ブログランキング

Amazonサーチ

無料ブログはココログ

書籍・雑誌

2015年10月 5日 (月)

点検読書をやってみよう

「点検読書」というのは、M.J.アドラー・C.V.ドーレン『本を読む本』(外山滋比古訳、講談社学術文庫、1997年)にて、述べられている読書法です。

具体的には、「与えられた時間内にできるだけ内容を把握すること」で、その方法は以下の通り。

1.拾い読み・下読み
①表題・序文を見る:本の目的、取り扱う範囲、著者のもの考え方に注目、主題の把握。
②構造を知るために目次を調べる。
③索引を調べる:題目、範囲、引用文献を確認。重要語の該当箇所を2、3箇所読む。
④カバーに書いてある謳い文句を読む:論点の要約を読む。

以上で念を入れて読む必要があるかを判断。必要を判断したら、次を行なう。

⑤議論のかなめと思われるいくつかの章をよく見る。
 全般の内容が漠然と分かってきたら、重要な章のはじめと終わりの要約を読む。
⑥拾い読みしてみる。
 パラグラフを一つか二つ、長くても2、3ページぐらい。
 本全体を拾い読み、どこか大切なことが書いていないか気を配る。
 最後の2、3ページは必ず読む。

以上を数分から一時間で行なう。

次は以上を行なってさらにちゃんと読む必要があると考えられた場合。

2.表面読み
難解な本に初めて取り組む時はとにかく読み通す。
心がけることは、理解できるところだけを心に留めて、難解な部分はとばす。脚注、注解、引用文献は参照しない。
難解な本は再読するものと割り切る。

以上が、『本を読む本』で述べられている方法で、次にその本についてメモしておくこと。

①どんな種類の本か?
 これは単純にジャンル分けで良い。例えば、「小説」とか「歴史」。もう少し詳しく書けば、「歴史――日本史」ぐらいでよい。
②全体として何を言おうとしているか?
 拾い読みの①か④に書かれているので、そのまま書いてもいいし、大体の内容を自分でまとめて書いても良い。
③著者はどのような構成で概念や知識を展開しているか?
 内容には詳しくふれずに、本の構成だけ書く。目次の要約でも良い。

だいたいこれが点検読書である。
簡単にいえば、背表紙と題名しか把握していない本について何が書いてあるものか、全体をパラパラ読むものと考えれば良い。これなら、毎日、少なくとも一冊は読むことができる。

私のアレンジとしては、拾い読みに関しては毎日1冊行なう。1週間やった後で、その中で興味深かったもの週1冊を2の表面読みをする。次に1ヶ月後にその中でも重要そうなものを精読する。というのが良いのではないかと思っている。

というわけで、当ブログはひたすら点検読書の記録を載せていきたいと思う。基本的には、書名とメモ①から③、他に興味深い所があれば、別個にメモるという方法を取って行きたいと考えている。

本を買うのが趣味で積読が溜まってしまい、いるものいらないもの整理したいというのが、この目的ではあるのだが。

追記(2016年2月5日)
評価も入れることにする。

☆:ざっと見で良い。

☆☆:一度読む分には良かった。

☆☆☆:PDF化してとっておきたい。

☆☆☆☆:書籍として手元においておく。

☆☆☆☆☆:すぐに3回以上読め。


本・書籍 ブログランキングへ

2014年9月14日 (日)

『民宿雪国』

樋口毅宏『民宿雪国』を読みました。

驚かされるのは、第一部の展開。これを短編として読んで、本書を読み進めるかどうか、決めてもいいし、いや、短編としての作品の質が高い。さらには、本書の主人公の最大の秘密を最初に持ってきてしまうという構成に、これを持ってきてしまって、今後、どんな内容になっっちゃうの?と引きこまれてしまう。最近の面白い小説というのは、こういう風に書くのか、という見本のようなそんな序盤。

そして、第二部は本書の最終的な語り手から見た主人公のもう一つの顔。先に主人公の本性を知っている読者にとって、彼の一つ一つの行動にドキリとするが、物語は意外な方向に。しかし、この場面では、後の主人公の生涯と部分的に二重写しになっている。

第三部は、主人公と関わりを持った人物の証言。イニシャルで語られるが、横井英樹っぽい人と、麻原彰晃(松本智津夫)っぽい人だと容易に推測でき、また後者の方は、恐るべき「事実」まで語られる。

