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徳川時代

2016年5月17日 (火)

八幡和郎『江戸300藩読む辞典』

点検読書193

副題は「歴史ドラマが100倍おもしろくなる」
講談社+α文庫(2015年)刊。


日本史


全国の47都道府県別に、戦国時代から幕末までの流れを、とくに300藩すべての成り立ちと統治ぶりを中心に追いかけ、名所旧跡なども紹介することで観光案内の役割も果たす。また、歴史コラムや関係年譜、石高順、大河ドラマ一覧、県藩対照表、大名家一覧、主要大名家の家系図なども付録として収録。


三部構成

1:江戸時代の統治構造と三都、愛知県について(第1~3章)

2:中部地方、近畿地方、中国・四国地方、九州・沖縄地方、関東地方、東北・北海道地方(第4~9章)

3:江戸時代を再考する意味(第10章)

コメント
 あるようでなかった本であるといえます。各藩、各県について書かれたものはあるし、現在ならWikipediaを開けば、結構詳しいことまで分かります。しかし、文庫サイズ300頁ほどで、江戸時代の諸藩の成り立ちから状況やその後についてのだいたいの事を把握できる本というのは貴重なものです。
 また、著者は、江戸時代礼賛の風潮には疑問を持っていて、北朝鮮みたいなもの、と的確に表現している。どうも現代の日本人は、ワイドショー的報道番組で、北朝鮮がやたらと特集されるように、人事としての独裁国家が好きなようです。自由で豊かにはなったけれど戦争をする国になった明治時代よりも、不自由と飢餓の不安がつきまとう軍事的独裁国家の江戸時代を好む心性はどこか通じるのかもしれません。たしかに、北朝鮮も軍事独裁国家だけれども、朝鮮戦争以来、威嚇以外の本格的な戦争はしていませんし、停滞した平和国家が好きな人が少なくない割合でいるのかもしれません。経済成長よりも、増税して再分配という大きな政府の停滞した時代を望んでいる人もだいたいかぶっているようにも思えますが。
 本書は、「歴史ドラマが100倍おもしろくなる」が副題になっているように、実は江戸時代よりもそれ以前の戦国時代に多く記述を持っています。ですから、著者としては、江戸時代というのは戦国時代・安土桃山時代の遺産を食いつぶした時代だったのだ、という意図もあったのかもしれません。
 それにしても、本書は、自分のルーツにあたる地域や居住地が、どんな成り立ちであったのかを知るには便利なものです。通読するというより、折にふれて、該当箇所を開くという「事典」として使える本です。

評価 ☆☆☆

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2016年4月19日 (火)

磯田道史『江戸の備忘録』

点検読書175

文春文庫(2013年)刊。
原著は朝日新聞社(2008年)刊。


日本史――エッセイ


『朝日新聞』土曜版の連載を元にした歴史随筆集。中世から近世を切り開いた信長・秀吉・家康のパーソナリティなど人物論から、結婚・離婚・出生など日本人の家族の歴史、急速な近代化を準備した教育、現在長寿国となった日本の医療・衛生の歴史、税と政府の規模など、様々なテーマを掘り下げつつも、日本史を見渡せるような「歴史の肝」となる話を厳選して叙述。


五部構成

1:戦国武将、近世大名、幕末の人物論。

2:江戸の医療・教育問題。

3:古文書から見える江戸の生活。

4:日本人の性と家族。

5:政府の役割。

コメント
 上記の通り、戦国時代から明治初期までの時代の人物論から文化論までと幅広い話題を提供してくれる歴史随筆です。
 本書の間口となるのは、半分ほどを占める著名な人々の人物論になるのでしょう。しかし、これは意外とオーソドックスで、それほど面白いものではありません。
 例えば、「信長はなぜ殺されたのか」というきわめて興味をひかれる表題のエッセイでの結論は、「人を信用しなかったから」という何ともあっさりとしたものです。
 私などからすれば、いや逆に人を信用しすぎて、部下に大領土や大軍を預け、裏切られると失望して激怒し、最後もやっぱり数万の大軍を部下に動かせているにもかかわらず、少人数の付き人しか置かずに寺に宿泊していたのだから、人を信用しない人にしてはずいぶんと迂闊です。
 私は、信長って結構お人好しなんではないか、と思ってしまうんです。だから、それが裏切られると、ものすごく怒る。他人も自分と同じようにお人好しで善良な人間でないと気がすまない、という感じの人なのではないでしょうか。
 信長の戦略って、だいたいが、まずは平和的な条件交渉から入って、受け入れれば厚遇するし、あえて反抗しなければ、まだ交渉の余地はあると考えるけど、反抗したり裏切ったり親族や股肱の臣を殺した時に残虐な仕打ちをする、という真面目で潔癖だからこその怖さがあるようなきがするんです。だから「人を信用しなかったから」という評価があったということを紹介されても「ふーん」としかならないのです。
 しかし、本書は後半からの医療・教育・家族・国家のデータ編に移ると途端に面白くなります。
 例えば、江戸時代の識字率。おそらく元ネタは、ロナルド・ドーアの研究によるのかと思いますが、江戸時代の日本人の識字率は40~60%などと言われます。そうか、だから日本は急速な近代化が可能だったんだ、と愛国心をくすぐるデータなのですが、本書によれば、長野県北安曇郡常盤村の明治14年(1881年)の満15歳以上の男子のみ882人の調査によれば、

