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2011年7月23日 (土)

『兵学と朱子学・蘭学・国学』メモ

前田勉『兵学と朱子学・蘭学・国学』(平凡社選書、2006年)のメモ。

「武威」の国家原理

「法是礼節之本也。以法破理、以理不破法、背法之類、其科不軽矣」(武家諸法度)

→近世の国家では、「理」(=良心)に基づいて、自分なりに善悪是非を判断すること自体を禁止(14~5頁)

「武威」の国家と朱子学(17~20頁)

朱子学が近世日本の支配思想と一時期考えられたのは、1843年に完成した『徳川実紀』に徳川家康が林羅山を幕府に登用したことをもって、朱子学が「文」の中心におかれたことを示唆しているが、この逸話は、『徳川実紀』編纂当時、羅山の子孫である林家の創った神話を鵜呑みにしていたからである。朱子学が、いわゆる「官学」として認められるようになったのは寛政異学の禁以降のことである。

そもそも天地、天下国家、人間の万事万物を貫く、普遍的な「理」への確信、さらに「理」そのものである自己の本性への絶対的な自信があった朱子学が、「理」に基づく善悪是非を判断すること自体が禁止されていた「武威」の国家と相いれるはずがなかった(佐藤直方「我心ヨリ外ニ頼ミ力ニスルコトハナイ」、『韞蔵録拾遺』巻二八)。

しかし、朱子学は君臣関係・父子関係を人間の本性に根拠づけ、人間が生きていく限り、逃れることでのできない絶対的な関係とする世俗秩序内の倫理であったため、仏教などの宗教のような衝突はなかった。しかし、あるべき君臣関係を説いた朱子学は、現実の君臣関係との間に常に緊張をはらんでおり、もし現実の君主が「天理」=「義」に反している行いをしていたとすれば、臣下はそれを批判して諫言することが求められ、それが受入れられなければ、君臣関係を解消するか、君主を打ち倒す「革命」さえも認める一種の理想主義を内包していた。

兵営国家のイデオロギーとしての兵学

「兵法は国家護持の作法、天下の大道なり」(北条氏長『士鑑用法』)とあるように、軍隊の統制法によって、平時の国家を統治することができると兵学者は主張していた。近世日本の兵学は、組織戦に基づいた議論をしており、機構としての近世軍隊の基本的構成単位である「備」は、騎馬部隊の武士を戦闘力の中心としながらも、槍部隊の徒士、弓・鉄砲部隊の足軽だけでなく、非戦闘員である百姓や職人をも補助的な要員として編成されていた。それは厳格な「軍法」によって維持された命令―服従の貫徹する、タテの組織であった。この「軍法」支配という点が、「法」の支配で貫徹される武家諸法度に適合的であり、また、百姓や職人も含んだ「備」という考えが、平時の政治にまで拡張できた(21~2頁)。

徳川家康の「国家有機体説」

『東照宮御遺訓』によれば、「国家」は「鳥」に譬えられる有機体であり、「大将」から「百姓職人町人」までの「一切の国民」はその有機体の構成要素であって、それぞれの役を担っている。その一つの構成要素が欠けても、「千万の敵に向い千里の道を行」く「国家」は機能しなくなってしまうため、武士だけではないすべての人々がそれぞれの職務を賦課され、有用を強制される(22~3頁)。

「役立たず」

近世日本では「遊民」は、「国の用」に無用者で、侮蔑され差別された。当時は、「役立たず」という語は、障害者のことを指す言葉として使われることがあった。これは人夫役賦課が可能かどうかが基準であった。つまり、近世国家はすべての人々が「有用」であることを強制する国家であった(23~4頁)。

蘭学者の特徴

蘭学者たちは、自分の仕事を、単なる個人の「功業」ではなく、「天下後世ノ裨益」(大槻玄沢『蘭学階梯』巻上)という「日本」全体の利益、「国益」意識があった。さらに、生まれながらの身分によって所属が決定されているのではなく、蘭学に従事する仕事・業績によって集団が結ばれた。蘭学者たちが帰属しようとしたのは、これまでの身分や藩や、「イエ」ではなく、仲間意識・帰属意識が強い「社中」であり、その中にいまだ整えていない「日本」という「藩」や身分を超えた共同体を遠望していた(32~3頁)。

儒教の華夷観念

日本の華夷観念は武威に基づくものであって、中国本来の礼教文化に基づくそれとは異なっていた。前者は中華と夷狄の区別を、戦国時代の敵と味方の軍事的範疇で捉えるものであって、後者のように夷狄も礼教文化を身につければ中華になるという流動性はなかった。王道思想に基づく中国の華夷観念では、自己の優越的な礼教文化に他者は自発的に靡き同化するとされるの対し、武威の華夷観念では、他者との関係は敵―味方の関係しかありえず、敵対者を物理的な強制力によって排除・征服するか、それができないときには卑屈に屈従する。中国の華夷観念は理念的には開かれたものであったが、日本のそれはできるだけ閉じようとする指向を持っていたといえる。しかし、両者の共通点もある。それは力の優劣での対外観も文明の有無のそれもともに単一の尺度で国際関係を上下に階層づけている。つまり、一元的な価値基準によって国際関係を捉え、異なる多様な価値観の共存を認めないことにおいて両者は等しく、ここに「武国」日本の華夷観念がこれまで中国・朝鮮のそれと同一視されてきた理由もあったと思われる(115~6頁)。

泰伯皇祖説

江戸時代の儒者の華夷観念では、額面通り受け取って、日本を「東夷」として中華を崇拝する傾向が強かった。そのため、日本を強引に普遍的な「中華」と結びつけようとする論説が生まれた。その極端な例が泰伯皇祖説である。それは、日本の天皇の祖先は、『論語』の中で、孔子によって「至徳」と称賛された呉の泰伯であるという説で、室町時代の五山の僧侶中厳円月がはやく唱えたといわれているが、江戸時代、この泰伯皇祖説は儒学者の間で、かなり支持を集めていた(山崎闇斎らは否定)。近世日本の朱子学の祖林羅山もその一人である。この羅山をはじめとする儒者は、日本も普遍的な「中華」の内にあることをこの泰伯皇祖説によって証明しようとしていたのである。ここでは、天皇の万世一系性を否定するという過激な議論もなされていた(佐藤直方・三輪執斎など)(119~20頁)。

幕末日本の二つの選択肢

一つは、ペリー来航時での速やかな軍事的な対応にみられるような富国強兵の路線である。軍事力=「武威」による欧米列強への屈伏を受け入れ、一刻も早く軍事力を増強して「万国対峙」の体制を構築しようとする考えで、明治国家はこの路線を選んだ。これは神功皇后の「三韓征伐」のような「武国」日本の神話を鼓吹して、朝鮮・中国への侵略に突き進むことでもあった。もう一つは、朱子学的理念から受け入れた「万国公法」の普遍的理念のもとでの国家間の対等性・平等性の認識を深化させる路線である。それは、アジア連帯への可能性であった。この二つの選択肢をもちえたことで日本は、朱子学を国教とする朝鮮や中国とは異なる道を進みえた。近代ヨーロッパの国際関係が主権平等を建前としながらも、現実には軍事力を主とする物理的な力によって主権国家間の関係が定まるものとすれば、前者の側面を朱子学的な理念の延長として、後者の力関係として国家間を考える現実的な側面を「武国」日本にふさわしい考えとしてそれぞれ使い分けることができた(129~30頁)。

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