。


四部構成
1:「官僚的合理主義」と「維新主義」の用語説明。

2:徳川時代における二主義の相剋と幕末維新。

3:明治立憲制と昭和戦前期。

4:結論

コメント
 本書は、「官僚的合理主義」と「維新主義」という二つの思想傾向の対立と共存という視座で、近代日本への見通しを与えてくれる。
 ここでの「官僚的合理主義」とは、行政は如何に組織され運営されるべきか、如何にしたら行政は人間的になり社会の幸福に役に立つか、すなわち如何にしたら国民を保護し救済することができるか、という「経世済民」の思想として表現される。その代表者は、大久保利通に見られる統治という視点に立った政治指導者である。
 それに対する「維新主義」とは、反官僚主義的な、社会的存在の倫理的・精神的側面に重点をおいた理想主義を意味している。典型的な人物は、西郷隆盛である。
 徳川時代における「官僚的合理主義」は、徳川幕藩体制を支える山崎闇斎の崎門学派や荻生徂徠の徂来学派のような思想であったが、前者は規範の究極的根拠を歴史を超えた存在としての天皇に置き、後者は天皇を世俗的なヒエラルキーの終点に置いたものの抽象的原理とはしなかった。両者ともに現実の政治制度の規範化をすすめるという点で共通していたものの、上記のような相違があった。しかし、次世代の山県大弐になると、徂徠的な歴史の中の制度という観点から、毀損の制度が現状に合わなければ変更可能であるという視点を提示し、その一方で闇斎的な永遠なる天皇という観点から、現存の制度を相対的なものに過ぎなくなり、取り換え可能なものとなる。こうした思想の現実化が、明治維新の「維新主義」であったということになる。
 そして、先に挙げた大久保の官僚主義と西郷の理想主義の対立、大久保を引き継いだ伊藤博文らの立憲制イデオロギーを擁護する加藤弘之らに対する中江兆民・植木枝盛らの民権運動らの「維新主義」などに続いた。こうした傾向は、原敬の政党内閣主義とそれを理論的に擁護した美濃部達吉の「官僚駅合理主義」に対して、前者の暗殺、後者の学問的弾圧を通して「維新主義」による反撃を食らう。
 一見奇妙なようだが、「維新主義」とは、あくまで「官僚的合理主義」に対する「理想主義」であるため、過激になると暗殺も辞さないのであり、その内容も革新的にもなれば反動的にもなりえるのだる。つまりは、現実の政治のわかりにくさ、汚さに対する分かりやすさ、清潔さにつながる考え方であり、現在における左右両派の思想的「清潔」と分かりやすさ、「平和憲法があれば、軍隊はいらない」「日本は誇るべき正しい国」も「維新主義」の子孫たちである。
 このように考えると、この視座というのは、近代日本のみならず現在にまで通底する視野の広いものであるといえるだろう。

評価 ☆☆☆☆


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2016年2月20日 (土)

大隈重信『開國五十年史(抄)』

点検読書128

原著は、上巻が1907、下巻が1908年に刊行。
上巻の「開國五十年史論」、下巻の「開國五十年史結論」が収録(『明治文学全集77 明治史論集(一)』、筑摩書房、1965年)。


日本史――明治思想史


東洋民族の多くの国が滅亡に瀕している中、ヨーロッパの強国・ロシアをも破った日本という国の成り立ちを論述。大隈によれば、日本の特殊性とは、2500年にわたって神話時代から主権者が安定して変わらない「神国」であること、地理的に授かった民族的特質があること、封建割拠の競争の中で民族の能力を練磨してきたこと、を挙げている。また、結論部において、伝統的でありながら、諸外国の先進的知識・技能を吸収し、西洋と東洋を融合させた日本こそが、今後の世界の統一に向けて、大きな役割を果たすであろう、と主張する。


四部構成
1:「神国」とは、神話時代から主権者の変わらない安定した「自然的」な国柄を言う。

2:大陸と適宜の距離を保ったことによる侵略の危険性の小ささと恵まれた国土。

3:封建的割拠による競争の中で各人の能力を練磨し、開国後は外国の思想と風潮の感化を受け、列強に伍する文明国となった。

4:結論として、以上の特徴の上で、日本の西欧との相違は、個人ではなく家族が社会の単位であること、国家を神聖視し主権が安定していること、宗教以前に国家が成立しているためあらゆる宗教が保護・許可されていること。とりわけ宗教的寛容は、国教制度の残る西欧よりも誇れるものがあり、東西文明融合を可能とする日本こそが将来の世界の統一にあたり大きな役割を果たすに違いない。