「数字も名前も自分の村の名前も書けない」35%
「それぐらいは書ける」41%
「出納帳がつけられる」15%
「手紙や証書が書ける」4%
「公文書に差し支えない」2%
「法令布達が読める」1%
「法令布達が読め新聞論説が理解できる」2%

と自分の名前を書ける程度の識字率は65%、新聞を読んで政治論説が理解できる人は2%だったということです(著者が参照している論文はこちら)。こうなると高いような気もしますが、低いような気もします。そもそも識字率とは、どの程度を想定しているか。人それぞれですから、それによって評価も変わるでしょう。もっとも、「法令布達が読め新聞論説が理解できる」は現在でも10%いれば良い方の気がしますので、これを基準に識字率を考えるのは厳しいかもしれません。
 他に面白かったのを箇条書きにしておきます。

寺子屋
 寺子屋は自習室のようなもので、先生が前に立って何かを教えるというようなスタイルではなく(『磯部磯兵衛物語』の学校風景は間違い)、また「女師匠の比率」は35・5%だったそうです(128~29頁)。

「平成」
 「元治」の後の元号選考の中に「平成」があった。しかし、「元治」が「保元と平治から一字ずつ取ったら保元・平治の乱のように禁門の変が起きた。平成も「平」の字があるからやめておこう」となったらしい(147~148頁)。

「八百長」
 囲碁好きの七代目伊勢ノ海親方に、八百長こと八百屋の根本長造が「囲碁の心得がある」と囲碁仲間として取り入って、野菜を大量に買ってもらい、さらには親方の世話で相撲茶屋・島屋の株を買い受け、大繁盛した。ある日、伊勢ノ海親方が、碁会所に行くと八百長が本因坊と対戦しており、見事な碁を打っている。自分が八百長に手心を加えられていたことを知り、親方は「あの嘘打ち野郎め」と仲間に吹聴したので、親方衆への接待ワイロを「八百長」と呼ぶようになった。つまり、「八百長」の語源は、わざと負けることではなく、「ワイロ」を意味していたのでした(158~59頁)。

「八角」
 八角楯右衛門という堺の力士は、金にこだわり、給金が少ないと、ごねて相撲を取らない、土俵では「待った」を連発して「角力の行儀あしく成りしは、八角より始る」(『翁草』)とされた(162頁)。
 現在の相撲協会理事長の八角親方(元北勝海)の名称における御先祖はこういう人物だったとか。現在、最強の横綱が「行儀あしく」なっているわけですが、「八角」という名の呪いのようなものがあるんでしょうか。

「亥年は「ブタ年」」
 日本において干支の「亥年」は「イノシシ」を意味していますが、中国・韓国など大陸においては「ブタ」を意味している。猪八戒はブタの姿をしているのは、そうした理由。ではこの転化は何を意味しているかというと、日本におけるイノシシの家畜化、つまりブタの飼育は弥生時代で終わっており、「ブタ年」という考え方が入ってきた時に、それを表すものは野生に戻った「イノシシ」だったために、「亥年」は「イノシシ年」となった(165~66頁)。

明治時代の結婚
 江戸時代から明治時代の日本人は、結婚したうちの約四割が別れており、明治半ばまで日本は、世界最高位の離婚大国であった。「離婚は今の我国に普通の習慣となり、人も見て怪まざる程」と『女学雑誌』(1886年)の社説にある(174~75頁)。

「羽柴家康」
 江戸時代には、前田・島津・毛利などの大大名はおらず、徳川の天下の時は松平賜姓といって大抵の大大名は「松平」を名乗らされていた。加賀前田家は松平加賀守、島津家は松平薩摩守、毛利家は松平長門守といった。これは豊臣政権でも同じで、徳川家康は「羽柴武蔵大納言」、つまり「羽柴家康」と名乗らされていた。そのため、豊臣・徳川の政権交代時には、加賀前田家の二代藩主の前田利長は「羽柴肥前守」、三代藩主の前田利常は「松平筑前守」で、彼らが本姓に復したのは鳥羽伏見の戦いで徳川家が「朝敵」となってから(190~191頁)。

日本の「公務員」比率
 2001年当時の日本の人口百人あたり公務員数は3・3人で、アメリカ8・1人、イギリス7・3人、フランスが9・6人、ドイツは5・8人であったとか。で、江戸時代の「公務員」つまり武家奉公人の比率はというと、著者の調査では幕末で人口百人あたり2~3人だそうです(211頁)。
 「小さな政府」は、日本の伝統と言えそうですが、公務員が多そうに感じてしまうのはなぜなんでしょうか。少ない割には権限が強いということでしょうか。諸外国の場合、私企業で雇えないような人を公共機関が面倒を見るというのではなく、役人が面倒を見るというようになっているからでしょうか。また、諸外国の場合、公共事業等の税金が投入されている場合は公務員とみなしているのでしょうか。

江戸時代より重税の現代日本
 現代日本の租税負担率は20%強、その上政府は毎年借金をしながら運営しているので、その分を加えると、政府は毎年国民の稼ぐ金の約40%を使っている。つまり国民が1万円稼ぐと、政府が4000円使うのが現代日本。では、江戸時代はというと、五公五民と言われて、年貢率50%の重税社会のように思えるが、税の対象が米だけで、その他の麦などの作物は無税だし、駕籠かきや宿屋などサービス業にもほとんど課税されていない。そのため、国民全体で見れば、約20%強に過ぎないとか(217頁)。
 まぁ、江戸時代の政府は、実質的に何もしてくれませんからね。で、上記の著者の租税負担率は、社会保障費が入っていないのかもしれません。それを入れて、借金分を足すとえらいことになりそうです。

