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幕末史

2017年8月15日 (火)

加藤弘之とフルベッキ

 清水唯一朗『近代日本の官僚』(中公新書、2013年)を読んでいたら、次のような記述があった。

この前後、フルベッキに学んだ門下生には、大隈のほか、副島種臣、江藤新平、大木喬任(以上、佐賀藩)、大久保利通(鹿児島藩)、伊藤博文(山口藩)、加藤弘之(幕臣)ら、のちの維新官僚として新政府を担う人材が集まっていた(37頁)。

 ここに登場する「フルベッキ」とは、オランダ系アメリカ人宣教師のグイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)で、幕末の時期に長崎に布教のために1859年11月に来日し、長崎英語伝習所の後身たる済美館と、1865年に佐賀藩が長崎に設けた致遠館に招かれて、英語や政治経済を教えた人物である。
 さて、ここで疑問に思ったのは、フルベッキの門下生として「加藤弘之」の名が上がっていることである加藤は、明治期の啓蒙思想家、教育行政官僚として活躍した人物で、吉野作造に言わせると「日本で最初に立憲政治を紹介した人物」、またドイツ語を最初期に学習した人物として知られる。
 その加藤が、フルベッキの門下生とは初耳だったので、驚いた。で、この出典は何かと思ったが明記されていないのでわからない。で、「加藤弘之 フルベッキ」とGoogleで検索してみると、Wikipediaの加藤弘之の項目が最初にヒットし見てみると、次のよう書かれてあった(2017年8月14日閲覧)。

外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩校弘道館で学んだ後、済美館や遅延館でフルベッキの門弟として学ぶ。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。

このようにフルベッキの門弟として明記されている。
 なかなか驚くのは、出石藩の藩校を出た後に、先にふれた長崎の済美館や致遠館に入って、フルベッキの下で学び、幕臣となった、というのである。多くの加藤弘之に関する評伝の経歴では、藩校の後は一時期、佐久間象山の下で学び、その後、再び江戸に出て、大木仲益の日習堂に入門し、その後、蕃書調所の教授手伝に採用された、というのが一般的である。生前の自伝の年譜でもそうなっている。
 もっとも、Wikipediaの「来歴」欄は、以上のような一般的な経歴を記しており、略歴のところだけが突出して異常なのである。どうもこの編集は、2017年4月22日に行われたらしいのだが、この記述に根拠はあるのだろうか。
 根拠となっているのは、出典とされる西田真之「フルベッキと明治15年森林法草案」(『明治学院大学法学研究』101号、2016年10月)という論文で次のようにある。

長崎奉行所の済美館や佐賀藩の設置した致遠館で、江藤新平・大木喬任・加藤弘之・細川潤次郎等、後の明治政府の法制度改革の中枢を担う人々の教育活動にあたった(232頁)。

なるほど、これが根拠となるのだが、さて西田氏の論文の根拠となる出典は何か、というとこれもはっきりしない。フルベッキに関するものとして、これまた当時のお雇い外国人の一人グリフィスの"Verbeck of Japan"が紹介されていたので、Kindleで購入して、ざっと見てみたが、済美館や致遠館に関する箇所には加藤は出てこないし、7割ぐらい読んだあたりで、「翻訳の仕事を箕作、加藤、細川に手伝ってもらった」、というところにかろうじて見つけたぐらいである(pp.282-3)。
 他にあったのは、梅渓昇『お雇い外国人⑪』(鹿児島研究所出版会、1971年)と言うものがあるが、同著者の『お雇い外国人 明治日本の脇役たち』(講談社学術文庫、2007年)は手元にある。本書の原著は1965年で、記述としては似たものであると思われる。これを見るとあったのである。

この長崎における門下生に、大隈重信、副島種臣、江藤新平、大木喬任、伊藤博文、大久保利通、加藤弘之、辻新次、杉亨二、細川潤次郎、横井小楠ら、後年、明治新政府の高官、指導的人物が輩出した(73~74頁)

最初の清水著と西田論文の文章に似ている。では、梅渓著の参照先は何かというと、先のグリフィスの著作と尾形裕康「近代日本建設の父フルベッキ博士」(早稲田大学『社会科学討究』第7巻第1号、1961年)が挙げられていた。グリフィスの著作には、該当する記述はない。
 では、尾形の論文ではどのように書かれているのか。

こうしてかれは済美、致遠両校で、英語・政治・経済・軍事・理学などを教授した。この長崎における門下生から大隈重信・副島種臣・大木喬任・伊藤博文・加藤弘之・辻新次・杉亨二・何礼之・岩倉具定・岩倉具経・江藤新平・中野健明・細川潤次郎・大久保利通・横井小楠ら、後年政府の高官として天下を左右した人材が続出した(4頁)。

 これまで挙げてきた文献は、この中から著者が重要と思った人物を抜き出したといえる。さらに、この尾形は、何を参照して、これを書いたかというと、どうも戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」(『太陽』第1巻第7号、1895年)のようだ。