コメント
 『あさが来た』を見ていたら、高橋英樹演じる大隈重信が出てきて、大隈の書いたものが手元にないかと思ったら、先の『史疑』が収録されていた『明治文学全集77』に『開國五十年史』の大隈重信名で書かれたものがあるのを思い出して読んでみる。
 この『開國五十年史』というのは、大隈重信が代表編集者として名前が出ている上下巻で、伊藤博文や山縣有朋、久米邦武や加藤弘之といった当時の一流の政治家、学者たちによる各巻千ページほどもある論文集である。ここで読んだのは、大隈重信名で書かれたもので、解説によると、大隈の口述筆記を元にして久米邦武や有賀長雄などが執筆したのではないか、と推測されるものであるらしい。
 ざっと読んだだけであるが、冒頭に「日本は神国として健存す」とあってぶったまげるわけですが、大隈によれば、神というのは宗教家の説く超越的な存在ではなく、神の子孫であるという信念のままに自然と成立した国家である、という意味である。つまりは、外国からの侵略によって支配されたこともなく、主権者=天皇の地位が転覆されることもなく、神話時代から歴史時代へと連続しているという意味である。
 ここで注目に値するのは、彼の封建社会評価である。かつて駐日アメリカ大使もつとめたエドウィン・O・ライシャワーは、日本と西欧とは封建社会を経由していたがために、各身分がそれぞれに広範な自治が許され、明確な目的を持って競争し各自の能力を練磨したがために、近代化が可能になった、という趣旨を述べていたが、大隈も封建社会の分権社会が平和であったにもかかわらず、各藩に緊張を維持し続け、武士への武道や学問の鍛錬が怠らない状況が続いたことが、開国後の成長に役立ったことを述べている。かなり趣旨は違うものの、両者ともに封建社会を評価しているのである。大隈が実際これらを執筆したかどうかは疑問であるが、発想自体は大隈のものと考えられるので、その点は慧眼であったろう。
 また、日本が欧米に比べて宗教的自由がある、というのは国家神道であるとか、内村鑑三の不敬事件などを知るものからは意外な感を受けるが、大隈によってそれを語らせよう。

「現今の日本国民は祖先を崇敬し、国家を神聖視するの外、宗教上一視同仁の習慣を養成し得たること是れなり。……近世の欧州諸国は基督教よりも後に起り、専ら僧侶の指導によりて成立したる歴史を有すれども、我国に於ては、国家の建設は凡べての宗教よりも先きにありて、凡べての宗教は国家の保護若くは許可によりて国内に流布せらるれば、如何なる宗教団体も国家より賦与せられざる権利を要求し得るものなし。故に何れの宗教と雖、曾て国家の主権に反抗し、国家と衝突するの勢力を有し得たるものなし。是を以て宗教上の自由を最も多く且つ最も広く人民に与へ、而も行政上及び教育上何等の困難を感ぜざるは、由来我国家の特長なりとす。故に我国には一の国教としての特制なく、又教育は全然凡べての宗教と分離して、宗教と教育と混淆するの弊害あることなし。」(336頁)

「泰西諸国は同一基督教の下にありながら、之が為に幾多の内乱を経過し、又屢々国際的戦争を惹起し、今日に至るまで一の合衆国を除けば、何れの邦国に於ても国教の制度ありて、完全なる自由を凡べての宗教に享有せしむる能はざるにあらずや。縦令法律上は自由なりとせらるゝ所に於ても、社会上一種の宗教ありて他の宗教を排斥し、信仰の自由を検束せざるはなし。之に反して、我国は固有の神道の外、夙に儒教及び仏教を輸入し、近世更に基督教と加へたれども、憲法発布の暁に及びては、愈々公然と宗教の絶対的自由を認識したり。」(341頁)

 上記の通り、日本民族は国家を神聖視している。そのため、国家=天皇という観念が信念となっていた時代において、国家及び天皇への忠誠に反する宗教的自由はないものの、それを侵害しない範囲においては宗教の自由はあったということだろう。それに対して、国教制度のある欧州諸国では、キリスト教に特権的地位が与えられ、それ以外に対する差別待遇は厳然としてあったというのである。たしかに当時において、キリスト教国の宗教の自由は、キリスト教内の各派の自由であって、宗教一般の自由とは異なるかもしれない。その点、何でもありだった日本との事例研究は、少々難しいのかもしれない。しかし、当時の西欧における仏教、イスラム教の自由については面白いテーマであろう。きっと誰かがやっていると思うから、探してみよう。

評価 ☆☆☆☆



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2015年12月25日 (金)

安丸良夫『神々の明治維新』(岩波新書、1979)

点検読書79

副題は、「神仏分離と廃仏毀釈」

歴史――日本史

維新政府が打ちだした神仏分離の政策と、仏教や民俗信仰に対して猛威を振るった排斥運動の過程は、日本人の宗教観に影響を与えた。つまり、初詣など宗教色の弱い儀式には参加できるものの、自身の問題としての宗教へのハードルの高さを感じてしまう、というように。