評価 ☆☆

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2016年4月13日 (水)

野口武彦『鳥羽伏見の戦い』

点検読書169

中公新書(2010年)刊。
副題は「幕府の命運を決した四日間」。


日本史――幕末史


慶應4年(1868年)1月3日から6日にかけてのたった4日の戦いであったが、徳川慶喜の復権を終わらせ、明治新政府の成立を促した天下分け目の戦い。誰もが知っているものの、その内容を詳しくは知られていない戦争を1冊の本として論じる。


三部構成

1:開戦前夜(第一章・第二章)

2:四日間の戦闘(第三章~第六章)

3:徳川慶喜の逃亡と江戸落城(第七章・エピローグ)

コメント
 本書の帯にあるように「誰もがその名を知っているけれど、詳しくは知らないこの戦い」が、鳥羽伏見の戦いです。
 大体の流れで理解すると大政奉還、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、江戸城開城という一連の流れは、未来の視点からだと、スッキリとしており、大政奉還の時点で徳川政権は終わりを告げ、王政復古の大号令で決定打を撃たれたと思われてしまいます。しかし、王政復古の大号令までの流れを演出した大久保利通自身が、慶應3年の年末には慶喜にはかなわないと弱音を吐き始め、岩倉具視が慶喜の新政府入りを考え始めた、まさにその時、この戦いは始まり、たった4日で勝負を決してしまいました。
 当事者にとっても、その後の歴史においても転換点にあったように思えるのですが、あまりにあっさりとした決着に後の人の関心があまりありません。本書でも述べられているように「鳥羽伏見の戦いを単独のテーマにして書かれた本は刊行されていないのである」(5頁)。同じ天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いもたった1日で勝負を決したにも関わらず、関心を落ち続けられるにもかかわらず。それだけでも本書は貴重な成果です。
 さて、この鳥羽伏見の戦いの謎の一つに、徳川慶喜の関与はどの程度であったか、という点です。明治以後の『徳川慶喜公伝』やその史料として健在だった慶喜にインタビューをした『昔夢会筆記』などによれば、慶喜は早くから王政復古の志があったとします。明治31年に明治天皇に拝謁し公爵を賜って復権した慶喜としては、そうした物語のほうが都合がいいわけです。このように邪推してしまい、大政奉還は薩摩の武力討幕の口実を失わせるためで、政権を譲り渡す気がなかったとされ、「徳川モナルキー」を維持し続ける秘策だったという考えもあります。しかし、一方で、慶喜が政権を握り続ける気があったことは否定できないものの、それは慶喜個人のことであって、徳川幕府という親藩・旗本政権を維持することではなく、あくまで天皇中心の王政復古政権の中で、慶喜がイニシアティブを握るという意味だという考えもあります。そうなると、彼の王政復古の志は、彼の晩年の弁明通りであったともいえます。
 本書では、慶喜の中小姓・村山摂津守鎮の談話筆記を元に次のように論じます。
 慶應4年1月3日、鳥羽伏見の敗報を受けて驚いた慶喜は、さらに北上軍が「討薩の表」を携えていたということを陸軍方に詰問するが、陸軍方では「上様もご承知と聞いてました」と答えた時、慶喜は多少は憤激して板倉伊賀守に何か言っていたが、思ったより本気で怒っていなかったように見えた、と証言している。
 ここから考えられるのは、慶喜は「討薩の表」の内容には関与しており、それを携えて上洛し、京都政局において薩摩のみを孤立させて、他の勢力を抱き込み、復権を計ろうとしていた。慶喜の目的は、そこにあったので「軽装上京」を意図していたが、主戦派はこれを好機に京都の薩摩藩邸を攻撃しようとしていた。慶喜もその点を黙認しているフシがあったので、玉虫色の命令となり、もし戦闘が起きても、それは先遣隊の暴走として片がつくとしていた。こうした曖昧な上京部隊であったため、途中での鳥羽伏見での戦闘を予期しておらず、戦闘準備がなく無様に負けてしまったのではないか。慶喜は、その無様な敗北に驚愕し、憤激したのではなかったか。こういった趣旨です。
 しかしこれですと、薩摩排除の新政権樹立の意図は伝わってきますが、幕府再興の意志は読み取れませんし、当時の情勢において天皇抜きの大統領もしくは〈皇帝〉となったとは考えにくいのではないか。そう考えると、王政復古の志を否定する材料は特にはなさそうです。また、慶喜の東帰に関しては軍艦順動にて天保山沖から上陸し、1月6日に慶喜に面謁した若年寄兼陸軍奉行の浅野美作守氏祐の証言によれば、この時点で東帰恭順を決めていたといいます。つまり、江戸で再挙するために逃亡するのではなく、主戦派から距離をとって恭順する、という本人の弁明そのままが正しいのではないでしょうか(本書では、ロッシュとの19・26・27日の会見までは揺れ動いていたとします)。
 本書では、やはり慶喜による「天皇抜きの近代国家」に夢をつないでいるような話を結末に持ってきていますが、そこは買いかぶり過ぎなのではないかな、と思います。「皇国史観」は単に明治国家のイデオロギーなだけではなく、それなりの根拠があったから、成立したんじゃなかろうか。そんな気がするのです。
 それにしても、一冊まるごと鳥羽伏見の戦いという本書の価値を減ずるものではありません。

評価 ☆☆☆

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2016年4月12日 (火)

