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三国志

2015年12月15日 (火)

吉川幸次郎『三国志実録』(ちくま学芸文庫、1997)

点検読書71

①歴史――中国

②『三国志演義』によって悪役となってしまった曹操だが、正史そのものから評価すると偉大な政治家であり、軍事指導者であり、何よりも不世出な詩人であった。その文化人として傑出した曹操およびその息子との曹丕と曹植など曹一族を通した後漢末から三国時代に至るまでを描く。

③第一部に誤解された曹操像の再検討、詩人としての曹操、合理的な軍事指導者としての評価、そして彼の祖父・曹騰を通した後漢末の時代相。第二部は曹丕・曹植兄弟を中心に建安七子の解説。

宮城谷昌光『三国志』の序盤は明らかに本書を種本としているであろう。


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2011年6月28日 (火)

渡邉『三国志』メモ 2

前回のつづき。

公孫瓚の政治基盤

公孫瓚は、支配地域内の名士を抑圧して高い地位にはつけなかった。公孫瓚はその理由を「名士を優遇しても、かれらは自分の力によって高い地位に就いたと考え、自分への忠誠心を抱かないためである」と述べる。君主にとっての名士の問題点を的確に表現した言葉と言えよう。その一方で、公孫瓚は、軍事力を確立するため黄巾の残党を軍に組み入れたほか、烏桓という非漢民族を主力とする「白馬義従」軍を編成し、君主権力を強化した(71頁)。また徐州牧の陶謙も、名士を弾圧して商人を厚遇するなど、公孫瓚と同質の政権構造を有していた(85頁)。

→両者は、劉備と縁の深い人物であり、劉備が諸葛亮を得るまで、またその後も名士抜擢に消極的であったのは、彼らに統治を学んだからかもしれない。

曹操の理想像

「曹操は、橋玄を自分の理想とした。橋玄は、官僚として豪族の不法を許さず、外戚・宦官と関わりを持つ者であっても、その不法行為は必ず弾劾した。また、末っ子を人質に立て籠られた際には、躊躇する司隷校尉(首都圏長官)や洛陽令(首都洛陽の県令)を叱咤して誘拐犯を攻撃、犯人もろとも末っ子を落命させている。橋玄はその足で朝廷に赴くと、「人質事件があった際には、人質を解放するために財貨を用いて悪事を拡大させないようにいたしましょう」と上奏する。当時、洛陽では人質事件が頻発していた。橋玄の断固たるこの処置により、人質事件は途絶えたという。(中略)曹操が採用した法に基づく厳格な猛政、これは橋玄から受け継いだものなのである。」(78頁)

「厳しい法の運用を行う橋玄は、代々伝わる儒教の継承者でもあった。七代前の祖先橋仁は、『礼記』(礼の理念や具体的事例を説く儒教経典)の学問を集大成している。その学問は「橋君学」と呼ばれ、橋氏の「家学」として継承されていた。その一方で、橋玄は、桓帝の末、鮮卑・南匈奴・高句麗が中国に侵入すると、西北方面の異民族対策の総司令官である度遼将軍に抜擢され、三年の間、職務に励み辺境に安定を取り戻した。代々の家学として儒教を伝え、門人に教授するほどの学識を持ちながら、戦場に出れば、鮮やかな采配を振るって敵を粉砕する。さらに、内政にも通暁して三公を歴任した橋玄は、まさに「入りては相、出でては将」と言われる理想的な「儒将」である。「矛を横たえて詩を賦した」とされる曹操は、突如現われた異端児ではない。自らを引き立ててくれた橋玄を理想とし、それに追いつき追い越そうと努力を重ねて、自らの姿を作り上げていくのである。」(78~9頁)

