ブログランキング

Amazonサーチ

無料ブログはココログ

« 2016年10月 | トップページ | 2016年12月 »

2016年11月

2016年11月25日 (金)

荒畑寒村『寒村自伝』つづき

承前 

 こうした戦後の政治的・思想的混沌状況の中で、寒村の友人の小堀甚二の再軍備論が興味深かいです。小堀は、戦前のプロレタリア文学者であったが、右派主導の日本社会党に不満で、寒村や山川均、向坂逸郎らと社会主義労働党準備会を立ち上げた人物でした。しかし、小堀が、ここで再軍備論を主張したために分裂し、解散に至ったのですが、その主張が興味深いのです。

 この労働党準備会の中で、もっとも「進歩的文化人」のような発想をするのは向坂逸郎で、彼はソ連は社会主義国であるから侵略はしない、だから日本に軍備は必要ない、という主張です。山川均は、そこまで思い切りは良くなく、ソ連が社会主義国だから侵略をしないとはいえないが、日本が軍備を持つとかえって侵略の対象となりかねないので、軍備は持つべきではない、と結論は向坂と同じです。

 こうした再軍備反対論に対して小堀は、次のように述べます。

「日本には今でも厳として軍隊があって、ブルジョア秩序の維持に当っている。しかも普通の軍隊とちがって、この軍隊は単にブルジョア秩序の維持に当っているだけでなく、他国の権益の維持にも当っている。占領軍がそれだ。/われわれは講和条約締結後、この外国軍隊を、日本人によって組織された最大限に民主主義的な軍隊とおき替えようというのだわれわれは観念の中でなら、軍隊のない国家を想像することもできる。しかし現実の世界では、自国民で組織された軍隊がなければ、他国の軍隊がこの真空状態をうずめる。だから自国民で組織された軍隊を否定することは、外国軍の駐屯を肯定することだ。だからまた、それは日本の植民地化を肯定することであり、あり得べき第三次世界大戦において少なくとも日本国土の戦場化を肯定することでありまた日本の労働者階級に対して社会主義のための闘争を断念することを要求するものだ。」(422頁)

 つまり、駐留米軍という資本主義世界の秩序維持部隊であり、かつ日本の植民地化を促進する軍隊を撤退させるためには、日本人自らが軍隊を持つべきだという主張です。彼の言う「最大限に民主主義」的な軍隊とは、宣戦、動員、召集を国民代表の議会が掌握するものを指します。また、モデルとしては、明治国家の師団化する前の鎮台兵であり、また民兵制度を考えています。つまりは、防衛目的のみの全国民参加の軍隊というものです。過去において、こうした発想は中江兆民の「土着兵」構想に見られます。

 小堀のこの考え方は、社会主義実現という目的に奉仕するものです。というのも、資本主義世界の代表である米軍が日本に駐留している間には、どう考えても日本の社会主義化は不可能です。この点は、他の現在に至るまでの基地闘争を行っている左翼運動家と同じでしょう。左翼運動家は米軍を撤退させた後には、非武装中立、または裏の目的としてソ連などの社会主義国の日本への侵入がその真空状態を埋めることで、日本の社会主義化を可能にするとします。しかし、小堀は、第2次大戦前後からのソ連の東欧への侵略を批判していますし、朝鮮戦争は当時としての珍しく明確に北からの南への侵略を明言して批判しているように、社会主義国建設は他国の力を借りるのではなく、自らの力で勝ち取るものです。ですから、米軍の撤退と自国軍建設は表裏一体なのです。軍備を持たないことは米軍か、ソ連軍を呼び込むことにしかならないのです。「今日の再軍備反対論者」は「無意識に侵略国家に奉仕している」も同様と指摘されています(434頁)。さらには、次のようにも述べています。

再軍備問題について何らの積極的意見をもたず、ただ反対反対と叫ぶことによって、再軍備に関する一切のイニシアチーヴを保守勢力に委ねている」(425頁)

 つまり、再軍備について真面目に考えないということは、保守勢力の永続支配を認めることにしかならずに、結局ところ、社会主義国建設を真面目に考えていないということになるというのです。