氏の交際せし人、或は其門下の学生には岩倉侯、大隈、大木、伊藤、井上の諸伯、加藤弘之、辻新次、杉亨二、何礼之、中野健明、細川潤次郎の諸君あり、故大久保侯あり、江藤新平氏あり、横井小楠あり、英和辞典を著はしし柴田氏あれば美談逸事多しといえども氏の狂謙なる敢て当年の事を語らず、この伝記さへも氏自らは語るを好まず、強いて写真は借り得たりといえども、其小伝さえ知るに由なく幸に教友ワイコフ氏が氏の小伝を偏せしゆゑ、其稿を借読し加ふるに余が記憶にある所を以て書記せしなり。詳細なる伝記は他年の後に世にあらはるゝ事もあるべし(1365~6頁)。

これを一読してみれば分かるように、戸川はフルベッキと「交際せし人」と「門下の学生」を区別せずに羅列している。どうも尾形は、これを全て「門下の学生」にしてしまったようである。
 この中で確実に「門下の学生」といえるのは、「岩倉侯」=岩倉具定・岩倉具経兄弟と大隈重信、何礼之ぐらいではないだろうか。ここには述べられていないが、副島種臣などが著名な門下といえるかもしれない。他は、例えば横井小楠などは甥の横井佐平太と太平がフルベッキの授業を受けた関係で「交際」があったらしいというものだし、細川潤次郎もフルベッキが東京に来てからの交流であったし、大久保利通・伊藤博文・井上馨レベルになってくると、その多忙さから幕末の時点で「門下」というより「交流」であろう。つまり、大部分の者は「交際せし人」と言うのが正しそうである。

 以上を整理すると、

  • 戸川残花がフルベッキと「交際せし人」と「門下の学生」を区別せずに名前を羅列した。
  • それを見た尾形裕康が、故意か勘違いか不明だが、全てを「門下の学生」と論文に書いた。
  • フルベッキについて調べる研究者は、まず尾形論文または尾形論文を参照した梅渓昇の著作を読むために、それを確認せずに信じてしまった。
  • Wikipedia編集者のような非研究者は、大学教授が書いているものだからと信じてしまった。

だいたい、こういう流れであろう。
 さて、最初に私が違和感を抱いた加藤弘之だが、加藤はこの時期は江戸の蕃書調所、その後身の開成所で助手や教授のような役職にいたのであって、長崎には行っていない。フルベッキは、英語、オランダ語、ドイツ語、フランス語を使えたとは言うものの、日本で教えていたのは、主に英語である。加藤は、英語も少し勉強したらしいのだが、ドイツ語訳のダーウィンの『種の起源』を読んでいたぐらいにものにならなかった。Wikipedia氏のいうように済美館や致遠館で長きにわたって、フルベッキの下で勉強していたとは思えないのである。そもそも済美館はともかく致遠館は早くとも慶応年間にできたのだから、そんな時期に幕臣である加藤が佐賀藩の学校には行かないだろう。
 また、加藤は、当時の洋学者にしては珍しく洋行していない。この点も、例えば中村隆英の死後出版された『明治大正史』では、加藤がドイツに留学したと書かれていたが、これもよくある誤解である。加藤は、正月休みに熱海に温泉に行くぐらいで、ほとんど遠出はしない。祖先教こそ日本の国体とか言っていた割には、明治に入ってから故郷の祖先の墓参りには2回ほどしか行かないほど、旅行嫌いなのだそうだ。江戸で十分に学問できるのに、旅行嫌いな加藤がわざわざ長崎には行かないだろうし、そもそも1860年代以降になると長崎で外国語を学ぶのは西日本の人々である。東日本の人は、江戸か横浜か、機会があれば海外へ行くだろう。
 加藤とフルベッキが交流していたのは、加藤が大学大丞として教育行政にあたってた時期に、フルベッキが大学南校の教頭をしていたからである。大学大丞としての加藤は、大学南校の長も兼ねていたから、すでにこれは教師と生徒の関係ではないだろう。ちなみに『高橋是清自伝』上巻(中公文庫、1976年)に次のような記述がある。

フルベッキ先生は、当時文部省の顧問、開成学校の教頭として、随分顕職の人にも知己が多かった。高位高官の人たちが外国の事情を知りたいと思う時には、まずフルベッキ先生を訪ねて教えを乞うた。就中、加藤弘之、辻新次、杉孫三郎などいう人々は、しばしばやって来て、先生の教えを受けた(150頁)。

米国での奴隷契約から解放されて日本の帰国した高橋是清は森有礼の家で書生をしていたが、森が米国赴任するに際して彼を託していったのが加藤とフルベッキであった(92頁)。その後、紆余曲折を経て、高橋がフルベッキの家で寄寓していた時のことを回想しての上記の記述である。
 たしかに加藤が「先生の教えを受けた」とは書かれているものの、これは「先生」と「門弟」の関係ではなく、友人同士の交流といえるであろう。例えば、知人の中国人に現在の中華人民共和国の政治や社会について教えてもらったとしても、「門弟」にはならない。単なる情報交換である。
 以上のように、Wikipediaの記述は、現在のところ間違っていると断定して良いだろう。編集したWikipedia氏もしくは編集を趣味にしている方におかれましては、是非とも削除して正常化して欲しい。