戦国時代から幕末までの為政者による宗教政策の事例を追うことで、世俗権力優位=世俗権力の神格化という特徴を論じ、明治新政府による神仏分離を含む宗教政策が論じられる。次に廃仏毀釈の事例、政府による神の統制・序列化の国家神道の試み、民衆の宗教生活の変動、国家神道路線の破綻と国家優位の「信教の自由」体制の確立。

メモ
1.政治権力者の神格化への道をひらいたのは織田信長(23頁)
  現世と来世を「総見」する至高神=信長を祀る総見寺
  →これ以降、現世の権力者功績あるものが神として祀られることに(東照宮など)。
   ←中世までは非業の死を遂げたものへの御霊慰撫であった。

2.長州の淫祠破却(39~41頁)
  村田清風の天保改革の一環
  基準は延喜式神名帳に記載のある神が正祀で、そうでないものは淫祀
  (国学者・近藤芳樹の進言による)

3.国家による祭祀の統制思想(42頁)
  徂徠学派→中井竹山・履軒→水戸学・平田国学→水戸・長州藩による淫祀整理へ

4.徳川時代の反秩序的宗教の序列(43頁)
  キリスト教≧かくれ念仏・不受不施派≧一向宗・日蓮宗
  ≧流行神や御霊≧民俗信仰≧仏教一般

5.大教院体制=国家神道体制の破綻(199頁)
  国家神道体制破綻に最も影響力があったのは島地黙雷の政教分離論や浄土真宗の大教院離脱、さらには真宗信徒らの各地の抵抗による。

6.啓蒙思想家の「宗教自由」論(209頁)
  信教の自由よりも政教分離に関心が集まり、おおむね宗教に否定的。


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2015年12月20日 (日)

鶴見俊輔編著『日本の百年1 御一新の嵐』(ちくま学芸文庫、2007)

点検読書75

①歴史――日本史

②幕藩体制への不満を背景に、黒船来航を機に、日本人という民族の自覚と新しい社会の形成を目指した時代を資料をふんだんに引用して描き出す。

③序章・第一・二・三部・終章の五部構成。序章は、鎖国下の日本から漂流し外国に滞在した人々の記録。これらが当時の日本人に海の外のユートピア像を形成した。第一部は黒船来航に対する反応と戊辰戦争における諸相。第二部は新政府側の改革とそれを受ける民衆側の意識。第三部は明治政府主導の改革に取り残された敗者を取り上げることで別の可能性・構想を見ていく。終章は現代に生きる100歳以上の人々への聞き取りの記録。個人史としての時代の変化を見る。

メモ
まぶたを裏返す習慣(68頁)
 まぶたを裏返しにしてから、その上を擦ってくすぐり、なめらかな銅製のヘラでみがく。当時の人々に眼病が多い理由か(オールコック『大君の都』中)。昭和初期までつづき、第二次大戦後すたれた。
→磨いている人はさすがに見たことがないが、まぶたを裏返しにする子供は見たことがある(1980年代)。

榎本武揚の助命(181頁)
 五稜郭開城以前に榎本は、官軍側の参謀・黒田清隆に『海律全書』(フランス人オルトランの海上国際法に関する著書の蘭訳を筆写したもの)を贈り、黒田は福澤諭吉に翻訳を依頼。福澤は数頁訳して、全体をよく訳せるのはヨーロッパで勉強してきた榎本だけだと助言して返す。黒田は、丸坊主になって助命嘆願を新政府会議で主張し、西郷吉之助も赦免を主張し、榎本は助命された。


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2015年12月 5日 (土)

色川大吉『自由民権』(岩波新書、1981)

点検読書61

①歴史――日本史

②自由民権の運動を通して、人々は政治学習の開眼をし、憲法・防衛・民主主義の原理、人権・抵抗・皇室等の問題について学び、実践したことは我々にとって重大な遺産である。


民権結社の簇出と統一政党の挫折。
防衛構想。
私擬憲法。
抵抗権の発動としての「激化」事件。
政治亡命をした人々。
現在への遺産としての民権運動。


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2012年11月22日 (木)

伊藤博文と高橋是清の政治レッスン

伊藤博文と高橋是清の共通点は、ともに戦前日本の大政党であった立憲政友会の総裁であったことだ。伊藤は初代、高橋は原敬暗殺を後に受けた四代目の総裁である。

この二人が、清国を漫遊した際に当時の清国指導者に話した政治の要諦に関するコメントが残っている。それを紹介しよう。

まず、伊藤。

一八九八年、伊藤は第三次伊藤内閣を政権を投げ出して、大隈重信の憲政党内閣に押しつけた後、朝鮮・清国への漫遊の旅に出た。伊藤は、各地で大歓迎を受けた。当時の東アジアにおいて、西欧列強主導の国際関係に順応した明治国家の建設者として尊敬を受けていたためであった。そこで各地で助言を求める大宴会によって伊藤は饗されたのである。

