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明治時代

2017年8月15日 (火)

加藤弘之とフルベッキ

 清水唯一朗『近代日本の官僚』(中公新書、2013年)を読んでいたら、次のような記述があった。

この前後、フルベッキに学んだ門下生には、大隈のほか、副島種臣、江藤新平、大木喬任(以上、佐賀藩)、大久保利通(鹿児島藩)、伊藤博文(山口藩)、加藤弘之(幕臣)ら、のちの維新官僚として新政府を担う人材が集まっていた(37頁)。

 ここに登場する「フルベッキ」とは、オランダ系アメリカ人宣教師のグイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)で、幕末の時期に長崎に布教のために1859年11月に来日し、長崎英語伝習所の後身たる済美館と、1865年に佐賀藩が長崎に設けた致遠館に招かれて、英語や政治経済を教えた人物である。
 さて、ここで疑問に思ったのは、フルベッキの門下生として「加藤弘之」の名が上がっていることである加藤は、明治期の啓蒙思想家、教育行政官僚として活躍した人物で、吉野作造に言わせると「日本で最初に立憲政治を紹介した人物」、またドイツ語を最初期に学習した人物として知られる。
 その加藤が、フルベッキの門下生とは初耳だったので、驚いた。で、この出典は何かと思ったが明記されていないのでわからない。で、「加藤弘之 フルベッキ」とGoogleで検索してみると、Wikipediaの加藤弘之の項目が最初にヒットし見てみると、次のよう書かれてあった(2017年8月14日閲覧)。

外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩校弘道館で学んだ後、済美館や遅延館でフルベッキの門弟として学ぶ。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。

このようにフルベッキの門弟として明記されている。
 なかなか驚くのは、出石藩の藩校を出た後に、先にふれた長崎の済美館や致遠館に入って、フルベッキの下で学び、幕臣となった、というのである。多くの加藤弘之に関する評伝の経歴では、藩校の後は一時期、佐久間象山の下で学び、その後、再び江戸に出て、大木仲益の日習堂に入門し、その後、蕃書調所の教授手伝に採用された、というのが一般的である。生前の自伝の年譜でもそうなっている。
 もっとも、Wikipediaの「来歴」欄は、以上のような一般的な経歴を記しており、略歴のところだけが突出して異常なのである。どうもこの編集は、2017年4月22日に行われたらしいのだが、この記述に根拠はあるのだろうか。
 根拠となっているのは、出典とされる西田真之「フルベッキと明治15年森林法草案」(『明治学院大学法学研究』101号、2016年10月)という論文で次のようにある。

長崎奉行所の済美館や佐賀藩の設置した致遠館で、江藤新平・大木喬任・加藤弘之・細川潤次郎等、後の明治政府の法制度改革の中枢を担う人々の教育活動にあたった(232頁)。

なるほど、これが根拠となるのだが、さて西田氏の論文の根拠となる出典は何か、というとこれもはっきりしない。フルベッキに関するものとして、これまた当時のお雇い外国人の一人グリフィスの"Verbeck of Japan"が紹介されていたので、Kindleで購入して、ざっと見てみたが、済美館や致遠館に関する箇所には加藤は出てこないし、7割ぐらい読んだあたりで、「翻訳の仕事を箕作、加藤、細川に手伝ってもらった」、というところにかろうじて見つけたぐらいである(pp.282-3)。
 他にあったのは、梅渓昇『お雇い外国人⑪』(鹿児島研究所出版会、1971年)と言うものがあるが、同著者の『お雇い外国人 明治日本の脇役たち』(講談社学術文庫、2007年)は手元にある。本書の原著は1965年で、記述としては似たものであると思われる。これを見るとあったのである。

この長崎における門下生に、大隈重信、副島種臣、江藤新平、大木喬任、伊藤博文、大久保利通、加藤弘之、辻新次、杉亨二、細川潤次郎、横井小楠ら、後年、明治新政府の高官、指導的人物が輩出した(73~74頁)

最初の清水著と西田論文の文章に似ている。では、梅渓著の参照先は何かというと、先のグリフィスの著作と尾形裕康「近代日本建設の父フルベッキ博士」(早稲田大学『社会科学討究』第7巻第1号、1961年)が挙げられていた。グリフィスの著作には、該当する記述はない。
 では、尾形の論文ではどのように書かれているのか。

こうしてかれは済美、致遠両校で、英語・政治・経済・軍事・理学などを教授した。この長崎における門下生から大隈重信・副島種臣・大木喬任・伊藤博文・加藤弘之・辻新次・杉亨二・何礼之・岩倉具定・岩倉具経・江藤新平・中野健明・細川潤次郎・大久保利通・横井小楠ら、後年政府の高官として天下を左右した人材が続出した(4頁)。

 これまで挙げてきた文献は、この中から著者が重要と思った人物を抜き出したといえる。さらに、この尾形は、何を参照して、これを書いたかというと、どうも戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」(『太陽』第1巻第7号、1895年)のようだ。

氏の交際せし人、或は其門下の学生には岩倉侯、大隈、大木、伊藤、井上の諸伯、加藤弘之、辻新次、杉亨二、何礼之、中野健明、細川潤次郎の諸君あり、故大久保侯あり、江藤新平氏あり、横井小楠あり、英和辞典を著はしし柴田氏あれば美談逸事多しといえども氏の狂謙なる敢て当年の事を語らず、この伝記さへも氏自らは語るを好まず、強いて写真は借り得たりといえども、其小伝さえ知るに由なく幸に教友ワイコフ氏が氏の小伝を偏せしゆゑ、其稿を借読し加ふるに余が記憶にある所を以て書記せしなり。詳細なる伝記は他年の後に世にあらはるゝ事もあるべし(1365~6頁)。

