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昭和史

2016年11月25日 (金)

荒畑寒村『寒村自伝』つづき

承前 

 こうした戦後の政治的・思想的混沌状況の中で、寒村の友人の小堀甚二の再軍備論が興味深かいです。小堀は、戦前のプロレタリア文学者であったが、右派主導の日本社会党に不満で、寒村や山川均、向坂逸郎らと社会主義労働党準備会を立ち上げた人物でした。しかし、小堀が、ここで再軍備論を主張したために分裂し、解散に至ったのですが、その主張が興味深いのです。

 この労働党準備会の中で、もっとも「進歩的文化人」のような発想をするのは向坂逸郎で、彼はソ連は社会主義国であるから侵略はしない、だから日本に軍備は必要ない、という主張です。山川均は、そこまで思い切りは良くなく、ソ連が社会主義国だから侵略をしないとはいえないが、日本が軍備を持つとかえって侵略の対象となりかねないので、軍備は持つべきではない、と結論は向坂と同じです。

 こうした再軍備反対論に対して小堀は、次のように述べます。

「日本には今でも厳として軍隊があって、ブルジョア秩序の維持に当っている。しかも普通の軍隊とちがって、この軍隊は単にブルジョア秩序の維持に当っているだけでなく、他国の権益の維持にも当っている。占領軍がそれだ。/われわれは講和条約締結後、この外国軍隊を、日本人によって組織された最大限に民主主義的な軍隊とおき替えようというのだわれわれは観念の中でなら、軍隊のない国家を想像することもできる。しかし現実の世界では、自国民で組織された軍隊がなければ、他国の軍隊がこの真空状態をうずめる。だから自国民で組織された軍隊を否定することは、外国軍の駐屯を肯定することだ。だからまた、それは日本の植民地化を肯定することであり、あり得べき第三次世界大戦において少なくとも日本国土の戦場化を肯定することでありまた日本の労働者階級に対して社会主義のための闘争を断念することを要求するものだ。」(422頁)

 つまり、駐留米軍という資本主義世界の秩序維持部隊であり、かつ日本の植民地化を促進する軍隊を撤退させるためには、日本人自らが軍隊を持つべきだという主張です。彼の言う「最大限に民主主義」的な軍隊とは、宣戦、動員、召集を国民代表の議会が掌握するものを指します。また、モデルとしては、明治国家の師団化する前の鎮台兵であり、また民兵制度を考えています。つまりは、防衛目的のみの全国民参加の軍隊というものです。過去において、こうした発想は中江兆民の「土着兵」構想に見られます。

 小堀のこの考え方は、社会主義実現という目的に奉仕するものです。というのも、資本主義世界の代表である米軍が日本に駐留している間には、どう考えても日本の社会主義化は不可能です。この点は、他の現在に至るまでの基地闘争を行っている左翼運動家と同じでしょう。左翼運動家は米軍を撤退させた後には、非武装中立、または裏の目的としてソ連などの社会主義国の日本への侵入がその真空状態を埋めることで、日本の社会主義化を可能にするとします。しかし、小堀は、第2次大戦前後からのソ連の東欧への侵略を批判していますし、朝鮮戦争は当時としての珍しく明確に北からの南への侵略を明言して批判しているように、社会主義国建設は他国の力を借りるのではなく、自らの力で勝ち取るものです。ですから、米軍の撤退と自国軍建設は表裏一体なのです。軍備を持たないことは米軍か、ソ連軍を呼び込むことにしかならないのです。「今日の再軍備反対論者」は「無意識に侵略国家に奉仕している」も同様と指摘されています(434頁)。さらには、次のようにも述べています。

再軍備問題について何らの積極的意見をもたず、ただ反対反対と叫ぶことによって、再軍備に関する一切のイニシアチーヴを保守勢力に委ねている」(425頁)

 つまり、再軍備について真面目に考えないということは、保守勢力の永続支配を認めることにしかならずに、結局ところ、社会主義国建設を真面目に考えていないということになるというのです。

 こうした小堀の構想が左翼勢力の中で合意を得ることができたら、戦後日本は随分と変わったものとなったでしょう。楽観的には、最左翼が再軍備論を唱えたので、日和見のリベラルも軍備に関して真面目て考え出して、他の自由世界の中での社会民主主義政党のように米国と協調しつつ、社会主義政策を実現する政党ができていたかもしれませんし、極端な場合だと、日本に小堀らの社会主義勢力が政権を取って、社会主義の一党独裁政権ができていたかもしれません。どちらにしても、現在よりも安全保障についての議論の風通しの良さがあって憲法の改正が行なわれていたかもしれません。それが良いかどうかは分かりませんが、現実に政権担当が可能な政党が一つしかない状態や憲法解釈を官僚に委ねるような現実の戦後日本よりも「民主」的な政治運営が行なわれていたでしょう。

 しかし、こうした小堀の議論は、受け入れられるものではありませんでしたし、これをきっかけに社会主義労働党準備会も解散を余儀なくされます。本書の主人公である荒畑寒村は、小堀に同情的ではあるものの、現実に侵略の危機があるとは思えないという情勢判断の下に、再軍備には反対の立場でいました。とはいうものの、寒村は、小堀と山川均・向坂逸郎らとの対話は可能で、落とし所があるであろうと考えていたそうです。しかし、その見通しは甘く、分裂していまします。その点について、寒村は次のように指摘します。

「私はこの問題に関する主張の相違は、もっと自由な相互の討議によって調整できると信じていたが、そういう親切な同志的な方法をとらないで直ちに準備会と絶縁した山川君の態度を、私は深く遺憾とせざるを得なかった。意見の相違を、同志的な愛情と理論的な究明によって、徹底的に解決しようとはせず、排斥するのでなければ黙殺するのが日本の社会主義者の悪い伝統だ。」(431頁)

 ここが問題ですね。現在も同様だと思います。これは、多分、左翼だけの問題ではないと思います。おそらく右翼の方もそうでしょう。福澤諭吉は、幕末にイギリスに出かけた時に、違う政党に属して対立している者同士が親しく食事をしている姿を見て、理解するのに数日かかったと『福翁自伝』で述べていますが、日本の政治運動の世界はまだまだ封建社会の住人なのでしょう。こうしたところを乗り越えない限り、融通無碍な保守政党に勝つことは出来ないでしょう。でも、まぁそれでこそ左翼であり、右翼なのですが、それを薄めたリベラル勢力がそんななのだから、いかんのでしょうけどね。

 それはともかくとして、本書はなかなか興味深い社会主義運動の裏面史を垣間見せてくれる良書です。

評価 ☆☆☆


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2016年11月24日 (木)

荒畑寒村『寒村自伝 下巻』

点検読書243

岩波文庫(1975年12月16日)刊


日本史――自伝


サンディカリズムに傾倒した大杉栄と決別し、日本共産党結成へと荒畑寒村は同士らと動く。そして、その結成を報告するためにモスクワへと旅立つ。下巻は、ロシア行きと労農派の動向、戦時下と戦後の社会主義運動の内幕を語る。


5部構成

1:第一次日本共産党結成(1)

2:ロシア周遊(2~5)

3:共産党解散と『労農』(6~8)

4:戦時下(9)

5:戦後の社会主義運動(10~14)

