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2012年3月 2日 (金)

孝明天皇の死因について

ずいぶん昔のこと。

私が大学生時代に、ある教授が退官の年ということで、一年間記念講演のような過去語りをした講義があった。しかも、午前の早い時間だったし、出席は取る、しかも自分が書いたり、翻訳したりした教科書買わせて、授業では使わず、自分語りをするという酷いものだった。

そんな授業で、どういう文脈だったか忘れたが

「孝明天皇は、岩倉具視に毒殺された。これは事実です!」

と力強く主張された。

当時の私は、「あぁ、そんな説あるけど、否定されてんじゃなかったけ?」とぼんやり思っていたが、三百人ほどいる学生の前で適当なことをいう教授の知性を疑った。

前置きが長くなったが、このように、孝明天皇毒殺説というのは、ずいぶんと人口に膾炙していた話である。

それを完全に否定した、原口清「孝明天皇の死因について」(明治維新史学会『明治維新史学史会報』第十五号、一九八九年十月、『原口清著作集2 王政復古への道』、岩田書院、二〇〇七年九月、所収)をやっと読む機会を得た。

だいたいこの話題にふれるものは、「病死(原口清、参照)」となっており、私もどうやら決着はついているらしいということで、その内容にふれることはなかった。で、今回はその紹介。

孝明天皇の死因について、病死説と毒殺説というものがあった。通説は、もちろん病死(痘瘡死)であり、幕末当時から朝廷周辺や外国人の観察者などが毒殺の噂を信じ、戦後になってねずまさしの論文によって学問的に「論証」された。原口氏自身も、この説を信じていた時期があり、この論文が出る前までは研究者が書いたものでも「毒殺説」が当然のように書かれていた。

そこで原口氏は、今一度「痘瘡」というものがどういう症状で死に至るか、刊行史料(『孝明天皇紀』・『中山忠能日記』など)においても「病死」を裏づけるものはないかと再確認したところ、病死と断定できたということである。

まず、孝明天皇が痘瘡にかかったことは誰もが認めている。しかし、毒殺説は二つの前提で成り立っている。

一つは、天皇の病状が順調に回復に向かい全快も間近いという時期に、突然病状変化・死亡したという病状経過についての認識である。

慶應二年十二月十二日から同十七日までの発熱・丘疹の時期における高熱・譫言・発疹・食欲不振・不眠などの症状は、痘瘡患者の通常なものであり、異常は認められない。

しかし、十八日の夜から「御痘色二三か処計御紫色奉伺候」(十九日に典医から提出された報告書、『孝明天皇紀』第五)と重大な兆候があらわれ、明治天皇の生母である中山慶子の父宛書簡にも「昨七ツ頃足辺の御出物御色合替り、御匕久野〔痘瘡専門家の典医〕も大ニ驚恐入候様子、一同驚恐候御事にて心配致し候」(『中山忠能日記』三)とある。痘色の紫色への変色は、痘瘡内の出血を示すものであり、天皇の症状は痘瘡中最も悪性のの紫斑性痘瘡ないし出血性膿疱性痘瘡の徴候がみえはじめた。

原口氏が参照した医学論文、戸谷徹造「痘瘡」(松本利貞編『ウイルス病の臨床』、医学書院、一九六七年三月)によると、この紫斑性痘瘡とは、「痘瘡中最も悪性のもので中毒型ともいわれ、初期に死亡する。致命率一〇〇%、発熱とともに高熱、激しい腰痛があり、猩紅熱ないし麻疹様の発疹が全身に出現し、出血し、あたかも金色か緋色を呈し、発痘は欠く場合もあるが、また数個を認める事もある。皮膚粘膜の乾燥・腫脹著名で、意識は初期より障害され、二~三病日で死の転帰をとる。」