これを一読してみれば分かるように、戸川はフルベッキと「交際せし人」と「門下の学生」を区別せずに羅列している。どうも尾形は、これを全て「門下の学生」にしてしまったようである。
 この中で確実に「門下の学生」といえるのは、「岩倉侯」=岩倉具定・岩倉具経兄弟と大隈重信、何礼之ぐらいではないだろうか。ここには述べられていないが、副島種臣などが著名な門下といえるかもしれない。他は、例えば横井小楠などは甥の横井佐平太と太平がフルベッキの授業を受けた関係で「交際」があったらしいというものだし、細川潤次郎もフルベッキが東京に来てからの交流であったし、大久保利通・伊藤博文・井上馨レベルになってくると、その多忙さから幕末の時点で「門下」というより「交流」であろう。つまり、大部分の者は「交際せし人」と言うのが正しそうである。

 以上を整理すると、

  • 戸川残花がフルベッキと「交際せし人」と「門下の学生」を区別せずに名前を羅列した。
  • それを見た尾形裕康が、故意か勘違いか不明だが、全てを「門下の学生」と論文に書いた。
  • フルベッキについて調べる研究者は、まず尾形論文または尾形論文を参照した梅渓昇の著作を読むために、それを確認せずに信じてしまった。
  • Wikipedia編集者のような非研究者は、大学教授が書いているものだからと信じてしまった。

だいたい、こういう流れであろう。
 さて、最初に私が違和感を抱いた加藤弘之だが、加藤はこの時期は江戸の蕃書調所、その後身の開成所で助手や教授のような役職にいたのであって、長崎には行っていない。フルベッキは、英語、オランダ語、ドイツ語、フランス語を使えたとは言うものの、日本で教えていたのは、主に英語である。加藤は、英語も少し勉強したらしいのだが、ドイツ語訳のダーウィンの『種の起源』を読んでいたぐらいにものにならなかった。Wikipedia氏のいうように済美館や致遠館で長きにわたって、フルベッキの下で勉強していたとは思えないのである。そもそも済美館はともかく致遠館は早くとも慶応年間にできたのだから、そんな時期に幕臣である加藤が佐賀藩の学校には行かないだろう。
 また、加藤は、当時の洋学者にしては珍しく洋行していない。この点も、例えば中村隆英の死後出版された『明治大正史』では、加藤がドイツに留学したと書かれていたが、これもよくある誤解である。加藤は、正月休みに熱海に温泉に行くぐらいで、ほとんど遠出はしない。祖先教こそ日本の国体とか言っていた割には、明治に入ってから故郷の祖先の墓参りには2回ほどしか行かないほど、旅行嫌いなのだそうだ。江戸で十分に学問できるのに、旅行嫌いな加藤がわざわざ長崎には行かないだろうし、そもそも1860年代以降になると長崎で外国語を学ぶのは西日本の人々である。東日本の人は、江戸か横浜か、機会があれば海外へ行くだろう。
 加藤とフルベッキが交流していたのは、加藤が大学大丞として教育行政にあたってた時期に、フルベッキが大学南校の教頭をしていたからである。大学大丞としての加藤は、大学南校の長も兼ねていたから、すでにこれは教師と生徒の関係ではないだろう。ちなみに『高橋是清自伝』上巻(中公文庫、1976年)に次のような記述がある。

フルベッキ先生は、当時文部省の顧問、開成学校の教頭として、随分顕職の人にも知己が多かった。高位高官の人たちが外国の事情を知りたいと思う時には、まずフルベッキ先生を訪ねて教えを乞うた。就中、加藤弘之、辻新次、杉孫三郎などいう人々は、しばしばやって来て、先生の教えを受けた(150頁)。

米国での奴隷契約から解放されて日本の帰国した高橋是清は森有礼の家で書生をしていたが、森が米国赴任するに際して彼を託していったのが加藤とフルベッキであった(92頁)。その後、紆余曲折を経て、高橋がフルベッキの家で寄寓していた時のことを回想しての上記の記述である。
 たしかに加藤が「先生の教えを受けた」とは書かれているものの、これは「先生」と「門弟」の関係ではなく、友人同士の交流といえるであろう。例えば、知人の中国人に現在の中華人民共和国の政治や社会について教えてもらったとしても、「門弟」にはならない。単なる情報交換である。
 以上のように、Wikipediaの記述は、現在のところ間違っていると断定して良いだろう。編集したWikipedia氏もしくは編集を趣味にしている方におかれましては、是非とも削除して正常化して欲しい。

 もっとも4月に編集した方に罪はない。その方は、誠実にも出典を明らかにしているからだ。問題なのは、西田氏をはじめとする大学教員である。
 彼らも尾形や梅渓のような大家が書いているのだからと信用してしまったのであろうが、先行研究をそのまま内容を確認せずに参照してしまうのは危険なのである。しかも、西田氏の論文は、いつか単著に収録されるかもしれない。そうすると、大学の紀要論文ですらWikipediaに参照されてしまうのだから、単著だとますます人目にふれる。清水氏の著作は、中公新書という地方の図書館にも並べられるようなシリーズの一冊であるし、この作品は全体としては名著と言って良いものであるから、20年後ぐらいに文庫化されるであろう。そうすると、梅渓の著作が何の訂正もなく40年後に文庫化されたように、後世に誤解を再生産してしまう。
 もっとも、彼らが加藤や細川が確実に長崎でフルベッキの授業を受けたということを論証していただければ、それはそれでありがたいことである。ふとした誤解が、実は新説を生み出し、それが確実となれば、それは素晴らしいことである。
 すでに多くの閲覧者数をもつネット事典に影響を与えたのだから、どこかの段階で訂正をするか、新説を打ち出していただくことを願う次第である。