コメント
 上巻は、随分前に読んだのですが、やっと下巻に目を通すことができました。しかし、期待していたほど、戦時下の社会主義者の動きや「あの戦争」についてのコメントがそれほどないな、という印象を持ちました。
 というのも、戦後の記述で、野坂参三が「戦争中、反戦運動をしたのは共産党だけだった」と述べたのですが、寒村の感想としては「そんな事実が果たしてあったかなかったか、海外に亡命していた野坂君よりも空襲下の日本に生活していた私たちの方がよく知っている」(349頁)というものでした。つまり、特に目立った運動などはなかったので、それを書いていないだけのようです。それだけでも本書は、無意味な「神話」に彩られていない誠実な記録とも言えます
 また、生粋の左翼である寒村は、党派的に発言をするのではなく、社会主義者の原則としてものを考えるために、戦後の堕落した共産主義者・社会主義者には痛烈な批判をしています
 例えば、彼の共産党への反感は、彼らの「祖国」であるスターリン支配下のソ連に対する甘い味方をするところに向けられます。

「スターリンは他国と他民族を併呑掠奪しながら、偽善的にもなお平和を唱えているのだ。そして各国の共産党はソ連の行動を是認し、日本に原爆が投下された時、彼らの機関紙は筆をそろえて称賛したではないか。日本が他国を侵略するのはもちろん悪い。だが、ロシアは果たして日本を侵略していないか。単に社会主義国という金看板に眩惑されて、こんな資本主義国の侵略政策と選ぶところのない不正不義に憤慨も、反対も、糾弾もしない社会主義者なんて犬にでも食われるがいい。」(351~352頁)

 これと同様のの趣旨として、「進歩的文化人」批判も痛烈です。

わが国でも、思想と表現の自由を守る護民官である筈のいわゆる進歩的文化人が、戦争の間は軍部の侵略政策に尻尾をふり、戦後は面をおし拭って民主主義を唱えている。かつてはヒットラーを神格化し、国民の自由と人権を絞殺したナチスの虐政に迎合した彼らは、今やスターリンを神の如く崇拝し、中世の異端焚殺の如き血の粛清と強制収容所の奴隷労働とをもって、思想と表現の自由を弾圧しているソ連の全体主義体制に対しても、批判の口を閉ざすことを進歩的と考えている。社会主義者の中にさえ、ソ連に対する批判をただちに反動的と認めるような傾向がある。こういう日本の文化的風土に反対して、民主的自由のためにたたかう運動の意義は、決して欧米に劣るものではない。」(437~438頁)

 かつて冷戦時代には、「アメリカの核は悪の兵器、中ソの核は善い兵器」ということが公然と言われていたそうですが、荒畑寒村のように主義思想に生きる人間にとって、こうした空気や属人的な価値判断に左右される無原則な大衆的知識人は度し難いものたちであったのでしょう。

 また、社会主義者・寒村の本領が発揮されるのは、現憲法を保持して社会主義建設などできない、とはっきりと述べているところです。「現在の憲法は生産手段における私有財産制、階級的支配、賃金制度の労働力搾取を含意する資本主義制度の上に存している」(482頁)のだから、社会主義政党が議会多数派を制した暁には、当然のごとく憲法を改正して社会主義国家建設に勤しむとします。

 しかし、当時の社会党は、耳に心地よいことしか言いません。社会主義国家建設という原則よりも、世間からの批判を恐れているからです。

それもこれも、ひっきょう社会党がジャーナリズム恐怖症にかかり、社会主義の究極目的、革命の必然的段階である独裁政権を、大胆に公言することを憚っているからだ。革命は一の階級がその意志を他の階級に強制するものであって、議会主義的民主主義からの飛躍なしには行なわれない。その意味で、革命の本質は暴力的であり、現に民主主義そのものが暴力革命の所産ではないか。」(482~483頁)

 ここまでいってもらえる気分がいいものです。自分たちの原理原則から考えれば、憲法改正を主張すべきなのに、護憲政党で通そうとするところに欺瞞があります。こうした欺瞞に加えて、日本の左翼・リベラルが信用されないのは、先に指摘さていたように、あまりに党派的であることに加えて、批判を恐れて耳障りの良いことをいって、平気で嘘をつき、さらにそれが嘘であることを忘れて、嘘を本気で主張し始めることでしょう。その最たるものが、民主党政権でした。彼らは、本当の目的を隠して嘘をついて政権の座を占めたというよりも、嘘を本気で信じてしまって確固たる原則もプランもなかったので、何もできずに結局のところ官僚にいいように取り込まれるという政権でした。
 寒村のような確信的左翼は、支持する気はないものの、やはり人間、原則を信じることが最も裏切られることの少い正直な生き方を可能にするのでしょうし、周りから見ていても気分が良いものです

つづく

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2016年9月 5日 (月)

筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』

点検読書230

副題は、「二大政党制はなぜ挫折したのか」
ちくま新書(2012年10月10日)刊


日本政治史――昭和史


普通選挙導入を争点とした第二次護憲運動を機に成立した戦前日本の二大政党による政党政治は8年で終わりを告げ、軍部の台頭を許すこととなった。多くの人に期待された政党政治が信頼を失い、軍縮の時代を迎えるなど苦難を迎えていた軍部が急に支持されたのはなぜか。本書は、加藤高明護憲三派内閣から犬養毅政友会内閣までの各内閣の人事、政策、そして事件におけるマスメディア、宮中、軍部の役割に着目して歴史社会学的に論じていく。


六部構成

1:加藤高明護憲三派内閣と政党政治の確立(第1章)

2:第一次若槻禮次郎内閣と「劇場型政治」の開始(第2章)

3:田中義一内閣と宮中・非政党勢力の台頭(第3章)

4:濱口雄幸内閣とロンドン海軍軍縮条約(第4章)

5:第二次若槻禮次郎内閣と満洲事変(第5章)

6:犬養毅内閣と政党政治の終焉(第6章)

コメント
 1924年から1932年の8年間は、日本における本格的な政党政治の時代でした。帝国憲法ができてから、いやそれ以前の明治14年の政変頃の福澤諭吉以来、求められてきた二大政党による政権交代可能な政治というものが実現したのがこの時代でした。
 この時代があったからこそ、1945年7月に出されたポツダム宣言において「民主主義的傾向の復活強化」と書かれ、占領政策が間接統治になったとも言われております。現に、戦後の二番目の内閣は、この時代に活躍した外交官であった幣原喜重郎が首相をつとめていました。
 しかし、その時代はたったの8年で終わりを告げ、今度は極端な軍国主義体制へと転換しました。その原因は何か、というのが本書の述べるところです。
 まず第一の画期点は、加藤高明を引き継いだ第一次若槻禮次郎内閣で、解散総選挙ができなかったこと、です。もし、この憲政会単独内閣で、解散と勝利により衆議院に基礎を置く内閣の基盤を固めることができたら、政党政治を確立できたかもしれません。しかし、若槻には、その勇気がなかったのでした。若槻に言わせれば、朴烈怪写真事件や松島遊廓事件などのスキャンダルで追い詰められ、その状態で選挙となれば、負けてしまうかもしれないと心配したこと、さらに選挙よりも話し合いで予算案と震災手形関連法案を優先させた方がよい、ということだったそうです。本書では、若槻内閣を「大蔵省的」と評していますが、大蔵次官出身の若槻は、官僚が政治家になったの典型的人物でしょう。官僚は、予算・法案の成立こそが第一であるが、責任を取りたくないという体質があります。また、世論の動向に無頓着です。朴烈事件のように、現在から見て「大した問題ではない」と思ってしまうようなものも、当時においては大逆事件を企てた人物を司法当局が優遇したことは大問題だったにも関わらず、「詰らん問題」と捉えて、普通選挙導入後の大衆政治にまったく疎かったといえます。
 この怪写真事件と大衆政治の問題につき、上杉慎吉の指摘を引用していますが、なかなか鋭いものです(97頁)。