 こうした小堀の構想が左翼勢力の中で合意を得ることができたら、戦後日本は随分と変わったものとなったでしょう。楽観的には、最左翼が再軍備論を唱えたので、日和見のリベラルも軍備に関して真面目て考え出して、他の自由世界の中での社会民主主義政党のように米国と協調しつつ、社会主義政策を実現する政党ができていたかもしれませんし、極端な場合だと、日本に小堀らの社会主義勢力が政権を取って、社会主義の一党独裁政権ができていたかもしれません。どちらにしても、現在よりも安全保障についての議論の風通しの良さがあって憲法の改正が行なわれていたかもしれません。それが良いかどうかは分かりませんが、現実に政権担当が可能な政党が一つしかない状態や憲法解釈を官僚に委ねるような現実の戦後日本よりも「民主」的な政治運営が行なわれていたでしょう。

 しかし、こうした小堀の議論は、受け入れられるものではありませんでしたし、これをきっかけに社会主義労働党準備会も解散を余儀なくされます。本書の主人公である荒畑寒村は、小堀に同情的ではあるものの、現実に侵略の危機があるとは思えないという情勢判断の下に、再軍備には反対の立場でいました。とはいうものの、寒村は、小堀と山川均・向坂逸郎らとの対話は可能で、落とし所があるであろうと考えていたそうです。しかし、その見通しは甘く、分裂していまします。その点について、寒村は次のように指摘します。

「私はこの問題に関する主張の相違は、もっと自由な相互の討議によって調整できると信じていたが、そういう親切な同志的な方法をとらないで直ちに準備会と絶縁した山川君の態度を、私は深く遺憾とせざるを得なかった。意見の相違を、同志的な愛情と理論的な究明によって、徹底的に解決しようとはせず、排斥するのでなければ黙殺するのが日本の社会主義者の悪い伝統だ。」(431頁)

 ここが問題ですね。現在も同様だと思います。これは、多分、左翼だけの問題ではないと思います。おそらく右翼の方もそうでしょう。福澤諭吉は、幕末にイギリスに出かけた時に、違う政党に属して対立している者同士が親しく食事をしている姿を見て、理解するのに数日かかったと『福翁自伝』で述べていますが、日本の政治運動の世界はまだまだ封建社会の住人なのでしょう。こうしたところを乗り越えない限り、融通無碍な保守政党に勝つことは出来ないでしょう。でも、まぁそれでこそ左翼であり、右翼なのですが、それを薄めたリベラル勢力がそんななのだから、いかんのでしょうけどね。

 それはともかくとして、本書はなかなか興味深い社会主義運動の裏面史を垣間見せてくれる良書です。

評価 ☆☆☆


本・書籍 ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

2016年11月24日 (木)

荒畑寒村『寒村自伝 下巻』

点検読書243

岩波文庫(1975年12月16日)刊


日本史――自伝


サンディカリズムに傾倒した大杉栄と決別し、日本共産党結成へと荒畑寒村は同士らと動く。そして、その結成を報告するためにモスクワへと旅立つ。下巻は、ロシア行きと労農派の動向、戦時下と戦後の社会主義運動の内幕を語る。


5部構成

1:第一次日本共産党結成(1)

2:ロシア周遊(2~5)

3:共産党解散と『労農』(6~8)

4:戦時下(9)

5:戦後の社会主義運動(10~14)

コメント
 上巻は、随分前に読んだのですが、やっと下巻に目を通すことができました。しかし、期待していたほど、戦時下の社会主義者の動きや「あの戦争」についてのコメントがそれほどないな、という印象を持ちました。
 というのも、戦後の記述で、野坂参三が「戦争中、反戦運動をしたのは共産党だけだった」と述べたのですが、寒村の感想としては「そんな事実が果たしてあったかなかったか、海外に亡命していた野坂君よりも空襲下の日本に生活していた私たちの方がよく知っている」(349頁)というものでした。つまり、特に目立った運動などはなかったので、それを書いていないだけのようです。それだけでも本書は、無意味な「神話」に彩られていない誠実な記録とも言えます
 また、生粋の左翼である寒村は、党派的に発言をするのではなく、社会主義者の原則としてものを考えるために、戦後の堕落した共産主義者・社会主義者には痛烈な批判をしています
 例えば、彼の共産党への反感は、彼らの「祖国」であるスターリン支配下のソ連に対する甘い味方をするところに向けられます。

