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西郷隆盛

2015年12月21日 (月)

西郷、龍馬、そして幕府再評価

 昨日取りあげた鶴見俊輔編『日本の百年1 御一新の嵐』によると、西郷隆盛は、明治新政府に満足しない人たちが、その不満を託するもっとも適切な人物であったという。西郷自身は、幕末期の政治構想や人脈・政治的力量は高く評価されるものの、その最期に関するかぎり旧士族にかつがれた素朴な軍人かも知れない。しかし、彼の新政府の批判者として屈することなく戦った彼の姿勢とその死はさまざまな空想を生んだという。

 例えば、以下のような西郷に対する空想や思慕が生まれた。

1.幕府側諸藩出身者

内村鑑三
 内村は、高崎松平家(譜代八万二千石)家臣馬廻格五十石取りの家に生まれている。その彼の著書『代表的日本人』には、日本の維新は西郷の維新であり、西郷は清教徒革命のクロムウェルの比せられるべき人物として取りあげられている。

新渡戸稲造
 新渡戸は、戊辰戦争の際に官軍と戦った盛岡藩(外様二十万石)の藩主の用人の子として生まれている。彼もまた英国人に西郷を説明する際に、西郷は米国のリンカーンに比べ得る人物である、と述べたという。

2.右翼

 右翼一般において、西郷は理想的人物像として尊敬の対象となっており、大川周明にとっては、自分の母親と西郷とはひとしく自分の生涯を安楽にしてくれたありがたい導師である、と述べている(『安楽の門』)。

3.大衆文学

 大衆文学において、西郷はかっこうの題材となり、林房雄『西郷隆盛』(1939~70年)、海音寺潮五郎『西郷隆盛』(1955~56年)をはじめとして多くの小説の主人公となっている。しかし、これら史伝タイプの伝記小説ではなく、西郷の影を追う伝奇小説への影響も見逃せない。その一つが押川春浪『武侠の日本』(1902年)で、そこではフィリピン独立運動の謎の軍師として、生きていた西郷を登場させている。また獅子文六『南の風』(1942年)では、カンボジアにあらわれた西郷の落し胤を迎えて新興宗教をつくろうとする筋書きとなっている。

4.尊敬する人

 次に「尊敬する人物」としてあげられる西郷である。

 1938年11月の東京帝国大学の調査
1位 西郷隆盛225票 2位 ゲーテ132票 3位 キリスト105票 4位 東郷平八郎99票 5位 釈迦93票 6位 吉田松陰90票 7位 カント85票 8位 乃木希典62票 9位 日蓮62票 10位 野口英世 58票

他を押しのけた西郷人気である。宗教家・軍人人気の中に野口英世が入っているあたり、昭和期の子供向け伝記シリーズの常連になる素地ができていたということか。

 ちなみに1963年の東大法学部の調査になるとこんな感じである。
1位 シュバイツァー51票 2位 マルクス24票 3位 矢内原忠雄21票 4位 ラッセル16票 5位 リンカーン14票 6位 ベートーベン13票 7位 福澤諭吉11票 7位 毛沢東 11票 8位 ナポレオン11票 10位 レーニン10票

 人道主義、平和主義、共産主義、民主主義、ナショナリズムと戦後の時代の混沌とした社会思想を感じ取れるような気もするが、本当の2位は「自分の父母」28票であった、というのも「公」のためではなく「私」の優先・肯定が浸透した時代でもあったのだった。

 以上のように、西郷は明治後半から昭和にかけての人々惹きつける何かがあった。それについて、鶴見氏は、押川春浪に見られるようにアジア的改革とアジア連帯のシンボルとして、また内村鑑三に見られるように明治の革命に対する再革命の理想を掲げる永久革命の理想像としての西郷像があったのだろうと指摘する。そしてまた、自分を慕って集まってきた青年たちの至らなさまで含めてその全体を愛し、ともに死ぬという共同体との心中を美しいと感じる日本人の美意識もあったのではないか、とも。

 しかし、西郷ほどではないものの、戦前の大衆意識の底流にもう一人の理想像があった。それが坂本龍馬であった。その坂本の大衆文化でのあらわれは、「月形半平太」として誕生した。