献帝擁立の意味

徐州牧の陶謙によって父親を殺害された曹操は、復讐のために徐州に侵攻、民をも含めた大虐殺を行なった。これは曹操生涯の汚点となり、名士の失望を招いた。この名士の失望は、兗州名士の陳宮が、曹操の旧友張邈とともに、呂布を引き入れ兗州で反乱を起こすという、曹操最大の危機をもたらす。荀彧・程昱・夏侯惇らの活躍により、危機を脱した曹操に正統性回復の切り札として荀彧が提案したのが、献帝の擁立である。自らが擁立した皇帝を殺害することは、義帝を殺害した項羽が劉邦に敗れたように、自滅を招くという故事があり、これによって、自分の代には漢を滅ぼせなくなった。しかし、徐州虐殺で地に堕ちた名声を、漢の復興を大義名分として掲げることで、名士の支持を回復することが可能となった(85~6頁)。

曹操の屯田制の画期性

曹操までの屯田制は、兵糧を確保するため、駐屯地で軍隊が戦闘時以外に耕作を行う軍屯であった。これに対して、曹操は、軍屯だけではなく、一般の農民に土地を与える民屯を行った。これが、隋唐の均田制の直接的な源流となる新しい制度であり、曹操の死後も財政を支え続ける。これまでも、豪族の大土地所有により土地を失った農民が流民化し、社会が不安定になったことに対し、土地の所有を等しくしようとする政策は、試みられてきたが、すべて失敗している。豪族の大土地所有の制限や没収による分配は、統治を流動化させてしまう。そこで曹操は、豪族や名士の持つ大土地には手をつけず、戦乱で荒廃し放棄された土地を整備して流民を呼び寄せ、種籾を与え、耕牛を貸して、彼ら自身に稼がせ、その収穫の六割を税として徴収した。社会が不安定である理由は、大土地所有がいるためではなく、流民が生活できないからであり、彼らが安定した資産を持てば、平等は必要ない、という曹操の時代を創造する新しさがあった(86~7頁)。

荀彧の死の意味

荀彧は、名士の価値観の中心である儒教に基づき運用される「儒教国家」の再建であった。これは諸葛亮のように漢王朝復興に拘らない。曹家中心の「儒教国家」でもかまわない(93~4頁)。

しかし、曹操は「唯才主義」を掲げるなど、儒教の理念とは逸脱している。荀彧の死は、曹操が「儒教国家」の再建ではない新しい君主権力創出の表現であった。曹操が、儒教に変わる理念として提示したのは「文学」であった。曹操が文学の才能によって人材登用を行なったのは、儒教を奉じる名士への対抗措置であった。しかし、赤壁の戦いで敗北した曹操は名士との協調関係を崩せず、文学の才能のある曹植ではなく、名士層とつながりのある曹丕を後継者にせざるをえなかった(95~100頁)。

→赤壁の敗戦が、曹操の政治構想を破綻させたなら、荀彧の死はあまり関係ないのではなかろうか。また曹丕後継を名士との協調で考えるならば、荀彧の死との関係がすこしあいまいになるような気が。

魯粛と諸葛亮

ともに「天下三分の計」を唱えたとされるが、思想的根拠が異なる。諸葛亮のは天下統一=漢王朝復興の戦略論であったが、魯粛のそれは漢王朝復興ではなく、孫権を独自の皇帝とすることに革新性があった。それまでの孫権の幕僚・張紘と張昭は「漢室匡輔」を掲げ、孫堅以来の漢への忠義の路線に乗っていたが、魯粛は「聖漢(孔子が漢王朝を予言したという儒教の正統性イデオロギー)とは関係なく、また天下統一を目指すのではなく、中国大陸の統一を諦めて、三国に分割しようという儒教から逸脱した発想。天下統一に無関心であったため、曹魏を牽制できる劉備の勢力との協調を一貫して唱えた(120~2頁)。

「仁」と「義」

孔子において最も重視された思想は、「仁」である。仁は「人を愛す」(『論語』顔淵篇)であるが、すべての人を等しく愛せ、とするわけではなく、親を愛し、兄弟を愛し、一族を愛し、村の者を愛し、それを国中に及ぼすことを説いたが、その愛は同心円状に広がるもので、強さが異なる。他人よりは一族を、一族よりは親兄弟を愛する「別愛(差別愛)」(墨子)である(152頁)。