三上参次『江戸時代史(四)』

点検読書168

講談社学術文庫(1977年)刊。

これまでの記事はこちら。
江戸時代史(一)
江戸時代史(二)
江戸時代史(三)


日本史――徳川時代


柳沢吉保が権勢を振るった徳川五代将軍・綱吉の時代から、新井白石が活躍した六代将軍・家宣、七代将軍・家継の時代まで。


三部構成

1:綱吉時代後期(第十二章)。

2:家宣の文飾政治時代(第十三章)。

3:家継の時代(第十四章)。

コメント
 この時代を画するものとして、「赤穂義士」事件がありますが、本書においては、非常に冷静で、特別に賞賛するわけでもなければ、批判説に与するわけでもありません。
 浅野内匠頭は、大した人物ではないが、それが君であり、彼のために仇を討ったのだから、その当時においては立派な行為だったね、でも治安を乱したことには変わりないから、処刑すべきだけど、「忠義の士」としての恩典として自尽させれば、幕府の権威も安泰だ、という公弁法親王、荻生徂徠、柳沢吉保らの意見を「道理至極の説」と評しています。
 こうした処置に対する世上の反対論・賞讃論に対しては、「反対論は学者の穿鑿に陥り、他の大多数の人々はいわゆる常識に基づきてこれを義なりと賞讃し、もって天下後世の士気を振い、人心を鼓舞するを称えき」(58頁)としております。
 ま、きわめて「常識」的なのです。私などは、ひねくれ者なので、太宰春台らの反対論に与したいところですが、今だに「忠臣蔵」がドラマ化や映画化されるのを見ると、そうした「常識」が普通の感覚なのだろうと改めて思い知ります。
 戦前におけるテロの横行は、こうした目的はともあれ手段におけるテロ行為を賞賛する「常識」が世間一般にあったのではないか、とも思ったものですが、よくよく考えてみれば、つい最近まで「赤穂義士」をテーマにした作品がつくられても、暗殺事件がほとんどない現在を考えてみれば、あまり影響はないのかな、とも思います。文化の影響というのは、きっかけに過ぎず、それがあったからといって、大事件に結びつくわけはない。社会を揺るがす問題の場合は、経済的な苦境が一番なんでしょうな。

評価 ☆☆☆

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2016年3月13日 (日)

三上参次『江戸時代史(三)』(講談社学術文庫、1977年)

点検読書147

(一)と(二)はこちら

江戸時代史(一)
江戸時代史(二)


日本史――徳川時代


三代将軍徳川家光の寛永時代から五代将軍徳川綱吉の元禄時代まで。


四部構成

1:元禄時代の社会風俗(第七章)

2:四代将軍徳川家綱と寛文の治(第八章)

3:明諸侯と御家騒動(第九章)

4:五代将軍徳川綱吉と元禄の治(第十・十一章)

コメント
 この巻では、興味深かった箇所を抜き出してみよう。

「たばこと不良」
 まずは徳川時代初期の風俗について。徳川政権の樹立によって、世界にも稀な平和主義的国家が生まれたとしても、もともとは戦に明け暮れていた戦国時代の余燼冷めやらぬ時代である。そうした社会状況において、武勇をもって第一とする気分が横溢としていたが、その武勇が無軌道となると傾奇者や侠客といった暴れん坊が、武士のみならず、市井の人々にまで広がり始める。有名どころだと幡随院長兵衛などがそれにあたります。そして、著者はここで不思議な事を指摘している。

   「その起源につきては、奇妙にも煙草の流行と一種の関係を有せり」(14頁)

 つまり、不良の登場と煙草の流行には関係がある、というのです。何かこれって分からんでもないというか何というか。まぁ、昭和の生まれの私としては、やはり不良には煙草を吸っていてもらいたいんですね。不良と言ったら煙草、煙草と言ったら不良というぐらいに切っても切り離せないツールとして見られているわけですが、これは江戸時代に始まっていたんですね。著者によれば、煙草が日本に入ってきたのは慶長十年(1605年)前後で、数年ならずして、慶長十四、五、六年、元和元年、二年の各年に煙草禁煙の令が出されているとか。

 そのうちの慶長十四年の禁止令によれば、市中でキセルを腰にさしたり子分に持たせたりして徒党を組んで、ライバルグループに出会うと喧嘩をはじめて風俗を乱すから禁止する、という内容だとか。これって完全に昭和の不良ですね。近年、少年犯罪の減少が見られるように、不良グループというのが少なくなっているのではないかと思えます。これは基本的には少子化で子供の数が減ったことと進学率の上昇によって、子供への管理が行き届くようになったからのように思えますが、もう一方で煙草の害を学校で熱心に教育するようになって喫煙者が激減したことも影響しているのかもしれません。かつて喫煙者だった私は、大学生などと食事に行くと誰一人として喫煙者がいない、という場面に出くわして面食らったことがありましたが、そうしたものが人々をおとなしくさせているのかもしれません。そうすると禁煙運動とは、単に健康被害に関わることではなく、治安対策上なされているのかもしれません。

「武勇社会の女性」
 先にもあったように徳川時代初期は武勇が尊ばれていたわけですが、その影響は女性にまで及んでいたようです。『八十翁昔語』という書物に、元和・寛文の頃の話として、離婚していくばかりもなく、再婚した男がいた場合、先妻が後妻に対して決闘を申し込み、後妻の方も受け入れないことは卑怯だという風潮の下、受けて立つと、先妻は一族の女たちを20、30人、多い時は100人以上で押しかけて、台所を襲撃して家具を破壊して、頃合いを見計らってその家の侍中が仲裁に入って終るという「後妻打(うはなりうち)」という風習があったという。当時の婦人は、生涯に何回かこの騒動に加わるものだったともいう(22頁)。
 これもなかなか殺伐とした風習ですね。戦国時代というのは、やはり異常な時代だったのでしょうな。史料としては、残っていないだけで、女性兵士というのも案外多かったのかもしれませんな。こんな感じでは。