複雑なる政策問題では民衆的騒擾は起るものではない。政府が皇室を蔑ろにしたと云う簡単なる合言葉は耳から耳に容易に伝わり伝わる毎に人の感情を激するの度を増すものである」(上杉慎吉「朴烈問題解散及現内閣の身体に関する意見」『牧野伸顕関係文書』書類の部)

 今日だとどうでしょうか。「平和」「民主主義」か、また大きい影響力を持つのは「改革」でしょうか。若槻には、こうした大衆感情というものへの共感がまったくないのでした。そうした官僚政治家を二回もトップに据えざる得ないのが、憲政会とその後継の民政党の問題であったといえるでしょう。
 しかし意外だったのが、現在において評価の低い若槻ですが、首相就任時には、首相就任に反対の声がなく、原敬につぐ二人目の「平民宰相」とされて伝記が二冊も刊行され、政治評論家の馬場恒吾が「原敬氏と匹敵すべき力量、手腕、性行」(『政界人物風景』、331頁)と評していたそうです
(53頁)。こうした過大な期待が、現実にぶつかると大きな失望にぶつかるということは、我々の時代は民主党政権で経験済みなのでよく分かります。

 政党政治失敗の第二の点は、議会もしくは政党外勢力を自ら引き込む悪手をあえてしていた、ということです。田中義一内閣の際には、野党の民政党(憲政会)は、水野錬太郎文相が辞任を天皇に申し出たものの慰留されたので留任したということを発言してしまった「優諚」問題で天皇の政治利用を突き、また不戦条約における「人民の名において」という文言を問題視して攻撃し、張作霖爆殺事件においても議会勢力が言論や選挙ではなく、宮中の力によって内閣を倒してしまいました。
 また、濱口内閣では、濱口らは天皇や宮中、マスメディアを味方につけることでロンドン海軍軍縮条約締結を実現させ、一方の野党の政友会の鳩山一郎は統帥権干犯を論難して内閣の権限を制限しようとしましたし、第二次若槻内閣の頃には、鳩山一郎や森恪らの主流派が、今村均陸軍作戦課長・永田鉄山軍事課長・東條英機編成動員課長らと懇談して、陸軍と協力した倒閣運動を試みていました。先の統帥権干犯問題とともに鳩山一郎が、軍の台頭に寄与した役割は大きいといえます。

 こうした政党政治家そのものの問題とともに、著者は二大政党というものは政権を争っているのだから、「選挙で当選するために、また反対党との競争に勝つために政党が様々な方策を用いるのは当然のことであり、そのことにできるだけ寛容でなければ政党政治は維持できない」(285頁)と日本のメデイアと有権者の政治的未成熟を指摘しています。こうした政党の動きを「党利党略」として否定し去ってしまうと、既成政党への不信感が高まり、官僚・軍部・天皇・新体制などの「第三極」への期待が高まってしまう、と警鐘を鳴らします。
 本書が書かれたのは、2012年の半ばぐらいですから、たしかにこの時期、民主党政権への失望感と谷垣自民党への不安感があって、橋下徹氏が率いる大阪維新の会が日本維新の会へと国政進出を展開していた時期でした。二大政党への不信感から「第三極」への期待が高まっていた時期に書かれていたのでした。当時の大阪維新の会が、危険だったかどうかは好き嫌いがあるところですが、政治経験が少なく、政党組織も未成熟な政党が中心となって内閣を率いるというのは、結局のところ、風まかせのポピュリズムに陥ってしまいますから、民主党政権以上の混乱があったかもしれません。
 まさかその後、石原慎太郎氏が合流して支持率を一気に低下させて、自民党は安倍晋三氏が総裁に返り咲いて、新しい経済政策を主張するようになるとは、誰も予想できませんでした。今では、既成政党の復活劇があったので、こうした戦前の政党政治の失敗というのは流行らなくなったかもしれませんが、当時においては良い視点だったのではないか、と思いますし、経済政策などへの言及が少ない点などに不満はありますが、図式が分かりやすく、良い本に思えました。

評価 ☆☆

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2016年5月19日 (木)

『細川護貞座談』

点検読書194

細川護貞 聞き手 光岡明・内田健三
副題は「文と美と政治と」
中公文庫(1990年)刊

原著は『細川護貞座談』(中央公論社、1986年7月)


日本史


室町以来の細川家十七代当主にして、近衛文麿の女婿で秘書官、細川護煕元首相の父親という著者が、狩野直喜に教えを受けた文の世界、父・護立に誘われた美の世界、岳父・近衛文麿に導かれた政治の世界を虚心坦懐に語る。


三部構成

1:漢学の素養を語る文の世界(愛一部)

2:細川幽斎以来の文化・芸術の大名家の歴史を語る美の世界(第二部)

3:戦時下の史料『細川日記』の裏話と人物論の政治の世界(第三部)

コメント
 一月前の熊本地震の犠牲者の中に、東海大学の農学部の学生がいたことに、神奈川県出身で小田急線に「東海大学前」という駅を知っていた身としては驚いてしまいました。そんなところにも東海大学あるのか、でもなぜに熊本の阿蘇になんかあるんだろうか、と。
 熊本藩主細川家十七代当主の著者の熊本出身の政治家評の中に松前重義が登場します。松前は、逓信省の官僚であったが、後に反東條英機の動きに参加するようになり、フィリピンのマニラに勅任官にも関わらず二等兵として派遣され、復員後、学校を創設した。それが、現在の東海大学になりました。つまり、東海大学の阿蘇キャンパスというのは、松前の故郷に錦を飾った象徴的な施設だったのでした。これなら納得です。

 本書は、熊本藩主細川家の子孫であり、近衛文麿の女婿で秘書官であり、反東條運動の動きを活写した『細川日記』の著者が、文と美と政治について縦横無尽に語った作品です。

 文の世界では、著者が学んだ京都大学の教養主義的な雰囲気が語られます。また、京都大学人脈で語られるエピソードが面白い。昭和十九年の初夏に、西田幾多郎、佐々木惣一、狩野直喜が集まって会食していた際に、当時、大日本言論報国会の会長として権勢を誇った徳富蘇峰の話題に及ぶと、佐々木惣一が「蘇峰の主張は時勢とともに移り変わるような気がしますが、彼の本質はなんでしょうか」と尋ねると、腕を組んで座っていた西田幾多郎が「それは変わるということだ」と力強く答えて、一座は微笑をもって迎えた、という話(33~34頁)。まさに蘇峰の本質をズバリと言い当てていて興味深いし、苦々しく思われていた雰囲気が伝わります。