第四部の展開もすごい。まず表のストーリーとしての主人公。70代にして、デビューした新人画家にして、国民的、そして世界的な画家として老若男女から支持を受けるカリスマとしての彼。ここでも彼を持ち上げる文化人としてイニシャルで語られるが、明らかに坂本龍一と安部公房であろう(巻末対談では、「大江健三郎」と言われているが、作中は「AK」であり、勘違いだろう、というか、この対談は文庫に入れる必要があったか疑問)。この神話の住人としての主人公が語られた後に、第二部の語り手が暴きだした主人公像が、客観的な史料と第三者の証言によって語られる。

本来なら、これで終わりのはずである。しかし、本作の驚くべきところは、この客観的な「事実」の後に、主人公本人が語る「真実」の物語が読者の前に出されるのである。読者は既に「事実」としての主人公の姿を知っている。それにもかかわらず、主人公が語る「真実」の物語を読むことになるのである。しかし、冷静になると、そこで語られるのは、どこかで読んだことのあるエピソードや主張である。「慰安所」でのエピソードや主張は、この問題に関心を持った人なら、ある程度聞いたことのある話があるし、「あの戦争」への考え方は、「戦中派天才老人」山田風太郎のそれだろう(本書自体が、山田風太郎の『太陽黒点』とテーマが近いところがある)。まさにコラージュのモザイクで語られる「借り物の人生」なのである。しかし、そうした借り物の「虚飾」、本書で小説家は「虚業者」と言われるが、そのフィクションの人生こそが、客観的な「事実」よりも美しいだけに「真実」となる。そうした展開を読ませてくれる。

本書での主人公は、さまざまな著名人の人生や発言のコラージュであるが、その中でももっとも衝撃的なのは、昭和天皇の発言の模倣であろう。

「それが私の心だ」

「富田メモ」として発掘された昭和天皇の靖国参拝に関する考え。これを効果的な場面で模倣されている。しかも、あとで貼り付けたようなメモというとこまで似せているのが憎い演出であった。

そのために、この発言自体が、主人公の生の当時の言葉なのか、それとも「富田メモ」発見後に、彼が真似して貼り付けたものなのかも一つの謎となっているのも、巧みな演出といえるだろう。

2011年9月15日 (木)

ゼロ年代の想像力

宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫、2011年)があまりに面白くて、徹夜して読んでしまった。

社会や国家が提示する目的や目的に従うのであれ、反対するのであれ、「大きな物語」が人々の間で共有できた時代から、それが認められなくなって各人が「小さな物語」を信じることを「決断」する時代への流れをサブカルチャーの作品を通して、80年代からゼロ年代までをたどる物語。

その結節点となるのが、95年。平成不況の長期化が決定的となった時期の阪神淡路大震災により成長時代の終焉が決定的に意識に上った年であり、オウム真理教の事件は「「生きる意味」「真正な価値」を歴史や社会が示してくれない世の中に生き、目的を失った若者たちに、コミュニティとその中で機能する超越性(小さな物語)を与え、そのカルト的な手法で大きな物語の再生であると錯覚させる」ことで若者たちをテロ事件に駆り立てた。

「がんばれば、意味が見つかる」世の中から、「がんばっても意味が見つからない」世の中への移行により、社会的自己実現への信頼の著しい低下が人々の気分となり、「~する」「~した」こと(行為)をアイデンティティに結びつけるのではなく、「~である」「~ではない」こと(状態)をアイデンティティとする考え方、つまり自己像への承認を求める志向が生まれた。

この「引きこもり」感覚をうまく捉えて自己承認と「物語」の提供に成功し、その「物語」へ献身させることで「生きる意味」を与えたのがオウム真理教だった。そこでの問題点は、その物語でのみ通用する価値を超越的なものと感じさせ、異なる物語を信じる者にそれを押し付けてしまう。この「オウムの克服」に挑んだ象徴的な人もしくは作品として、宮台真司氏、『新世紀エヴァンゲリオン』、小林よしのり氏がいた。

宮台氏が提唱したのは「まったり革命」。社会的自己実現への信頼が低下した世の中で、手に入れにくくなった「生きる意味」を求めるのはやめ、単に楽しいこと、気持いいことを消費して、「終わりなき日常」を「まったり」とやりすごすことで快適に生きよう、という発想。

宮台氏は、「軽いノリで援助交際に興ずるコギャルたち」にそれを見出し、著者はこれに「萌え」キャラを所有して現実の恋愛から撤退する一部のオタクたちにも同じことがいえた、という。