「由井正雪事件は浪人問題」
 由井正雪事件とは、徳川家光死去後の不安定な時期に人気軍学者の由井正雪が門人たちと江戸、駿河、上方で挙兵し倒幕を計ろうとした事件です。その原因として、さまざまなことが言われていますが、著者は浪人問題が本質だ、というのです。つまり、浪人の中には関ヶ原や大阪夏の陣、島原の乱などの戦における敗者の側にいて、しかも現在の大名家などは以前の自分たちの同僚などが座っており、彼らに仕官するなどゴメンだという姿勢がある一方で、飢寒に窮する現実があったわけで、それならいっちょ暴れてやるか、という気分があったわけです。つまり、これ以上、底辺に下がることがないなら、事が起こるのを望む気分が横溢していたのです。そこで、門人数千人という由井正雪がいたわけで、いってみれば由井は西南戦争における西郷隆盛のごとく、やぶれかぶれになった子分たちの身を引き受けてあげたということになります。

「朱子学は徳川政権の正統学説か」
 最近はどうかわかりませんが、かつての教科書には朱子学は徳川幕府の初期から正統の学問されていたと書かれていました。しかし、これは松平定信の時代の寛政異学の禁によって、朱子学が正統とされたことから遡って家康の朱子学への関心が「天下を鎮むる具に供したり」とされたのであって、家康自身の学問に対する態度はもっと自由であった、と本書では述べられています。つまり、昭和も終わりになって、やっと気づき始めた徳川時代の学問の潮流について三上参次はすでに指摘していたということです。また、彼は、その幕府擁護の学とされた朱子学から山崎闇斎学派の勤王説が現れていることの皮肉を暗に指摘しています(216頁)。

評価 ☆☆☆


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2016年3月 3日 (木)

三上参次『江戸時代史(二)』(講談社学術文庫、1977年)

点検読書140


日本史――徳川時代


徳川家康による政権樹立から島原の乱まで。


四部構成
1:徳川政権初期の法制度

2:元和(大名淘汰)・寛永(行政組織、武芸、土木事業など)の治

3:外交関係

4:島原の乱

コメント
 第二巻は、島原の乱までの初期の徳川政権の統治について。この巻で興味をひかれたのは、外交関係における新井白石についての評価について。白石といえば、徳川家宣の時代の側近政治の人物ですので、後の巻でも出てくるのでしょうが、著者は朝鮮との外交関係復交についてのコメントで、白石に少しふれております。

 つまりは「日本国王」についてです。

 「日本国王」といえば、足利義満が明との貿易を行う際に、「日本国王」と名乗っていたために、天皇をないがしろにしたと批判されるわけですが、買いかぶり過ぎではないか、との指摘もあるようです。それよりも中国の王朝国家に屈するような「国王」号を用いたことに問題があるようです。

 で、徳川時代においては、一般に外交関係における徳川将軍の呼称は「大君」としておりました。しかし、六代将軍家宣の時に、新井白石が「大君」の号を改めて「国王」としたということがありました。白石にいわせると、鎌倉時代以来、外国人は天子を「日本天皇」といい、武家を「日本国王」と読んでいたから、ということらしいのです。また、字義に関して言えば、「大君」の号は、『易経』にみることができるものの、普通に理解すると「大君」は天子を意味する言葉で、徳川将軍が「日本国大君」と称するのは、「日本天子」と僭称することになりはしないか。これでは、鎌倉時代以来の先例にも違うし、字義においても誤解を招く。さらにいえば、朝鮮王朝において、「大君」は庶孫つまり嫡流ではない王族に与える呼称であって、天子より下位の爵号で、さらにいえば朝鮮王朝から官職を受けるような誤解をも生じる。その上、天皇は天の皇、国王は国の王で、天皇と国王とでは区別が明瞭ではないか。だから、徳川将軍の呼称としては、「日本国王」がふさわしい、ということです。

 新井白石としては、あくまで天皇の権威を保持しつつ、将軍のあるべき姿を名として表すにふさわしいのが「日本国王」であって、日本における階統秩序を正す目的こそあれ、天皇を蔑ろにする意図などはなかったわけです。「日本国王」という言葉に流されてはならないというわけです。それにもかかわらず、白石は、将軍の天皇化を目指す陰謀家という批判が尊王家などから出ていたわけです。そもそも白石は、閑院宮家創設によって、皇室の危機を救っています。現に、現在の皇室は閑院宮家出身で、白石がいなければ、徳川時代において、皇統の危機があったわけです。それにもかかわらず、言葉の響きによって、過去の人を判断してしまったわけですね。

 ここに歴史を解釈する際の難しさがあります。やはり問題は「言葉」なのです。現在、我々が理解している言葉とその人が使っている言葉の意味が果たして同じなのか。違うとしたら、どのような意味で、どのような根拠で用いているか。それが問題となります。そこに問題があることを理解しなければ、それは批判や議論ではなく、藁人形を叩いて、自己主張するだけになってしまいます。白石の「日本国王」問題というのは、そうしたセンスを磨く、一つの例題となるものなのかもしれません。