 もっとも4月に編集した方に罪はない。その方は、誠実にも出典を明らかにしているからだ。問題なのは、西田氏をはじめとする大学教員である。
 彼らも尾形や梅渓のような大家が書いているのだからと信用してしまったのであろうが、先行研究をそのまま内容を確認せずに参照してしまうのは危険なのである。しかも、西田氏の論文は、いつか単著に収録されるかもしれない。そうすると、大学の紀要論文ですらWikipediaに参照されてしまうのだから、単著だとますます人目にふれる。清水氏の著作は、中公新書という地方の図書館にも並べられるようなシリーズの一冊であるし、この作品は全体としては名著と言って良いものであるから、20年後ぐらいに文庫化されるであろう。そうすると、梅渓の著作が何の訂正もなく40年後に文庫化されたように、後世に誤解を再生産してしまう。
 もっとも、彼らが加藤や細川が確実に長崎でフルベッキの授業を受けたということを論証していただければ、それはそれでありがたいことである。ふとした誤解が、実は新説を生み出し、それが確実となれば、それは素晴らしいことである。
 すでに多くの閲覧者数をもつネット事典に影響を与えたのだから、どこかの段階で訂正をするか、新説を打ち出していただくことを願う次第である。

なお

村瀬寿代「長崎におけるフルベッキ人脈」(『桃山学院大学キリスト教論集』第36号、2000年3月)
西岡淑雄「細川潤次郎とフルベッキ」(『英学史研究』第24号、1992年)

を参照した。手元にない史料の孫引きをさせていただきました。

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2016年4月13日 (水)

野口武彦『鳥羽伏見の戦い』

点検読書169

中公新書(2010年)刊。
副題は「幕府の命運を決した四日間」。


日本史――幕末史


慶應4年(1868年)1月3日から6日にかけてのたった4日の戦いであったが、徳川慶喜の復権を終わらせ、明治新政府の成立を促した天下分け目の戦い。誰もが知っているものの、その内容を詳しくは知られていない戦争を1冊の本として論じる。


三部構成

1:開戦前夜(第一章・第二章)

2:四日間の戦闘(第三章~第六章)

3:徳川慶喜の逃亡と江戸落城(第七章・エピローグ)

コメント
 本書の帯にあるように「誰もがその名を知っているけれど、詳しくは知らないこの戦い」が、鳥羽伏見の戦いです。
 大体の流れで理解すると大政奉還、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、江戸城開城という一連の流れは、未来の視点からだと、スッキリとしており、大政奉還の時点で徳川政権は終わりを告げ、王政復古の大号令で決定打を撃たれたと思われてしまいます。しかし、王政復古の大号令までの流れを演出した大久保利通自身が、慶應3年の年末には慶喜にはかなわないと弱音を吐き始め、岩倉具視が慶喜の新政府入りを考え始めた、まさにその時、この戦いは始まり、たった4日で勝負を決してしまいました。
 当事者にとっても、その後の歴史においても転換点にあったように思えるのですが、あまりにあっさりとした決着に後の人の関心があまりありません。本書でも述べられているように「鳥羽伏見の戦いを単独のテーマにして書かれた本は刊行されていないのである」(5頁)。同じ天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いもたった1日で勝負を決したにも関わらず、関心を落ち続けられるにもかかわらず。それだけでも本書は貴重な成果です。
 さて、この鳥羽伏見の戦いの謎の一つに、徳川慶喜の関与はどの程度であったか、という点です。明治以後の『徳川慶喜公伝』やその史料として健在だった慶喜にインタビューをした『昔夢会筆記』などによれば、慶喜は早くから王政復古の志があったとします。明治31年に明治天皇に拝謁し公爵を賜って復権した慶喜としては、そうした物語のほうが都合がいいわけです。このように邪推してしまい、大政奉還は薩摩の武力討幕の口実を失わせるためで、政権を譲り渡す気がなかったとされ、「徳川モナルキー」を維持し続ける秘策だったという考えもあります。しかし、一方で、慶喜が政権を握り続ける気があったことは否定できないものの、それは慶喜個人のことであって、徳川幕府という親藩・旗本政権を維持することではなく、あくまで天皇中心の王政復古政権の中で、慶喜がイニシアティブを握るという意味だという考えもあります。そうなると、彼の王政復古の志は、彼の晩年の弁明通りであったともいえます。
 本書では、慶喜の中小姓・村山摂津守鎮の談話筆記を元に次のように論じます。
 慶應4年1月3日、鳥羽伏見の敗報を受けて驚いた慶喜は、さらに北上軍が「討薩の表」を携えていたということを陸軍方に詰問するが、陸軍方では「上様もご承知と聞いてました」と答えた時、慶喜は多少は憤激して板倉伊賀守に何か言っていたが、思ったより本気で怒っていなかったように見えた、と証言している。
 ここから考えられるのは、慶喜は「討薩の表」の内容には関与しており、それを携えて上洛し、京都政局において薩摩のみを孤立させて、他の勢力を抱き込み、復権を計ろうとしていた。慶喜の目的は、そこにあったので「軽装上京」を意図していたが、主戦派はこれを好機に京都の薩摩藩邸を攻撃しようとしていた。慶喜もその点を黙認しているフシがあったので、玉虫色の命令となり、もし戦闘が起きても、それは先遣隊の暴走として片がつくとしていた。こうした曖昧な上京部隊であったため、途中での鳥羽伏見での戦闘を予期しておらず、戦闘準備がなく無様に負けてしまったのではないか。慶喜は、その無様な敗北に驚愕し、憤激したのではなかったか。こういった趣旨です。
 しかしこれですと、薩摩排除の新政権樹立の意図は伝わってきますが、幕府再興の意志は読み取れませんし、当時の情勢において天皇抜きの大統領もしくは〈皇帝〉となったとは考えにくいのではないか。そう考えると、王政復古の志を否定する材料は特にはなさそうです。また、慶喜の東帰に関しては軍艦順動にて天保山沖から上陸し、1月6日に慶喜に面謁した若年寄兼陸軍奉行の浅野美作守氏祐の証言によれば、この時点で東帰恭順を決めていたといいます。つまり、江戸で再挙するために逃亡するのではなく、主戦派から距離をとって恭順する、という本人の弁明そのままが正しいのではないでしょうか(本書では、ロッシュとの19・26・27日の会見までは揺れ動いていたとします)。
 本書では、やはり慶喜による「天皇抜きの近代国家」に夢をつないでいるような話を結末に持ってきていますが、そこは買いかぶり過ぎなのではないかな、と思います。「皇国史観」は単に明治国家のイデオロギーなだけではなく、それなりの根拠があったから、成立したんじゃなかろうか。そんな気がするのです。
 それにしても、一冊まるごと鳥羽伏見の戦いという本書の価値を減ずるものではありません。