「スターリンは他国と他民族を併呑掠奪しながら、偽善的にもなお平和を唱えているのだ。そして各国の共産党はソ連の行動を是認し、日本に原爆が投下された時、彼らの機関紙は筆をそろえて称賛したではないか。日本が他国を侵略するのはもちろん悪い。だが、ロシアは果たして日本を侵略していないか。単に社会主義国という金看板に眩惑されて、こんな資本主義国の侵略政策と選ぶところのない不正不義に憤慨も、反対も、糾弾もしない社会主義者なんて犬にでも食われるがいい。」(351~352頁)

 これと同様のの趣旨として、「進歩的文化人」批判も痛烈です。

わが国でも、思想と表現の自由を守る護民官である筈のいわゆる進歩的文化人が、戦争の間は軍部の侵略政策に尻尾をふり、戦後は面をおし拭って民主主義を唱えている。かつてはヒットラーを神格化し、国民の自由と人権を絞殺したナチスの虐政に迎合した彼らは、今やスターリンを神の如く崇拝し、中世の異端焚殺の如き血の粛清と強制収容所の奴隷労働とをもって、思想と表現の自由を弾圧しているソ連の全体主義体制に対しても、批判の口を閉ざすことを進歩的と考えている。社会主義者の中にさえ、ソ連に対する批判をただちに反動的と認めるような傾向がある。こういう日本の文化的風土に反対して、民主的自由のためにたたかう運動の意義は、決して欧米に劣るものではない。」(437~438頁)

 かつて冷戦時代には、「アメリカの核は悪の兵器、中ソの核は善い兵器」ということが公然と言われていたそうですが、荒畑寒村のように主義思想に生きる人間にとって、こうした空気や属人的な価値判断に左右される無原則な大衆的知識人は度し難いものたちであったのでしょう。

 また、社会主義者・寒村の本領が発揮されるのは、現憲法を保持して社会主義建設などできない、とはっきりと述べているところです。「現在の憲法は生産手段における私有財産制、階級的支配、賃金制度の労働力搾取を含意する資本主義制度の上に存している」(482頁)のだから、社会主義政党が議会多数派を制した暁には、当然のごとく憲法を改正して社会主義国家建設に勤しむとします。

 しかし、当時の社会党は、耳に心地よいことしか言いません。社会主義国家建設という原則よりも、世間からの批判を恐れているからです。

それもこれも、ひっきょう社会党がジャーナリズム恐怖症にかかり、社会主義の究極目的、革命の必然的段階である独裁政権を、大胆に公言することを憚っているからだ。革命は一の階級がその意志を他の階級に強制するものであって、議会主義的民主主義からの飛躍なしには行なわれない。その意味で、革命の本質は暴力的であり、現に民主主義そのものが暴力革命の所産ではないか。」(482~483頁)

 ここまでいってもらえる気分がいいものです。自分たちの原理原則から考えれば、憲法改正を主張すべきなのに、護憲政党で通そうとするところに欺瞞があります。こうした欺瞞に加えて、日本の左翼・リベラルが信用されないのは、先に指摘さていたように、あまりに党派的であることに加えて、批判を恐れて耳障りの良いことをいって、平気で嘘をつき、さらにそれが嘘であることを忘れて、嘘を本気で主張し始めることでしょう。その最たるものが、民主党政権でした。彼らは、本当の目的を隠して嘘をついて政権の座を占めたというよりも、嘘を本気で信じてしまって確固たる原則もプランもなかったので、何もできずに結局のところ官僚にいいように取り込まれるという政権でした。
 寒村のような確信的左翼は、支持する気はないものの、やはり人間、原則を信じることが最も裏切られることの少い正直な生き方を可能にするのでしょうし、周りから見ていても気分が良いものです

つづく

よろしければ、クリックお願いいたします。


本・書籍 ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

2016年11月23日 (水)

トク・ベルツ編『ベルツの日記(上)』つづき

承前

明治33年5月9日
「一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいいながら伊藤は、操り人形を糸で躍らせるような身振りをしてみせたのである。」(204頁)

 有名なベルツのコメントです。これを読むといかに伊藤博文が、皇室を軽んじているかのように見えるが、この皮肉の対象は皇太子ではなく、有栖川宮をはじめとする天皇家周囲の皇族と貴族たちに向けているのかもしれません。ベルツは、次のように続けています。

こんな事情をなんとかしようと思えば、至極簡単なはずだが。皇太子を事実操り人形にしているこの礼式をゆるめればよいのだ。伊藤自身は、これを実行しようと思えばできる唯一の人物ではあるが、現代および次代の天皇に、およそありとあらゆる尊敬を払いながら、なんらの自主性をも与えようとはしない日本の旧思想を、敢然と打破する勇気はおそらく伊藤にもないらしい。この点をある時、一日本人が次のように表明した。「この国は、無形で非人格的の統治に慣れていて、これを改めることは危険でしょう」と。」

