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2013年1月31日 (木)

吉田松陰の朝鮮論

吉田松陰の松下村塾は、明治政府の指導者を多く輩出したことで知られ、また彼らと松陰の思想的影響の関係から、後々の明治国家の対外政策に結びつけた議論もある。つまり、日本の「大陸侵略」の思想的源流は、松陰にある、というような。

では、松陰の対外政策、とりわけ朝鮮に関する認識は、どのようなものであったのか。彼が、朝鮮に関して述べているところを抜書きしてメモとして書いてみたい(引用は山口県教育会編『吉田松陰全集』(大和書房、一九七二~一九七四年)大衆版全10巻・別巻1)。

まず、少壮の兵学者であった松陰の第一の思想的転換として、水戸学との出会いがある。その水戸学との出会いは、1851年(嘉永四)暮から脱藩して出かけた東北遊学中の水戸訪問時の會澤正志斎との出会いにある。松陰は、平戸遊学の際に、會澤『新論』に出会っていたようだが、写本を入手したわけではなく、またじっくりと読むこともなかったようである。当時の松陰はあくまで兵学者であり、兵学研究に必要な部分だけ、『新論』にもふれた可能性があったものの、松陰の思想的転換を期した「國體」に関する箇所は読んでいなかったか、意識しなかったか、の可能性が高い。松陰が、「國體」および日本の歴史に関心を持ち始めたのは、江戸に出てから「長州の人間は日本の歴史を知らない」と周囲の人間に言われるようになったためである。水戸の會澤に出会うことで、その感を強く認識し、勉強しなおした。そこで出会ったのが、周辺諸国を「懾服雄略」する皇族=天皇の姿であり、そこにこそ「皇国の皇国たる所以」を発見した、という流れである。そして、その勉強の中で発見したのが朝鮮である。

「栗原良三に復する書」(一八五二(嘉永五)年六・七月頃、六巻三一六~三一七頁)
「皇朝、武を以て国を立つ。其の盛時は高麗・新羅を懾服して使を百済・任那に駆りしこと難からざりしなり。寛平に至りて、新羅来寇す、則ち撃ちて之れを却けたるも、是の時は古の雄略復た見るべきなし、而れども防守は尚ほ人ありき。其の他は則ち言ふべきものなし。……豊関白起るや、三韓を鏖にし、有明を圧し、勢将に古の略に復せんとす。不幸にして豊公早く薨じ、大業継かざりしは惜しむべきかな。然れども余威猶ほ百蛮に震ひて数世に延ぶ、盛なりと謂ふべし。降りて近時に及んでは、事言ふに忍びず。……国威の衰頽、最も未だ曾て有らざる所なり」

「皇朝、武を以て国を立つ」。朝鮮半島に進出し、それらを「属国」として扱ったという「歴史的神話」にこそ、「皇国」が他の国との相違を示すところであり、豊臣秀吉の「朝鮮出兵」は「古の略」を復活させたものである。しかし、それが終わってからというものの「国威の衰頽」は、甚だしいものである、と。松陰の「國體」の発見、すなわち「尊王」と、天皇の下に周辺諸国を武力によって「懾服」させることがリンクしており、両者は不可分な存在なのである。

このように「武」の国であったはずの日本が、米国艦隊の「武」に威圧されて、条約を結んでしまった。再度の来航時にこそ、日本の「武」を輝かせて往時の栄光を取り戻すべしと開戦に期待した松陰は、肩透かしをくらって、行き場のないエネルギーを密航して欧米に学ぶという真逆の発想で試みるが失敗し、投獄される。そして、そこでまたまたもてあましたエネルギーを誇大妄想ともいえる「懾服雄略」論を述べることで癒そうとする。

『幽囚録』(安政元年)
「朝鮮と満洲とは相連なりて神州の西北に在り、亦皆海を隔てて近きものなり。而して朝鮮の如きは古時我れに臣属せしも、今は則ち寖(や)や倨る、最も其の風教を詳かにして之れを復(かえ)さざるべからざるなり。」(二巻五三頁)
「日升らざれば則ち昃(かたむ)き、月盈たざれば則ち虧(か)け、国盛んならざれば則ち替(おとろ)ふ。故に善く国を保つものは徒に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり。今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礟足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加・隩都加を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満洲の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺圉を守らば、則ち善く国を保つを謂ふべし。」(第二巻五四~五五頁)。

ここでも朝鮮の服属を古代の「歴史的神話」に根拠を見出して主張し、さらにはシベリア、満洲、東南アジアへの進出までをも述べるにいたる。しかし、ここで注意すべきは、他のカムチャツカや満洲・台湾・ルソンなどの「収め」るとは異なり、琉球とともに朝鮮の服属は、「朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ」であり、武力による併合ではなく、それらの独立した国家として残しつつ、「朝貢」の対象と見ていることである。