評価 ☆☆☆

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2015年12月31日 (木)

宮本又郎『企業家たちの幕末維新』(メディアファクトリー新書、2012)

点検読書85


経営者――伝記


明治日本の発展の推進力となった起業家たちの生涯に光をあて、彼らがどのような時代的制約やそれぞれが置かれた環境の中で行動し、革新的な企業家として従来の慣行を変えて成功したか。これらを知ることで、企業家への社会的評価の低い日本において、企業家への関心を高めることになる。


総論として江戸時代から明治中期までの経済史と企業家類型の特徴、経済発展の時代としての江戸時代と転換期としての明治、旧商家型の企業家(三井、住友)、ベンチャー企業型(岩崎、安田など)、技術者・職人型企業家(山辺丈夫、菊池恭三)、社会的企業家(波多野鶴吉)、財界リーダー(渋沢栄一、五代友厚)

メモ
江戸時代の18世紀の人口停滞は何が原因か(27~29頁)
東北地方:天明飢饉(1782~87)
北関東地方:浅間山噴火(1783)
→飢えと貧困から人口減少

一方、九州、中四国、東山道、北陸では人口増加

南関東・近畿の人口減少
→都市化
 商家における男性奉公人の増加
 女性の出稼ぎ(出稼ぎ期間中は結婚しない)
 →男女比のアンバランス
  結婚年齢の高齢化
  →少子化
人口減少の原因は経済発展

幕末期の就学率(29頁)
寺子屋が全国に1万1000校。
庶民の就学率は男子43%、女子10%(R・ドーア『江戸時代の教育』)

「政商」の初出(139頁)
「政府自ら干渉して民業の発達を計るに連れて自ずから出来たる人民の一階級あり、我等は仮りに之を名づけて政商といふ」(山路愛山『現代金権史』、1908)


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2015年12月25日 (金)

安丸良夫『神々の明治維新』(岩波新書、1979)

点検読書79

副題は、「神仏分離と廃仏毀釈」

歴史――日本史

維新政府が打ちだした神仏分離の政策と、仏教や民俗信仰に対して猛威を振るった排斥運動の過程は、日本人の宗教観に影響を与えた。つまり、初詣など宗教色の弱い儀式には参加できるものの、自身の問題としての宗教へのハードルの高さを感じてしまう、というように。

戦国時代から幕末までの為政者による宗教政策の事例を追うことで、世俗権力優位=世俗権力の神格化という特徴を論じ、明治新政府による神仏分離を含む宗教政策が論じられる。次に廃仏毀釈の事例、政府による神の統制・序列化の国家神道の試み、民衆の宗教生活の変動、国家神道路線の破綻と国家優位の「信教の自由」体制の確立。

メモ
1.政治権力者の神格化への道をひらいたのは織田信長(23頁)
  現世と来世を「総見」する至高神=信長を祀る総見寺
  →これ以降、現世の権力者功績あるものが神として祀られることに(東照宮など)。
   ←中世までは非業の死を遂げたものへの御霊慰撫であった。

2.長州の淫祠破却(39~41頁)
  村田清風の天保改革の一環
  基準は延喜式神名帳に記載のある神が正祀で、そうでないものは淫祀
  (国学者・近藤芳樹の進言による)

3.国家による祭祀の統制思想(42頁)
  徂徠学派→中井竹山・履軒→水戸学・平田国学→水戸・長州藩による淫祀整理へ

4.徳川時代の反秩序的宗教の序列(43頁)
  キリスト教≧かくれ念仏・不受不施派≧一向宗・日蓮宗
  ≧流行神や御霊≧民俗信仰≧仏教一般

5.大教院体制=国家神道体制の破綻(199頁)
  国家神道体制破綻に最も影響力があったのは島地黙雷の政教分離論や浄土真宗の大教院離脱、さらには真宗信徒らの各地の抵抗による。