なお

村瀬寿代「長崎におけるフルベッキ人脈」(『桃山学院大学キリスト教論集』第36号、2000年3月)
西岡淑雄「細川潤次郎とフルベッキ」(『英学史研究』第24号、1992年)

を参照した。手元にない史料の孫引きをさせていただきました。

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2016年11月23日 (水)

トク・ベルツ編『ベルツの日記(上)』つづき

承前

明治33年5月9日
「一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいいながら伊藤は、操り人形を糸で躍らせるような身振りをしてみせたのである。」(204頁)

 有名なベルツのコメントです。これを読むといかに伊藤博文が、皇室を軽んじているかのように見えるが、この皮肉の対象は皇太子ではなく、有栖川宮をはじめとする天皇家周囲の皇族と貴族たちに向けているのかもしれません。ベルツは、次のように続けています。

こんな事情をなんとかしようと思えば、至極簡単なはずだが。皇太子を事実操り人形にしているこの礼式をゆるめればよいのだ。伊藤自身は、これを実行しようと思えばできる唯一の人物ではあるが、現代および次代の天皇に、およそありとあらゆる尊敬を払いながら、なんらの自主性をも与えようとはしない日本の旧思想を、敢然と打破する勇気はおそらく伊藤にもないらしい。この点をある時、一日本人が次のように表明した。「この国は、無形で非人格的の統治に慣れていて、これを改めることは危険でしょう」と。」

 これを読んでみると、ベルツが感じた伊藤の「放言」とは、皇太子の自由を束縛している皇族の「礼式」について述べているのであって、伊藤自身が天皇や皇太子を操り人形と考えているわけではなく、周囲の皇族が操り手として批判の対象となっているとも読めます。というのも、それ以前に次のような記述があったのです。

3月23日
「本日、葉山御用邸で東宮に関して、すなわちその健康状態が五月の成婚にさしつかえないか、どうかの点について、重大な会議があった。橋本、岡の両医に同意を表して自分は、わずかの懸念はあったが、さしつかえなしと述べた。懸念とは、体重が昨年の程度にどうしても達しないことである。しかし天皇への報告では、この点にはっきりと触れてはならないことになっている。それは、誰よりも天皇が、まず東宮の体重の増すことを望んでおられるからである。伊藤侯や、有栖川宮や、側近の人たちは、もはやこれ以上成婚を延ばすことはできないという意見なのだ。それというのも、あらゆる東洋の風習とは全然反対に、東宮が成婚前に他の女性に触れられないようにすることに決定をみたからである。そんな次第で自分も、一般の事情や特殊の事情から見て、早い成婚が東宮に良い影響をもたらすだろうと思う。」(197頁)

 つまり、皇太子、のちの大正天皇なのですが、結婚前の性体験は許されないと決められたために、早めに結婚させた方が良いという記述なのですが、この点が名うての好色漢である伊藤博文などには、「礼式」に縛られた「操り人形」と思えたのかもしれないのです。この決定というのが、どういうプロセスで、誰に決定権があったかは分かりません。近世に比べて、天皇の血統というものの重要性が格段に増加したという事情と、「万世一系」という神話を守るためにも、必要な処置だったのでしょう。しかし、伊藤にその決定に参加していないとすれば、こうした感想をもって、他の皇族に当てこすりをするのも分かる気もします。こうした点を考えると、この伊藤の「放言」は、傲慢な元老の発言というよりも、天皇といえども一定の自由は許されるべきだと考えるリベラルな忠臣・伊藤博文という印象にもなります。この点の専門家の知見はどうなっているのでしょうか。

 次は、義和団事件についての母国ドイツの動向についてのコメントです。

明治33年8月1日
「ドイツ皇帝は、清国派遣軍の出発に際して一場の演説をされたが、その演説がまた、あらゆるドイツ人を赤面させずにはおかないものなのである。皇帝はこういわれたそうだ「捕虜は無用だ、助命は不要だ!」と。すなわち、暴徒と化した清国兵が、かれらの国土の一角を平和の最中に奪い取った強国の公使を殺害したからといって、自身のキリスト教を到るところで表看板に押し立てているキリスト教徒の君主が、相手の清国の罪のない人たちを――たとえ武器をすてた場合でも、かまわないから――殺してしまえと命令しているのだ! こんな文明にはへどが出る! それでいて将来、この同じ国で自己の勢力をはりたいというのだ! このような考えの残忍・非道徳極まる点を度外視するとしても、すでに政治的見地からいって狂気のさたである。事実、やり方が狂気のさただ――つまり、われわれの敵すべての手に、われわれを亡ぼす武器を計画的に握らせるというやり方!」(220~221頁)