その中でも最も高待遇を受けたのが、清の朝廷で、伊藤は、当時の光緒帝は伊藤を自らの傍らに座らせるという破格の対応をした。その時のものと推測される史料の内に、光緒帝とその首相慶親王に対して、政治の要諦を述べたものがある。それが以下。

「事国家の利害得失に関す、尤も宜しく慎重周詳なるへし。断として軽躁の行為あるへからす。故に上に老成練達の人ありて改革の方針を確立し、下之を佐くるに盛壮気鋭の士を以てし、各々其の事務に当らしめは成緒其れ或は尋繹すへし。万一細に此点を考慮せすして捽然急激の改法に従ふときは適に以て乱階たらむのみ」(「伊藤博文清国関係資料」三七五、『伊藤文書』)

国家のことに関しては、慎重に事を進め、軽々しい行為はあってはならない。そのため、上に経験を積んで物事に精通した人物を挙げて改革の方針を示し、下に年が若く頭の切れる人物をおき、それぞれに仕事をうまくいくであろうから、よく研究した方がいい。この点を考慮せずに、急激な改革を行えば騒乱が起るであろう、というのが意訳か。

つまり、政治改革は急激にやってはならない。とりわけ、行政の長に若手を採用するのではなく、皆が納得するような「老成練達」な人を置いて、守旧派に邪魔はさせない、そして若手の暴走を防ぐ手立てをしなければ、改革は途中で失敗に終わるということである。

次にその約十年後の一九〇七年に正金銀行頭取として各支店の視察、財界の調査、清国の皇族・大臣その他の名士への挨拶のために清国漫遊をした高橋是清が、清国の洋務運動の指導者の一人、張之洞と会見した時の言葉。ちなみに張之洞は先の伊藤の清国行きの際に会見して、意気投合している。

「代議政体は一言にすれば政治の中庸を得たものと云へる。それと反対に、専制政治は極端に走る恐れがある。貴国の歴史に示すごとく、英明の君主を持つ時は、国政治まり、暗愚の主出れば国家紊れる。議院政治にはさうした両極端を持たず、極く良い事もないが、極く悪いこともなく、常に中庸を行つて行く点に私は代議政治に賛成である。
しかし代議政治を布くには、先づ国民の教育が肝要である。国民に政治の理解なくして代議政治をなす時は、愚民は常に野心家の傀儡となり、悪用される恐れがあつて結果は却つて面白くない。貴下がもし議会政治を主張されるならこの点を熟考されたい」

専制政治、つまり独裁は人を選ぶ。良い人が就けば良い結果をもたらすが、そうでない場合は悲惨な結果を得る。その良い結果よりも最悪な結果を懸念して、驚くほどの良い政治ができるわけではないが、最悪の事態は免れる。これが議会政治の「中庸」である。また、国民を十分に教育しておかないと、議会政治はデマゴーグによる悲惨な結果をもたらしかねない、というのである。

高橋の議会政治観は、日本で初めて議会政治論を書いた加藤弘之の『鄰艸』(一八六一年)にも同様の認識が述べられており、憲法と代議政治に特徴づけられる立憲政治の妙味は統治に物差しを与えることで、暗主が出ても悪い結果を出さない、ということを期待したものである。つまり、近代日本の議会政治論の一つの潮流は、専制政治にしないことを期待したところにある。

ひるがえって、現在の日本の政治は、目に見えた「改革」を求めている。しかし、議会政治はドラスティックな改革には向かないシステムである。議会はあくまで国民それぞれの利害を代表した議員による議論をとおして利害調整をする場である。これに飽きて、強い指導力を発揮できるシステムに変えるとなると、当初は良いかもしれないが、人が変わった際にどうなるかわからない。独裁の魅力よりも暴政の悪夢を警戒するのが、議会政治または立憲政治というものである。

では、改革は進まないかといえば、先の伊藤の言のように、改革に反対するような人びとをも納得させる(または承服させる)ような大物を表に出し、下に改革マインドをもった人を配する人事を行ない、漸進的に行なっていくしかない。

伊藤と高橋の言は、現在においてもそれらを教えてくれるヒントになるのではなかろうか。

2012年11月17日 (土)