6.啓蒙思想家の「宗教自由」論(209頁)
  信教の自由よりも政教分離に関心が集まり、おおむね宗教に否定的。


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2015年12月21日 (月)

西郷、龍馬、そして幕府再評価

 昨日取りあげた鶴見俊輔編『日本の百年1 御一新の嵐』によると、西郷隆盛は、明治新政府に満足しない人たちが、その不満を託するもっとも適切な人物であったという。西郷自身は、幕末期の政治構想や人脈・政治的力量は高く評価されるものの、その最期に関するかぎり旧士族にかつがれた素朴な軍人かも知れない。しかし、彼の新政府の批判者として屈することなく戦った彼の姿勢とその死はさまざまな空想を生んだという。

 例えば、以下のような西郷に対する空想や思慕が生まれた。

1.幕府側諸藩出身者

内村鑑三
 内村は、高崎松平家(譜代八万二千石)家臣馬廻格五十石取りの家に生まれている。その彼の著書『代表的日本人』には、日本の維新は西郷の維新であり、西郷は清教徒革命のクロムウェルの比せられるべき人物として取りあげられている。

新渡戸稲造
 新渡戸は、戊辰戦争の際に官軍と戦った盛岡藩(外様二十万石)の藩主の用人の子として生まれている。彼もまた英国人に西郷を説明する際に、西郷は米国のリンカーンに比べ得る人物である、と述べたという。

2.右翼

 右翼一般において、西郷は理想的人物像として尊敬の対象となっており、大川周明にとっては、自分の母親と西郷とはひとしく自分の生涯を安楽にしてくれたありがたい導師である、と述べている(『安楽の門』)。

3.大衆文学

 大衆文学において、西郷はかっこうの題材となり、林房雄『西郷隆盛』(1939~70年)、海音寺潮五郎『西郷隆盛』(1955~56年)をはじめとして多くの小説の主人公となっている。しかし、これら史伝タイプの伝記小説ではなく、西郷の影を追う伝奇小説への影響も見逃せない。その一つが押川春浪『武侠の日本』(1902年)で、そこではフィリピン独立運動の謎の軍師として、生きていた西郷を登場させている。また獅子文六『南の風』(1942年)では、カンボジアにあらわれた西郷の落し胤を迎えて新興宗教をつくろうとする筋書きとなっている。

4.尊敬する人

 次に「尊敬する人物」としてあげられる西郷である。

 1938年11月の東京帝国大学の調査
1位 西郷隆盛225票 2位 ゲーテ132票 3位 キリスト105票 4位 東郷平八郎99票 5位 釈迦93票 6位 吉田松陰90票 7位 カント85票 8位 乃木希典62票 9位 日蓮62票 10位 野口英世 58票

他を押しのけた西郷人気である。宗教家・軍人人気の中に野口英世が入っているあたり、昭和期の子供向け伝記シリーズの常連になる素地ができていたということか。

 ちなみに1963年の東大法学部の調査になるとこんな感じである。
1位 シュバイツァー51票 2位 マルクス24票 3位 矢内原忠雄21票 4位 ラッセル16票 5位 リンカーン14票 6位 ベートーベン13票 7位 福澤諭吉11票 7位 毛沢東 11票 8位 ナポレオン11票 10位 レーニン10票

 人道主義、平和主義、共産主義、民主主義、ナショナリズムと戦後の時代の混沌とした社会思想を感じ取れるような気もするが、本当の2位は「自分の父母」28票であった、というのも「公」のためではなく「私」の優先・肯定が浸透した時代でもあったのだった。

 以上のように、西郷は明治後半から昭和にかけての人々惹きつける何かがあった。それについて、鶴見氏は、押川春浪に見られるようにアジア的改革とアジア連帯のシンボルとして、また内村鑑三に見られるように明治の革命に対する再革命の理想を掲げる永久革命の理想像としての西郷像があったのだろうと指摘する。そしてまた、自分を慕って集まってきた青年たちの至らなさまで含めてその全体を愛し、ともに死ぬという共同体との心中を美しいと感じる日本人の美意識もあったのではないか、とも。

 しかし、西郷ほどではないものの、戦前の大衆意識の底流にもう一人の理想像があった。それが坂本龍馬であった。その坂本の大衆文化でのあらわれは、「月形半平太」として誕生した。

 月形半平太は、1919年6月、大坂弁天座で初めて演じられ大当たりとなった幕末時代劇に登場するオリジナルキャラクターであった。その名は劇作家の行友李風の命名によるが、福岡藩士の月形洗蔵と土佐藩士の武市半平太に由来するものの中身は坂本龍馬であった。

 第一次大戦後の平和と民主主義の理想に照らして、明治維新の志士から、尊王攘夷から尊王開国へと政治的シンボルを転換させ、また幕末維新期の土佐の公議政体派の源流の一つでもある坂本をモデルとして選ばれたのではないか。その月形は、その転換ゆえに、かつての同志から裏切り者と呼ばれて殺される。一部に根強い龍馬暗殺の盟友黒幕説の高い支持の淵源は、月形にあるのかもしれない。