 これを読んでみると、ベルツが感じた伊藤の「放言」とは、皇太子の自由を束縛している皇族の「礼式」について述べているのであって、伊藤自身が天皇や皇太子を操り人形と考えているわけではなく、周囲の皇族が操り手として批判の対象となっているとも読めます。というのも、それ以前に次のような記述があったのです。

3月23日
「本日、葉山御用邸で東宮に関して、すなわちその健康状態が五月の成婚にさしつかえないか、どうかの点について、重大な会議があった。橋本、岡の両医に同意を表して自分は、わずかの懸念はあったが、さしつかえなしと述べた。懸念とは、体重が昨年の程度にどうしても達しないことである。しかし天皇への報告では、この点にはっきりと触れてはならないことになっている。それは、誰よりも天皇が、まず東宮の体重の増すことを望んでおられるからである。伊藤侯や、有栖川宮や、側近の人たちは、もはやこれ以上成婚を延ばすことはできないという意見なのだ。それというのも、あらゆる東洋の風習とは全然反対に、東宮が成婚前に他の女性に触れられないようにすることに決定をみたからである。そんな次第で自分も、一般の事情や特殊の事情から見て、早い成婚が東宮に良い影響をもたらすだろうと思う。」(197頁)

 つまり、皇太子、のちの大正天皇なのですが、結婚前の性体験は許されないと決められたために、早めに結婚させた方が良いという記述なのですが、この点が名うての好色漢である伊藤博文などには、「礼式」に縛られた「操り人形」と思えたのかもしれないのです。この決定というのが、どういうプロセスで、誰に決定権があったかは分かりません。近世に比べて、天皇の血統というものの重要性が格段に増加したという事情と、「万世一系」という神話を守るためにも、必要な処置だったのでしょう。しかし、伊藤にその決定に参加していないとすれば、こうした感想をもって、他の皇族に当てこすりをするのも分かる気もします。こうした点を考えると、この伊藤の「放言」は、傲慢な元老の発言というよりも、天皇といえども一定の自由は許されるべきだと考えるリベラルな忠臣・伊藤博文という印象にもなります。この点の専門家の知見はどうなっているのでしょうか。

 次は、義和団事件についての母国ドイツの動向についてのコメントです。

明治33年8月1日
「ドイツ皇帝は、清国派遣軍の出発に際して一場の演説をされたが、その演説がまた、あらゆるドイツ人を赤面させずにはおかないものなのである。皇帝はこういわれたそうだ「捕虜は無用だ、助命は不要だ!」と。すなわち、暴徒と化した清国兵が、かれらの国土の一角を平和の最中に奪い取った強国の公使を殺害したからといって、自身のキリスト教を到るところで表看板に押し立てているキリスト教徒の君主が、相手の清国の罪のない人たちを――たとえ武器をすてた場合でも、かまわないから――殺してしまえと命令しているのだ! こんな文明にはへどが出る! それでいて将来、この同じ国で自己の勢力をはりたいというのだ! このような考えの残忍・非道徳極まる点を度外視するとしても、すでに政治的見地からいって狂気のさたである。事実、やり方が狂気のさただ――つまり、われわれの敵すべての手に、われわれを亡ぼす武器を計画的に握らせるというやり方!」(220~221頁)

 ベルツは、若き日には統一ドイツを目指す運動に参加し、さらに普仏戦争にも志願して従軍する熱烈な愛国者なのですが、当日記に書かれている母国への評価は非常に厳しい。詳しいことは知りませんが、おそらく統一ドイツにおける自由主義派に属していたのかもしれません。そうした目から見ると、とりわけビスマルク退場後のヴィルヘルム二世の政治姿勢には憤懣が堪えなかったという雰囲気が伝わります。
 その上、以上の発言です。これは19世紀最後の年の発言です。20世紀に入ると大日本帝国の一部の将兵が同様のことを考え、さらに実行してしまって、問題になり続けていることはよく知られています。現在でも、「捕虜」の定義等々で責任に対して否定的な向きがありますが、「武器を捨てた」無抵抗な「暴徒」を殺害することは、恥ずべきことと考えるのが常識的な「文明人」の考え方です。帝国主義真っ盛りの時代の知識層の考えがそうなのですから、現在ではさらにそうでしょう。その点を考慮に入れて、諸外国に対して「愛国活動」をしてほしいものだと思います。過去はどうにもならないのですから。