 ちなみに三上参次ははっきりと「しかれども白石が皇室に対し不敬の念ありてかかる号を用いしにあらざることは、これを断言すを得べし」と述べております(148頁)。

評価 ☆☆


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2016年3月 2日 (水)

三上参次『江戸時代史(一)』(講談社学術文庫、1977年)

点検読書139

原著は、冨山房より上巻が1943年7月、下巻が1944年10月に刊行。


日本史――徳川時代


戦前期における歴史学の泰斗・三上参次による最も早い時期の総合的な江戸時代の通史。本巻では徳川氏の出自から将軍宣下、豊臣氏滅亡までを描く。


二部構成
1:徳川氏の出自から家康の自立、信長時代、秀吉時代、関ヶ原まで。

2:将軍宣下や土木工事・参勤交代など初期の政策から大坂夏の陣まで。

コメント

 田中義成の『豊臣時代史』が読み終わったところで、過去に戻っても良いのだが、せっかくだから、江戸時代の通史を読んでしまおうと思って、本書を手に取る。

 ウム、田中義成の書き手としての巧さに比べると、三上はいかにも学者といった風情で、面白くはない上に、引用史料の出典も田中ほど分かりやすく書いていないので、これは引用か本文か、と一瞬迷う部分がある。出版は、田中の方が先なのですが。

 しかし、戦前期、しかも戦時中に出版されたものという物珍しさもあるし、その時期の徳川時代のまとめとしても興味深い。本巻は、徳川氏の出自から大坂夏の陣までなのだが、興味深いのは、徳川氏の出自。これがとてつもなく怪しい。

 とりあえずは源義家を始祖とし、新田源氏の流れをくむ徳川氏の出という設定なのだが、もともとの領地を失い、追手を逃れるために僧侶になって、諸国を旅するうちに三河の松平郷を訪れ、現地の郷士の娘を娶って松平氏を名乗る(初代親氏)。その後、八代にわたって勢力を増して、家康の代で徳川に復姓し将軍宣下を受けたという流れである。

 これってよくある貴種流離譚ですよね。日本における貴種の最たるものである皇室の物語もこんな感じですね。つまり、九州の一部族の長のイワレヒコ(神武天皇)が、大和地方に流れていって、現地の豪族の娘を娶って根づいていって、10代目のミマキイリヒコ(崇神天皇)において近畿・中国・東海・北陸地方を制圧して大勢力を築いた、という。徳川氏における源義家が皇室の天照大御神で、新田氏というのがニニギノミコトの子孫というのにあたるでしょうか。

 よくハツクニシラススメラミコトという称号が、神武天皇と崇神天皇の二人にあるのはおかしいとして、初代の方の神武天皇は創作で、崇神天皇が初代とする、という見解が持たれている。細かい考証は別として崇神天皇が初代というのは、おおむね受け入れられているように思え、岩波新書の古代史シリーズの吉村武彦『ヤマト王権』もそのような見解だったように思う。岩波の名で出している本ですら、崇神天皇を認めているのである。しかし、一方で崇神天皇はどっから出てきた人なのよ。というと答えはない。その地の有力豪族であったとしか推測しようがないのであろう。

 これを徳川家康=崇神天皇、松平親氏=神武天皇とすれば、何となく納得がいくのではないか。どちらもきわめて怪しい。単なる貴種流離譚である。しかし、神武天皇を歴史ではなく、参考的な伝承として、そういうものがある、と徳川家康を紹介する際の伝説同様の扱いとして考えれば、良いのではないだろうか。

 もっともあくまで参考である。歴史ではない。私は、『古事記』『日本書紀」の記述を、7、8世紀の人々が都合の良いように創作したという見解を聞くたびに、しかし、それって他の豪族たちが自分たちの伝承と違うとどこかで反証してしまうのではないか、とか思っていたのです。しかし、16、17世紀の徳川家の出自ですら、このようによく分からずに、伝説をつくって、特に他の大名家や学者から反証が出ないとすると、8世紀じゃさらに史料がなくて無理だはな、と思わざるをえない。

 あ、でも私は安彦良和『神武』が好きなので、九州からの入婿説は魅力的だな、と思っております。古代史は、史料が出てこない分、どんなものも解釈にすぎないだろうし、楽しんだ方がいいかな、と思います。家康の出自の方も、村岡素一郎の魅力的な解釈もありますしね(参照)。

評価 ☆☆☆


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2015年12月25日 (金)

安丸良夫『神々の明治維新』(岩波新書、1979)

点検読書79

副題は、「神仏分離と廃仏毀釈」

歴史――日本史

維新政府が打ちだした神仏分離の政策と、仏教や民俗信仰に対して猛威を振るった排斥運動の過程は、日本人の宗教観に影響を与えた。つまり、初詣など宗教色の弱い儀式には参加できるものの、自身の問題としての宗教へのハードルの高さを感じてしまう、というように。

戦国時代から幕末までの為政者による宗教政策の事例を追うことで、世俗権力優位=世俗権力の神格化という特徴を論じ、明治新政府による神仏分離を含む宗教政策が論じられる。次に廃仏毀釈の事例、政府による神の統制・序列化の国家神道の試み、民衆の宗教生活の変動、国家神道路線の破綻と国家優位の「信教の自由」体制の確立。

メモ
1.政治権力者の神格化への道をひらいたのは織田信長(23頁)
  現世と来世を「総見」する至高神=信長を祀る総見寺
  →これ以降、現世の権力者功績あるものが神として祀られることに(東照宮など)。
   ←中世までは非業の死を遂げたものへの御霊慰撫であった。