無血虫の陳列場

兆民中江篤介が衆議院議員を辞めた際の有名な論説に「無欠虫の陳列場」がある。短いので以下全文を引用する。

「衆議院彼れは腰を抜かして、尻餅を搗きたり、総理大臣の演説に震攝し、解散の風評に畏怖し、両度迄否決したる即ち幽霊とも謂ふ可き動議を、大多数にて可決したり、衆議院の予算決議案を以て、予め政府の同意を求めて、乃ち政府の同意を哀求して、其鼻息を伺ふて、然後に唯々諾々其命是れ聴くことゝ為れり、議一期の議会にして、同一事を三度迄議決して、乃ち竜頭蛇尾の文章を書き、前後矛盾の論理を述べ、信を天下後世に失することと為れり、無血虫の陳列場……已みなん、已みなん」(『立憲自由新聞』195号、明治24年2月21日、『中江兆民全集』12、岩波書店、1984年、259頁)

ここでいう「無血虫」とは、何であろうか。渡辺浩『日本政治思想史』によれば、「無脊椎動物」のことで、その事例として高野長英『西説医原枢要』(天保3年=1832年)の「活物区別第一」が参照されており、『日本思想大系55』所収に抄録されたものをみると「人ヨリ無血虫ニ至ルマデ」とあり、その頭注に「アリストテレスの動物分類法によったもので、現在の無脊椎動物」とある(218頁)。アリストテレスの動物分類法では、「有血動物」と「無血動物」という分類法であり、この「無血動物」が「無血虫」にあたるらしい。

こうなると「無血虫」の国語辞典的な解釈「冷酷な人をののしっていう語」(『広辞苑』)とは少々意味がずれるのかもしれない。では、この「無血虫の陳列場」を書かれた時代背景を概観しつつ、これは何かを考えてみる。

明治23年(1890)11月29日に開会された第1回帝国議会において、翌24年1月8日に衆議院予算委員会は予算差提案を衆議院本会議に提出した。その内容は、政府原案9400万円のうち、経常費と臨時費あわせて788万円を削減するものであった。当時の地租収入が約4000万円で、自由党や改進党など民党は、地租の20%減税を要求しており、減税要求額約800万は先の削減案にぴったりと合う。減税に必要な額を歳出から削ることが、予算委員会の課題であった。

問題は、この削減の内に、各省会計局の統廃合、警視庁の東京府への合併、参事官の廃止、書記官の定数減、下級官吏の減員と俸給減など、帝国憲法第10条の行政大権費目であったため、憲法67条によって、議会は政府の同意なくしては削減できないものであった。政府は、67条費目以外の項目については、譲歩の容易があったが、67条費目については同意できず、翌9日、松方正義大蔵大臣は、この査定案が議会で可決された場合、政府は同意しないことを宣言した。もし、予算案可決後に政府の「不同意」があらためて宣言されれば、政府は衆議院解散か総辞職に追い込まれる。これは、政府にとっても、せっかく議員になれた民党にとっても厳しいことにある。

松方の発言に動揺した民党側は、立憲自由党議員による院内会派の弥生倶楽部の総会が開かれ、予算案に対する方針が審議され、修正案を述べる議員の発言中に院外団壮士数十人が乱入して植木枝盛らを殴打するなど混乱がありつつ、出席者74名中42名の賛成で、弥生倶楽部は査定案を採用することを決し、立憲自由党の党議となった。

この査定案採用の強硬派が、兆民中江篤介議員であった。兆民の狙いは、67条費目であっても予算である限り、議会の審議・承認が必要であり、これは憲法解釈を含めた政府と議会の権限争いの意味を持っていた。

しかし、自由党内では、先の弥生倶楽部の採決で少なからず修正派がいたように、兆民の権限争いのような視点よりも、政府と妥協して67条費目以外の予算を削減し、減税を実現することが有権者の願いに適うことであり、また強硬派に近い院外団のような壮士に迎合するよりも議員の自立性を高めたほうが良い、という現実派がいた。

つまり、予算委員会の査定案が決まり、弥生倶楽部で党議が決まったにもかかわらず、党内は割れていたのである。この党内の状況を予測したように兆民は以下のように書いている。

「党員は有り、而して党其物は無し、百足虫の百箇の足に銘々脳髄を有する、一の足は西に行き、他の足は東に行き、又他の足は南に、北に、而して百足虫其物の身体は空間に飄揺せり、囹圄の苦を嘗めたる、放逐の暴に遭ひたる、親友の中に首を絞められたる人物有る、演説する、新聞を書く、而して今や空中に飄揺せる聾耳矇目の一大無血虫たる団体を団成して、夫れにて自ら得々然たり、吾人其胆の大なるに服す、其顔の厚きに服す、然ば則ち今日に於て、我立憲自由党員が心術的に着目す可きは「謹慎」の二字に在り」(「立憲自由党の急務」、『立憲自由新聞』168号、1月5日、『中江兆民全集』12、165頁)