これに対し、「義」は他者との関係で考えられる。赤の他人と強い関係を結ぶから「義」兄弟となる。他人であっても「義」があれば、共に生死を誓うことができる。「仁」にはこれはない。他人の中でも最も遠い存在である「敵」であっても、信義を結ぶことができる。そのため、「義絶」と呼ばれた関羽は、神になることができた。仁神では、救う際には身近な人を優先するが、義神ならば誰に対しても信仰があれば救ってくれる(152~3頁)。

関羽祭祀の始まり

魏晉南北朝時代には傑出した武将として関羽は名が挙がっていたが、信仰の対象ではない。唐代に初めて神として祭られたが、傑出した信仰対象ではない。関羽の地位が高くなるのは、宋代から。歴代の王朝の中で軍事力が最弱の宋は、それを補うために国家守護の神として関羽が浮上した。またこのころ『演義』の源流となる「説三分」が普及し、朱子学の影響により蜀漢の支持が高まった。そして、宋との関係が深かった山西商人の関羽信仰が決定づけ、後々までの関羽人気を支えた(156~62頁)。

荊州学

後漢の儒教を集大成した鄭玄の経学は、経典の細かい解釈に拘る精密な学問と儒教の超越性を支える神秘性の承認を特徴とする(漢の建国者劉邦を人間以外のものから生まれた「感生帝」とするなど)。これに対し、諸葛亮が学んだ荊州学は、神秘主義的な解釈を否定する現実的な儒教で、荊州学の流れをくむ王肅は、感生帝説を否定する理知的な経典解釈を行い、鄭玄と並ぶ訓詁学の二大潮流を形成していく。また、荊州学は、儒教が実践的であることを重視し、乱世を平定できなければ、思想としての意味はないとする。このため、諸葛亮は『春秋左氏伝』を規範として、自らの政策を定めていく(165頁)。

→諸葛亮が、学問の細かい解釈に拘らず、大枠をつかめばよいというのは、彼個人の性向ではなく荊州学一般の傾向であったようだ。また、関羽は晩年『左氏伝』を好んだというが、諸葛亮への対抗意識があったのだろうか。

他にも興味深い記述はあるが、とりあえず、ここで打ち止め。

2011年6月27日 (月)

渡邉『三国志』メモ

前回の内容メモ。

日中の「三国志」受容の違い

日本における「三国志」受容に、最も大きな影響を与えた吉川英治『三国志』は、曹操と諸葛亮を中心に描く。これに対して、中国の決定版である毛宗崗本『三国志演義』は、「奸絶」の曹操、「智絶」の諸葛亮に、「義絶」の関羽を加えた三人を物語の中心に置く。日中の違いは、関羽の扱いにあるが、関羽は清代に入ってから関聖帝君として津々浦々で祭られるようになった。吉川が下敷きとした湖南文山『通俗三国志』は明代の李卓吾本を定本にした翻訳であり、関羽信仰がないのと、受容した版本が異なる(4~5頁)。

三国志「演義」とは

『三国志』そのものは難しいので、「通俗」性を高めて普及させることにより、「義」を「演」繹する、すなわち押し広めることを目的とする。その場合の「義」とは、『春秋』の義であり、それは朱子の『資治通鑑綱目』でも示されている、毀誉褒貶を判断して、勧善懲悪を行なうための基準である(10~1頁)

蜀漢正統論の形成

曹魏を正統とする『三国志』に対して、裴松之の注は、すでに曹魏を正統とする立場はとていない。ただし、蜀漢を正統とする立場から、蜀漢に有利な史料だけを集めることもしていない。こうした状況を生み出した理由は、裴松之が仕えた劉宋より一つ前の東晉において、蜀漢を正統とする歴史認識が生まれ、曹魏正統論を相対化していたことによる。蜀漢を正統とする最初の史書は、習鑿歯の『漢晉春秋』。この本は、前漢・後漢の正統は蜀漢に、その正統は西晉・東晉に受け継がれたという歴史認識をもつ。こうした背景には、五胡と呼ばれる非漢民族に、中原を奪われ、長江下流域に建てられた東晉が亡命政権であり、漢の正統を継ぎながら中原を曹魏に奪われ、地方に押し込められた蜀漢と同じ境遇に自身を投影した結果であろう(23~5頁)。