 下巻は、まるまる日露戦争のことらしいです。そのうち、アップします。

評価 ☆☆☆

よろしければ、クリックお願いいたします。


本・書籍 ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

2016年11月22日 (火)

トク・ベルツ編『ベルツの日記(上)』

点検読書242

訳者は菅沼竜太郎。
岩波文庫(1979年2月16日)刊


日本史――明治時代


明治9年にお雇外国人として訪日したドイツ人医師・エルウィン・ベルツ(1849~1913)の日記。上巻は、来日した明治9年から日露戦争前夜の明治37年2月3日まで。


6部構成

1:エルウィン・ベルツ小伝

2:訪日(明治9年から15年)

3:憲法発布から日清戦争の時代(明治21年から32年)

4:教職を退く(明治33年から35年)

5:インドシナ・韓国周遊記(明治35年から36年)

6:日露戦争前夜(明治36年から37年)

コメント
 本書は、とくにコメントすることもなく、興味深いところを抜書きすれば、その魅力は伝わると思います。

明治9年10月25日
「ところが――なんと不思議なことには――現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした〔言葉そのまま!〕」とわたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。なかには、そんな質問に戸惑いの苦笑をうかべていましたが、わたしが本心から興味をもっていることに気がついて、ようやく態度を改めるものもありました。」(47頁)

当時の日本人の雰囲気について、よく引用される有名な箇所ですね。最後のところを読むと、外国人に対する羞恥心と警戒心から本心を隠しているとも読めますが、こうしたスッキリした日本人のメンタリティが新しい環境に急速に馴染むことのできる特質を作っているのかもしれませんが、過去を学ぶことをしないので、何度も同じ話題について最初から同じ議論をして以前の議論から積み重ねることができない、という残念な傾向も作っているかもしれません。

明治9年11月3日
「当地もだんだんと居心地が悪くなってきた。騒乱がいよいよ不気味に拡がってゆくからである。今では首都ですら、もはやあてにならないと政府が認める有様である。先日のこと日本橋附近で、下総に渡るため舟を雇おうとしていた十四名の士族が、大格闘ののち警官隊に取抑えられた。警官二名が殉職した。千葉県で大暴動を計画する書面が、かれらの手もとから発見された。・・・・・・首都に事実大暴動が起こって、暴徒の一群が外人の家を略奪し、これを虐殺することを思いついたとしたならば、われわれはまったく処置なしである。」(52頁)

これなども面白いです。現在の紛争後の途上国へ赴任した人の気分というのは、このようなものなのでしょう。現在の我々は、過去にこうした「危険」な国だったことを忘れがちで、諸外国のことを見てしまいますが、他人事ではなかったのでした

明治11年3月17日
「築地、島原の劇場へ。『西郷と鹿児島の変』、すなわち昨年の事件が上演されていたが、その芝居たるや、朝の六時から晩の八時まで続き、日本人を極度に熱狂させている。だがわれわれ西洋人にとっては恐ろしく退屈なものである。」(70頁)

しかし、西南戦争の翌年とは早いですね。これは戦勝を祝う気分なのか、西郷人気なのか、反政府気分の強さなのか。そのあたりが気になるところです。

明治22年2月16日
「日本憲法が発表された。もともと、国民に委ねられた自由なるものは、ほんのわずかである。しかしながら、不思議なことにも、以前は「奴隷化された」ドイツの国民以上の自由を与えようとはしないといって憤慨したあの新聞が、すべて満足の意を表しているのだ。」(138頁)

このあたりも有名な記述です。決まるまでは、大騒ぎするものの、決まると沈黙する、という現在の日本人にもつながるいい加減さがあらわれています。

明治22年3月19日
「憲法で出版の自由を可及的に広く約束した後に、政府はすぐその翌月、五種を下らぬ帝都の新聞紙の一時発行停止を、やむを得ない処置と認めている。それは、これらの新聞紙が森文相の暗殺者そのものを賛美したからである。それどころか、詩を作って、西野の予定した第二の犠牲者芳川がまだ生存しているのを遺憾とするという意味が述べてあった! 上野にある西野の墓では、霊場参りさながらの光景が現出している! 特に学生、俳優、芸者が多い。よくない現象だ。要するに、この国はまだ議会制度の時期に達していないことを示している。国民自身が法律を制定すべきこの時に当たり、かれらは暗殺者を賛美するのだ――森の行為に対して、いかなる立場をとろうとも、それは勝手ではあるが。」