 月形半平太は、1919年6月、大坂弁天座で初めて演じられ大当たりとなった幕末時代劇に登場するオリジナルキャラクターであった。その名は劇作家の行友李風の命名によるが、福岡藩士の月形洗蔵と土佐藩士の武市半平太に由来するものの中身は坂本龍馬であった。

 第一次大戦後の平和と民主主義の理想に照らして、明治維新の志士から、尊王攘夷から尊王開国へと政治的シンボルを転換させ、また幕末維新期の土佐の公議政体派の源流の一つでもある坂本をモデルとして選ばれたのではないか。その月形は、その転換ゆえに、かつての同志から裏切り者と呼ばれて殺される。一部に根強い龍馬暗殺の盟友黒幕説の高い支持の淵源は、月形にあるのかもしれない。

 もう一つの重要な明治維新解釈がある。それは、幕府再評価である。例えば、津田左右吉『幕末における政府とそれに対する反動勢力」(『心』1957年3・4月)は、明治維新に際して、武力を元に改革をおこなった尊王攘夷派によって維新のコースは歪められた。明治の改革のより良いコースは幕臣の中の良識派の構想の中にあったが、その構想は実現されることなく、その後、百年かかった、と明治政府の否定・幕府再評価を行なっている。これは、津田左右吉の戦後もしばらく経ってからの論文であるが、保守系雑誌『心』に掲載されたものという経緯から考えると、戦後日本の革新勢力に対して、戦前の自由主義派による改革というものを擁護する意識があったのかもしれない。

 以上のように、西郷、龍馬、幕府再評価と並べてみると、どれを好むかによって、自ずとその人の政治傾向が見られるだろう。

反体制感情を持つ人    → 西郷

体制内改革の気分の人  → 龍馬

体制派知識人的な保守派 → 幕府再評価

 西郷を好む「反体制感情」というのは、その体制まるごとの革新を目指す人々である。明治国家においては、反藩閥政府であり、反西洋化であり、反資本主義、反国体などの感情で、戦後日本においては反自民党、反米、反資本主義、反戦後憲法などの志向がある人が西郷に親しみを感じるのだろう。
 一方、龍馬を好む「体制内改革」というのは、明治国家においては、帝国憲法を否定せずにその枠内で平和主義・民主主義の実現を図ろうとする人々であり、戦後日本においては戦前の軍国主義を否定しつつも憲法改正を支持する親米派、その上で社会主義革命などラディカルな改革には慎重で、政権交代可能な二大政党制の確立など、穏健な民主化を進めるタイプの人かもしれない。戦後における坂本龍馬人気は、元サンケイ新聞記者で『サンケイ新聞』に連載された司馬遼太郎の『竜馬がゆく』ということを考えれば、大体そんなところでしょう。当時の『サンケイ新聞』の路線は、あくまで反共・自民支持であって、軍国主義の日本を肯定しようという傾向はあまりなかっただろうし。司馬が、明治は良かったけど昭和はダメという主張であったし、また西郷が苦手と考えているあたり、革命幻想はなかったであろう。

 最後の幕府再評価は、政治的改革などには興味のない知識層であろう。かつての左翼系の知識人は、明治維新が好きだった。やはり何といっても体制が変革するというカタルシスと下級武士をも含めた民衆のエネルギーに肯定的であったからだ。その一方で体制化した維新政府に対しては批判的という、一貫した反体制派であったのである。しかし、近年の知識層は、社会主義革命などの民衆のエネルギーを背景にした変革に興味を失っているし、現状を肯定している。だから、彼らは、表面上は民主主義を肯定するが、民主的に選ばれた首相が何か改革しようものなら、反対の姿勢を明らかにし、そうした指導者を支持する大衆を軽蔑している保守的な人びとである。ここでの「保守」とは、何ら思想的の意味のない現状肯定である。民主主義的背景を元にした憲法改正には反対、行政改革には反対、経済政策の転換にも反対といった「保守」である。