また出血性膿疱性痘瘡とは、「発痘後水疱または膿疱内に出血し黒変する重症型で、わが国では古くから黒疱瘡・紫疱瘡と呼ばれ恐れられていたもので、第四病日頃突如として全痘内に出血を起こし、全身の各臓にも出血し、鼻出血・吐血・血痰・子宮出血を来し、多くは第二病週に死亡する。」というものである。

さらに午前二時から午後八時ごろ、大便の際に下血があったとのことである。孝明天皇には頑固な痔があったそうだが、これも出血性痘瘡の症状とみていいだろう。

しかし、この後、武家伝奏を通じて公表される典医らの報告書は、これらの重大な兆候がその後どうなったかふれずに、天皇の症状が「至極御静謐」、「何の御申分も不被為在」、「益御機嫌能ク」、「弥御順症」といった具合に、順調に回復していったように記している。しかし、痘瘡の紫斑がどうなったか、下血はどうなったかは何も記していない。

当時において、この公式発表を信じない人々もいた。十二月二十一日の公式発表は、「夜中御相応御安睡被遊、至今暁至極御静謐、今日ヨリ御灌膿御初日、云々」と病状の回復が伝えられるが、公卿山科言成は同日付日記に「是ハ既仮令事也。真実密々伺ハ存外御重痘瘡御七分計云々御腫物多々云々。一昨日抔頗御悩、既ニ御内訌ニモ可相成哉。役人役人頗心配云々。恐懼千万。併先安堵次第云々。」(「言成卿記」)と、公式発表は飾り文句であり、内々聞くところによると、真実は意外と重症であり、痘疱の数が非常に多い。十九日はすこぶる苦しみ、すでに病毒が外部にあらわれず内部に広がっており、役人たちはすこぶる心配している。まことに恐懼千万だが、この発表どおりだと安心だが、と。

さらに、十二月二十三日の忠能宛慶子書簡では、「昨日より御頭御のふ(膿)水被為出、但少々御少よし、夫故御胸中之御工合御不快、今日ハ御大便少々御ユルク、一両日甚御大事と医師申之由」とある。つまり、病状の悪化は続いていたのであり、「一両日甚御大事」と医師たちは正確にその死を予測していた(孝明天皇崩御は二十五日)。

原口氏は、これらから公式発表の病状経過は、天皇の症状の真実が人心に及ぼす影響を考え、政治的配慮から典医たちに報告書に病状悪化を示す事項の記載を議奏・伝奏また関白らが厳禁したのだろう、と推測している。このように、孝明天皇が順調に回復に向かいつつあったというのは疑わしいのである。

次の毒殺説の前提は、孝明天皇の病状急変・死亡の際の症状が、痘瘡死とは考えられないという疑惑心である。

毒殺説のねずまさしは、奈良本辰也がみたという大雲院上乗坊日記の十二月二十五日条に「天皇の顔には紫の斑点があらわれ虫の息で、血をはき、また脱血、云々」という話を聞いて、尋常な死に方ではない、という印象があり、紫斑点・吐血・脱血を毒殺説の根拠に挙げている。しかし、これらの症状こそが、出血性痘瘡の特徴である。

毒殺説は、病状急変と尋常ではない死に方という前提に立ち、二十四、二十五日の症状を示す史料を根拠とする。毒殺論者のねずまさしと石井孝の議論を以下のとおり整理する。

毒殺説の根拠
①大便度数の頻繁、強度のえつき(嘔吐)、不食、②胸先への強い差込み、七転八倒の苦しみ、③「御九穴より御脱血」、④強度の痰喘、⑤紫斑点・吐血・脱血、⑥「御脈微細、四肢御微冷」など。⑤はねずのみにあって、⑥は石井のみにある。

各項⑥以外は、痘瘡の症状に示されている。①は『中山忠能日記』十二月十七日条や同十八日条にも示されており、毒殺論者の二十四日夕方投入説にとっては都合が悪い。②⑤なども、十二月十九日、二十三日ごろにはその兆候はあらわれている。①~⑥のいずれも、急性砒素中毒特有の症状とみることは無理がある。⑥に関しては、人間も、その他動物も、死ぬときはみな「御脈微細、四肢御微冷」となって息を引き取るのである。石井が、⑤を除外したのは、参照した「医学書」には急性砒素中毒の症状としてこれに該当するものがなかったのであろう。