このあたりも日本人のテロリスト好きというよりも、反政府気分が強い、というところに理由があるのでしょう。次に紹介するように、日本人が明治政府を自分たちの政府だと考えるようになったのは、日清戦争という国民戦争を経てなのでした。

ベルツの手記『明治時代』より
日本では一八九〇年代(明治二十三年から三十二年まで)に共和主義の時流が、どんなに強大であったかを知っているものでない限り、局外者にはまったく理解できないことである。・・・・・・福沢(諭吉)はこの国の重要な人物で、政治の圏外では最高の有力者であり、「日本の教師」なのである。この福沢がある大きいアメリカの雑誌の通信員に対してこう言明した。「わたしは、自由なお国に感嘆はしていますが、しかしわたし達自身には、まだ共和政の機が熟してはいないのです。だから、天皇がおられるのです。だが信じて頂きたい――現在すでに、政治に関して天皇の発言を必要とする場合は、イギリスの女王と比べてもその度合は少い位です」と。この言葉は一八九〇年代(明治二十三年から三十二年まで)の教養ある日本人の大部分の気持を代弁している。こうした気分を察知した政府は、全国民のために一致団結の結束をうながす機会が、運命によって新たに与えられる――つまり韓国を原因とする清国との戦争という形で――までは、柔軟な対応が賢明であると考えた。そしてこの日清戦争は政府の希望どおりの結果になった。すなわち日本全国民は一致団結し、国軍の勝利に熱狂したのである。以前は憎まれて、いろいろと悪く言われていた「元老」を首脳とする薩摩、長州の政治家たちは、海陸にわたる日本の名声を世界中で高めた。国粋的感情が目ざめて、外国のものすべての盲目的な模倣に対する健全な反応が始まった。自由諸国の美点に耳を傾けるものが、はるかに少なくなった。議院内閣制の政府を目指す最大の絶叫者たちは、控え目となった。・・・・・・巨人清国に打ち勝った、この世界驚嘆の勝利への、更に深い根底を、日本人特有の性質の中に求めたのであるが、この日本人気質には、「皇統連綿」の皇室もまた、大きい枠割を演じていた。こうしてこの日本人気質は、国家の危急存亡のとき一段と強く発揮されるのである。天皇の人格が全面に押し出されることが、だんだん多くなってきた。学校や役所にはいずれも、天皇の写真が掲げられていて、今ではこれに祝祭の折、おじぎをしてあいさつせねばならないのである。日本の青少年の、あらゆる道徳教育の基礎を示す勅語(教育勅語)が出たが、その中で天皇は、国民の一種の父親として表されている。こうして天皇を国家の、ある程度概念的で象徴的な代表として崇拝する観念を、太古からの古びた土地ではあるが、今や改めて有利に準備を施した国土に、十分意識して植付けたのである。このような日本の指導的な為政者の企画が完全に成功を収め、時としては、企図した程度以上の成果を挙げた事実は、誰にも否定できない。」(187~189頁)

 長くなりましたが、日清戦争によって、明治の日本がガラリと変わったことが述べられています。最初に引用した自分たちには歴史はない、と述べていた日本人が日本の歴史に目覚めるわけです。これは単なる移り味の早さではなく、まさに日清戦争の勝利という歴史をつくったがために、日本の歴史をあらためて振り返ることができたといえましょう
 しかし、この福沢の発言というのは、どこかに根拠があるのでしょうか。

つづく

よろしければ、クリックお願いいたします。


本・書籍 ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

2016年11月21日 (月)

竹下節子『キリスト教の真実』

点検読書241

副題は「西洋近代をもたらした宗教思想」
ちくま新書(2012年4月10日)刊


宗教史――キリスト教


世俗化を目指す近代主義によって、キリスト教の歴史は意図的に歪められてきた。古代ギリシア思想の復興は、それを押しとどめてきた中世のカトリックを無知蒙昧と退け、カトリックを主敵とするプロテスタントからも批判を受ける。さらには、カトリック・キリスト教憎しがために、近代ヨーロッパの科学は、古代ギリシア文化のアラビア語訳を通して発展したという「神話」まで制作された。本書は、それらの誤解を解きほぐし、二項対立に陥らない歴史としてのキリスト教を描く。