 言ってみれば、エリート主義なのである。

 そのため、知的に劣る下級武士による革命よりも、幕臣たち知的エリートたちの改革にシンパシーを感じ取る。そういった感じではないか。

 近年は、西郷人気はあまりない。どうも、革命幻想というのに人々は辟易としているのである。そして、これは革命を成し遂げて体制派になった維新の元勲たちの人気の低さにも感じられる。その一方で、西郷同様に可能性の理想像として民衆に支持の高い坂本龍馬と、龍馬と龍馬好きを軽蔑して幕府を再評価する知識層。この二分化が、現在見られるのではないか。そんな風に感じた。


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2011年6月24日 (金)

重野安繹と西郷隆盛 3

のつづき。

薩英戦争および生麦事件の交渉をまとめた重野安繹。この最終日に、重野らは英国に軍艦の注文を申し込んだという。これには英国も驚き、昨日まで戦争をした国に、軍艦をこしらえてやろうというのは例のないことだ、と困惑したが、薩摩側は、例はないだろうが薩摩は英国と深く結びたいから、考えてもらいたい、「価は幾らでも払ふ」といったら、同意した。

この背景には、この頃から幕府と薩摩がにらみ合う状況にあり、幕府は陸海軍ともにフランス式を採用しているから、薩摩は英国式で対抗したい。また英国としてもフランスが幕府に結びついているのを「嫉妬」しており、薩摩は諸藩の中で「強藩」であるからフランに対抗できると両者の利害が一致した(102頁)。

どうやら薩英関係は、薩摩がまずもちかけたものであったようだ。

この後、重野は病と称して京都に向かい、島津久光の内意を聞きに行ったが、この時、攘夷派による暗殺の危機があったという(103頁)。

英国との交渉が済み、京都での政局の打開をするため、小松帯刀と大久保一蔵は島津久光に西郷の呼び戻しを進言して、1864年2月に島を出ることができた。

このあとの記述は、西郷の学問、師友、人となりが言及される。

重野によれば、西郷はひろく学問とするというよりは要領を得るというのを第一にするタイプで、また彼の人物は学問よりも禅でつちかったものだという(104頁)。西郷もそれなりの学で初期の他藩の人脈を築いたともいわれているが、重野にとってはとるに足らないものであったのだろう。

西郷の禅の師は、日参という人物であったが、これの師は無参といい、いわゆる秩父崩れの残党であったらしい。

「西郷はさういふ人々に育てられたから、倒された方の精神を余程多く持つて居た。ぢやに依つて時の家老などが、横柄に振ふのをひどく憎む性質がある。それは免れぬことで、兎角小人の君側を擁閉することは西郷の性質上憎むやうになる。学問も矢張さういふ風に偏して居る。それが遂に十年の西南戦争の前に、世に謂ふ征韓論を唱へて、国へ帰つて私学党を立つて、十年の乱が起つたのも皆さういふところから来て居ると思ふ。」(105頁)

この重野の評価は、分かるようで分からないような感じだが、おそらく征韓論前の伊藤博文、井上馨、大隈重信らの第二世代を「小人」と見立てての彼らの「横柄」さを暗示させているのであろう。

次の西郷評は意外なようで、なるほどと思わせる。

「西郷は兎角相手を取る性質がある。是は西郷の悪いところである。自分にもそれは悪いといふことを云つて居た。さうして其の相手をばひどく憎む塩梅がある。西郷といふ人は一体大度量のある人物ではない。人は豪傑肌であるけれども、度量が大きいとは云へない。謂はゞ度量が偏狭である。度量が偏狭であるから、西南の役などが起るのである。世間の人は大変度量の広い人のやうに思つて居るが、それは皮相の見で、矢張敵を持つ性質である。トウトウ敵を持つて、それがために自分も倒れるに至つた。」(105頁)

西郷といえば、大度量の典型のようにいわれるが、たしかにそうではなさそうだ。ただ先の引用とあわせて考えれば、分かりやすい。大度量のエピソードとして江戸城無血開城、また戊辰戦争時の敗軍への配慮があるが、これは「倒された方の精神」に同情する感覚である。しかし、幕末の久光に対する態度や明治新政府での位置をみると、人間の好き嫌いが激しく、権力への抵抗者という性質が表れてしまい、また徹底して抵抗するという忍耐力はなく、拗ねてどっかに行ってしまう。しかも、それでいて子分が多いのだから始末に終えない人物である。『三国志』の関羽は部下にやさしく同僚に傲慢という人物だったらしいが、それに似ている。また現代日本の政権与党にも似たタイプの人がいますね。