このように、孝明天皇は、二十四日に至って、別の要因で死に至ったのではなく、継続中の痘瘡の症状が一気に悪化して命を奪ったのである、と原口氏は結論づける。毒殺説が否定された以上、その主謀者探しは無用な議論だろう。

しかし、原口氏は、別論文(「孝明天皇と岩倉具視」、名城大学商学会『名城商学』第三九巻別冊、一九九〇年二月、『原口清著作集2』、所収)で、少なくとも慶應三年三月の時点までは、岩倉具視はもちろん宮廷内に幕府廃止論もしくは討幕の考えはなく、もっとも強硬だった薩摩も武力討幕に踏み切ってないことを明らかにしている。孝明天皇を暗殺しなければならない政治状況は、特になかったのである。

先の大学の先生の話は、この論文が世に出て十年ほどたった頃である。そして、二十年ほど経った今でも、このあたりは「龍馬暗殺」の「黒幕」同様に囁かれることがある。一度出たインパクトある話は、なかなか打ち消すのは難しいようだ。大河ドラマで、なかなか討幕に踏み切ろうとしない岩倉や薩摩の動きを描いてもらうしかないんでしょうかね。


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コメント

原口清の論考に対する石井孝による反論のことを以下に抄録してみたい。

「孝明天皇病死説批判」 

この論は大きく3つのパートに分かれ、それに追記があるので、1-4に分けて抄録する。

1 原口清氏による病死説の難点

2 急性砒素中毒の症状

3 孝明天皇急死の背景

4 追記

1 原口清氏による病死説の難点

石井孝は、まず、孝明天皇について、その政治的姿勢を極簡単に略述し、これまでの論の動きを整理して、次のように記している。

「孝明天皇は、対外的には鎖国復帰、国内的には佐幕という、徹底的な保守主義を堅持した。しかもその保守的信念の強固なことにおいて、井伊直弼にも比すべきである。その天皇が、王政復古にさきだつ約一年の慶応2年12月25日(1867・1・30)、突如、疑惑に包まれた最後をとげた。天皇の死因について、戦前にこれを論ずることはタブーであったが、戦後の1954年、ねずまさし氏は、信憑すべき史料にもとづき天皇の死因が「毒殺」であることを論証した。それ以来、学界では毒殺説が有力となってきたが、、最近原口氏は執拗に病死説を蒸し返した。」 (177頁)

このように、石井孝は、この論の冒頭に、孝明天皇は毒殺説が、戦後は有力になってきたことを、記している。

これが、1989年ー1990年にかけ、原田清の2本の論文で、「もはや孝明天皇の死因に関しては終止符がうたれてもよい」 という強い断言に接し、石井孝は、反論を始めたようだ。

難点

ねずまさし論文を曲解しているという。

「ねずまさしは、『歴史学研究』 173号で、「天皇の痘瘡が順調な経過をたどり、ほとんど回復に近づいていたことを、『孝明天皇紀』と『中山忠能日記』を対照させながら、忠実・綿密に検証している。その前提にたって、ねず氏は毒殺論を展開する」 

これに対して、原口氏は、「はじめに悪性痘瘡ありき」という態度である。」という。

原口氏は、専門医学者の著書や論文から「もっとも悪性な紫斑性痘瘡または出血性膿疱性痘瘡を抽出して、天皇の症状をきわめて強引に当てはめようとする。」

といっている。

実際は、日記の記録では、12月15日に、痘瘡の先駆期を脱し、発疹・潅膿という順調な経過をたどり、これに応じて食欲も増進していることが、記されている。という。 (178頁ー180頁)