七部構成

1:ギリシア・ローマ世界から生まれた宗教としてのキリスト教(第1章)

2:暗黒の中世の嘘(第2章)

3:政教分離と市民社会(第3章)

4:自由と民主主義(第4章)

5:資本主義と合理主義(第5章)

6:非キリスト教国の民主主義(第6章)

7:平和主義とキリスト教(第7章)

コメント
 興味深かったのは、俗説としてよく聞かれる「古代ギリシア文化は、キリスト教世界では失われて、イスラム世界でアラビア語訳で受け継がれ、ヨーロッパ人はアラビア語訳を通して、ギリシア文化を再発見した」というのは、たいへん疑わしい、ということをはっきりと指摘しているところです。

 本書によれば、キリスト教の修道院を通して、古代ギリシア文化の知の継承は行われ続けており、「頑迷で蒙昧なキリスト教徒」と「進取で寛容なイスラム世界」というのは神話にすぎない、と指摘されています。カトリック教会の教育研究機関たる「大学」の中での学問の自由がなければ、宗教改革も生まれなかったであろう、というのが本書の主張です。

 また、ではイスラム世界は、一般に言われるように税金さえ納めれば宗教の自由を認められた「寛容」な世界だったかといえば、そんなことはいえない、というのが確かなところらしい。

 例えば、アッバース朝に敗れて755年にイベリア半島に逃れてきた後期ウマイヤ朝のラフマーン三世の時代に古代世界の知の集積が進んだのは確かであるらしいのですが、それまでの君主たちのラテン語撲滅政策によって、キリスト教徒はアラビア風に改名を強制され、行政もアラビア語で統一されたというのです。つまりは、古代ギリシア・ローマ世界の文献が、アラビア語訳されたというのは、それ以外を使用してはならなかった、ということが前提にあったのでした。そうしたわけで、これらが行われる前には当然キリスト教側の不満が高まって暴動が起きますし、それに対する虐殺も行われたわけです。そして、それはイスラム・ユマニスムを体現したラフマーン三世の後継者たちにおいても、キリスト教やユダヤ教の信者に改宗か、追放か、死のみの選択をあたえ、すべてのキリスト教徒の投獄とユダヤ人の殺戮を決定したりもしているのでした。こうした行為は、西洋近代史の中では英雄のように扱われているスレイマン一世なども同様に、1535年にはチュニジアでユダヤ人の虐殺を行っているし、1554年にはアルメニアでイスラムへの改宗を拒んだキリスト教徒を虐殺していたそうです

 著者によれば、「キリスト教徒の愚かさや頑迷や残酷さの例はあちこちで何度も強調されているのに対して、イスラムの「寛容神話」の方は無批判に受け入れられている不均衡があることは明らかだ」(102頁)ということで、あえてイスラム世界の「不寛容さ」を指摘しているのですが、歴史的事象に関する美談は眉につばして聞く事が大事ということでしょう

 あとなかなか面白かったのは、政教分離に関するところで、イギリスにおけるカトリックと国教会の距離は今でも残っている例として、トニー・ブレアの夫人が熱心なカトリックで、ブレアは首相当時は国教である聖公会にとどまっていたが、引退してすぐにカトリックに改宗したということで、公職・顕職にある人間の帰属宗教は今でも政治的にはデリケートな問題であったとか。日本におけるキリスト教徒の割合は1%程度なのに、首相のキリスト教徒の比率は10%を超えると言われていますが、日本はその点、無頓着ですよね。

 それはともかくなかなか独特な語り口と視点の持ち方で、ぱっと見理解できないところはありますが、ざっと読む分には何か学ぶところもあるかと思います。

評価 ☆☆

よろしければ、クリックお願いいたします。


本・書籍 ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

2016年11月 8日 (火)

中島隆信『これも経済学だ!』

点検読書240

ちくま新書(2006年8月10日)刊


経済学


経済学的思考とは何か。経済学は、希少なものに対する人間の欲望=インセンティブを対象とする学問である。この方法を利用することで、社会の中に存在する「なぜ」に対して、背後にある人間の動機を解明することで、合理的な解釈を考えることが可能である。本書は、通常は経済学が対象としない伝統文化や宗教、社会的弱者の戦略などの世の中の仕組みを経済学的に理解しようという試みである。