少々意味が取りにくいが、要するに議員一人一人が活発に活動するものの、党としての統一感が無いことを懸念している。ここでの「無血虫」とは、「冷血漢」という意味よりも背骨のない有機体、つまり「無脊椎動物」という意味がふさわしいだろう。兆民にとって、「無血虫」とは、統一的意志を発揮できない、組織として体をなしていない政党を意味しているようである。

その後、2月16日の衆議院本会議に出席した山縣有朋首相と松方正義蔵相が、議会解散を賭しても67条費目の削減には同意しないことを明言し、2月20日、準政府与党である大成会の天野若圓が、予算査定を確定する前に政府と再交渉しようという緊急動議を出し、それに自由党土佐派が賛成し、可決した。300議席中171議席を有していいた民党で、この動議が可決されたのは自由党土佐派が賛成に回ったからである。これが「土佐派の裏切り」と呼ばれるものであった。土佐派は汚名を帯びたものの政府に650万円の予算案削減を認めさせたという意味では、目的を達した。

兆民が翌21日「アルコール中毒」を理由に議員辞職願を提出したことはよく知られている。冒頭に掲げた論説は、その日に出されたものである。

兆民は、党議に対して「奴隷」となることを求めた(163頁)が、その一方で政党は議論を尽くして「真理」を発見する場としての機能をも期待してた(「再告府県会議員諸君」、『中江兆民全集』14、岩波書店、1985年、52~54頁)。つまり、党内議論を尽くして多数決に達したら、それに不満があっても従属するのが政党のあり方である、と述べている。兆民は、単に党の決定に党員は従属すべしというのではなく、全員参加の討論を尽くして党議を決定し、そうした統一的政策目標を掲げた各政党が、選挙を通して争い、議会を構成することを望んでいた。

民主党政権の失敗は、党議を尽くさず「マニフェスト」を作成し、重要政策についても「執行部一任」というかたちで意志形成を行ったため、銘々の議員が勝手に外で発言してしまって、さらには分裂してしまったことにある。

昨日の解散から公示日まで半月以上ある。各党は、党内で議論を尽くして各党候補者全員が納得できる公約を作成した上で、当選した議員がそれに拘束されるというかたちをつくって、選挙に臨んでほしい。そうしなければ、来年の議会も「無血虫の陳列場」となるであろう。


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2012年11月 7日 (水)

四つの宣戦詔書

近代日本は、何度かの対外戦争を経験したが、帝国憲法では、天皇は「統治権ヲ総攬」(第四条)し、「陸海軍ヲ統帥」(第十一条)するとされ、また「戦ヲ宣シ」(第十三条)と宣戦布告の大権も有している。そのため、対外戦争の際に天皇が出した「詔書」は、国家意思の最も端的な表明であり、重要な文献である。

以下、詔書の前段に当たる部分を時代順に並べてみる。

(1)「天佑ヲ保全シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス。
 朕茲ニ清国ニ対シテ戦ヲ宣ス。朕カ百僚有司ハ宜ク朕カ意ヲ体シ陸上ニ海面ニ清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従ヒ以テ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ。苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラシムコトヲ期セヨ。」(「清国ニ対スル宣戦ノ詔」、一八九四年八月一日)

(2)「天佑ヲ保全シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス。
 朕茲ニ露国ニ対シテ戦ヲ宣ス。朕カ陸海軍ハ宜ク全力ヲ極メテ露国ト交戦ノ事ニ従フヘク朕カ百僚有司ハ宜ク各々其ノ職務ニ率ヒ権能ニ応シテ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ。凡ソ国際条規ノ範囲ニ於テ一切ノ手段ヲ尽シ違算ナカラシムコトヲ期セヨ。」(「露国ニ対スル宣戦ノ詔」、一九〇四年二月十日)

(3)「天佑ヲ保全シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス。
 朕茲ニ独逸国ニ対シテ戦ヲ宣ス。朕カ陸海軍ハ宜ク力ヲ極メテ戦闘ノ事ニ従フヘク朕カ百僚有司ハ宜ク職務ニ率循シテ軍国ノ目的ニ達スルニ勗ムヘシ。凡ソ国際条規ノ範囲ニ於テ一切ノ手段ヲ尽シ違算ナカラシムコトヲ期セヨ。」(「独逸国ニ対スル宣戦ノ詔」、一九一四年八月二十三日)

(4)「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス。
 朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス。朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達スルニ違算ナカラシムコトヲ期セヨ。」(「米英両国ニ対スル宣戦ノ詔」、一九四一年十二月八日)

もちろん、近代日本の対外戦争は、以上の四つに限られたものではないが、天皇を頂点とする国家意思の発露としての「宣戦詔書」のある「正式」な戦争がこの四つであり、他のもの(シベリア出兵や満洲事変、支那事変など)は「宣戦布告」なき戦争であった。