2.長州の淫祠破却(39~41頁)
  村田清風の天保改革の一環
  基準は延喜式神名帳に記載のある神が正祀で、そうでないものは淫祀
  (国学者・近藤芳樹の進言による)

3.国家による祭祀の統制思想(42頁)
  徂徠学派→中井竹山・履軒→水戸学・平田国学→水戸・長州藩による淫祀整理へ

4.徳川時代の反秩序的宗教の序列(43頁)
  キリスト教≧かくれ念仏・不受不施派≧一向宗・日蓮宗
  ≧流行神や御霊≧民俗信仰≧仏教一般

5.大教院体制=国家神道体制の破綻(199頁)
  国家神道体制破綻に最も影響力があったのは島地黙雷の政教分離論や浄土真宗の大教院離脱、さらには真宗信徒らの各地の抵抗による。

6.啓蒙思想家の「宗教自由」論(209頁)
  信教の自由よりも政教分離に関心が集まり、おおむね宗教に否定的。


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2015年12月21日 (月)

西郷、龍馬、そして幕府再評価

 昨日取りあげた鶴見俊輔編『日本の百年1 御一新の嵐』によると、西郷隆盛は、明治新政府に満足しない人たちが、その不満を託するもっとも適切な人物であったという。西郷自身は、幕末期の政治構想や人脈・政治的力量は高く評価されるものの、その最期に関するかぎり旧士族にかつがれた素朴な軍人かも知れない。しかし、彼の新政府の批判者として屈することなく戦った彼の姿勢とその死はさまざまな空想を生んだという。

 例えば、以下のような西郷に対する空想や思慕が生まれた。

1.幕府側諸藩出身者

内村鑑三
 内村は、高崎松平家(譜代八万二千石)家臣馬廻格五十石取りの家に生まれている。その彼の著書『代表的日本人』には、日本の維新は西郷の維新であり、西郷は清教徒革命のクロムウェルの比せられるべき人物として取りあげられている。

新渡戸稲造
 新渡戸は、戊辰戦争の際に官軍と戦った盛岡藩(外様二十万石)の藩主の用人の子として生まれている。彼もまた英国人に西郷を説明する際に、西郷は米国のリンカーンに比べ得る人物である、と述べたという。

2.右翼

 右翼一般において、西郷は理想的人物像として尊敬の対象となっており、大川周明にとっては、自分の母親と西郷とはひとしく自分の生涯を安楽にしてくれたありがたい導師である、と述べている(『安楽の門』)。

3.大衆文学

 大衆文学において、西郷はかっこうの題材となり、林房雄『西郷隆盛』(1939~70年)、海音寺潮五郎『西郷隆盛』(1955~56年)をはじめとして多くの小説の主人公となっている。しかし、これら史伝タイプの伝記小説ではなく、西郷の影を追う伝奇小説への影響も見逃せない。その一つが押川春浪『武侠の日本』(1902年)で、そこではフィリピン独立運動の謎の軍師として、生きていた西郷を登場させている。また獅子文六『南の風』(1942年)では、カンボジアにあらわれた西郷の落し胤を迎えて新興宗教をつくろうとする筋書きとなっている。

4.尊敬する人

 次に「尊敬する人物」としてあげられる西郷である。

 1938年11月の東京帝国大学の調査
1位 西郷隆盛225票 2位 ゲーテ132票 3位 キリスト105票 4位 東郷平八郎99票 5位 釈迦93票 6位 吉田松陰90票 7位 カント85票 8位 乃木希典62票 9位 日蓮62票 10位 野口英世 58票

他を押しのけた西郷人気である。宗教家・軍人人気の中に野口英世が入っているあたり、昭和期の子供向け伝記シリーズの常連になる素地ができていたということか。

 ちなみに1963年の東大法学部の調査になるとこんな感じである。
1位 シュバイツァー51票 2位 マルクス24票 3位 矢内原忠雄21票 4位 ラッセル16票 5位 リンカーン14票 6位 ベートーベン13票 7位 福澤諭吉11票 7位 毛沢東 11票 8位 ナポレオン11票 10位 レーニン10票

 人道主義、平和主義、共産主義、民主主義、ナショナリズムと戦後の時代の混沌とした社会思想を感じ取れるような気もするが、本当の2位は「自分の父母」28票であった、というのも「公」のためではなく「私」の優先・肯定が浸透した時代でもあったのだった。

 以上のように、西郷は明治後半から昭和にかけての人々惹きつける何かがあった。それについて、鶴見氏は、押川春浪に見られるようにアジア的改革とアジア連帯のシンボルとして、また内村鑑三に見られるように明治の革命に対する再革命の理想を掲げる永久革命の理想像としての西郷像があったのだろうと指摘する。そしてまた、自分を慕って集まってきた青年たちの至らなさまで含めてその全体を愛し、ともに死ぬという共同体との心中を美しいと感じる日本人の美意識もあったのではないか、とも。

 しかし、西郷ほどではないものの、戦前の大衆意識の底流にもう一人の理想像があった。それが坂本龍馬であった。その坂本の大衆文化でのあらわれは、「月形半平太」として誕生した。

 月形半平太は、1919年6月、大坂弁天座で初めて演じられ大当たりとなった幕末時代劇に登場するオリジナルキャラクターであった。その名は劇作家の行友李風の命名によるが、福岡藩士の月形洗蔵と土佐藩士の武市半平太に由来するものの中身は坂本龍馬であった。