重野はこういう西郷を「どうも西郷は一生世の中に敵を持つ性質で、敵が居らぬとさびしくてたまらないやうであつた」(107頁)と評しているが、的確である。

西郷が尊敬した人物

鹿児島では山内作次郎や関勇助など秩父党の遺老で、これらを大変尊敬していた。外では藤田東湖、大久保一翁、勝安芳、これは「天下の人傑」といっていた。学者では、安政の大獄の対象ともなった京都の陽明学者・春日讃岐守(洪庵)。朋輩では、大久保一蔵、吉井幸輔、税所篤、得能良介、伊地知正治。重野の評によれば、伊地知は薩摩では「学問があつて、意表のことを云ふので、大変信仰して居つた」という(108頁)。

人となり

重野によれば、「西郷の人と為りは、今申す通り度量は狭いが、人と艱苦を共にするといふところが、持前で、古人の謂ふ士卒の下なる者と飲食を共にする風であつた」。これが倒幕の原動力であり、また西南の役で身を滅ぼす原因となったが、あれだけのことができた、という。

西郷が江戸にいた時、重野に語ったこととして

「江戸には昔の三河武士の気象は少しもなくなつた、唯火消をする鳶の者といふのがある、これは火の中でも何でも構はず飛込んで往つて、死ぬることを何とも思はぬ、実に潔い、あれなどが昔の三河武士の気象が残つて居るものであらう」といっていたという。「かの男伊達侠客が、西郷はすきであつた」(109頁)。

次に島津斉彬論を語ることで、西郷論を論じているところだが、斉彬は幕閣と徳川斉昭との周旋を行ない、斉昭は一橋慶喜を将軍に据えて、自身が介入することで大政奉還のようなことを成し遂げようとしていたフシがあったが、斉彬の心中はどうであったか。斉彬はそこまでラディカルであったか、西郷に多く影響を与えた斉彬から、西郷が単純な勤王家であったかどうか、分かりかねる、と重野は示唆している。

最後に西郷の義侠心の例として、重野自身のちょっとしたイタズラで切腹の危機にあるところを西郷に助けてもらい遠島で済んだことが述べられる(112~3頁)。

このエッセイでは、西郷論を軸として、幕末の志士としての重野が語られる。御庭方時代の西郷に他藩の人物との公共に便宜を計ったこと、薩英戦争後の交渉役としての逸話など。久光の怒りにふれた西郷を大久保が死を決して説得に行くシーンの出典は重野だというのを確認できた。また敵がいなければ落ち着かぬ西郷という人物像を的確に評した、一つの西郷論の型をつくったものといえよう。

2011年6月23日 (木)

重野安繹と西郷隆盛 2

のつづき。

先の京都の一件で、罪をえた西郷は、京から薩摩に帰国を命じられ、山川港にて命を待ち、徳之島へ流罪となる。大島・徳之島・喜界島は三島と称して、比較的罪の軽い者の流罪所であったわけだが、寺田屋事件の影響で、より罪の重い沖永良部島への配流が決まる。寺田屋に集まった壮士は西郷の子分のようなものという判断から、西郷を重罪とすることでそうした連中を牽制しよとしたことらしい。

一方で、重野はこの間の1863年3月に赦免状が届き、大島から帰参した。この時、君側の有力者を訪ね、話していた時に、遠島先から逃げることは可能か、という質問を受けた。重野は、これを西郷のことで、彼らは西郷を殺すつもりだと思ったという。重野は、島から逃げ出すことはできない、と強調し、後に警戒するよう沖永良部島に一書を送った。

二ノ丸御付(久光御付)の御庭方となった重野は、長州藩の下関砲撃の視察のため、川路利良を召し連れ、白石某(正一郎?)の邸で高杉晋作・林友幸らに面会して、交戦の状況を聞いた。そして帰国してしばらくして薩英戦争が始まる。