 ベルツは、若き日には統一ドイツを目指す運動に参加し、さらに普仏戦争にも志願して従軍する熱烈な愛国者なのですが、当日記に書かれている母国への評価は非常に厳しい。詳しいことは知りませんが、おそらく統一ドイツにおける自由主義派に属していたのかもしれません。そうした目から見ると、とりわけビスマルク退場後のヴィルヘルム二世の政治姿勢には憤懣が堪えなかったという雰囲気が伝わります。
 その上、以上の発言です。これは19世紀最後の年の発言です。20世紀に入ると大日本帝国の一部の将兵が同様のことを考え、さらに実行してしまって、問題になり続けていることはよく知られています。現在でも、「捕虜」の定義等々で責任に対して否定的な向きがありますが、「武器を捨てた」無抵抗な「暴徒」を殺害することは、恥ずべきことと考えるのが常識的な「文明人」の考え方です。帝国主義真っ盛りの時代の知識層の考えがそうなのですから、現在ではさらにそうでしょう。その点を考慮に入れて、諸外国に対して「愛国活動」をしてほしいものだと思います。過去はどうにもならないのですから。

 下巻は、まるまる日露戦争のことらしいです。そのうち、アップします。

評価 ☆☆☆

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2016年11月22日 (火)

トク・ベルツ編『ベルツの日記(上)』

点検読書242

訳者は菅沼竜太郎。
岩波文庫(1979年2月16日)刊


日本史――明治時代


明治9年にお雇外国人として訪日したドイツ人医師・エルウィン・ベルツ(1849~1913)の日記。上巻は、来日した明治9年から日露戦争前夜の明治37年2月3日まで。


6部構成

1:エルウィン・ベルツ小伝

2:訪日(明治9年から15年)

3:憲法発布から日清戦争の時代(明治21年から32年)

4:教職を退く(明治33年から35年)

5:インドシナ・韓国周遊記(明治35年から36年)

6:日露戦争前夜(明治36年から37年)

コメント
 本書は、とくにコメントすることもなく、興味深いところを抜書きすれば、その魅力は伝わると思います。

明治9年10月25日
「ところが――なんと不思議なことには――現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした〔言葉そのまま!〕」とわたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。なかには、そんな質問に戸惑いの苦笑をうかべていましたが、わたしが本心から興味をもっていることに気がついて、ようやく態度を改めるものもありました。」(47頁)

当時の日本人の雰囲気について、よく引用される有名な箇所ですね。最後のところを読むと、外国人に対する羞恥心と警戒心から本心を隠しているとも読めますが、こうしたスッキリした日本人のメンタリティが新しい環境に急速に馴染むことのできる特質を作っているのかもしれませんが、過去を学ぶことをしないので、何度も同じ話題について最初から同じ議論をして以前の議論から積み重ねることができない、という残念な傾向も作っているかもしれません。

明治9年11月3日
「当地もだんだんと居心地が悪くなってきた。騒乱がいよいよ不気味に拡がってゆくからである。今では首都ですら、もはやあてにならないと政府が認める有様である。先日のこと日本橋附近で、下総に渡るため舟を雇おうとしていた十四名の士族が、大格闘ののち警官隊に取抑えられた。警官二名が殉職した。千葉県で大暴動を計画する書面が、かれらの手もとから発見された。・・・・・・首都に事実大暴動が起こって、暴徒の一群が外人の家を略奪し、これを虐殺することを思いついたとしたならば、われわれはまったく処置なしである。」(52頁)

これなども面白いです。現在の紛争後の途上国へ赴任した人の気分というのは、このようなものなのでしょう。現在の我々は、過去にこうした「危険」な国だったことを忘れがちで、諸外国のことを見てしまいますが、他人事ではなかったのでした

明治11年3月17日
「築地、島原の劇場へ。『西郷と鹿児島の変』、すなわち昨年の事件が上演されていたが、その芝居たるや、朝の六時から晩の八時まで続き、日本人を極度に熱狂させている。だがわれわれ西洋人にとっては恐ろしく退屈なものである。」(70頁)

しかし、西南戦争の翌年とは早いですね。これは戦勝を祝う気分なのか、西郷人気なのか、反政府気分の強さなのか。そのあたりが気になるところです。

明治22年2月16日
「日本憲法が発表された。もともと、国民に委ねられた自由なるものは、ほんのわずかである。しかしながら、不思議なことにも、以前は「奴隷化された」ドイツの国民以上の自由を与えようとはしないといって憤慨したあの新聞が、すべて満足の意を表しているのだ。」(138頁)

このあたりも有名な記述です。決まるまでは、大騒ぎするものの、決まると沈黙する、という現在の日本人にもつながるいい加減さがあらわれています。

明治22年3月19日
「憲法で出版の自由を可及的に広く約束した後に、政府はすぐその翌月、五種を下らぬ帝都の新聞紙の一時発行停止を、やむを得ない処置と認めている。それは、これらの新聞紙が森文相の暗殺者そのものを賛美したからである。それどころか、詩を作って、西野の予定した第二の犠牲者芳川がまだ生存しているのを遺憾とするという意味が述べてあった! 上野にある西野の墓では、霊場参りさながらの光景が現出している! 特に学生、俳優、芸者が多い。よくない現象だ。要するに、この国はまだ議会制度の時期に達していないことを示している。国民自身が法律を制定すべきこの時に当たり、かれらは暗殺者を賛美するのだ――森の行為に対して、いかなる立場をとろうとも、それは勝手ではあるが。」

このあたりも日本人のテロリスト好きというよりも、反政府気分が強い、というところに理由があるのでしょう。次に紹介するように、日本人が明治政府を自分たちの政府だと考えるようになったのは、日清戦争という国民戦争を経てなのでした。