陳寿の思い

陳寿の『三国志』は唐代に「正史」と定められた。したがって、陳寿が正史『三国志』を著した、というのは厳密には誤り。また正史とは、「正」しい「史」書という意味ではなく、国家の「正」統を証明するための「史」書、という意味。正史は、紀伝体という体裁を取り、本紀(皇帝の年代記)と列伝(臣下の伝記)で構成され、原則として正史を編纂する国家から「正統」とされる皇帝が本記に記される。曹魏の禅譲を受けた西晉の史家である陳寿は、曹魏にのみ本紀を設け、劉備も孫権も列伝、曹魏の臣下として扱われる。しかし、蜀漢の遺臣であった陳寿は、劉備と孫権を同列に扱っていない。例えば、彼らの死に関して、孫権は『春秋』によれば諸侯の死を意味する「薨」を使用し、劉備は「殂」という堯の死に使用された表現を使っている(ちなみに曹魏の皇帝の死は「崩」)。これは劉備を堯の子孫、すなわち漢の後継者であることを後世に伝えようとしたことにほかならない(29~31頁)。→陳寿『三国志』にすでに蜀漢正統論がひそんでいたといえる。

「蒼天すでに死す」とは

東アジアの宇宙論の根底に置かれる陰陽五行説。万物は陰(地・月・女など)と陽(天・日・男など)との交わりによって生まれ、木・火・土・金・水という五つの要素(五行)から成り立つ。しかも、五行は、木を燃やすと火になるというように、木(蒼)→火(赤)→土(黄)→金(白)→水(黒)→木・・・というように互いに移り変わる。これを五行相生説という。この万物には国家も含まれ、後漢は赤をシンボルカラーとする火徳の国家とされ、火徳に変わるものは土徳で黄色をシンボルカラーとする国家である。そのため、三国のうち曹魏が黄初、孫呉が黄武・黄龍という元号を使っている。太平道の「黄天まさに立つべし」は五行相生説に適合する(41~2頁)。

では、「蒼天すでに死す」は何か。五行では蒼は木徳であり、五行相生説では火徳の漢の終焉を示すことにはならない。相生説の前に理論化されていた相勝(相剋)説でも、木←金←火←水←土←木・・・であり、火徳に勝つには水徳(黒)でなければならない。では何かといえば、「蒼天」とは儒教の天である昊天上帝を指す。『詩経』黍離では昊天上帝を「蒼天」とされている。太平道=黄巾は自らの道を「中黄太乙(一)」と称しており、「太乙」=「太一」とは前漢の武帝期に黄老思想を背景に最高神として祭祀を受けていた神である。つまり、「蒼天すでに死す 黄天まさに立つべし」とは儒教の終焉と道教の復活を述べたスローガンなのであった(42~6頁)。

前漢の儒教国教化の誤り

武帝期に董仲舒の献策により太学(国立大学)に五経博士が置かれ、儒教が国教化されたと従来いわれていたが、それは班固の『漢書』の偏向した記述をそのまま信じたために生じた誤りである。武帝期には老荘思想に法家の中央集権思想を取り込んだ黄老思想が盛んであり、その最高神として太一が国家の祭祀を受けていた(44頁)。

董卓の人材登用

董卓は、侍中(皇帝の諮問に応える側近者)に伍瓊、相国長史(相国の幕府の長官)に何顒といった名士を次々と登用し、荀彧の伯父荀爽を司空(三公)に、陳羣の父陳紀を卿(大臣)に抜擢している。逆に、董卓の親愛するものは、高い官職には就けず、将校とするだけであった。(50頁)

つづく

2011年6月26日 (日)

