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2011年7月 9日 (土)

明治尊攘志士

市井三郎『思想からみた明治維新』を参考にしつつ、増田宋太郎の小伝を書いてみる。

増田は、九州豊前中津藩の下級武士出身、中津藩で尊攘派の指導者の一人であった。中津藩では、慶応二年、長州再征伐に藩兵を差し出すように、との幕命を受けて議論が紛糾していたが、18歳の増田は、十五人の同志を引き連れて藩重役に「征長軍加盟の方向に藩の方策を決めらるるならば、われわれはあくまで藩命に抗して幕府の使者と斬ってすて、長州勢に投ずる覚悟がある」と詰め寄った。

この圧力により出兵はとどめられ、まもなく王政復古が成ると、中津藩が明確な佐幕派として睨まれることを避け得たこの時の功績で、増田らの尊攘党は藩内ではばをきかせるようになった。思想的に彼らを育てた私塾「道生館」の国学者で増田の従兄弟の渡辺重石丸は、京都皇学所に招聘されたことにみられるように、明治の新政府は尊攘派の理念を実現するものとばかり、考えていたが、一向にその気配がなく、増田らは苦汁をのむ想いに満ちていた。

同じような気分にあった他藩の攘夷党は、明治二年の正月、彼らが元兇の一人とみなす新政府参与の横井小楠を殺害した。二十歳になっていた増田は血を沸かせ、自藩出身の福澤諭吉こそ、自分の倒すべき相手だ、と狙いを定めた。福澤は、彼にとって十五歳年長の又従兄弟であった。

そのころ、京都皇学所で渡辺について学んでいた同志の一人が、愛宕通旭らが秋田藩大参事たちと共謀して東京遷都に反対して天皇を京都へ奪い返そうとする計画を伝えてきた。増田は、同志を率いて立つことを決意し、藩庁へは京都遊学といつわって出藩の許可をえた。しかし、出発の直前に、幼若の藩主に万一のことがあっては、と年長で盲目の同志が命をかけて彼を諌め、増田らはこれに屈した(愛宕らの陰謀は未然に発覚して明治四年に死刑)。こうして増田は、福澤暗殺の決意だけを秘めて、京都に遊学することになった(明治三年二月)。

ここで彼の生涯に一つの屈折が起こる。福澤を暗殺しようとして数ヶ月つけ狙いながら、その機会はなかなか訪れない。そこで殺す前に論難しようと福澤邸へ乗り込んだところが、逆に説き伏せられてしまった。勝海舟のホラ話ともされる坂本龍馬との出会いのシーンと同じことになったようである。増田も、龍馬同様に、暗殺対象の弟子となり、明治三年秋から慶應義塾で学びはじめた。しかし、増田には、洋風に心酔するまわりの学生や福澤の私生活の豊かさ、また敬慕していた楠公を権助呼ばわりする福澤に我慢ならず、国元へ帰ってしまう。

故郷に帰った増田は、藩知事に建白書を提出し、明治四年末に「中津皇学校」を設立する。旧「道生館」の同志を教師にあてた和漢の敬神愛国教育を始めたのだが、その方針は旧身分の差を無視して能力重視で教師を採用するというものであった。

中央では神祇官が神祇省に格下げになり、明治五年にはその省さえ廃止されるという時代の流れの中で、増田は皇学校で教えるかたわら、五年には中津龍王神社の大宮司をも兼ねて中央政府に抗した。しかし、同年八月の「学制」によって小倉県は中津にある和漢、洋学、皇学派の三つの私塾を統合して、第三十六番中学校とすることを命じ、気風の合わない学生たちは反目しあい教師を含めた乱闘事件が起こった。

増田は、藩の垣根を取り払った日本全体が、一つの国民として結束すべきと主張していたため、国内での無意味な争いは避けるべきで、真に争うべき相手を見定めねばならないと考えた。その対象となったのが、「頑然として封建の余態を存し、他県に隔絶して一致」しない薩摩であった。明治五年の末から翌年にかけて、そのことを図るために関西、東京を旅し、彼の同志は佐賀、長崎、福岡で運動していたが、東京で西郷の高弟(桐野利秋か?)に、島津久光系の封建分子は他の手段で徐々に抑えるのだから、皇国に役立ちうる薩摩がたくわえた実力まで破砕する危険を犯すべきではない、と説得され、同志とともに自首して入獄する。六年十月出獄の時、はからずも中央政府では、西郷はじめ五参議が下野して、事態は急展開を遂げていた。

真に争うべき相手を見定めようとする増田の焦燥はつづき、七年一月の佐賀の乱の決起檄文を読み、佐賀におもむいたが、激文中の封建の余態を回復せよ、という文言に疑問をいだき、佐賀から離れ、鹿児島の桐野に会いに行く。そこで、民権伸長してこそ国権まったし、と開眼し、帰郷して七年六月に「共憂社」という民権結社をつくる。土佐に立志社をつくってまのない板垣退助は、同社代表として林有造を中津に派遣し、増田の結社結成を祝っている。

民権運動に入った増田は、自分の思想的貧困を自覚し、明治九年に再び慶應義塾に入門する。そこで猛烈に勉強した彼は、秋に帰郷し、第三十六番中学校で英学を教える一方で、「共憂社」の同志たちと週刊「田舎新聞」を発行する(明治九年十一月)。このころの民権自由の啓蒙活動は、しばしば官憲の忌諱にふれたという。またこの新聞の刊行を機縁として、中津近在で農民一揆を主導していた庶民たち(日田県大一揆の指導者、後藤純平など)が、短時日のうちに増田の同志となっていった。

新聞創刊後わずか数カ月で、西南戦争が始まった。十年二月早々、増田は鹿児島の桐野家を訪ね、帰郷後、三月三一日、参謀格の後藤ら庶民二十名を含む百余名の同志を指揮して、大分県中津支庁・警察署を襲撃して武器を増やした後、熊本近郊で西郷軍に合流し、中津隊隊長として有名を馳せた後、西郷らとともに倒れた(享年二十八)。

増田の決起檄文には、人民は天皇の認めた「天然稟得し自由の権利」を行使し、「国家の讐敵、人民の残賊にして亦天子の逆臣」たる政府に抗して、「上は皇恩の万一に報答し、下は人民天賦の権利を回復し・・・・・・独立帝国の面目を改新すべし」とあったという。

増田のつくった「共憂社」の同志の一部(川村矯一郎・石松勝一ら)は、彼の指示によって土佐派と行動をともにし、林有造・大江卓・陸奥宗光らと大阪に挙兵を企て、検挙された後獄中で死亡した。

増田の生涯は、激しやすいものの、その場その場の説得により方針を変えるオッチョコチョイな志士の典型のようであるが、幕末の尊王攘夷派の一つの肖像でもある。国家的危機にあたり国家の統一を成し遂げなければならず(反封建)、またその手段としての洋学の必要も理解し(開国)、また身分にとらわれない政治主体としての意識をもちつつ(公議輿論=民権)、その表現は過激で武闘的な抵抗である。しかし、尊王を掲げつつ民衆の自由をを求める抵抗の精神は、尊王イデオロギーによって成立した明治国家には必要でもあった。福澤諭吉は、身内である増田の斬首の新聞記事を読んで、西郷の抵抗精神の必要性を訴えた『丁丑公論』を著したという(平山洋『福澤諭吉』)。福澤の維新観は、身分制に絡み取られた武士たちの自由の精神の発露であった、というものである。福澤は、その典型を増田にみたのかもしれない。

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