ベルツの手記『明治時代』より
日本では一八九〇年代(明治二十三年から三十二年まで)に共和主義の時流が、どんなに強大であったかを知っているものでない限り、局外者にはまったく理解できないことである。・・・・・・福沢(諭吉)はこの国の重要な人物で、政治の圏外では最高の有力者であり、「日本の教師」なのである。この福沢がある大きいアメリカの雑誌の通信員に対してこう言明した。「わたしは、自由なお国に感嘆はしていますが、しかしわたし達自身には、まだ共和政の機が熟してはいないのです。だから、天皇がおられるのです。だが信じて頂きたい――現在すでに、政治に関して天皇の発言を必要とする場合は、イギリスの女王と比べてもその度合は少い位です」と。この言葉は一八九〇年代(明治二十三年から三十二年まで)の教養ある日本人の大部分の気持を代弁している。こうした気分を察知した政府は、全国民のために一致団結の結束をうながす機会が、運命によって新たに与えられる――つまり韓国を原因とする清国との戦争という形で――までは、柔軟な対応が賢明であると考えた。そしてこの日清戦争は政府の希望どおりの結果になった。すなわち日本全国民は一致団結し、国軍の勝利に熱狂したのである。以前は憎まれて、いろいろと悪く言われていた「元老」を首脳とする薩摩、長州の政治家たちは、海陸にわたる日本の名声を世界中で高めた。国粋的感情が目ざめて、外国のものすべての盲目的な模倣に対する健全な反応が始まった。自由諸国の美点に耳を傾けるものが、はるかに少なくなった。議院内閣制の政府を目指す最大の絶叫者たちは、控え目となった。・・・・・・巨人清国に打ち勝った、この世界驚嘆の勝利への、更に深い根底を、日本人特有の性質の中に求めたのであるが、この日本人気質には、「皇統連綿」の皇室もまた、大きい枠割を演じていた。こうしてこの日本人気質は、国家の危急存亡のとき一段と強く発揮されるのである。天皇の人格が全面に押し出されることが、だんだん多くなってきた。学校や役所にはいずれも、天皇の写真が掲げられていて、今ではこれに祝祭の折、おじぎをしてあいさつせねばならないのである。日本の青少年の、あらゆる道徳教育の基礎を示す勅語(教育勅語)が出たが、その中で天皇は、国民の一種の父親として表されている。こうして天皇を国家の、ある程度概念的で象徴的な代表として崇拝する観念を、太古からの古びた土地ではあるが、今や改めて有利に準備を施した国土に、十分意識して植付けたのである。このような日本の指導的な為政者の企画が完全に成功を収め、時としては、企図した程度以上の成果を挙げた事実は、誰にも否定できない。」(187~189頁)

 長くなりましたが、日清戦争によって、明治の日本がガラリと変わったことが述べられています。最初に引用した自分たちには歴史はない、と述べていた日本人が日本の歴史に目覚めるわけです。これは単なる移り味の早さではなく、まさに日清戦争の勝利という歴史をつくったがために、日本の歴史をあらためて振り返ることができたといえましょう
 しかし、この福沢の発言というのは、どこかに根拠があるのでしょうか。

つづく

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2016年9月 9日 (金)

ジョージ・アキタ他『「日本の朝鮮統治」を検証する 1910-1945』

点検読書232

共著者は、ブランドン・パーマー。
訳者は、塩谷鉱。
草思社(2013年8月28日)刊。


日本史――韓国・朝鮮


「世界で最も残虐な植民地政策だった」と言われる大日本帝国の朝鮮統治(1910~1945)は、同時代のアジアとアフリカにおける列強の植民地政策と比較して、史上最悪な「暗黒時代」といえるのだろうか。本書は、従来、"真実"として容認されてきたが、少なくとも別の観点からの見直しが必要な研究、概念、あるいは原理に対するアンチテーゼの追究という意味での「修正主義」的アプローチによって、民族主義的史観に覆われた朝鮮統治を見直す。


6部構成

1:「民族主義的史観」への疑問(1~3章)

2:朝鮮統治の指導層の認識と人々の暮らし(4~7章)

3:近代日本における司法権の独立(8~12章)

4:現代中国と同時代の植民地政策との比較(13~15章)

5:「軍国主義者」山縣有朋の実像(16章)

6:民族主義的史観を見直す近年の研究(17~18章)

コメント
 本書について、注意を要するのは、著者たちは植民地支配そのものを肯定しているのではなく、現在の韓国や北朝鮮の民族主義的史観に忠実な学者たちが主張する「
史上最悪」な朝鮮統治というのは言い過ぎである、ということを主張しているだけだということです
。日本の朝鮮統治においても、指導層と末端とでは認識が違い、虐待を行なう役人がいたということは、本書でも指摘されています。

 そのことを踏まえた上でも、日本の朝鮮統治は、李氏朝鮮時代や同時代の列強諸国に統治された東南アジアやアフリカの諸地域よりは、公平であったし、穏健であったであろう、と主張しているのです

 例えば、高宗の治世下の朝鮮は、総人口のわずか3%の富裕層によって、権力と富を牛耳っており、厳格な階層性のために民衆は救済策を求める機会を失われ、そればかりか役人たちが正規の地租に加えて特別税を徴収して、農民たちを苛んでいたことを、民族主義的史観派のC・I・ユージン・キム氏と金漢教氏の共著 Korea and the Politics of Imperialismからの引用によって論じています。