原因はいわずと知れた生麦事件であるが、鹿児島湾に現われた英艦への応接掛に重野は、伊地知正治とともに命じられ、英艦に赴いた。

この時の問答は、英側としては生麦事件から十ヶ月も経つのに返答がないので薩摩藩主と直接交渉したいといい、重野らは主は湯治に出ていて不在である、この件を鹿児島で決することはできない、江戸の政府の指揮を受けて決したいから、一度ここを引きとってくれ、とのもの。この時の通詞は、シーボルトの次男であった。その後2、3度応接したが談判はまとまらない。そんな中、英艦が薩摩の蒸気船三艘を引き連れているのを見て、打ち払えということになり、戦闘開始。この三艘の二つには寺島宗則と五代友厚が乗っていた。戦闘の結果は、薩摩側の死傷者はわずかで、英側は船長二人の戦死と多数の戦死と薩摩優勢であったが、城下のおよそ四分の一が焼失した。重野によれば、海上の英艦のアームストロング砲が狙いを外して、海岸より上の方の町に達したためとしている。

退去した英艦が長崎にいると判断した藩政府は重野らを派遣したが、当地にて横浜にいるであろうと聞かされ、蒸気船にて横浜へ向かう。そこで、重野らはまず板倉勝静、一橋慶喜を訪ね、薩英の交渉の了解をえた。

交渉では、戦争の発端である蒸気船の問題について、英側は国際法に則った行為だと主張し、薩摩では盗まれたと考えて攻撃したのだから、お互い様である、また戦争に関しても被害は双方にあるから、「曲直は問ふまい」と薩英戦争に関しては論題にのせず、生麦事件のみの談判となった。

この交渉において、被害者の妻子養育料を薩摩が払うことになったのだが、幕府に建て替えてもらった。薩摩としては、戦争はこれ以上したくないが、輿論は攘夷を望んでいる、長州はやったのに薩摩はやらない、今回ついに行ったから薩摩の輿望は高まった、朝廷から賞賛の詞書までもらってしまった、そのため薩摩藩の名目で金を出すわけにはいかないから、支藩の佐土原藩名目で出すことにした。この時、重野は自身が責任を持つとして、談判をまとめたという。

つづく。

2011年6月22日 (水)

重野安繹と西郷隆盛 1

『重野博士史学論文集』下巻収録の「西郷南洲逸話」のメモ。

重野安繹と西郷南洲の交流が始まるのは、重野が昌平黌、西郷が島津斉彬の御庭方として江戸にいたときに始まる。それは斉彬が他藩との情報交換をするため、西郷を使っていた時に、他藩の学者と交流のある重野が紹介の労をとったためだという(七一~二頁)。

島津斉彬は、鎖港派の徳川斉昭、開港派の阿部正弘の中間におり、どちらとも懇意にしていた。ある日、斉彬は西郷に斉昭の「開港鎖港論がどういう腹か」と尋ねたところ、西郷は「申すまでもありません」と答えると、斉昭は「鎖港論か。(お前は)まだ其位のことか」といったという。

重野によれば、この時、西郷は斉昭に深意があることを知ったという。

「老公は表に鎖港を唱へて居ても、内心はさうでない。併し鎖港論を唱へなければ、当時の人心が落着かぬから、鎖港論を唱へて居るけれども、それは表面上のことで、深意があると云ふことを始めて知つたと云ふ。成程景山公は、決して鎖港に固まる人ではない。あれは唯一時の人心を安んぜしむる策略と見える。尤もそれを補佐したのは藤田東湖だ。」(七三頁)

ここでは斉昭の攘夷論が「策略」であったと語られ、それを補佐していたのが、尊王攘夷運動のイデオローグ藤田東湖であったという。西郷が後に「攘夷?ありゃ方便じゃ」といったとかいわれているが、元ネタは藤田にあったのかもしれない。

しかし、不幸なことに開港論の阿部(1857年)も、策を弄した斉昭(1860年)も、その真意を知って中間派でいた斉彬(1858年)も病死する。また藤田東湖も安政大地震(1855年)ですでに圧死していた。そのため、攘夷は方便という「深意」は忘れられ、開鎖両者の対立が深まる。