『孝明天皇紀』と『中山忠能日記』の分析によって、「ねずまさし氏が「全快へ向かう症状」としたのは正しい。」(179頁)

「原口氏は、、順調な経過を示す症状を完全に無視し、たとえば食欲の増加を「健康状況を知る一つの材料ではあるが、痘瘡の状況の決定的な証拠にはなり得ない」などと、実に苦しい解釈をしている。つまり、氏には孝明天皇の悪性痘瘡死という予断が」あって、史料を極度に歪曲し、予断に合致させるという空しい努力を重ねていることになるわけである。」  (179ー180頁)

2 急性砒素中毒の症状

急性砒素中毒には麻痺型と胃腸型二種がある。」

胃腸型急性砒素中毒の特徴

「コレラに類似する激しい嘔吐・下痢」

これに対して、痘瘡は、前駆期には、便秘という症状がある。痘瘡と急性砒素中毒の違い。

「天皇の病状急変を示す慶子来状には「御大便度々御通し、御様態不御宜、御えつき強」

とあり、病状急変が激しい下痢・嘔吐で始まったことを示している。」 (180頁ー190頁)

法医学書によれば、砒素は粘膜を腐食する作用をするので、胃腸その他の粘膜より出血する。また

「御脈微細、四肢御微冷」に至っては、、激しい嘔吐・下痢が脱水症状を起こし、急速に血圧・体温の下降、脈拍の微弱不整をもたらすことをさしている。だからこれも、胃腸型砒素中毒を示す症状としてあげるのは、少しもさし支えない。」 (181頁)

「天皇の痘瘡がほとんど回復に近づいた段階で突如発生した症状は、悪性痘瘡に特有のものではなく、まさに胃腸型急性砒素中毒にこそ特有のものである。」 (181頁ー182頁)

3 孝明天皇急死の背景

「天皇の死を急性砒素中毒(毒殺)とする著者にとって、毒殺の黒幕、下手人を論ずることは避けて通れない。」  (183頁)

「天皇毒殺が慶応2年8月30日(1866・10・8)の列参と同一線上にあり、しかも列参の企画者が、岩倉であるとすれば、、毒殺の黒幕にも彼が存在したとみられても仕方がない。」 (183頁)

実際の下手人については、すでに、戦前に、1940年、大阪で開催された日本医史学会関西支部例会で、医史学者佐伯理一郎氏が、「岩倉具視が、女官に出ている姪(?)をして、天皇に一服、毒を盛らした」と断言したという。」 この?のついた人物は、誰なのか、これについては、石井孝は『近代史を視る眼』に具体的書いていますが、また著者も断定は避けている。このことについては、現在それを確証する史料もないので将来の重要テーマとして記憶しておきたい。興味ある方は、ぜひ、上記『近代史を視る眼』 1996年、吉川弘文館を入手して、著者の果たせなかった確証を得るべく、歴史の奥深く探索してもらいたい。

4 追記

「孝明天皇病死説批判」 の生まれた論争の経緯を振り返り、原口清説との論争の論点の違いを指摘している。

原口氏は痘瘡専門医の研究に依拠して、孝明天皇の症状を悪性痘瘡に極限していること。

それに対して、著者・石井孝は、孝明天皇の症状の変化を『孝明天皇紀』、『諸家記録』から読み取り、

孝徳天皇 痘瘡発症→ 危機→ 回復期→ 食欲回復 → → → → 急激な変化 →→→ 死

                                   ↑(毒物 (砒素か)↑

痘瘡(これは、どこで感染したかは、まだ分からない) + (胃腸型)急性砒素中毒という、孝明天皇の症状の時間的変化と歴史史料の解釈の理解妥当性をどうするのか。

判断するのは、権力や、利益集団の都合ではなく、我々自身の中にある「真実を求める透視眼力のこと」だろう。

あらためて、石井 孝の本のタイトルに思わず納得した。「視る眼」と書いてあった。

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