ここには松陰の国際秩序認識の特徴がある。つまり、同等の国際関係を結ぶ主権国家(「敵国」と表現する)と、「敵国」に相当する大国に朝貢する「属国」、「交地・争地」(『孫子』の表現)という無主の地という区分があり、アメリカ・ロシア・英国・清国などは「敵国」であり、琉球・朝鮮は「属国」、カムチャツカや台湾などは「交地・争地」と認識しており、それぞれへの対応は異るのである。そのため、「交地・争地」は「敵国」同士で領有権を争う地であるため、併呑の対象であるが、「属国」は必ずしもそうではないのである。

「今大いに船艦を打造し北は蝦夷を収め西は朝鮮を服し、駸々然として進取の勢を示し候はば、群夷自から手を収むべし。何となれば縦令一度近づき少利を得るとも、又其の本国を襲はれん事を恐るるなり。計此れに出でずんば永久を保するの策に非ず」(安政元年十二月十二日付書簡、七巻二九九頁)

大艦隊を建造して蝦夷・朝鮮を征服すれば、西洋列強は日本を恐れて手を出しては来ないだろう、と述べつつも、蝦夷は「収め」、朝鮮は「服し」と、単なる土地と認識する「蝦夷」と統治機構が存在する「朝鮮」とで区別している。

「魯・墨講和一定す、決然として我れより是れを破り信を戎狄に失ふべからず。但だ章程を厳にし信義を厚うし、其の間を以て国力を養ひ、取り易き朝鮮・満洲・支那を切り随へ、交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし」(安政二年四月二十四日付書簡、七巻三六四頁)

こちらでは、米露と講話してしまったのだから、こちらから講和を破って信頼を失うよりも、逆に厳密に守って信頼を強化し、その間に国力を増強させ、朝鮮・満洲さらには清国をも「切り随へ」、交易で失った分を土地の拡大によって取り戻すべきだと述べつつも、

『清国咸豊乱記』(一八五五〈安政二〉年五月二十六日)
「朝鮮を来たし満洲を収めんと欲すれば則ち艦に非ずんば不可なり。是れ余の本志なり。今は未だここに及ばず、則ち巨艦待つべきなり」(二巻一四九~一五〇頁)

「治心気斎先生に与ふる書」(「野山雑著」、二巻一五二頁)
「宜しく章程を厳にし約束を謹みて、其れをして驕悍(きょうかん)に至らしめざるべし。間に乗じて満洲を収めて魯に逼り、朝鮮を来たして清を窺ひ、南洲を取りて印度を襲ふ。三者当に其の為し易きものを択びて之れを為すべし。是れ天下万世継ぐべきの業なり。天下の勢、或は未だここに至らざれば則ち退きて吾が国を治め、武を偃し文を修め、賢能を招き士民を養ひ、声息を潜めて形跡を歛むるも、猶ほ以て一方の安を受けてこれを子孫に伝ふるに足らん。……是れを之れ勉めずして船を造り砲を鋳るを是れ事とす、是れ僕の甚だ惑ふ所以なり」

朝鮮は「来す」つまり、朝貢に来させるべきであって、「取る」わけではない。また、近隣諸国への侵略構想は、あくまで「余の本志」「万世継ぐべき業」であり、「巨艦」を持てない状態での当面は、その追求はひかえるべき、と述べている。

しかし、1856年になると、松陰にとって切迫した事態が訪れたらしい。

『丙辰幽室文稿』(一八五六〈安政三〉年)
「久坂玄瑞に復する書」(二巻四一五頁)
「今の計たる、疆域を謹み条約を厳にして、以て二虜を覊縻し、間に乗じて蝦夷を墾き琉球を収め、朝鮮を取り満洲を拉き、支那を圧し印度に臨みて、以て進取の勢を張り、以て退守の基を固めて、神功の未だ遂げたまはざりし所を遂げ、豊国の未だ果さざりし所を果すに若かざるなり」
「外征論」(一八五六〈安政三〉年五月頃、二巻四五一頁)
「「夫れ坤輿の形勢は、合はせざる能はざる者あり、合はせざるべからざる者あり。我が奥越の如きは、地脈接続し、合せざる能はざる者なり。三韓・任那の諸蕃は、地脈接続せずと雖も、而も形勢対持し、吾れ往かずんば則ち彼れ必ず来り、吾れ攻めずんば則ち彼れ必ず襲ひ、将に不測の憂を醸さんとす。是れ合はせざるべからざる者なり。」