 美の世界では、主に細川家について語られるわけですが、なぜ細川忠興が豊臣を裏切って徳川についたかのエピソードとして、秀次事件に連座して、忠興が秀次から三百両の金を借りていて、その使いみちが問題となって秀吉から忠興は切腹を命じられそうになったそうです。問題は、使いみちなので三百両をすぐに用意して返金すれば、事なきを得ます。その時、細川家の重臣・松井康之が徳川家康に借金を申し出て、家康はすぐさま貸すのではなく、上げることにして忠興は事なきを得て、恩を着せた、という話が、後の関ヶ原の戦いでの忠興の動きにつながったというのです(122~123頁)。
 また、千利休について。もともとお茶は、大勢集まった宴会で飲まれるもので、その場では唐物などの品評会なども行われて、目利きには賞金が出るというものだったから、金はかかるし鑑賞眼が試されるというものだったそうです。そこに飽きたらなさを感じてわび茶などを考えだしたのが紹鷗や利休でした。そして、さらに利休のこの小規模での茶会という発想と信長の茶会出席は特権であるという考えが結びついて、この時代の茶道が成立したのですが、秀吉は誰でも参加できる、そして派手な茶会を催すようになります。そうすると、秀吉と利休の間の方向性の違いが出て、対立し始めます。また、朝鮮出兵によって、博多商人との関係を重視し始めた石田三成からすると堺商人の利休が権力を持つことは政策上、好ましくありません。その上、利休は家康とも関係が良好でしたので、そうしたことが重なって、殺されたのではないか。そうした推測が出ております(117~121頁)。ホントの話かどうかは、分かりませんが、細川家の当主という権威からの発言で、何となく説得力があります。

 最後の政治の世界は、戦時下から終戦後までの期間を語ったものです。
 よく終戦の聖断ができたのなら開戦断念の聖断も出せたのではないか、という疑問について言われますが、著者に言わせると、第一にそうした方法があるということを近衛文麿が気づかなかったという点、そして、当時の国民が開戦に必ずしも反対でなかったから聖断による断念は不可能であったろう、というのです(166~167頁)。
 たしかにこれは考えられると思います。やはり我々は、結果から歴史を見てしまっているようです。2・26事件の例が出されますが、政府が機能停止状態という異常事態であるから、天皇が意思を表明したのであって、開戦時は政府はあり、重臣たちも意見を言える状態でした。そうした状態で、天皇が自分の意思を強行することはできません。そして、首相が天皇の意思に委ねるという方法は、それ以前にはなかったわけですから、これは鈴木貫太郎首相の発想が優れていただけで、それ以前には思いもよらぬものだったのでしょう。また、あの戦争は敗北したから、国民も戦争を回避したかっただろう、と考えてしまいますが、それまで勝てるわけのない清国・ロシアと戦って勝ってきてしまったのですから、国民からすると相手が大国だから戦争しないという選択肢はあまり重視されなかったのかもしれません。そうした点から考えると、この聖断による戦争回避というのは、あまり現実味がなく、別の要因について考察した方が価値があるように思います。
 また近衛文麿と松岡洋右のエピソードも興味深いです。
 近衛文麿は、とくかく頭脳明晰で国民人気も高い人物でした。漢学者が書いた難しい漢字ばかりの詔書草稿を下読みもせずに朗読し、読み終わった後に、少し読みにくい字があったから、別の読みに変えておいた、と即座に文意を変えずに別の言葉を差し替えることもできるほど、高い教養を持っていたそうです。
 そんな近衛ですが、開戦間際の時期、実は彼は痔疾を患っていたそうです。いまで言う痔クッションというドーナツ形の座布団がないと座れないほどであったそうで、車に乗車中に急ブレーキで痔に痛みが走ると温厚な近衛が大声で叱りつけたといいます。つまり、この時期、近衛はその痛みによって正常な判断はできないし、政治に集中することができない状態であった、というのです。そんな時に、重大な決断が迫られていたのですから、困ったものです。著者によれば、首相辞任の頃に受けた痔の手術をしてから人が変わったようになった、といいます。もし痔疾がなければ、戦争を避ける努力をもう少しできたのではないか、と著者は言いますが、これはどうなのでしょう。この方の問題は、それ以前の1937年の首相時の判断からあったわけで、近衛が優れていたのは責任のない裏方にある時だけで何か責任を持たされるようなことは痔があろうがなかろうができなかったのではないでしょうか。著者は、近衛は勇気がないと言われるがそんなことはない、戦争末期には潜水艦にのってイギリスに行って和平交渉をしようとしたのだから、といっていますが(214頁)、現に行かなかったわけですし、蒋介石との首脳会談もルーズベルトとの首脳会談もスターリンとの首脳会談も話だけはあるものの、いずれも行ってはいないのですから、やはり近衛を評価するのは難しいわけです。
 頭脳明晰で教養があって、家柄もよく、人気も高く、見た目も良かったわけですが、そういう人が政治家として有能かといえば、そうではない、ということの典型ではないかな、と思います。やはり、政治家としての評価の判断基準は、政策にあるんだと思います。政策を基準にして行動してくれれば、国民としては、恩恵の受け方も分かりやすいし、責任の追求もやりやすいです。
 そして、松岡洋右。著者に言わせると彼は外務大臣として1941年の独伊歴訪の時点で、精神異常を発していたというのです。というのも、シベリア鉄道で移動中、秘書官が大臣のところへ行って話をして、ケリが付いて別の秘書官が入っても、そのまま話を続けていたというのです。秘書官たちも困ったそうですが、シベリア鉄道に乗っている間中、ずっとしゃべり通しだったというのです。また、著者自身も松岡に書類を持っていた際にも、ずっとしゃべり通しで困っていると、秘書官が「細川さんが来てます」と話しかけると、「あ、そう」と著者が来ていることに気づいていなかったようなのです。そうした異常な状態の人物が、大臣の職にあり、独伊を歴訪し、スターリンと会談して日ソ中立条約を結んでいるわけですから、スターリンにいいように操られていても、おかしくはないわけです(223~224頁)。昭和天皇も松岡には異常性を感じていたようですが、大臣在任中のそうした言動に何か察していたのかもしれません。まぁ、こういう人物を大臣として辞めさせるのに内閣総辞職をしなければならない、というのも、やはりあの帝国は異常な国であったのだ、と言えそうです。正常な判断ができなくなっていた。そういう国であったようです。
 こうした面白エピソード満載な座談で、いろいろな想像が広がります。しかし、こうした古い教養人たちは、常に中国の古典が読まれなくなったことを嘆いていますが、そうした古典教養に深い人物たちで構成されていた政府がまともな判断をできず、一度国を滅ぼしていることに何の反省もないというのに驚かされます。漢学の素養は、あった方がいいと思います。しかし、それと政治家としての評価は別でしょう。そもそも漢学の素養を試されて政権の中枢に入るというシステムを持っていた中国の歴代王朝がどうであったかを考えれば、その結果は知れるでしょう。近年も漢学の素養が高い野党党首がいましたが、特に彼を評価する人はいないでしょう。ですから、漢学礼賛もほどほどに、といったところでしょうか。

評価 ☆☆☆

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2016年5月16日 (月)

清瀬一郎『秘録 東京裁判』

点検読書192

中公文庫(2002年改版)刊
原著は『秘録 東京裁判』(読売新聞社、1967年3月)。


日本史――昭和史


極東国際軍事裁判(東京裁判)において、弁護団の中心人物であり、東條英機被告の主任弁護人であった著者による裁判記録。著者は、この裁判を、勝者による敗者への裁きであり、道義的にも国際法的にも不当であると主張する。


