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2011年7月22日 (金)

近世の天皇論

前田勉『兵学と朱子学・蘭学・国学』(平凡社選書、2006年)第4章より。

研究史

・「公武融和の金冠的権威部分」としての天皇の役割を論ずる深谷克己『近世の国家・社会と天皇』(校倉書房、1991年)。

・公家の宗教諸集団の関連に注目する高埜利彦『近世日本の国家権力と宗教』(東京大学出版会、1989年)。

・朝幕関係史の久保貴子『近世の朝廷運営』(岩田書院、1998年)、藤田覚『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年)。

・思想史研究での安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波書店、1992年)。

→「近代天皇制」に関わる基本観念①万世一系の皇統=天皇現人神と、そこに集約される階統秩序の絶対性・不変性②祭政一致という神政的理念③天皇と日本国による世界支配の使命④文明開化を先頭にたって推進するカリスマ的政治指導者としての天皇

中核となる①は「いわゆる「天壌無窮の神勅」を根拠に、天照大神以来の一系性をそれだけで絶対的価値として強調したのは、十八世紀末の本居宣長以来のことである」と本居宣長の画期性を指摘。

「近代天皇制」が上から「偽造された構築物」であることは周知のとおりであるが、前近代の天皇が権力側からの構築物とみることは疑問。安丸氏は徂徠学―後期水戸学の流れ(尾藤正英氏)を中心軸に据えて、これを権力側の秩序の論理とし、民間習俗・民俗信仰を反秩序・混沌として配置する図式を描いているが、神道・国学の運動が抜け落ちており、それらは民間習俗や民俗信仰と密接に結びついた自生的な「下から」の運動であった。また上からの構築物であったとしても、何もないところから「我国ノ機軸」(伊藤博文)として作られたわけではなく、前代の「日本」「天皇」という観念が遺産として存在したこと抜きには考えられない(185~6頁)。

近世の「天皇」「日本」言説の浮上過程

第一期(十七世紀)

近世国家は一向宗・日蓮宗不受不施派やキリシタンを徹底的に弾圧して、宗教的権威を否定した世俗的な「兵営国家」であった。中世日本の宗教的共同体の可能性を潰した近世国家には、神仏を背景としない別の権威として、伝統的な国家の体制と、その形式上の君主である天皇の権威が必要不可欠であった(尾藤正英「近世史序説」、『岩波講座日本歴史九』、1975年)。

この国家において、儒教や仏教は支配のためのイデオロギー装置であった(「後ノ世ヲ能ク願ヒ、神仏ヲ崇奉ル」ことは「下民ニ道ヲ教ルノ謀」〔『太平記評判秘伝理尽鈔』巻十一、若尾政希『「太平記読み」の時代』、平凡社選書、1999年〕)。

「以法破理、以理不破法」(1615年の「武家諸法度」)→軍隊の統制原理と方法=「軍法」を平時の政治に拡大した「兵営国家」。

朱子学の役割→近世前期には仏教と比べて、イデオロギー装置の一端を担うには微弱な存在であったが、朱子学の廃仏論が仏教に対して理論的に対抗するための武器を提供した。陰陽二気の聚散説(世界は気というガス状の物質によって成り立っており、それが集まって凝固すれば、固体となり、また散って雲散霧消すれば、もとのガス状の状態に戻り、死後の世界など存在しないという考え)が、仏教の三世因果説・輪廻転生説を否定した(190頁)。

世俗国家の論理:伴天連追放令(1613年)には、日本は「神国」「仏国」とされ、キリシタンは殉教を喜び死をも恐れない「邪法」とする。なぜならば、君主の現世での賞罰(儒教的)や「後世」の「冥道閻老の呵責」という刑罰と死の恐怖によって(仏教的)、「勧善懲悪の道」は保証されるのであって、キリシタンのように死を恐れなくなっては、秩序は保てない。そのため、キリシタンは「神敵仏敵」であり「国家の患」である(194頁)。

「神国」思想の萌芽:林羅山「夫れ本朝は神国なり。神武帝の天に継ぎて極を建てし已来、相続ぎ相承け、皇緒絶へず。王道惟れ弘まる。是れ我が天神の授くる所の道なり」(『本朝神社考』)と、儒学の「道」と上代の「神道」の理想を結びつけて、仏教を「西天の法」として批判。仏教側は仏教が「西天の夷法」なら儒教も「唐法の儒学無用」ではないかと批判しつつ、「日本は神国なれば神道を慎守すべし」(『百八町記』巻四、1664年)と「神国」思想と仏教を結びつけた(195~6頁)。

第二期(元禄以後)

元禄以降の商品経済の進展の中で、武士であること、町人であること、百姓であることよりも、金持ちか否かが、人間を評価する判断基準とする考えが生じた(井原西鶴「俗姓筋目にもかまはず、只金銀が町人の氏系図になるぞかし」〔『日本永代蔵』巻六〕など)。

荻生徂徠:「礼楽制度」がないため、身分の体面を守ろうとして「格式」通り着飾ろうとする奢侈化した社会では武士が商人に頭を下げて借金を頼まなければならない逆転現象が生じる(身分的アイデンティティの危機)。→カネという中性的な存在によって「分」は破壊されるようになり、権力側の対応は身分制度の再編強化しかとりようがなかった(198~200頁)。