これらの詔書は、一見すると定型があり、差はないようにも感じられる。しかし、あらためて並べて読んでみれば、対清から対独へと至る相互の微妙な差異と、他のものと大東亜戦争との大きな変化に気づかされるであろう。

第一のもっとも大きな変化は、君主の呼称、つまり詔書の主語の変化である。日清・日露の時には、「大日本帝国皇帝」であるが、大東亜戦争では「大日本帝国天皇」である。明治期においては、「皇帝」という「帝国の支配者」一般を表現であったのが、昭和期には「天皇」と国内向けの呼称に変わっている。

明治期においては、安政条約以来の条約改正を明治政府の最大の目的となっていた。そもそも、徳川末期の政変とは、和親条約までは認めていたが安政条約締結に孝明天皇が反対したというところからスタートしたのであり、「尊王攘夷」とは「尊王」=「王政復古」であり、「攘夷」=「条約改正」であった。「尊王」は、倒幕と天皇中心の新政府、また帝国憲法制定で満足ができたものの、「攘夷」は明治の末年にやっと完成したものであった。この「攘夷」完遂のためには、逆説的ながら、日本が西欧型の法整備と国力、また「立憲君主国家」と西欧諸国に認められる必要があった。そのため、「万世一系ノ天皇」という出自のアピールは、さほど重要ではなく、「グローバル・スタンダード」の「皇帝」(英訳は〈the Emperor〉)の方が都合が良かったのである。(「攘夷」を反「開国」ではなく、「条約改正」ととらえれば、明治政府が「開国」に進んだのは孝明天皇が容認した路線であり、またあれほどまでに条約改正に熱心に取り組んだ理由がわかりやすくなるだろう)。

しかし、「グローバル・スタンダード」の象徴的存在である英国(米国)との戦争においては、その配慮は必要でなくなった、というのが大東亜戦争の詔書であろう。

第二に、詔勅の呼びかける対象が、対清では「朕カ百僚有司」、対露と対独では「朕カ陸海軍」と「朕カ百僚有司」となっている。日清戦争時には、文官の伊藤博文が首相であったが、日露戦争時には武官出身の桂太郎が首相であった。前者においては、「陸海軍」は「百僚有司」に含まれていたが、後者においては「陸海軍」が独立し、また「百僚有司」に先行した呼びかけ対象となってる。これは、議会勢力から軍の独立性を図るために設けられた軍部大臣現役武官制が、日清戦争と日露戦争の間の一九〇〇年に成立し、また参謀本部の常設別置がなされたことなど、「軍部」というものが政府から独立していた過程を示すものであろう。また、対米英では、以上の二つに加えて「朕カ衆庶」が付け加えられ、「億兆一心」という表現が登場する。これは、官僚機構と軍隊という国家機構によって担われた戦争から、前線と銃後の隔てなく総動員する「全体戦争」という性格があらわれたことを意味している。

第三に、戦争における「国際法」の順守が、対清から対独までには、多少の用語変化を伴いつつも明記されていたのに対し、対米英では削除されている。これは、「国際法」を、共有すべき国際規範とみなすか、米英らの「持てる国」に都合のよい特権的支配のイデオロギーにすぎない、とみるかの分岐を示している。そしてそれはまた、対独までの日本は、「特権的支配のイデオロギー」の下に服している、または属しているという自己認識であり、さらにいえば十分に「立憲君主国家」にもなりきれていない清国やロシア、国際秩序の破壊を目している「無法国家」のドイツような「野蛮」国とは異なるということのアピールでもある。それが大東亜戦争時には、自ら変革者=破壊者の側に向かったという自己認識を暗示している。

また最後に、戦争の目的が、対清・対露では「国家ノ目的」、対独では「軍国ノ目的」の達成にあるのに対し、対米英では「征戦ノ目的」と変化している。つまり、前者では、あくまで戦争は政治的行為の継続として明確な目的がある戦争であったが、後者では「征戦ノ目的」という戦争の勝利それ自体が目的となっており、どちらかの屈服がなければ、戦争は終わらない。そのため、「国際法」の順守という制限に縛られずに、「勝利」のみが追求されることになり、また媾和のタイミングも余力を残している状態ではありえなくなってしまう。

対清・対露の戦争は、朝鮮半島に対する支配権の争いであり、清露両国の影響力排除が確約できれば目的は達するし、対独も清国におけるドイツの支配権排除であり、それが達成できれば戦争は終わる。しかし、大東亜戦争は、政府首脳の中で積極的に戦いたいと思った人物はおらず、各省の責任に押し付け合いの中で、一貫して米国を仮想敵国として軍備拡張をしてきた海軍が組織防衛のため、米国の開戦準備が整う前に開戦すべしという予防戦争論に引っ張られた組織防衛という消極理由によって行なわれた面がある。つまり、「陸海将兵」と「百僚有司」の「自存自衛」というのが目的で、それに「衆庶」が巻き込まれていった戦争という側面もあったであろう。