四部構成

1:終戦から裁判開始まで。

2:裁判で問われたこと、主張したこと。

3:東條口供書および判決後のこと。

4:史料・冒頭陳述。

コメント
 笠原十九司『南京事件論争史』によると、南京事件「否定論」の原点は、東京裁判の弁護側の主張にあるらしいのです。つまり、虐殺の証拠はほとんど伝聞であること、虐殺の犯行は中国兵ではないか、便衣兵の掃蕩であって不法行為ではない、中国の慈善団体の埋葬者は戦死者であって虐殺の被害者ではない、南京の人口は20万であるから20万人の虐殺は不可能、中国側の謀略宣伝等々の主張は、すでに東京裁判で語られていることだ、というのです。
 本書は、南京についてはほとんど語っていません。広田弘毅が死刑になった理由として、広田が外務大臣であった時、南京での残虐事件の報告を受け取って、「弁護人の証拠によれば、これらの報告は信用され、この問題を陸軍に照会」し、陸軍から残虐行為を中止させるという保証を受け取ったにもかかわらず、残虐行為は終わらず、それに対して、直ちに措置をとるように閣議で主張しなかったことの罪を問われて、死刑になった、という箇所ぐらいなものです(89~90頁)。
 ですから、南京に関する否定論の原点という雰囲気を本書から受け取ることはできないが、戦後の右派から主張される侵略の定義はない、ナチスと日本は違う、大東亜戦争は英米中心の包囲網に対する自衛戦争である、人種差別に対して東亜諸民族の解放を目的とした、真珠湾攻撃は予知されていた、無条件降伏ではなく有条件降服、等々の主要論点がすでに論じられています。右派の人のスローガンに「東京裁判史観の脱却」があるのは、無理のないことで、東京裁判の審理で否定されたことの蒸し返しが、彼らの主張なのでした。
 しかし、一方で次のようにも思うのです。本書によれば、これらの冒頭陳述で主張されたことにつき、外国の新聞が批判するのは当然だとして、日本の朝日や読売といった主要新聞も批判をしたというのです。もっとも、当時は占領下であるから、新聞が占領軍のご機嫌をとるのも当然であるし、その意向に沿った社説以外が掲載できなかったこともあったでしょう。しかし問題なのは、こうした裁判に国民の側が無関心だったのではないか。そんな気がするんです。もっとも、食うにも困った時代ですから、そんなことは当然であるとは思います。しかも、テレビもネットもない時代ですから、よほど関心のある人しか、そうした情報に接しようとはしなかったでしょう。
 それにしても、もう少し余裕があってからでも、東京裁判の再検証をシッカリとやっておけばよかったのではないかと思います。そうすれば、弁護側の主張がどのようなもので、どのようにして否定されたか。また、無理な強者の論理で否定されたとすれば、そこに再考の余地はあるのか。こうしたことを再検証していけば、よかったのではないでしょうか。
 というのも、右派の主張が、ときおり噴出して一定の支持を得るというのは、今まで接してきた考え方と違っていて新鮮に感じるから、というのがあるのだと思います。人は、今までの常識を揺るがすような意見というものに接した時、不安を感じることもあれば、興味も湧くわけです。この「これまでこう言われてきたが、実は…」式のものの言い方というのは、事前に様々な情報を得ていれば、冷静に判断できるようなものだと思うのです。ですから、戦後の日本の歴史の扱い方には、少し問題があったのではないか、と思います。
 たまに歴史修正主義はケシカランと主張する人たちが、歴史修正主義的に言論にふれると、ドイツだったら違法行為だ、というような説教をするのを耳にしますが、実はそうやって隠すことがかえってぶり返すことの原因ではないのか。ときおりワクチンを摂取するように、東京裁判の弁護側主張を再検証する作業をメディアを通してやっておけば、免疫がつくのではないかと思うのです。
 また、本書を読んで思うのは、東京裁判は批判されるものの、意外と被告の選定などが適当で、戦争末期の1945年5月26日に下村宏国務大臣が鈴木貫太郎首相に送った書簡に即刻公職から退くべき人々として「近衛〔文麿〕侯爵、東条〔英機〕大将、杉山〔元〕元帥、島田〔繁太郎〕大将、永野〔修身〕元帥、松岡〔洋右〕前外相」の名があがっています。そして、現に東京裁判の被告として逮捕され、判決を受けたのもこれらの人々でした(近衛・杉山は自殺、永野・松岡は獄中死)。
 しかも、東京裁判で裁かれた人々を「A級戦犯」と呼びますが、A級戦争犯罪である「平和に対する罪」で死刑になった人はおらず、死刑になったのは、通常の戦争犯罪にあたる「殺人」を理由にしたものです。広田が死刑になったのは、南京事件時の不作為だと先に述べましたが、そうした理由です。
 ウエッブ裁判長も認めているように「侵略戦争を遂行する共同謀議に参加したこと、この戦争を計画及び準備したこと、開始したこと、または遂行したことについて、死刑を宣告せらるべきではない」と述べており(52頁)、戦争を開始したからという理由で、死刑になった人はいないんですね。
 そうすると、案外、公正とは言えないものの、日本人が再審理しても大して変わらないものではなかったか、と思うわけです。保守派の論客の鼎談『日本人の歴史観』(岡崎久彦・北岡伸一・坂本多加雄)の中で、岡崎久彦が自分が裁判するなら、近衛と広田と杉山の罪がもっとも重いと述べていましたが(104頁)、これらの三人は実際に死刑になった広田と、死刑候補の二人です(両者は自殺)。
 このように考えると、「勝者の裁き」の最高というのではなしに、定期的に東京裁判を振り返ることで、歴史観の免疫をつけるには良いのかもしれません。本書は、その一助になるのではないかと思います。

評価 ☆☆☆

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2016年5月12日 (木)

幣原喜重郎『外交五十年』

点検読書189

中公文庫(1987年)刊。
原著は『外交五十年』(読売新聞社、1951年4月)。


自伝


大正・昭和期に外務大臣・総理大臣として活躍した外交官・幣原喜重郎の口述による回想録。昭和25年9月5日から11月14日にかけて61回にわたって『読売新聞』に掲載された日露戦争から首相拝命までの回顧とエッセイが収録されている。初めて「幣原外交」と個人名を冠された外交とは何であったのか。本人の証言により、再構成される。


二部構成

1:日露戦争から首相拝命までの回顧録
  ・日露戦争をめぐる日米・日露関係
  ・排日移民法をめぐる日米関係
  ・政党内閣時代の大陸政策・対米英協調外交=「幣原外交」時代
  ・政党内閣崩壊後の回顧
  ・首相拝命

2:人物・時代についてのエッセイ
  ・外務省入省のいきさつ
  ・イギリスについて
  ・元老・重臣たちの回顧
  ・中国・朝鮮について
  ・アメリカについて