「琉球を収め、朝鮮を取り」とそれまでは服すれば良いとされた地域も、併呑や武力侵略の対象となる。おそらくクリミア戦争が同年3月に終了したことで、英国などの西洋の強国の目が東アジアに向けられることを警戒し、その前に朝鮮などを「合はせざるべからざる」地域を認識し、また先に日本が獲得しなければ、西洋に取られてしまうという危機意識が、このような提言に結びついたと考えられる。

しかし、松陰の「懾服雄略」という大戦略は、この時期に更に一変する。

一八五六〈安政三〉年六月~十二月の松陰の読書傾向に、それまでまったく読まれていなかった本居宣長、平田篤胤らの国学・神道系著作が激増し、水戸学・漢学系著作が激減している。さらに漢学系著作も黙霖が松陰に貸した山県大弐『柳子新論』と山鹿素行『中朝事実』の二つの尊王論的著作だけである(素行の著作は一八五六年頃から始まった著作蒐集の一環)。この時期こそ、松陰に「転回」をもたらした黙霖との書簡論争の時期(同年八月下旬)にあたっている(桐原健真『吉田松陰の思想と行動』東北大学出版会、二〇〇九年、一五九~一六三頁)。

この時期から松陰の対外政策は、武力侵略論(懾服雄略)から、交易による「航海雄略」へと転換したのである。それは、それまでの水戸学経由の尊王論では、「皇国の皇国たる所以」は、武力によって周辺諸国を威服させる能動的なものであったが、国学経由の尊王論では、天皇がいるというそれだけで「皇国の皇国たる所以」が証明できる、と松陰は考えるようになり、現状で不可能な武力による「攘夷」もしくは対外侵略は必要とされなくなったのである。

そのため、最晩年の対外政策論では以下のようになっている。

「対策一道」(一八五八〈安政五〉年四月中旬)
「凡そ皇国の士民たる者、公武に拘らず、貴賤を問はず、推薦抜擢して軍師舶司と為し、大鑑を打造して船軍を習練し、東北にしては蝦夷・唐太、西南にしては流虯〔琉球〕。対馬、憧々(しょうしょう)往来して虚日あることなく、通漕捕鯨以て操舟を習ひ海勢を暁り、然る後往いて朝鮮・満洲及び清国を問ひ、然る後広東・咬(カ)ル〔口偏に留〕吧(パ)〔ジャカルタ〕・喜望峰・豪斯多辣理、皆館を設け将士を置き、以て四方の事を探聴し、且つ互市の利を征(と)る。此の事三年を過ぎずして略ぼ弁ぜん。然る後往いて加里蒲爾尼亜を問ひ、以て前年の使に酬い、以て和親の約を締ぶ。果して能く是くの如くならば、国威奮興、材俊振起、決して国体を失ふに至らず。」(四巻三三二頁)。

武力侵略によって東アジアに進出するのではなく、「航海通市」によって進出へと転換し、

「続愚論」(一八五八〈安政五〉年五月下旬)
「清国・朝鮮・印度抔の近国へ出掛け候様成され候はば、数年の内航海の事は大いに行はれ申すべく存じ奉り候」(四巻三五〇頁)

通商の利益増進に期待し始めている。
一方で

「商船漸く増し、土貨漸く殖え、而して互市漸く盛んなれば、乃ち軍艦を造る。軍艦には必ず砲銃を備へ、士卒を充て、商艦は以て輜重に当つ。ここに於て欧羅・米利も、遠くして到るべからざることなし、而して朝鮮・満洲は之れ言ふに足らんや」(同上)

「富国強兵」をふまえた対外戦略論として整備するようになった。

同時期に、松陰の「竹島」開墾策というものがある。この場合の「竹島」は、現在話題のなっているものではなく「鬱陵島」のことである。この鬱陵島について、松陰は、以下のように述べる。

「桂小五郎あて書簡」(一八五八〈安政五〉年二月十九日付、八巻三八~三九頁)
「此の段幕許を得、蝦夷同様に相成り候はば、異時明末の鄭成功の功も成るべくかと思はれ候。此の深意は扠て置き、幕吏変通の議、興利の説今日の急に候へば、竹島開墾位は難事に非ざるべし。是れ一御勘定の主張にて行はれ申すべくと黙算仕り候。委細玄瑞存知の事に付き御運籌下さるべく候。天下無事ならば幕府の一利、事あらば遠略の下手は吾が藩よりは朝鮮・満洲に臨むに若くはなし。朝鮮・満洲に臨まんとならば竹島は第一の足溜めなり。遠く思ひ近く謀るに、是れ今日の一奇策と覚え候」