 もう一つの重要な明治維新解釈がある。それは、幕府再評価である。例えば、津田左右吉『幕末における政府とそれに対する反動勢力」(『心』1957年3・4月)は、明治維新に際して、武力を元に改革をおこなった尊王攘夷派によって維新のコースは歪められた。明治の改革のより良いコースは幕臣の中の良識派の構想の中にあったが、その構想は実現されることなく、その後、百年かかった、と明治政府の否定・幕府再評価を行なっている。これは、津田左右吉の戦後もしばらく経ってからの論文であるが、保守系雑誌『心』に掲載されたものという経緯から考えると、戦後日本の革新勢力に対して、戦前の自由主義派による改革というものを擁護する意識があったのかもしれない。

 以上のように、西郷、龍馬、幕府再評価と並べてみると、どれを好むかによって、自ずとその人の政治傾向が見られるだろう。

反体制感情を持つ人    → 西郷

体制内改革の気分の人  → 龍馬

体制派知識人的な保守派 → 幕府再評価

 西郷を好む「反体制感情」というのは、その体制まるごとの革新を目指す人々である。明治国家においては、反藩閥政府であり、反西洋化であり、反資本主義、反国体などの感情で、戦後日本においては反自民党、反米、反資本主義、反戦後憲法などの志向がある人が西郷に親しみを感じるのだろう。
 一方、龍馬を好む「体制内改革」というのは、明治国家においては、帝国憲法を否定せずにその枠内で平和主義・民主主義の実現を図ろうとする人々であり、戦後日本においては戦前の軍国主義を否定しつつも憲法改正を支持する親米派、その上で社会主義革命などラディカルな改革には慎重で、政権交代可能な二大政党制の確立など、穏健な民主化を進めるタイプの人かもしれない。戦後における坂本龍馬人気は、元サンケイ新聞記者で『サンケイ新聞』に連載された司馬遼太郎の『竜馬がゆく』ということを考えれば、大体そんなところでしょう。当時の『サンケイ新聞』の路線は、あくまで反共・自民支持であって、軍国主義の日本を肯定しようという傾向はあまりなかっただろうし。司馬が、明治は良かったけど昭和はダメという主張であったし、また西郷が苦手と考えているあたり、革命幻想はなかったであろう。

 最後の幕府再評価は、政治的改革などには興味のない知識層であろう。かつての左翼系の知識人は、明治維新が好きだった。やはり何といっても体制が変革するというカタルシスと下級武士をも含めた民衆のエネルギーに肯定的であったからだ。その一方で体制化した維新政府に対しては批判的という、一貫した反体制派であったのである。しかし、近年の知識層は、社会主義革命などの民衆のエネルギーを背景にした変革に興味を失っているし、現状を肯定している。だから、彼らは、表面上は民主主義を肯定するが、民主的に選ばれた首相が何か改革しようものなら、反対の姿勢を明らかにし、そうした指導者を支持する大衆を軽蔑している保守的な人びとである。ここでの「保守」とは、何ら思想的の意味のない現状肯定である。民主主義的背景を元にした憲法改正には反対、行政改革には反対、経済政策の転換にも反対といった「保守」である。

 言ってみれば、エリート主義なのである。

 そのため、知的に劣る下級武士による革命よりも、幕臣たち知的エリートたちの改革にシンパシーを感じ取る。そういった感じではないか。

 近年は、西郷人気はあまりない。どうも、革命幻想というのに人々は辟易としているのである。そして、これは革命を成し遂げて体制派になった維新の元勲たちの人気の低さにも感じられる。その一方で、西郷同様に可能性の理想像として民衆に支持の高い坂本龍馬と、龍馬と龍馬好きを軽蔑して幕府を再評価する知識層。この二分化が、現在見られるのではないか。そんな風に感じた。


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2015年12月20日 (日)

鶴見俊輔編著『日本の百年1 御一新の嵐』(ちくま学芸文庫、2007)

点検読書75

①歴史――日本史

②幕藩体制への不満を背景に、黒船来航を機に、日本人という民族の自覚と新しい社会の形成を目指した時代を資料をふんだんに引用して描き出す。

③序章・第一・二・三部・終章の五部構成。序章は、鎖国下の日本から漂流し外国に滞在した人々の記録。これらが当時の日本人に海の外のユートピア像を形成した。第一部は黒船来航に対する反応と戊辰戦争における諸相。第二部は新政府側の改革とそれを受ける民衆側の意識。第三部は明治政府主導の改革に取り残された敗者を取り上げることで別の可能性・構想を見ていく。終章は現代に生きる100歳以上の人々への聞き取りの記録。個人史としての時代の変化を見る。

メモ
まぶたを裏返す習慣(68頁)
 まぶたを裏返しにしてから、その上を擦ってくすぐり、なめらかな銅製のヘラでみがく。当時の人々に眼病が多い理由か(オールコック『大君の都』中)。昭和初期までつづき、第二次大戦後すたれた。
→磨いている人はさすがに見たことがないが、まぶたを裏返しにする子供は見たことがある(1980年代)。