コメント
 「幣原外交」で有名な幣原喜重郎の回顧録。一読驚いたのは、読みやすいことでした。一つ一つの見出しに起承転結がしっかりしている。すべてを通して読まなくても、一つの見出しをそれだけ読んでも十分楽しめるエッセイになっているのです。幣原って、そんな文才があったのか、と思ったのですが、解説を見て合点がいきました。これは口述筆記であり、しかも各見出しごとに毎日、新聞で連載されていたものなんですね。新聞は、連載といえども毎日読むわけではありませんから、各回で一つの話になっていなければ、読む方としては気分が悪いです。そのため、本書の一つ一つのエピソードが連続した話にもかかわらず、各見出しごとで完結した話になっているのです。当時の読売新聞の編集の技量というものを感じられる本です。
 と、内容よりも編集の見事さばかりに目がいってしまったのですが、内容に関しては、面白いのですが、どうも軽妙に語りすぎていて、かえって真実味が薄れてくるようにも感じてしまいました。
 例えば、ポーツマス条約を締結し、世論による囂々たる非難を浴びて帰国した小村寿太郎を新橋駅で迎えて、小村の両脇に立って、もしもの時の護衛をなった人物は誰だったのか。本書では、桂太郎首相と山本権兵衛海相となっています(31頁)。幣原自身が見たと言っているのですから、それが正しいのでしょうが、一方で伊藤博文と山縣有朋ががその役割を果たしたという見方もあるようです(Wikipedia)。ちなみに小村の秘書官であった本多熊太郎の小村についての評伝『魂の外交』(千倉書房、1941年)によりますと、新橋駅のプラットフォームで小村を囲んだのは、桂首相、山本海相に加えて、寺内正毅陸相の三人で取り囲んだそうです(231頁)。これは、1935年4月に記述したものらしいのですが、一体本当のところはどうなのでしょうか。
 また、1927年の南京事件につき、幣原外相が日本の砲艦に発砲をを禁じる訓令を出したが、事実誤認で、居留民たちがシベリア出兵時のニコラエフスク事件を想起して、抵抗をやめてくれ、と嘆願したことにあったとこを指摘しています(116頁)。これは、どうやら確からしいのですが、日本人居留民が略奪にあったことは認めているものの、その被害については「幸い殺害を免れた」として、ずいぶんクールなのです。本人もこれらの対応で、自身に怒りが集中したことを認めているものの、こうした大衆感情を考慮しない官僚的な行動が、後の強硬路線を生んだということへの、反省の色は見えません。エリート外交官てのは、こうしたものなのだろうな、という気がします。
 それが現れているのが、エッセイに含まれたサー・エドワード・グレーのエピソードです。1915年、メキシコに油田を持っていたベントンという経営者が、メキシコ人の利権回復運動の暴発により殺害されてしまいました。イギリスとしては、居留民保護を目的に軍艦の派遣を決めたのだが、南北アメリカの不干渉主義=モンロー主義をとるアメリカ合衆国から待ったがかかりました。イギリスとしては、英艦派遣はしないが代わりにアメリカが英人保護に責任をもってくれ、と依頼したところ、そんな責任はアメリカにはない、と突っぱねられました。そこで、アメリカはケシカランという話になります。
 イギリス議会で、それが取り上げられます。質問者は、外相グレーに、メキシコの事件について事実関係を問いただします。外相は、それがあったことを当然に認めます。そこで質問者が、なにか行動を取るのか、と質問すると、外相は「何の手段も取りません」と答えたというのです。
 日本の外交官としては、大変なことをいったと思っていたのですが、翌日の新聞各紙はグレーの答弁を賞賛しています。これはどうしたものか、とイギリス人記者に聞いてみると、イギリスが強硬に軍艦を派遣して、アメリカと関係を悪くして戦争でも起こったら大変だ、騒ぐだけ無駄だしイギリスの国威を失墜させるから黙っていた方がいい、という認識だから、だというのです。
 それに対する幣原の感想としては、以下のとおり。

「イギリスの一般国民が、いかに外交上の問題について常識をもっているかということは、この一例でも判るが、それは日本なんかでは想像も出来ない。イギリスの外交官が国際場裡で光っているのは、一般国民にこの常識があって、大局を見ており、これを押して行けばどうなるかと先を見る。そうすれば余計な喧嘩をしてはつまらんという気になる。その見限りの早いことは驚くべきものがある。このイギリス人の常識ということを考えると、そういう国民ならば、外務大臣はどんなに仕事がやり易いだろう。私らがそんな答弁をやっていたら、もうニ、三度は殺されていたろうと思うと、この点は羨まずにはいられない。」(256~257頁)

 ここで幣原が言っている「余計な喧嘩はつまらん」と感じるイギリス人の「常識」というものは、たしかに羨ましいし、そうした強さが高貴さを我々も持ちたいとも思います。しかし、幣原は、こうした立派なイギリスの一般国民に対して、感情的で幼稚な精神風土の日本国民という差を見ているだけで、同情心がないんですね。国民に責任を持たない外交官ならば、そうしたクールな心で外交を舵取りしてほしいものですが、彼は大臣として国民に責任ある立場として活躍した者なのだから、幼稚な国民を軽蔑していいるだけではなく、そうした幼稚さを勘案しつつ、外交をやってもらわないと、どこかで反動が来てしまうようなきがするんですよね。そこが幣原に欠けていたところではないか。そんな気がするのです。
 もっとも、このエピソードの次にある政治家と新聞記者のついてのコメントは、現在も頷くところが多いです。

「今言ったように、イギリスの議会では議員が質問しても、否定の場合には「ノー」と答弁すればそれで済むが、日本の議会では、「そんなことがあるものか」とか、「なぜここで話せないのか」とかいって食い下がる。あるいは食い付いて離れない。新聞記者の態度も全くこれと同じで、外国の記者は、こちらが「ノー」といえばそれきりであるが、日本の記者となると、四方八方から突っ込んで、どうしても泥を吐かせようとする。それが泥がなくてもである。」(257頁)

 先日のTPPの特別委員会をめぐる騒動もそうでしたが、日本の議会も記者の態度は100年たっても変わらないようです。こちらは、大衆の感情の問題とは異なり、自分たちがエリートなのだという自覚の無さが原因となっているような気がしますので、どうにかしてもらいたいな、と思った次第です。
 読んでみて損はないように思えます。ただ憲法9条幣原発案説(218~222頁)に関しては、マユツバで読まなければならないようです。ただ、幣原としては、「国民の一致協力」という国家は成り立たないと考え、自身の発案という神話をつくりだして、戦後日本というものを安定させようとしたのではないか。そんなふうに思えます。必要な嘘だったといえるでしょう。またここに大衆をバカにしているところがあるような気もしますが。

評価 ☆☆☆

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2016年4月27日 (水)