しかし、この宮台氏の意味を断念して、記号的な快楽を消費してまったりとやり過ごす「コギャル」の実体は、身体の商品化に自傷的なパフォーマンスというありふれた意味を込めていたに過ぎないこと、オタクたちも虚構の中の美少女キャラクターへの耽溺は、恋愛至上主義というありふれた物語の断念と代償を求める存在に過ぎなかった、という現実に破綻してしまった、という。しかし、オウム真理教のように性急に物語を求めることの危険性を回避するための一つの処方箋として機能したのは確かなようだ。

そもそも宮台氏は「上昇し続ける社会の流動性を受け入れ、利用する形で効率的な社会設計を行い、個人の実存のあり方を考えていくべきだ」という考えを基本コンセプトにしており、その状況により、具体的に提供される処方箋は戦術レベルで変更されるので、その時々の発言は、あまり真面目に受け取るべきではなかったのかもしれない。二年ほど前にも民主党政権に過剰な期待を込めた新書を出していたが、そういうものなのでしょう。「最近、宮台さん、こんな事いってんだ~」ぐらいの消費の仕方が、宮台氏の発言の賢いつきあい方のようだ。

『エヴァ』の場合は、TV版は社会的自己実現を拒否し、無条件な自己像への承認を与えられる状態、最終的には自己の内面へ退却していったが、『劇場版』では自己愛への引きこもりを捨て、互いに傷つけ合うことを受け入れて他者と共に生きていくというシビアな現実を提示した。

しかし、この結末を受け入れることのできないファンたちは、自分を全肯定してくれる女性像の所有という対象に対する距離感が存在しない、埋没だけが存在する「物語」への消費に駆り立てさせてしまった。著者は凡庸な女性差別的な回路への撤退として「堕落」と評している。

小林よしのり氏の場合は、薬害エイズ被害者への支援を通して、市民運動に埋没し、「生きる意味」を感じ取ってしまった若者たちの運動の永続化に危機感を抱き、それはオウム真理教と同様に、自ら思考することを放棄して、安易な物語の獲得のために思考停止する行為だと指弾した。つまり、不透明な世の中に耐えられず、「わかりやすい正義」という非日常に逃避することで安易な解決をはかろうとする態度への警鐘であった(「日常へ帰れ」)。そして、「価値観の宙吊りに耐える」強さを持てとの宣言であった。

しかし、小林氏自身が「価値観の宙吊りに耐える」立場から「(究極的には無根拠でも)中心的な価値観を選びなおす」立場として、反米保守的な大東亜戦争肯定論という物語を提供した。これを期に小林氏のみならず、それに反対の立場にとるものたちも、「決断主義」に踏み出していく。

「決断主義」とは、「価値観の宙吊りに耐えられない弱い人間(自身を含む)のために、無根拠を承知で中心的な価値を信じる態度」である。

この「決断主義」の時代であるゼロ年代は、それぞれに「小さな物語」をもつ島宇宙の乱立状態である。その島宇宙では、それぞれ純化して異物を排除する。そればかりか、自己承認を求めるという動機から他の「小さな物語」の叩きのめすという剣呑な状態をも引き起こしてしまう。

「小さな物語」の乱立は、「大きな物語」が失効した以上、仕方がない。しかし、それぞれが争う状態というのは、好ましいものではない。それらが共存できる設計ができないだろうか、というのが本書の現在の立場のようだ。

また、著者がゼロ年代以降の作品で評価するのは、はたして「大きな物語」がなければ、人は「生きる意味」をもつことができないのだろうか、日常の中に「生きる意味」は本人がその気になれば、いくらでも見つかるのではないか、ということを提示したものたちである。(例として、宮藤官九郎氏、木皿泉氏、よしながふみ氏が挙げられている)。

著者は、巻末のインタビューで、現代社会はそんなに悪くないんじゃないか、ということを示したかった、と述べている。つまり、「生きる意味」なんて、そんなに大上段に構えなくても、現代の自由な社会にはいくらでも転がっている。本人にその自覚があれば。私も同世代としてその気分を共有している。やっと、そういう事いってくれる人が現われたか、と嬉しい気分だ。

そして、また著者が、象徴としてのオウムや阪神淡路大震災、9・11や小泉構造改革についてふれるものの、それ以外の90年代やゼロ年代を騒がせた事件などにはほとんどふれないで、「物語」に限定して論じていることに好感をもった。それらを詳しく述べることで、それでまた「小さな物語」に入り込んで、それを共有できない人を排除することに警戒したからだろうし、宮台氏のように間違ってしまうだろうから。

最近のトラックバック

2019年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31