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2016年8月 6日 (土)

史料で確かめられる最初の記紀の登場人物とは

 吉村武彦『蘇我氏の古代』を読んで、もう一点、興味をひかれたものがありました。

 日本史上において、史料的に確かめられる最初の日本人は誰なのか。

 本書によると、それは葛城の 「襲津彦」なのだそうです。この人物は、神功皇后から仁徳天皇の時代に記録がある人物で、『日本書紀』を編纂する際に倭国に亡命した百済人が提供した「百済記」に「沙至比跪」と書かれている人物だそうです。その「百済記」によると、沙至比跪は新羅征討に遣わされたのですが、この年が壬午年=西暦382年 で、高句麗の広開土王碑文の辛卯年(391年)に倭国は渡海して百済・新羅を臣民にしたという記述と大体において符合するというのです。
 戦後の歴史学において、神功皇后の「三韓征伐」は、神話ということで否定しているわけですが、戦後の歴史学の成果として、神功紀に登場する、しかもまさに朝鮮半島に派遣された人物が、記録として最初に確かめられる人物というのは、何とも皮肉なような気もします
 この襲津彦は、伝説上の人物である武内宿禰の第八子なのですが、では武内宿禰が実在の人物かというと、そこは何ともいえないというのが難しいところです。

 また、国内史料の方からの候補としては、稲荷山古墳出土の5世紀後半に制作されたとされる金錯銘鉄剣に書かれた「獲加多支鹵(ワカタケル)」が、雄略天皇に当たるとして有名です。しかし、この銘文にはもう一人、記紀に登場する人物がいます。それは鉄剣の製作者の祖先に当たる「意富比垝(オオヒコ)」が、『日本書紀』崇神紀にみえる四道将軍の一人「大彦」ではないか、というのです
 この大彦という人物は、第八代の孝元天皇の第一子で、崇神天皇の伯父にあたります。このように考えると、「欠史八代」と言われた1人の孝元天皇の息子の存在が確認されたともいえます。そうすると、その「神話」である、という考え方も再考が必要では、と考えられます。もっとも、吉村武彦氏は、錯銘鉄剣が制作された五世紀に「大彦」伝説が伝わっていたことが確認できるというのみで慎重です。大彦までいったのだから、孝元天皇まで言及すればいいじゃないか、でも言及がないのだから、孝元天皇は実在しない、という考えも成り立つので、難しいところなのかもしれません。
 この孝元天皇というのが、意外とキーパーソンで、先の襲津彦の記録も、『古事記』孝元天皇の段で、建内宿禰の第八子「葛城の長江曾都毘古」として書かれております。現在の記紀においては、何のエピソードもない孝元天皇なのですが、古代においては重要人物だったのでしょうか

 先の参議院選挙の選挙特番で、神奈川県選出の三原じゅん子参議院議員が、神武天皇の実在を明言したことが話題になりました。現代の公職にある人が、メディアの前で、そんなことを言うのは驚きですが、現在の天皇の代数を公式には125代と政府の発表でも述べられているわけですから、建前として神武天皇の実在を言うのは逆に当然なのかもしれません。しかし、この「事件」によって、考えたのは、この三原発言を揶揄している人たちにとって、どの天皇からだったら実在を主張していいことになるのだろうか、ということです
 本書の著者である吉村武彦氏は、岩波新書の古代史シリーズの『ヤマト王権』で第10代の崇神天皇が初代であると明記しています。とすると、崇神天皇の実在は確認されているのでしょうか。先ほどの襲津彦ほど他の史料で確認が取れているわけではありません。記紀の記述から推測しているだけです。では、襲津彦の同時代人である神功皇后かといえば、恐らくこれも明言したらバカにされるでしょう。現代の歴史学において、伝説とされているからです。では、応神・仁徳天皇か。これもはっきりしたことは分かりません。
 史料的に確認できるのは、雄略天皇かも知れません。『宋書』『梁書』の「倭王武」に比定されていますし、先ほどの稲荷山古墳の鉄剣銘の人物とも符合します。しかし、その後の天皇はどうでしょうか。
 
一般に紀年の記録が実際と符合するようになったということで、実在が確からしいとされるのが継体天皇ですが、その応神天皇の五代の末という出自や没年が記紀、『上宮聖徳法王帝説』、『元興寺伽藍縁起』で異なるなど、これまた実在が疑わしいともされます。また『古事記』だけの記述では、継体天皇前後から推古天皇まではほぼ系譜のみです。推古天皇に関して言えば、遣隋使を送った時の天皇であるにもかかわらず、『隋書』には推古女帝に関する記録はありません。人によっては、九州王朝説の根拠ともなっています。そうなると分からない、というのが正直なところです。
 このように考えると三原発言というのは、単に前時代的な迷言で片付けるのではなく、では、どの天皇からがはっきりと言えるのだろうか、と立場を鮮明にした上で批判すべきなのではないか。そんな気がしたんですよね。だから、分からないと判断する私には、気軽に批判できる発言ではなかったのでした。自分の知的優位を確信して、人のことを揶揄できる人は本当に羨ましい限りです。
 もっとも安全なのは、日本という国号と天皇という称号が確定した飛鳥浄御原令の成立した689年時点の持統天皇を挙げることかもしれませんそうなると、現皇室の王朝名としての「日本」が誕生した689年より前は日本ではない、神話の世界のお話として考えるのが良いのかもしれません。もっともこの飛鳥浄御原令自体も現存してはいないので、ここでの確定もはっきりしたことは言えないのですけれども。

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コメント

どうも。少し言いたいのですが、日本が年号を初めて建元したのは大宝であって、それ以前の年号は違うと思います。建元して大宝になったことが、続日本紀に記されていますが、改元したとは言ってないのです。しかし聖武天皇の詔から彼が、何故か九州年号に言及しています。大宝以前の年号に言及してるんですね。年号を大宝以前から立て続けていた王朝ではないことを自ら告白してます。律令についても同じ事がいえます。筑紫君磐井の墓の一角には石人石馬がありますが、それらが解部・衙頭を意味することを風土記が記録しています。日本書紀の記す時代以前から律令や年号が存在していることの一例にすぎませんが、多元的古代の根拠になりうると思います。日本書紀は歴史の勝者が残した史料なので全面的に信用出来るとは限りませんが、信用に足るところも有ると思います。

「通りすがりですが」さま
 コメント、ありがとうございます。
 九州王朝説のことを仰っているのかと思います。本文にも書きましたが、古代史は確かなことを言えないというところに、様々な説が出てくる理由になりますし、そこが研究者以外の人でも関心が持てるし、魅力なのかな、と思っております。

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