 また、日本の朝鮮統治初期の残酷さを象徴する「鞭打ち刑」は、そもそも李氏朝鮮時代に行われていたものであり、その際の鞭は「巨大な櫂状の棒」が使われ、囚人の脚の骨を砕いて不具者にしたり、死に至らしめたりしていたそうです。それが、日本統治時代の鞭打ち刑では、鞭は「節の突き出た部分を削いだ竹」で「長さは五十四センチメートルあまりで、太さは直径七・五センチメートル」。見世物としないために刑務所内の敷地内で執行され、事前に医師の検査と立ち会いのもとに、「一度に受ける……鞭打ちの数は三十回にまえに限られていた」。さらに、鞭打ちによって、肉を切り裂くことは禁止されていた、とマイケル・スプランガーヘンドリックス大学助教授の Grafting Justice: Crime and Politics of Punishment in Korea, 1875-1938 という論文で述べられていることを紹介しています。そして、この鞭打ち刑も3・1独立運動後に廃止されています。

 諸外国の植民地政策との比較では、日本統治下の朝鮮では学齢に達した児童の3分の1しか学校に行っていなかったことが指摘されるものの、フランス領のカンボジアでは5分の1、同領ベトナムでは10分の1、同国が領有する西アフリカでは更に低く、甘い見積もりでも1000人に4・7名の子供しか学校に行っていなかったそうです。識字率に関して言うと、朝鮮は50%以下であるのに対し、インドネシアで8%、仏領インドシナで10%、アメリカ統治下のフィリピンで50%以上であったそうです。フィリピンは、小学校の授業料が無料で、高等学校への進学も容易で、大学も5つ用意されていました(朝鮮は京城国立大学一つ)。こうしたフィリピンの教育水準の高さが、日本が侵攻した際の反発が強かった理由でしょうが、フィリピン以外で比較すれば、日本も多くを提供した方でしょう。

 日本統治下で朝鮮の人口が増えたことは有名です。1910年の1313万人から1942年には2553万人とほぼ二倍です。もっとも、人口が増えたからといって、肯定できるものではない、という批判があります。もっともであると思います。しかし、ベルギー統治下のコンゴでは、統治開始当初の1885年には2000万人から3000万人いたとされる人口が1911年には850万人にまで減少していた、と言われると、並なことはしていたんでしょうぐらいは言えると思います。また、列強の植民地支配は、換金作物への強制栽培制度などがあったために、たびたび飢饉が起きていたといいますが、日本統治下の朝鮮では一度も飢饉がなかったそうです(186頁)。さらに、朝鮮統治初期の抵抗運動鎮圧のために強制収容所を使わなかったことも、日本の植民地支配の特徴であると指摘しております(173頁)。

 本書は、民族主義的史観派の著作と修正主義的史観派の両派の研究書を多く引用し、これまでの朝鮮統治研究を概観できるのに便利です。日本の朝鮮統治についての肯定的記述が多いことが気になる向きにしても、そういう見方があるということは知っておいた方がいいし、また肯定派も民族主義的史観派にどのような研究があるのかを知っていることが、議論の土台になってよいでしょう

 しかし、疑問点もあります。それは、本書で特にページを割いている司法権の問題をとりあげているところです。基本的には、大津事件などを指して、日本では司法権が行政権の言いなりではなく、一定の独立があり、また伊藤博文ら政府首脳部でもそれは理解されており、朝鮮統治においても法の支配というのは、それほど恣意的に行われてはいなかった、ということを述べています。
 その点は良いのですが、そこに敷衍して、最高裁判事の面々は官僚たちの決定を承認しなければならないというカレル・ヴァン・ウォルフレンの日本官僚支配論は「不見識にして論理性に欠ける日本観」であると厳しく批判しています(110~111頁)。しかし、ウォルフレンの官僚制論の批判点は、1899年の山縣有朋内閣における文官任用令改正によって、キャリア官僚制が確立し、政治主導による統治が不十分になってしまった、ということにあるかと思います。とするならば、その反論に1891年の大津事件を証拠するのは、少々反論として弱く思います
 もっとも、1934年の帝人事件においても被告がすべて無罪になっていることを見れば、その後も裁判所が司法官僚の言いなりではなかったことは確かでしょう。司法権の独立は一定の成果はあったと思いますが、幸徳事件のようなフレームアップを容認する判決もあったわけですから、それほど誇るべきものがあったかは疑問です
 また、閣議が、官僚の提案を鵜呑みにしているだけ、というウォルフレンの批判に対して、やはり大津事件の対応を持ってくるのは、筋違いに思います。文官任用令改正以前の官僚や大臣というのは、藩閥政治かも含めて、維新革命の荒波を越えてきた政治家が官僚になったというべき人々で、後の官僚らしい官僚の支配と政治家になった官僚たちの政党とは別物です。その時代の官僚政治家たち=元老を例にとっても反論にはなりません。丸山眞男以来の官僚国家批判は、明治国家の天皇のカリスマ性と元老たちの責任意識と決断力を評価しつつ、昭和期の官僚たちの責任意識の無さを批判しているのですから、ズレた批判と言えるでしょう。
 そういうような近代日本に対する認識をみると、朝鮮統治に関する見方も一面的にも思えてしまうので、本書を土台にいろいろと読んでみるのが良いのかな、と思えました。

評価 ☆☆

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2016年8月29日 (月)

生方敏郎『明治大正見聞史』

点検読書225

中公文庫(1978年10月10日)刊
原著は、春秋社(1926年11月)刊


日本史――明治時代


『東京朝日』の名物記者から作家となった著者の体験を踏まえた明治・大正の世相史。明治初期の外交から憲法発布と日清戦争、学生の目を通した社会の移り変わり、乃木将軍の死に直面した新聞社の本音と建前、関東大震災の記録、と明治・大正の事件を風刺的に描く。