『岡田啓介回顧録』と第19回総選挙

承前

 天皇機関説事件は、民間においては蓑田胸喜ら原理日本社、貴族院においては菊池武夫ら旧軍人が批判の急先鋒でしたが、衆議院における批判者は当時議会多数派でありながら野党に転じていた立憲政友会でした。政友会は、第二次若槻禮次郎内閣の後を襲った犬養毅内閣下の総選挙で景気対策を訴えて地滑り 的な勝利を得ました(466議席中301議席)。しかし、周知の通り、1932年5月15日に犬養首相が海軍将校に射殺されて、政党内閣は終焉します。それを引き継いだのは、斎藤實内閣だったのですが、この内閣は政友会・民政党という二大政党から大臣を出す挙国一致内閣だったのでした。
 しかし、政友会としては、おさまりがききません。本来なら首相が急死した場合、同じ政党から後継首相が出るべきです。原敬内閣後の高橋是清内閣、加藤高明内閣後の若槻禮次郎内閣、濱口雄幸内閣後の第二次若槻禮次郎内閣しかりです。それにもかかわらず、犬養後継は、政友会の新総裁・鈴木喜三郎ではなく、海軍大将の斎藤實になってしまいました。そこに不満があります。
 斎藤内閣までは何とか協力しようとしう姿勢は見せたものの、斎藤内閣後が再び海軍大将の岡田であったのです。これでは、納得ができません。政友会は野党に転じ(入閣した床次竹二郎、山崎達之輔、内田信也は除名)、岡田内閣を倒閣して政権奪取を狙っていたのでした。天皇機関説事件がこじれてしまったのも、この倒閣・政権奪取のためなら何でもやるという意欲が先走ってしまったためであると思われます
 そうした情勢の中で、満を持して、総選挙となりました。結果は、与党である民政党が第一党(205議席)、政友会が175議席と激減、そして7議席から22議席へと約3倍に躍進したのが社会大衆党など無産政党でした。とりわけ社会大衆党は1党で18議席と存在感を見せております。
 これにより政党内閣復活の目が出てきました。というのも、元老の西園寺公望は、普通選挙法施行後の初めての総選挙で、内相として「天皇中心主義」を掲げて、野党・民政党の「議会中心主義」を攻撃した鈴木喜三郎政友会総裁を首相にふさわしいと考えていませんでした。その鈴木がこの第19回総選挙で落選しました。また、第一党となった民政党は、前総裁の若槻禮次郎が元首相として重臣の列に加わっており、次期首相選出において有利な位置にありました。岡田が退陣を決断すれば、政党内閣復活は目前だったのです。
 しかもです。本書の証言によれば、総選挙にあたり、岡田は興津の西園寺を訪ね、住友から100万円の援助を受けるよう助言され、受け取っています。そのカネの使いみちですが、内閣書記官長の迫水久常の「これからの日本では健全な無産政党を発達させる必要があるので、その方面へいささか援助しては」と進言され、岡田は民政党が与党だから表立ってはできないが、任せると言って、迫水から社会大衆党の書記長の麻生久に資金が提供されたというのです(152頁)。そして、この選挙での社会大衆党躍進につながったのでした。
 このように考えると、当時のエリート層は、岡田内閣後に、町田忠治民政党と麻生久社会大衆党の連立内閣を考えていたフシがあったのです。
 この幻の内閣が、果たしてどのような役割を果たしたかは分かりません。民政党というのは、昭和恐慌を引き起こした悪しき緊縮財政の傾向がありました。もっとも、緊縮財政の権化・濱口雄幸は死亡し、井上準之助も暗殺されていましたし、斎藤・岡田と続く高橋是清の財政政策を与党として支持していたのですから、心配はないのかもしれません。その上、この時期には、高橋蔵相も緊縮に向かい始めたように、インフレが懸念される事態にありましたので、緊縮派の民政党の内閣がふさわしかったといえます。民政党の対軍の緊縮路線と社大党の社会福祉路線が合致して、予算内の軍事費が社会保障費に切り替われば、一気に1970年代まで政治が変わったともいえます。
 しかし、この期待をぶち壊したのが、2・26事件でした。そして、この後継内閣の廣田弘毅内閣で、軍部大臣現役武官制が復活するに及んで、政党内閣がほぼ困難となります。1937年4月30日の第20回総選挙で社大党が躍進しているので、民主主義的展望がまだあった、7月7日の盧溝橋事件さえなければ、という考えもありますが、廣田後の宇垣流産内閣や米内光政内閣の結果を見れば、現役武官制によって、政党内閣はさらに不可能になっていたことは明らかでしょう。そう考えると、2・26事件による軍の影響力増大と廣田弘毅内閣の成立は、ターニングポイントであったといえます。
 天皇機関説事件と2・26事件という二つのエポックが発生してしまったのが、岡田啓介内閣であり、またそれは戦前期における自由主義復活の最後の機会をリベラル派の海軍大将の首相が担っていたんですが、それは不幸にして、また優柔不断な決断によって、なくなってしまった。本書は、どうも当事者意識の低いリベラル派軍人の回顧録でした。

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2016年4月26日 (火)

『岡田啓介回顧録』と天皇機関説

点検読書180

中公文庫(1987年4月)刊。
原著は、岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社、1977年12月)。


自伝


海軍大将から天皇機関説事件、2・26事件時の首相となった岡田啓介の自伝。生い立ちから大正・昭和期の政治史を中心に淡々と述べられ、2・26事件の詳しい回顧と重臣として東條内閣倒閣に尽力したことを中心に語られる。付録として、ロンドン海軍軍縮会議時の日記も収録。


五部構成

1:生い立ちから海軍将校時代。

2:陸軍の大陸進出とロンドン海軍軍縮会議など昭和期の政軍関係。

3:組閣から2・26事件まで。

4:東條内閣倒閣運動など重臣としての活動。

5:付録としてロンドン海軍軍縮会議時の日記。

コメント
 昭和期の転換点の二つが、この著者の内閣時代に起きています。
 天皇機関説事件と2・26事件です。
 前者は、これまで大日本帝国憲法下で慣行とされてきた内閣中心の政治、すなわち統治権は天皇が持つものの、統治の責任は内閣が持つというもの責任内閣政治を理論づけた美濃部達吉の天皇機関説を内閣が公式に「国体明徴声明」として否定したものでした。
 一般的に美濃部の天皇機関説が、政党内閣を理論づけたと言われますが、それは美濃部理論の応用であって、もっとも重要な点は帝国憲法に規定のない「内閣」を統治の中心として理論的に位置づけたことにあります。つまりは、帝国憲法第五十五条第二項の法律・勅令・詔勅の副署についての拒否権を大臣に認めることで、天皇の意志よりも大臣の意志を優先させ、政治の責任を明確にすることと、『憲法義解』における第五十五条解釈の「国ノ内外ノ大事」についての連帯責任、内閣官制第五条の閣議の必要ということから、内閣が政治の中心であることを理論づけたのでした。政党内閣は、もし連帯責任があるなら、同じ意見を持ったものが内閣を組織した方が効率が良いというもので、内閣中心政治の運用が効率的に行われるために必要だ、という論理でした。
 この内閣中心の政治理論であった天皇機関説が否定されたことは、ロンドン海軍軍縮問題で発生した統帥権干犯という発想の根拠、陸軍参謀本部や海軍軍令部といった天皇直属の統帥部へのコントロールが効かなくなるということを意味していました。つまり、天皇機関説を葬り去ることで、内閣の統治責任が否定され、天皇の意志=統帥部の意志を拒否できるものがいなくなることになります。
 天皇機関説の肝は、憲法第五十五条の副署拒否権のように内閣の統治責任が明確であるところにあったのですが、これが否定されると、天皇の意志(=軍)をコントロールすることができなくなりますし、天皇は君主無答責の原則で責任を取りませんので(天皇の意思を利用した軍も責任がない)、無責任体制が完成します。これにより、戦争の歯止めはなくなります。成功すれば金鶏勲章を得て多額の年金が貰える(参照)上、失敗しても天皇直属の機関としての統帥部の失敗=君主無答責の原則で責任を問われない。とすれば、戦争することが軍人にとって合理的でした。これでは、軍が戦争を起こそうとするのも当然となります(原田泰『日本国の原則』を参照)。
 天皇機関説事件とは、このように明治国家の性格をガラリと変えてしまったものでした。岡田は、その時の首相であり、本人自身は美濃部学説を否定するものではなかったのですが、言質をとられるのを恐れ、天皇機関説を否定してしまい、「国体明徴声明」を出さざるをえないところに追い込まれます。
 その上、2・26事件が起きます。ここで言及したいのは、2・26事件そのものよりも、その数日前の1936年2月20日にあった第19回衆議院議員総選挙です(つづく)。

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2016年4月15日 (金)

猪野健治『三代目山口組』

点検読書171

ちくま文庫(2000年)刊。
副題は「田岡一雄ノート」。


ノンフィクション


組員33人の山口組の三代目を襲名した田岡一雄は、後に約460団体・一万人をこえる日本最大の広域組織につくり上げた。彼の特徴は、先見性、組織力、リーダーシップに恵まれた点であった。その戦略は、博徒や用心棒といった従来型のヤクザを正業を持たせて、事業家として成功させる。その上で、事業家は軍団に資金を供給し、軍団は実戦を担うという分業体制を実現することによって、近代ヤクザを形成することに成功した。しかし、その成功は、国家権力との絶えざる抗争を余儀なくされた。