1:経済学的思考とは何か(第1章)

2:伝統文化の経済学(第2章)

3:宗教の社会学(第3章)

4:「弱者」とは何か(第4章)

5:経済学の魅力(第5章)

コメント
 レービットの『ヤバい経済学』の日本版のような作品。ただ『ヤバい経済学』の方が、さすがアメリカと言うか、視点や結論の意外性があったように思います。本書は、より社会に密接な分野を扱っているので、やや意外性にかけるところがあるかもしれませんし、相撲や宗教に対して関わりなく、興味もない人には、そういうものか、ぐらいの感想しか出ないかもしれません。
 本書を読んで腑に落ちたというか、思い出したのは、マクドナルドのエピソードです(31~33頁)。
 本書によれば、もともとのアメリカでマクドナルドと言えば、ジャンクフードでミドルクラス以上の人が年に何回も食べるものではなかったのに、日本に入ってきた時には、牛肉100%という売り込みで高級食として宣伝していました。それが、売上低迷のために、アメリカ同様の低価格路線に進み、下級材としての評価が定まり、主な顧客が低所得者になる一方で、高所得者は品質と安全にこだわるために離れていく上に、BSE問題等で追い打ちをかけられました。戦略の見直しとして、再び高級路線に転換しようとしても、すでに顧客層が変わってしまっていて、低所得者は高いものを買おうとしないし、高所得者はマック自体を食べようとしない。そうして売上が低迷し始めた、ということです。
 本書は2006年の刊行ですから、その後のさらなる高級路線の失敗と中国の工場の賞味期限切れの鶏肉問題とかでも同様の事態が起きたように思います。それはともかく、現在では「マックのくせに、高級路線なんて」という評価ですが、私の子供の頃など、たしかにマックはなかなか食べさせてもらえない外食の一つだったかもしれません。我が家が、あまり外食せずに、COOPとかを利用する健康・節約志向だったこともありましたが、それ以上にそれほどお腹いっぱいにならないにもかかわらず、ファミレス同様の価格帯だったことも影響があったようにも思うんですよね。一号店が銀座にできたというのにも、驚きですが、そうした時代は、もう戻ってこないのでしょうね

 あと興味を持ったのが、日本の仏教の問題なぜ日本の仏教僧は、宗教家として社会的役割を果たしていないのか本書によれば、徳川時代の寺請制度によって、菩提寺と檀家という密接な地域コミュニティが形成されたために、僧の方で新規の信者=顧客開拓を行なうインセンティブが働かなくなったから、というのです
 そうしてこうした関係は、近代国家となった明治時代になっても、僧侶の方の意識が変わらなかったのです。その上、僧侶の妻帯が許されるようになって、寺の世襲まで可能になると、今を維持できれば良い、という発想になりました。その間隙をついたのが、都会の新宗教です。つまり、明治になるとすべての人が名字を名乗るようになり、それまでの個人墓から先祖代々の墓へと再編されます。そうすると、先祖の墓は長男が守るものの、次男・三男は別の墓を作るようになります。こうして先祖の墓と縁が切れた人々が都会に集まってきたところに、新宗教の猛烈な信者獲得攻勢によって、信者が奪われた、ということになったのです
 ですから、仏教寺院というのは、一定の信者を確保できている上に世襲ですから、まずは現在いる檀家へのサービスに専念して、現状維持を図った方が得なのです。新規獲得へのインセンティブがないのです。しかも、今現在まで共同墓地ではなく、檀家として墓を維持している家は、ある程度の先祖の由来がはっきりしている家でしょうし、資産もある家でしょうから、安定した収入が見込めます。そうした意識が、馬鹿高い葬式費用や戒名の値段になっていくのですが、今後はどうなるのでしょうか。
 少子化や核家族化によって、ますます菩提寺に墓を持つ家は少なくなるでしょうし、安く葬式をあげてくれる僧侶も増えています。そうすると、これまでのあぐらをかいた経営だと、現状の顧客も離れていきますので、サービス合戦に参加するであろうし、また信者の新規獲得競争にも乗り出すかもしれません。もしかすると、今後、つくられた仏教ブームというのがやってくるかもしれませんね

評価 ☆☆

よろしければ、クリックお願いいたします。


本・書籍 ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

« 2016年10月 | トップページ | 2016年12月 »

最近のトラックバック

2019年3月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31