榎本武揚の助命(181頁)
 五稜郭開城以前に榎本は、官軍側の参謀・黒田清隆に『海律全書』(フランス人オルトランの海上国際法に関する著書の蘭訳を筆写したもの)を贈り、黒田は福澤諭吉に翻訳を依頼。福澤は数頁訳して、全体をよく訳せるのはヨーロッパで勉強してきた榎本だけだと助言して返す。黒田は、丸坊主になって助命嘆願を新政府会議で主張し、西郷吉之助も赦免を主張し、榎本は助命された。


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2015年11月21日 (土)

藤田覚『幕末から維新へ シリーズ日本近世史⑤』(岩波新書、2015)

点検読書48

①歴史――日本近世史

②幕末維新期の腫瘍な要素としての欧米列強・天皇・民衆が登場し始めた18世紀末からを幕末と理解することで、徳川政権の国防意識が継続されていたこと、天皇が突然注目されたわけではないこと、近代化をスムーズに受け入れた民衆という流れが無理なく理解できる。

③内外の危機に伴って幕府の「御威光」低下と天皇の浮上、外国船の接近、アヘン戦争の衝撃、近代化の準備としての近世の教育、開国から幕末の政局、五箇条の誓文まで。

メモ
大政委任論(p.36~37)
伊勢貞丈『幼学問答』(天明元年〔1781〕)
「徳川家康は天皇から日本国を預かって国政を行ない、歴代将軍は天皇から任命されて国政を担当していると説明し、だから将軍は天皇の臣下であると説いた。」

本居宣長『玉くしげ』(天明六年〔1786〕)
天皇→将軍→大名という「御任(みよさし)」=政権委任の秩序があると説明。

松平定信「将軍家御心得十五ヶ条」(天明八年〔1788〕)
日本の国土と人民を天皇から預けられていると説明。


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2015年10月16日 (金)

点検読書12 佐々木克『幕末の天皇・明治の天皇』(講談社学術文庫、2005)

点検読書についてはこちら

①歴史――幕末維新期

②禁裏のリーダーたらんと行動し主張したものの「見えない」孝明天皇と、明治国家の象徴として「見える」明治天皇。その一方で、人の支配の近世における肉声が「見える」天皇と、象徴として言動が制約され「見えない」天皇というように近世と近代のコントラストが見えてくる。

③「肉声」(=『孝明天皇実記』)の「見える」孝明天皇を軸とした幕末史、「肉声が見えなくなった」(=『明治天皇実記』)明治天皇の巡幸・行事・御真影と「見せる」=真の姿は隠す天皇へと変容していった明治の時代を描く。



2014年11月 6日 (木)

「幕末」徳川政権の「開国」論⑤

前回のつづき。

京都禁裏の条約不許可という思わぬ事態の中で大老に就任した井伊直弼は、もとより通商条約締結には賛成でした。しかし、彼の国学の素養から、天皇から信任を得て統治することが徳川政権の存在意義であったため、条約勅許は必要なことでした。そのため、何とかハリスとの交渉を引き伸ばす必要がありました。

しかし、ここに誤算がありました。第二次アヘン戦争にあたるアロー号事件での英仏両軍の清国への勝利の報がハリスに届きます。ハリスはこれを条約交渉のブラフとして使います。清国への勝利に勢いをつけた英仏が条約交渉にやってきたら、アメリカのような大人しい交渉にはならない、屈辱的な条約を結ばされるようになるぞ、と。日本としてもこれに危機意識を持ちます。そこで政権内で評議が行われたのですが、岩瀬忠震は迷わず賛成の主張をしました。

「この調印のために不測の禍を惹起して、或は徳川氏の安危にかかわる程の大変にも至るべきが、甚だ口外し難き事なれども、国家の大政にあずかる重職は、この場合に臨みては、社稷を重しとするの決心あるべからず。」

岩瀬は、大老の井伊直弼をはじめとする譜代大名・旗本たちの面前で、徳川将軍家がどうなろうと「国家」=日本全体のためにも条約を結ぶべきだと主張したのでした。

井伊直弼としては、岩瀬に出来るだけ調印を引き延ばすように指示したようでしたが、岩瀬はその足でハリスの元へ行き、さっさと条約に調印してしまいました。

こうした経緯があって、井伊直弼は岩瀬忠震を危険人物と認めたのも当然です。岩瀬の役儀御免について「岩瀬輩軽賤の身を以て、柱石たる我々を閣き、ほしいままに将軍儲副の儀を図る。其の罪の悪むべき大逆無道を以て論ずるに足れり」と岩瀬の親藩・外様大名とのつながりが問題視されています。

井伊の方針は、あくまで徳川幕府体制の維持にありました。それは、この譜代大名中心主義の体制によって、自身の栄達が可能であったこと、国学的教養によって自然の成り行きによる現状肯定意識がイデオロギー的にも支えられていました。現状肯定の井伊が、「開国」に肯定したのは奇妙なことですが、外部からの接触というのは自然現象と同様で幕府の権力によってコントロールできるものではありません。これは現状追認の一つの現われなのではないでしょうか。その一方で、幕府のコントロール下にある国内においては、強権を発揮します。その手始めの対象が、旗本において、徳川家よりも日本全国の方が大切だと言い切った岩瀬忠震だったというわけです。