8部構成

1:明治初期の「屈辱」外交

2:日清戦争と社会的意義

3:明治時代の学生生活

4:恐露病と日露戦争

5:明治の終わりと乃木将軍

6:プロから素人の女性の時代

7:大正の世相史

8:関東大震災の記録

コメント
 本書は、明治・大正の社会の移り変わりを社会をきりとるという新聞記者の視点から回顧した作品です。収録された作品は、世の中の変化の体験的記録という点でまとまっているものの、各作品は『中央公論』などに掲載されたものだそうです。
 本書では、乃木将軍がその妻とともに明治天皇に殉死した事件について、新聞社内で軽蔑したような会話がなされている中、できあがった新聞は賞賛の嵐というように、建前によって世論が創られていくさまや、関東大震災に当事者として体験し、徳富蘇峰が津波にさらわれて死亡したなどの噂を鵜呑みにする姿、話題になる女性がプロの芸者から女性記者や作家など「素人」へと転換していくさまなど、興味深いエピソードにあふれています。

 その中でも、興味深いのは、やはり日清戦争でしょう。
 明治国家の初めての本格的な対外戦争である日清戦争は、日本という国家を国内的にも、対外的にも決定的に変えた重要な事件であったというのです。
 著者が言うには、日清戦争までの地方の人間は、反藩閥政府的気分が強く、一つの国民という意識が希薄でしたが、この戦争によって、それが変わったというのです。

「私の子供らしい心に映ったところで見ると、憲法発布はさまで地方民の心に革新の刺激を与えないでしまった。皆な予期を裏切られたという心持ちを持ったらしかった。根本的に地方民の心を動かして、明治の新政府に服従し中央政府を信頼するようになったのは、日清戦争の賜物であったように思われる。」(25頁)

 つまり、それ以前の地方の人にとって、明治維新は薩長武士の企てた「革命」に過ぎないのであって、自分たちの政府とは考えていなかったようなのです。もちろん、人々は、「きんりん様」=禁裏様=天皇を尊いものと考えていたものの、それと同等かそれ以上に「公方様」=徳川将軍の権威が強かったようなのです。それが、この戦争の思わぬ勝利によって、中央政府の権威が一気に上昇したということでした。
 また、この戦争は、一般国民の中国観も大幅に転換させました。それ以前の日本人にとっての中国というのは、子供の頃から教え込まれる儒学の故郷であり、学校で習う「漢字」の国であり、また優れた美術品をつくる国で、お祭りの山車に置かれた人形のモデルたち、漢楚合戦や三国志の国だったのでした。
 それが憎悪する敵国へと変わり、そして思いがけぬ日本軍の快進撃に「遅れた国」という印象を持つようになったというのです。
 現在の我々は、日清戦争を勝つべくして勝った戦争で、いってみれば日露戦争の前哨戦のような扱いで見てしまいます。しかし、著者も言うように、もし日露戦争がなければ、牙山で戦死した松崎直臣大尉や喇叭卒の白神源次郎は日露戦争における廣瀬武夫中佐と杉野孫七兵曹長なみに知られていただろうし、大島義昌、立見尚文、大迫尚敏、佐藤鉄太郎の諸将は日露戦争の黒木為楨、乃木希典、児玉源太郎なみの大英雄であったろうというのです。
 現にこの箇所は原文では苗字しか書いておりませんのでしたが、私は日露戦争の方はほぼ下の名前も調べずに書けましたが、日清戦争の方は一人もフルネームが出てきませんでした。同時代人にとっての大事件とのちの人間にとっての捉え方は、これほど違うのか、と感じます。
 本書は、そうした驚きにあふれております。また、それを指摘出来るだけの透徹した視線を持っていたということもあったのでしょう。しかしながら、その著者ですら、この日清戦争で軍国熱が暑くなったものの、1926年現在では軍縮熱によって軍人の肩身が狭くなったとは、誰も想像できなかったろうと述べており(66頁)、その数年後の軍国主義を予想だにしていなかったのも面白いところです。

評価 ☆☆☆☆

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2016年8月26日 (金)

福澤諭吉「日本婦人論」

点検読書224

『明治文学全集8 福澤諭吉』(筑摩書房、1966年3月10日)、所収。
1885年(明治18年)6月4日から12日まで『時事新報』社説で掲載。


日本思想史――福澤諭吉


西欧諸国に対抗しうる国家をつくるためには、日本人の人種改良が必要である。他力として考えられるのは雑婚であるが、自力として考えられるのは日本婦人の心身を強化することで、心身ともに健康な子孫を増やすことにある。そのためにも、徳川時代以来の封建道徳がつくりだした男尊女卑をあらためて、女性に財産権を持たせることで責任意識を育て、また適度な性欲を満足させることで健康な身体をつくりだすべきである。


8部構成

1:人種改良の方法としての婦人の心身の活発化

2:婦人への財産権の確保

3:人生の三要素(形体、智識、情感)

4:婦人の再婚を蔑視する風潮は情感をそこなう

5:看過されてきた婦人の健康と性欲(「春情」)