三部構成

1:三代目襲名から各種事業の拡大・取り締まり包囲網(第一章~第四章)。

2:その人物像(第五章)。

3:晩年、その死と遺産(第六章~第七章)。

コメント
 以前、溝口敦『山口組動乱!!』が面白かったものだから、その原点に立ち返ろうということで、事実上、山口組の創設者である田岡一雄三代目について述べられた本を読んでみました。
 本書によりますと、田岡三代目は大変魅力的な人物です。襲名にあたって三つの誓いを自分に課したと言います。
第一は、組員各自に正業を持たせること。
第二は、信賞必罰による体制の確立。
第三は、昭和の幡随院長兵衛を目指す。
ということですが、注目すべきは第一の課題で、従来の博打や用心棒で生計を立てて、その日暮らしをしていて、常に貧しい状態から脱却すること。これを目指したというのです。次のように述べております。

「日本が新しく生まれかわったと同時に、極道も生き方を変えていくべきではないのか。それには各自が正業を持つことである。魚屋でもいい、喫茶店でもいい、駄菓子屋だっていいではないか……生活の貧しさ、心の貧しさが悪の道へ走らせることを、わたしはこれまでにイヤというほどみせつけられてきたのだ」(二二頁)

 本来、こうしたことは国家や社会全体で行なうべきことです。しかし、これらは機能していません。それというのも、日本社会において、著者が言うところの「組」がなくならない土壌というものが厳然と存在しています。それは、「部落差別、国籍差別、民族差別、学歴差別、欠損家庭、破産、失業、前歴者等の因子」への社会の見る目の厳しさです。国家の社会保障が、これらの人々へ適切な生活保障を与えることができれば、こうした組織は必要なくなるのです。田岡三代目も、山口組包囲網が形成され、内部で解散論が噴出した時に次のように述べています。

「極道n字のごとく、わたしのところへくる者は親の手に負えない連中ばかりである。それをなんとか人並みにしたいと心配しているのが組である。/幹部を失い、組からも放りだされたら、これらの若い者はいったいだれが面倒をみてくれるというのであろうか。(中略)この世に組を失った若い者たちを暖かく迎え、職を提供し、社会の仲間入りをさせてくれるだけの度量と理解を示してくれるというなら話は別である。/数万を越える山口組の若い者たちをだれがわたしに代わって面倒をみてくれるのか。/過去、わたしは終戦直後の闇市を横行する暴れ者や、港湾における共産党と真剣に闘ってきた。警察もそれをあと押ししてくれた。/それなのに、世の中が落ちついたから、"もうやくざはいらん。やくざをつぶせ"というのは勝手ではないか。」(一五六~一五七頁)

 つまりは、国の社会保障や治安組織が不十分な部分を補完してきたのが、「組」であったということです。ですから、本気でこうした組織をなくしていこうとするならば、上記に上げたような人々を包摂するような態度を我々はとらなければならない、ということになります。間違っても生活保護バッシングや民族差別、学歴差別などしてはならないということになります。
 もしそれができないならば、暴力団員が経営しているからとか、家族に暴力団員がいるとか、暴力団と同席したことを問題にするなど、単に暴力団を排除するのではなく、正業についたものに対して、一般市民と同様のルールを適用するようにしなければならないでしょう。もとより、暴力を背景にした威嚇などがあれば、それは法に違反することであるから、それは適切に公権力によって処置する必要があります。しかし、国が一部の団体を監視対象として指定し、社会全体で差別的態度を取るというのであれば、それは先の組の構成員の潜在的予備軍を輩出する土壌を強化するだけで、何の解決にもならないのでしょう。
 本書は、単にアウトロー集団の実録物のようなものではなく、政治に利用され、足りない部分を補完し、必要性が減退すれば排除されるという戦後日本の身勝手さに翻弄された人々を描いた作品です。表面的な政治や社会ではなく、その背後にある鞍部について関心のある人には興味深い本となると思います。

評価 ☆☆☆

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2016年4月 9日 (土)

塩見鮮一郎『戦後の貧民』

点検読書165

文春新書(2015年)刊。


日本史――昭和史


有史以来、庶民がもっとも貧困にあえいだ時代の敗戦時の日本。本書は、現在の地理関係と対象しつつ、主に東京の闇市、売春地域といった戦後の風景と、戦傷者や広島の被災者、シベリア抑留者といった戦争の傷跡が深い人々の諸相にふれている。


三部構成

1:米軍の占領と闇市の展開。

2:米軍慰安所と売春地域。

3:戦傷者・広島被災者・シベリア抑留など戦争による傷跡。

コメント
 本書は、事実関係を数字で表すというよりも、作家的感性によって、敗戦後の人々、とりわけ女性や引揚者、戦傷者など戦前の体制における最大の犠牲者でありながら、戦後においてもっとも苦労を強いられた人々に注目しています。
 興味深いのは、主に東京の各地域の状況を解説する際の、現在の地図に重ねあわせて、闇市や赤線地域などを示しているところです。これによって、現在の見慣れた場所の戦後における位置が分かりますし、また都会の高層ビル街の中になぜこうした丈の低い異質な地域が存在するのかの来歴を理解させてくれます。
 また、「赤線」というのは、吉原・新宿・洲崎などの「特殊飲食店街」を警察が地図で赤線で囲んだことに由来するということは、何となく理解していましたが、「青線」という非合法の売春地域というものもあったんですね。赤線が遊郭廃止以来の変化形に対して、青線は闇市の系譜を引くという点で新しいものということですが、現在は別の意味で有名ですが、新宿2丁目あたりがそうした地域だったとは知りませんでした。
 しかし、本書で多少ずっこけてしまうのは、例えば1946年秋から1952年にかけて、南北アメリカ大陸在住の日系人が中心となって、ララ(アジア救援公認団体)が食糧や医薬品など400億円相当の援助をしたが、GHQは「アメリカからの配布」として真実を隠した、と興味深いエピソードを紹介しているが、「と、ウィキペディアは指摘している」と書いてあります(47頁)。これだけでヘコっとなってしまうのですが、せめて閲覧日ぐらいは明記してほしい。多分、この箇所だと思いますが(2016年4月9日閲覧)、記述箇所には参考文献が付されていないので確認ができません。
 また、ほかにもアメリカの政府からトウモロコシや砂糖が送られてきて、これも善意として喧伝されたが、講和後に日本政府はその代金を請求されたという、ホントかよというエピソードも「ネットに拠る」と書かれています(48頁)。これもURLぐらいは付けてくれないと確認できないので、使えない情報です。
 こうしてネット情報をそのまま参照している著者ですが、一方で「ネットで検索してみていると、日本軍は従軍慰安婦をともなって侵略したので、現地の女性には行儀がよかったという記述があった。しばらく、息を止め、そして吐息をついた」とこちらは信じるに値しない情報のようです。この記述が怪しいのはもとよりですが、著者は自身がこれまで調べたことや印象と合致するあやふやなネット情報は参照する価値があるけど、そうでないのは「吐息」の対象とするなら、どちらも取り上げる必要がないんじゃないか、と思います。そのあたりが少々残念な気もしますが、読み物としては楽しめました。

評価 ☆

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