増穂残口:神道家であった残口は、宗教家ですら「商人」のように教説を「商品」として提供する市場社会、つまりカネさえあれば「成揚者」になれる社会を批判し、「日本は神代より系図を第一にして、四民の祖神を立て、先祖の筋をちがへず。その筋といふが血脈なり」(『神国加魔祓』巻地、1718年)と、身分社会が商品経済の進展の中で不安定になり、流動化する中で、「成揚者」になれない真面目に家業に精励する律義者に幻想的な誇りを与える役割を果たした(200~6頁)。

垂加神道:「天皇」という商品によって宗教的市場に参入。「日本国」に生を受けた者は、イザナギ・イザナミの二尊と「皇天二祖」の「臣民」であって、「血脈」を相続しており、共通の祖先神話を有する日本人である限り、「皇天二祖」の勅命を守り、天皇を守護する志をもてば、死後に「神」となり「守護ノ神ノ末座」に加わることができる(211頁)。→一種の選民論を含む「新たな救済論」。しかし、「秘伝」という形で特権化したため、誰もが「神」になれるとしたわけではなかった(216~7頁)。

第三期(宣長以降の国学)

本居宣長:18世紀後半の天明期は、商品経済がますます進展し、農村では農民層の分解が進み、町に貧民が流れ込み、貧富の差は進行した。そうした社会状況の中で本居宣長があらわれる。「今の世は武士も百姓も出家も、みな鄙劣なる商人心になりて、世上の風儀も軽薄になる事ぞかし」(『秘本玉くしげ』巻下、1787年)と、タテの階層秩序を掘り崩すようなカネの力を嫌悪していた宣長は、各人が家業を勤めること、それがそのまま「天皇の大御心を心」とする神聖な営みであって、そうした生き方こそ、「神代」以来の祖先たちの生活であったことを教えるため、秘伝ではなく、万人に開かれた(読める)文献として『古事記伝』を書いた(220~4頁)。

平田派国学:宣長においては、天皇は万民に直結したが、万民そのものは能動的・活動的な主体ではなく、日々の生活の中に「天皇の大御心を心」とする意味を賦与しただけであった。平田篤胤とその後継者たちは、「大和心」を英雄豪傑的な「大和魂」に転換させ、それを支える内的根拠の一つに「神ノ御末」という名誉感情を据えた(224~5頁)。これにより、天皇と万民との一体化は、強固なタテの階層秩序の中で疎外された者に、価値のない醜い現在の自分を乗り越える理念をあたえた(228~9頁)。

明治国家の一君万民思想

近世日本の神道・国学の「下から」の運動は、宗教的権威を徹底的に圧服した「武威」の世俗的な権力国家=兵営国家において、徐々に浮上してきた「天皇」「日本」という言説が、強固なタテの階層秩序の中で疎外された人々のルサンチマンに基づく、幻想上の地位の逆転を図るものであった。「高位・有徳」があるにもかかわらず、カネを持たないために「人ニ蹴落サルヽ」(荻生徂徠『政談』)者のルサンチマンこそが、「系図」という出自の幻想を生み出し、固定的な階層秩序の中で、カネのために苦しめられている者にとって、どこに救いを見いだすのかといえば、そのひとつの隘路が、本来自分はこんな惨めな境遇にいるはずのない者だという幻想であろう。カネに対する憎しみ、それが「神国」日本へのアイデンティティ=帰属意識を強めさせた(232頁)。

こうした幻想を「上から」掬い上げて創られたのが、天皇のもとでの万民の「平等」を説く一君万民論であった(233頁)。つまり、高位高官であっても、金持ちでも、貧乏でも、無学でも同じ天皇の臣下である。通常、ナショナリズムは、「すべての人々が、富、地位、家柄などに関係なしに、はっきりと民族的な一体性を示す共通の性質を分けもっており、なにびとも、自分がそのような性質を他人よりも多くもっていると主張することはできないし、また、それを証明することもできない」(シェルドン・S・ウォーリン『西欧政治思想史Ⅲ マキアヴェリとホッブズ』、福村出版、1977年、93頁)のであるが、日本の特殊性は「俺こそ臣下の中の臣下である」とか、「我こそが股肱の臣」だという論理、つまり天皇への遠近の主張に対抗できないという不具合が生じてしまったようだ。

前田氏の議論は、かなり2000年代という「格差社会」、「若者の右傾化」とかいう時代の刻印が記されている。これ以前の渡辺浩氏の見解では、豊かな社会の実現が「中国」を「支那」という中性的な呼称に置き換えるとともに「皇国」意識の高まりを生じさせたといものであった(『東アジアの王権と思想』、1997年)。これが、豊かな社会の実現が成功者と没落者を生み、その敗者の側を癒す幻想としての観念として「天皇」「日本」意識の高まりを生んだというのである。これはコインの表と裏で、成功体験が対外意識としての大国思想を生み、また国内においての敗者がそれに慰安を求めるという図式であろう。

2000年代にこれが当てはまるかどうかは分からない。「右傾化」はどちらかというと90年代後半の経済がどん底のあたりで流行したものであり、「格差社会」がいわれた小泉政権以後は、経済政策や対米関係の認識での「右派」内の足並みが崩れ、意外と沈静化していった時期にあたっていたのだから。

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