長府毛利藩の医家興膳昌蔵という人物の「竹島(鬱陵島)」開墾論を紹介し、幕府への働きかけを依頼し、

「久坂玄瑞あて書簡」(一八五八〈安政五〉六月二十八日付、八巻六八頁)
「英〔口偏に英〕夷既に拠るとも苦しからず、矢張り開墾を名とし交易をなし、因つて外夷の風説を聞くこと尤も妙、英〔同上〕夷既に拠れば別して差捨て難く候。左なく候てはいつ何時長門などへ来襲も測るべからざるなり、寸板も海に下す能はざるの陋を破るには是れ等にしく妙策は之れなく候。黒龍・蝦夷は本藩よりは迂遠、夫れよりは竹島・朝鮮・北京辺の事こそ本藩の急に相見え候」
「英〔同上〕夷闢きかけたれば尚ほ可なり。何分一寸なりと外へ張出さねば相捌けず候。水軍を仕向くると云ふは尚ほ愚論なり。水軍にて行けば彼を備をする、商船で行けば彼れも商をするなり」(八巻七〇頁)

竹島は既にイギリスの領有に帰しているとの風聞もあったが、この情報を疑問としたうえで、万一イギリスが専有していた場合はこれと交易を行なおうと計画する。これは鎖国下からの閉塞状況を打ち破る策として提示されている。

「桂小五郎あて書簡」(一八五八〈安政五〉七月十一日付、八巻七五頁)
「朝鮮に懸け合ひ、今に空島に相成り居り候事無益に付き、此の方より開くなりと申し遣はし候はば異論は之れある間布く、若し又洋夷ども已に彼れが有と相成り候はば致方なし。開墾を名とし渡海致し候はば、是れ則ち航海雄略の初めにも相成り申すべく候」

この書簡に見られるように武力侵略から交渉による進出に転換している。しかし、朝鮮王国を平等と見ていたわけではない(「申し遣はし候」)。また、先の書簡に見られるように、交渉主体は幕府である。なぜなら、朝鮮王国は清国に服属しており、その朝鮮と天皇の政府が平等な関係を結ぶことは、清国との関係を乱してしまう。そのため、天皇の政府の「幕府」にすぎない徳川政権とでは交渉はできるが、天皇の政府が行うことはできないのである。

以上のように、松陰の対外政策には、尊王論とリンクしている。『日本書紀』の記述から知るようになった「武」によって立つ国としての日本の中心には天皇がいる。武力行使によって周辺諸国を畏怖させる天皇を中心とした神話の世界の国にあこがれ、それを根拠に海外雄飛を目指す。そして、そこには当然のように国家に階層が存する。天皇と格が同じなのは、他の国に依存しない主権国家のみであり(「敵国」)、他の国に臣事する国は格下であり(「属国」)、その他の統治機構がないような地域は国ではない(交地・争地」)。松陰にとって朝鮮は「属国」であり、また「歴史的」に「皇国」に服属する国であったはずである。そのため、旧に復するためには朝鮮は武力によって「属国」待遇にしなければならないのである。

しかし、国学を学ぶことで、武力による畏怖という天皇像から、天皇の存在そのものが「皇国の皇国たる所以」を発見した松陰に対外侵略は必要がなくなる。交易によって強国となり、西洋列強と対等な関係を結ぶことが現時点では必要な措置へと転換し、武力侵略は後景に退いたのである。とはいうものの、朝鮮が清国に臣事し続ける限り、日本と朝鮮は平等な関係にはならない。明治日本が、朝鮮の独立にこだわったことの源流には松陰の認識が関わったかもしれない。しかしながら、松陰がこだわりを捨てた武力による対外戦略は、次のヨーロッパ諸国の国際秩序の中では、うまく戦争を遂行する能力によって、相手の力を計るという共通認識があり(ポール・ケネディ『大国の興亡』)、日本は軍事強国として東アジアで戦争を行わなければ、その一員として認められない世界へと足を踏み入れた。松陰の「懾服雄略」からの脱却は、「皇国」論の枠組みではなく、次の西洋の国際法秩序の中で復活を遂げたというわけである。その後の日韓関係と松陰とのつながりはまた別の次元のお話なのであった。


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コメント

初めまして
貴兄の「吉田松陰の朝鮮論」を私のブログ「葵から菊へ」の記事「国連からヘイトスピーチを勧告」(下)に参考文献としてリンクさせて頂きましたのでご承認下さい。

曙橋さま

コメント、ありがとうございます。お役に立てるかどうか、分かりませんが、どうぞご利用下さい。

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