 第一次大戦後の平和と民主主義の理想に照らして、明治維新の志士から、尊王攘夷から尊王開国へと政治的シンボルを転換させ、また幕末維新期の土佐の公議政体派の源流の一つでもある坂本をモデルとして選ばれたのではないか。その月形は、その転換ゆえに、かつての同志から裏切り者と呼ばれて殺される。一部に根強い龍馬暗殺の盟友黒幕説の高い支持の淵源は、月形にあるのかもしれない。

 もう一つの重要な明治維新解釈がある。それは、幕府再評価である。例えば、津田左右吉『幕末における政府とそれに対する反動勢力」(『心』1957年3・4月)は、明治維新に際して、武力を元に改革をおこなった尊王攘夷派によって維新のコースは歪められた。明治の改革のより良いコースは幕臣の中の良識派の構想の中にあったが、その構想は実現されることなく、その後、百年かかった、と明治政府の否定・幕府再評価を行なっている。これは、津田左右吉の戦後もしばらく経ってからの論文であるが、保守系雑誌『心』に掲載されたものという経緯から考えると、戦後日本の革新勢力に対して、戦前の自由主義派による改革というものを擁護する意識があったのかもしれない。

 以上のように、西郷、龍馬、幕府再評価と並べてみると、どれを好むかによって、自ずとその人の政治傾向が見られるだろう。

反体制感情を持つ人    → 西郷

体制内改革の気分の人  → 龍馬

体制派知識人的な保守派 → 幕府再評価

 西郷を好む「反体制感情」というのは、その体制まるごとの革新を目指す人々である。明治国家においては、反藩閥政府であり、反西洋化であり、反資本主義、反国体などの感情で、戦後日本においては反自民党、反米、反資本主義、反戦後憲法などの志向がある人が西郷に親しみを感じるのだろう。
 一方、龍馬を好む「体制内改革」というのは、明治国家においては、帝国憲法を否定せずにその枠内で平和主義・民主主義の実現を図ろうとする人々であり、戦後日本においては戦前の軍国主義を否定しつつも憲法改正を支持する親米派、その上で社会主義革命などラディカルな改革には慎重で、政権交代可能な二大政党制の確立など、穏健な民主化を進めるタイプの人かもしれない。戦後における坂本龍馬人気は、元サンケイ新聞記者で『サンケイ新聞』に連載された司馬遼太郎の『竜馬がゆく』ということを考えれば、大体そんなところでしょう。当時の『サンケイ新聞』の路線は、あくまで反共・自民支持であって、軍国主義の日本を肯定しようという傾向はあまりなかっただろうし。司馬が、明治は良かったけど昭和はダメという主張であったし、また西郷が苦手と考えているあたり、革命幻想はなかったであろう。

 最後の幕府再評価は、政治的改革などには興味のない知識層であろう。かつての左翼系の知識人は、明治維新が好きだった。やはり何といっても体制が変革するというカタルシスと下級武士をも含めた民衆のエネルギーに肯定的であったからだ。その一方で体制化した維新政府に対しては批判的という、一貫した反体制派であったのである。しかし、近年の知識層は、社会主義革命などの民衆のエネルギーを背景にした変革に興味を失っているし、現状を肯定している。だから、彼らは、表面上は民主主義を肯定するが、民主的に選ばれた首相が何か改革しようものなら、反対の姿勢を明らかにし、そうした指導者を支持する大衆を軽蔑している保守的な人びとである。ここでの「保守」とは、何ら思想的の意味のない現状肯定である。民主主義的背景を元にした憲法改正には反対、行政改革には反対、経済政策の転換にも反対といった「保守」である。

 言ってみれば、エリート主義なのである。

 そのため、知的に劣る下級武士による革命よりも、幕臣たち知的エリートたちの改革にシンパシーを感じ取る。そういった感じではないか。

 近年は、西郷人気はあまりない。どうも、革命幻想というのに人々は辟易としているのである。そして、これは革命を成し遂げて体制派になった維新の元勲たちの人気の低さにも感じられる。その一方で、西郷同様に可能性の理想像として民衆に支持の高い坂本龍馬と、龍馬と龍馬好きを軽蔑して幕府を再評価する知識層。この二分化が、現在見られるのではないか。そんな風に感じた。


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2015年11月21日 (土)

藤田覚『幕末から維新へ シリーズ日本近世史⑤』(岩波新書、2015)

点検読書48

①歴史――日本近世史

②幕末維新期の腫瘍な要素としての欧米列強・天皇・民衆が登場し始めた18世紀末からを幕末と理解することで、徳川政権の国防意識が継続されていたこと、天皇が突然注目されたわけではないこと、近代化をスムーズに受け入れた民衆という流れが無理なく理解できる。

③内外の危機に伴って幕府の「御威光」低下と天皇の浮上、外国船の接近、アヘン戦争の衝撃、近代化の準備としての近世の教育、開国から幕末の政局、五箇条の誓文まで。

メモ
大政委任論(p.36~37)
伊勢貞丈『幼学問答』(天明元年〔1781〕)
「徳川家康は天皇から日本国を預かって国政を行ない、歴代将軍は天皇から任命されて国政を担当していると説明し、だから将軍は天皇の臣下であると説いた。」

本居宣長『玉くしげ』(天明六年〔1786〕)
天皇→将軍→大名という「御任(みよさし)」=政権委任の秩序があると説明。

松平定信「将軍家御心得十五ヶ条」(天明八年〔1788〕)
日本の国土と人民を天皇から預けられていると説明。


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