西郷から聞いた島津斉彬の政権構想は、いずれ開港する。天皇を世に出し、そのもとに幕府を置き、門閥に関わらず人才は諸藩から用いて、幕府を助けた上で大政を朝廷に奉還する。諸大名の領国支配という意味での封建制の廃止や四民平等までは考えていなかったであろう(七四頁)。

これをみる限り、島津久光は斉彬の方針に忠実であったようだ。

先に西郷は「御庭方」として江戸にのぼったと書いたが、これは将軍の御庭番を模して、斉彬がつくったという。これに西郷をあてた。しかし、その後、西郷は大島へ流罪。その時、重野も別の罪で大島にいた。西郷は重野より早く大島をでたが別の罪で沖永良部島へ流罪。その時、重野は罪を許されて島を出て、西郷の後釜として島津久光の御庭方となった(七六頁)。

次に月照との入水が語られる。西郷は何故かこの月照に初対面から惚れ込み、ともに生死を決せんとの誓いを心中もっていたらしいが、安政の大獄時に月照が西郷を頼って薩摩に来たが、藩庁ではこの時「俗論派」(幕府よりの党派)が中心であったため、引き払うように命じた。この時、船で日向に向かう際、島津歳久を祀る心岳寺あたりで月照に「御一拝」を勧め、合唱していると、西郷が打き抱えて二人沈んだという。

別に月照が死にたいから、付きってくれといったのではなく、西郷の思い込み(?)で入水して、自分は生き残ってしまったようだ。その後、西郷は「始終死を急ぐ心持ちがあつた」という(そりゃそうかも)。

で、三年の大島行きを命じられるが到着まで時間がかかったため、実質一年二、三ヶ月で、藩としても幕府をはばかっての遠島に過ぎないから、結構優遇していたらしい。この時、西郷は大島三右衛門と名乗っていた。

西郷の変名の変遷。幼名を小吉、一四・五歳のころ吉之助、その後は吉兵衛、幕府の嫌疑を受けた際に菊池源吾、大島の時に大島三右衛門、沖永良部島から帰った際に吉之助に戻す。また沖永良部島の時に、「屈虫」という号を使ったが、木場伝内の忠告により、「南洲」と改めた(八一頁)。

次に沖永良部島遠島のこと。事の発端は、澎湃として島津久光上京論が出た際に、西郷が必要だとして、大島から呼び戻され、御前にて意見を命じられた。そこで西郷は時期尚早論を唱えた。重野によれば、西郷は久光が公家のもとに養子に行った薩摩の陪臣が幕府・朝廷の周旋をするのは不似合いなこと、九州の僻地に育った久光には斉彬ほどの名望はないことを心中に考えていた。それは口には出さず、側近たちを書生論で国を誤らすかと喝破し、久光はもちろん側近たちの恨みも買った。これが遠島の原因。

しかし、直接の原因は、上京の際の先発として情報収集のため西郷は下関に行くことを命じられてが、下関で浪士たちが京都で事をあげようと大騒ぎであったため、命を待たずに西郷はそれを鎮圧するため京都に向かう。そのため、久光の不興を買い、騒動をおさめたと喜んで大久保に報告に行ったところ、大久保が刺し違える覚悟で西郷と対面したというのは有名な話。

大久保は、久光に西郷の真意を報告し、助命を勝ちとったが、その後側近たちが讒謗したため、遠島を命じられた。

この話は西南戦争で西郷が死んだ時、大久保利通が重野を自宅に招いて語ったことだという。

「是は人の知らぬことで、自分が西郷の伝を書かうと思ふが、自分は文筆がないから、お前が西郷の伝を書いて呉れ。其時は今話したことを書き入れて呉れと言はれた。即ち大久保の直話である。然るに大久保は其翌年凶徒の為めに殺害され、西郷と一年違ひで死んだのは、恰も前に両人刺し違へて死なんとしたことを実行したる如くにて、偶然であらうが、不思議に思はれる。」(八七頁)

つづく。

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