儒教と名士の『三国志』

渡邉義浩『三国志 演技から正史、そして史実へ』(中公新書、2011年3月25日)を読む。

本書は、儒教と「名士」という視点で三国志を読み直している。

ここでの儒教は、まず陳寿『三国志』から『三国志演義』へと移行する過程で、朱子学的「大義名分論」(「大義名分」は日本の水戸学発祥だとされうが・・・)による人物像の変容を促したものとして、また後漢の章帝期以降の漢王朝を「儒教国家」として正統化する思想、そしてこの正統性機能は三国時代における政治行動を規定する遺産または桎梏となっていたことを意味している。

次に「名士」は、「漢代の豪族(大土地所有者)を主たる出身階層としながら、両晉南北朝時代の貴族の源流となっていく三国時代の知識人層を呼ぶための分析概念」で、ブルデューの文化資本論からヒントを得ているという(五一頁)。おそらく、一般には「士大夫」と称される儒学おさめた知識人層のことであろうが、「士大夫」の場合、後の科挙によって選出された官僚を意味する呼称としてのイメージが強く、また単なる土地所有や官にあったかではなく、「名声」というものを重視する観点から、「名士」という概念を用いているのであろう。

これら二つの概念から三国それぞれをみると、

曹魏は、曹操が献帝を擁立したことにより、「儒教国家」漢の論理に従わざるをえなくなり、また彼を支える者たちは儒教をおさめた「名士」たちであった。この「名士」を基礎付ける儒教とは異なる「文学」という思想により政権を正統化する意志が曹操にはあったが、曹植ではなく曹丕を後継者に選ぶことにより、その試みは挫折した。そのため、ほぼ唯一の「名士」出身の司馬氏による晉王朝成立が準備されることになる。

蜀漢。劉備はそもそも関羽、張飛といった非「名士」層と結びつくことでキャリアをスタートした。その背後には張世平のような承認がバックにあり、また大富豪伝説のある糜竺などが彼を支えていた。そこに「名士」が加わるのは諸葛亮からであり、劉備と諸葛亮はこの政権基盤につき多少の対立があった。例えば、諸葛亮が勧める「名士」たち(劉巴や馬謖など)を劉備が好まず、法正のような「名士」にしてはガラの悪い人物を重用した。また諸葛亮の北伐の失敗は、「名士」政権の後継者として期待し、しかも益州派ではなく自身の出身基盤である荊州派の馬謖を信頼したためである。また儒教においては、あくまで「儒教国家」である漢王朝復興を掲げていた。このことが後世に儒教がより影響力が高まるに連れて、魏や呉に比べて、高い評価を得る要因となった。

孫呉。孫家の出身階層は地方豪族。初代の孫堅は唯一董卓軍を破るという武功により、漢の忠臣であるという「名声」を得る。二代目の孫策は「名士」の周瑜の助けを得ることができたが、呉在来の「名士」陸氏を虐殺したため、「名士」との関係が一度壊れる。これが孫策に悲劇につながった。しかし、三代目の孫権は「名士」との関係修復をはかり、陸氏の陸遜が幕下に入るなど、一定の成功をおさめる(孫権の学問好きも「名士」との関係改善を求めるためだったかもしれない)。しかし、後継者争いにおいて陸遜を死に追いやるなど、再び「名士」との関係が悪化し、衰亡の原因となる。

また、本書において魯粛の「天下三分の計」の革新性が述べられる。諸葛亮のそれは、中原の曹操、呉の孫権がいるため、荊州と益州をとって孫呉と結ぶことで曹魏に対抗し、その後孫呉を倒すという天下統一の戦略論であり、常識的であった。それに対し、魯粛のそれは、統一を目指すのではなく、目的が三国鼎立である。漢王朝復興とは関係なく、独自の王朝を建てるというのはユニークである。「儒教国家」漢のイデオロギーから自由なのである。そのため、魯粛は曹魏を牽制できる能力を持つ、劉備の勢力との協調路線をあくまで目指した。

以上のように、本書は三国志の普通の一般書むけの著作とは異なり、「正史」と「演義」の人物像の相違を述べるだけではなく、当時の社会構造に着目して人物論を展開しているのが興味深い。一般に目に触れる三国志モノは、多くが文学者の手によるものであるのに対し、この著者が史学者であることが本書の独自性と面白さがあるのではなかろうか。

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