以上のように、宣戦詔書から、近代日本は、その時の国際秩序の「国家一般」から「特異国家」への、また政府の戦争から「億兆一心」の総力戦へと転換する過程がみられる興味深い重要な史料である。

2012年2月23日 (木)

立国は私なり、公に非ざるなり

さきほど国会中継をみていたら、福澤諭吉の「立国は私なり、公に非ざるなり」を引用して、個人個人がしっかりしなければ、国は成り立たない、というような趣旨のことを言っていた。

よくこの言葉を引用して、個々人の自立を促して、国家に頼らないようにしよう、という主張をする人がいる。たしかに福澤諭吉は

「人々自ら己れの利を謀りて、他人に依頼せず又他人の依頼を受けず、一毫も取らず一毫も与へずして、独立独行の本文を守りたらば、期せずして自から天下の利益となり、天下は円滑に治まるべし」(「漫に大望を抱く勿れ」)

というように、国家はもちろん他人の世話になるようなことのない個人の育成と、そうした他人同士が競争する市場社会化を目指していた。そして、その強い個人によって構成される国家という意味で、

「一身独立して一国独立する」(『学問のすゝめ』第三編)

という言葉もある。

しかし、「立国は私なり~」と「一身独立して~」は、文脈の中身が異なっている。

後者の「一身独立して~」は、物の考え方や経済基盤で独立したものを持ってないような者は、「他によりすがる心」が生じる一方で、国の支配を人任せにしているため、「報国心」がないとされ、「人に依頼する者」は他人にへつらう心があるから、外国人に対して毅然とした態度を取れない、「独立の気力なき者」は強者を利用して「悪事」をなす。こうしたものばかりでは国は守れないから、しっかりと教育すべきである、というナショナリズムの主張である。前記の議員さんが、もし引用するなら、こちらの方がふさわしかったであろう。

前者の「立国は私なり~」は、国家よりも個人が大事、とたまに誤解する人がいる。しかし、これは「瘠我慢の説」の冒頭にある言葉で、人々が世界のいたるところに生活していても「各処におのおの衣食の富源あれば之に依て生活を遂ぐ可し。又或は各地の固有に有余不足あらんには互に之を交易するも可なり。即ち天与の恩恵にして、耕して食ひ、製造して用ひ、交易して便利を達す」るのだから、「何ぞ必ずしも区々たる人為の国を分て人為の境界を定むることを須ひんや」と記したように、自然の状態では国家や国境などなく、各地に固有の不足したものや余ったものを「交易」すれば足るのに、何故人々は「人為の境界」などを必要とするのか、と問う。市場社会がうまく回れば、国家など必要ないのに、と。

にもかかわらず、国家を必要とするのは「私情」である、と福澤はいう。現在の世界において人々が国民として他国の人民に臨む場合には、こうした市場社会の原則のような普遍性を前提とするわけにはいかないと考えた。つまり、そこでは自国の同胞に対しては他国の民に対するのとは異なった特別の愛着が作用するというわけである。

福澤は、国家のない状態を「公」、ある状態を「私」とし、後者を否定的に捉える思考を前提にしている。『文明論之概略』第七章で唐突に語られる戦争も支配も服従もない「文明の太平」というユートピアを語っていたが、そこにも国家はあるようでないようなものである。

それにもかかわらず、「私情」である国家への「報国心」や「忠君愛国」が、今の国際関係では必要であることを訴えた主張として、「立国は私なり、公に非ざるなり」と述べているのであって、個人の独立心が大事、と言ってるのでもなければ、国家よりも個人が大事、と述べているのではない。しかも、「報国心」(「私」)が普遍原理(「公」)にくらべて異常なものであると理解して述べているのだから、自然な感情としての「パトリオティズム」というより、意識的に持たなければならない「ナショナリズム」の主張といえるだろう。そもそも「瘠我慢の説」が、徳川政権に殉じないで明治政府に高官として登用された勝海舟と榎本武揚を批判した内容なのだから、当然といえる。

だから、「何故、国境なんてあって、みなで争いあうんだろう?」という言葉に対して使う言葉で、自立した個人の確立とか、個人が何よりも大事、という時に使うものではない。また、福澤は、国内の自由競争を強く求めたが、対外貿易に関しては異なる考えをもっていた。「経済ナショナリスト」の方には便利な言葉かもしれない。

昔の偉い人の言葉を使うのも、文脈を考えて慎重にしませんといけませんな。


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