一方で、岩瀬は、学問によって登用されたという実力主義の人間です。しかも、その登用は、父子同時の採用という当時にしては異例のかたちで仕官しており、体制の変動を肌で感じており、また体制変動の余慶によって出世したという意識があります。ですから、現状維持よりも変革を好み、また体制が変わっても実力を発揮できるという自信があります。また、彼の教養は普遍主義的な儒学によって形成されています。徳川家という「私」ではなく、日本全国という「公」のために行動するという契機が彼の中にあったのです。

以上の井伊と岩瀬との対立に見られるように、安政期の政局というのは「開国」か否かではなく、譜代大名中心主義の徳川幕府体制を継続するか、全大名参加型の列侯会議方式への移行を肯定するか否か、という対立にあったと言えます。そして、そこには特殊主義の国学的素養と普遍主義の儒学的素養の対立というイデオロギー対立がその背景にあったというわけです。

以上は、青山忠正『幕末維新』を参照して、メモ書き風に書かせてもらいました。ご関心ある方は以下の作品を手にとって見て下さい。

2014年11月 5日 (水)

「幕末」徳川政権の「開国」論⑤

前回のつづき。

安政期の政局の議題は、「開国」か否かではなく、譜代中心の幕府独裁維持か、親藩・外様大名の政権参加を認めるか否かという争いでした。この時期に完全に外国との交渉を絶てという主張をするものはほとんどおらず、いたとしてもまともな勢力とならないものであった。

そこで譜代筆頭として政局の中心にあらわれた井伊直弼はどのように考えたでしょうか。まず、井伊直弼の現在の譜代筆頭という地位は、実力ではなく、幸運と現在の政治秩序、つまり譜代中心の徳川幕府という政治システムによって獲得したものでした。そのため、そのシステムの維持こそが彼の天命でした。さらに彼の確信を支えたのは、国学の素養によって、天皇から信任を得ている徳川将軍家が日本を統治するという日本独特の幕府システムを積極的に肯定する意識を持っていました。

いわゆる尊王思想というのは、水戸学系の儒学によって成立した幕藩体制肯定のイデオロギーでした。将軍家の権威低下を逆に権威が上昇し始めた天皇による大政委任というフィクションによって、将軍権威を上昇させるのが尊王思想でした。これが後々、倒幕運動のイデオロギーになるのは皮肉だったが、そもそもはそうした役割が期待されたものであった。一方、国学の方面の尊王思想も、「大政の御任(ミヨサシ)」(本居宣長『玉くしげ』)という委任の論理で徳川将軍支配を正統化し、さらに「その時々の上の掟のまゝに、従ひ行ふぞ、即チ古への道の意」(『宇比山踏』)と徹底した現状肯定を基本としていました。国学を好んだ井伊直弼にとって現状の政権枠組みの維持は肯定されこそすれ、否定されるものではありませんでした。

そのため、親藩・外様大名の連合勢力を排除するために、将軍後継では紀伊藩主徳川慶福(のちの家茂)を血統が近いことを理由に担ぎ出します。これによって、彼らの政治介入の大義名分をなくそうとしたのです。

さて、通商条約問題ですが、安政四年(1857年)末には、岩瀬忠震が下田奉行井上清直とともに全権委任に任ぜられて、ハリスとの具体的な交渉に入っていました。交渉のほぼ一カ月後、条約内容が固まった段階で幕府は諸大名を江戸城に集め、近く通商条約を結ぶことを公表した。その場で説明したのは岩瀬であった。

通常ならば、この発表は儀式のようなもので、異論はでないはずです。しかし諸大名たちは条約の内容よりも決定方式に不満を持っていました。そこで、京都の禁裏の勅許を得れば、尊王意識の強い一橋派を沈黙させられると考えて、老中筆頭の堀田正睦と岩瀬が京都に上ります。しかし、これがとんだ藪蛇となってしまいました。

安政五年(1858年)三月二十日、堀田に勅諚が伝達されるが、その内容は、西欧列強と通商関係を結ぶことは日本の国威が立ち難く、国体を損なうものだ、という点と、そうした大問題は全大名の衆議に基づいて言上すべきで、幕府のみの申し立てでは承認できない、というものだった。

前者の国威云々の問題は、和親条約の時の困っている夷狄に物を恵んでやるという上下関係の国際秩序意識と、平等な関係を結ぶ通商関係では話が違うという中華意識が関係してきます。もう一方の衆議を尽くせというのは、京都に手入れしていた一橋派の意向でもあるし、朝廷が信任している幕府の決定というのは朝廷そのものの決定にもなるため、もし失敗した時の責任を問われかねません。それならば、全大名すべてに責任を持たせて、失敗した時の保険とした、という意味があります。また、幕府だけに任せていくのは、少々頼りないと感じたこともあったようにも思えます。

こうして諸大名の不満を鎮めるための京都利用がかえって、幕府権威低下の元となってしまいました。このような情勢の下、井伊直弼は大老に就任しました。(つづく)

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