6:婦人の再婚が普通だった中世の日本

7:男女平等の家族の具体案

8:男女平等こそが人種改良の近道

コメント
 福澤諭吉は、雑婚による人種改良論者でした。彼が、強烈なナショナリストであったことは知られていますが、民族主義者だったのではありません。今ある日本列島に存在する政権が外国に蹂躙されて、独立が維持できないことに危機感を持っていたのであって、歴史的に形成された「日本人」という民族性を守りたかったわけではありませんでした。
 その点で、福澤と対比される加藤弘之が、日本には残すべき伝統などないし、個性があるとすれば皇室と日本民族だけなので、もし人種改良しなければ滅びてしまうような弱い民族なら滅びてしまったほうが良い、と優勝劣敗の社会進化論者らしい考え方とは異なります。加藤の方がスッキリしていますが、民族主義者なんですね。
 で、非民族主義者の福澤も雑婚以外の人種改良の方法を考えていたのです。それが本稿の「日本婦人論」で、その内容とは女性に財産権をあたえて責任感をもたせること、具体的には遺産分配の際に女子に不動産を優先させるなどの処置によって私的財産を確保することなどです。また男女平等の婚姻を実現するために、結婚後の姓の創設。つまり、畠山氏と梶原氏が結婚すれば、山原氏になるなど、嫁入り・婿入りというカタチで家名を残すという習慣を改めることを主張しています。もっとも福澤は、本人が親でない人を親と呼ぶことはできない養子制度が大嫌いだったので、そうしたものを必要とする家名というのが不合理だからともいっていますが、かなり急進的な核家族主義者です。また、離婚の権利を平等にすることを主張しています。
 しかし、本稿の最大の特徴は、日本婦人の性欲の問題を認知すべきということです。かねがね日本社会では、妻妾が性的に不遇であった、と福澤は述べます。つまり、大名であったら正妻や愛妾は江戸の藩邸に残されて、大名自身は本領に数人の妾を置くことができます。また、一般武士や商人たちも、藩用や仕事で長期に家を空けることがありますが、交通事情が不十分なために妻妾を家に残していきます。そして、妻妾たちが、家で虚しく過ごすのに対して、男たちは現地で花柳の春を買いに行きます。これでは不平等である、といいます。
 もっとも、福澤は、自分は妻以外女は知らんというほど、性道徳に厳しい人物でしたので、婚姻関係にある婦人が性的に自由を謳歌せよ、と主張しているわけではありません。問題なのは、夫の死別後の寡婦です。通常、妻に死別された夫には、再婚の話が来やすいのに対して、夫に先立たれた妻が再婚することを喜ばない風潮がある、と福澤はいいます。現に、異母兄弟というのは世間に多いものの、異父兄弟というのは少ないのではないか。そうした指摘をするのです。実際のデータがないので、どうとも言えないのですが、福澤の実感ではそのようになっていたというのです。福澤によれば、これは男女平等に反するといいます。
 福澤が言うには、形体と智識と情感という三要素を満足させることが人生の目的となります。形体というのは体の健康ですからしっかりとした食事を摂ることです。智識は学問をすることです。そして情感というのは快楽を得ることによって満足します。食事を過度に摂取すれば身体の健康を損なうように、それぞれ適量の摂取が必要となります。しかし、これまでの健康に関する考察には、性欲に関して看過してきたのではないか、と福澤はいいます。この性欲の満足を得ない場合、一見健康であるものの、神経病などを発するのではないか。現に、大名の子と言うのは、衛生状態や栄養状態が良いにもかかわらず、虚弱な子が多いではないか。それは、母親の方が室内に閉じ込められた上に、主人の寵愛を常に受けられるわけではないという不満と不安が、健康を損ね、子供にも影響を与えているといいます。
 おそらく福澤の理想は、一夫一婦制を確実に実行し、適度な性生活を送ることが良いことで、不幸にも離婚や死別した際に、女性が再婚することへの世間の目を和らげることが大切だ、ということになるでしょう。
 その点で、現在でもそうした目が世間には残っているので、まだまだ福澤の考えは古びていないのではないか、という気がします。その点で、谷原章介夫妻は、福澤基準で言うと立派な家庭なのでしょう。
 さて、福澤の「日本婦人論」の本筋の内容はそんなところなのですが、一箇所気になる部分があります。東洋における男尊女卑の風潮のところで、儒教の影響が強い朝鮮では、夫と死別した寡婦の再婚には厳しい制限がある上に、婚約中に相手が死んでしまったら後家とみなされて結婚できないので、寡婦が多い、という記述があります。しかし、こうした風習には抜け穴があって、性の相手を周旋する「慇懃者」というものがあるというのです。

「深窓の少寡婦も陌頭の楊柳と共に春風に吹かれて死灰自から温気を催ふすときは、傍より竊に其温度を窺ふて通情の道を周旋する者あり。之を慇懃者と云ふ。朝鮮にて慇懃者の盛んなる、恰も一種職業の体を成して、其手に依頼するときは男女共に意の如くならざるはなし。」(115頁)

 この「慇懃者」を利用するのは、若後家だけではなく、夫に相手にされない老妻や妻妾間の争いに敗けた者、夫が単身赴任している者などがいるそうです。儒教の国という外面の厳しさの裏には人情の機微にふれる裏の制度がある、と述べる下りで以上のようなものが紹介されています。しかし、これはグーグル先生にお伺いを立てても、とくに出てくるものではないので、出典が何か、というよりも朝鮮の風俗に関する歴史を調べなければならないのかな、とも思っております。

評価 ☆☆☆

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2016年6月13日 (月)

樋口一葉『ゆく雲』

点検読書209

『樋口一葉小説集』(ちくま文庫、2005年)所収

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2016年6月12日 (日)

樋口一葉『大つごもり』

点検読書208

『樋口一葉小説集』(ちくま文庫、2005年)所収

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2016年6月10日 (金)

樋口一葉『たけくらべ』

点検読書206

樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』(岩波文庫、1961年改版)所収

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2016年6月 7日 (火)

樋口一葉『にごりえ』

点検読書204

樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』(岩波文庫、1961年改版)所収。

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