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2017年8月15日 (火)

加藤弘之とフルベッキ

 清水唯一朗『近代日本の官僚』(中公新書、2013年)を読んでいたら、次のような記述があった。

この前後、フルベッキに学んだ門下生には、大隈のほか、副島種臣、江藤新平、大木喬任(以上、佐賀藩)、大久保利通(鹿児島藩)、伊藤博文(山口藩)、加藤弘之(幕臣)ら、のちの維新官僚として新政府を担う人材が集まっていた(37頁)。

 ここに登場する「フルベッキ」とは、オランダ系アメリカ人宣教師のグイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)で、幕末の時期に長崎に布教のために1859年11月に来日し、長崎英語伝習所の後身たる済美館と、1865年に佐賀藩が長崎に設けた致遠館に招かれて、英語や政治経済を教えた人物である。
 さて、ここで疑問に思ったのは、フルベッキの門下生として「加藤弘之」の名が上がっていることである加藤は、明治期の啓蒙思想家、教育行政官僚として活躍した人物で、吉野作造に言わせると「日本で最初に立憲政治を紹介した人物」、またドイツ語を最初期に学習した人物として知られる。
 その加藤が、フルベッキの門下生とは初耳だったので、驚いた。で、この出典は何かと思ったが明記されていないのでわからない。で、「加藤弘之 フルベッキ」とGoogleで検索してみると、Wikipediaの加藤弘之の項目が最初にヒットし見てみると、次のよう書かれてあった(2017年8月14日閲覧)。

外様大名出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩藩校弘道館で学んだ後、済美館致遠館でフルベッキの門弟として学ぶ[3]。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。

このようにフルベッキの門弟として明記されている。
 なかなか驚くのは、出石藩の藩校を出た後に、先にふれた長崎の済美館や致遠館に入って、フルベッキの下で学び、幕臣となった、というのである。多くの加藤弘之に関する評伝の経歴では、藩校の後は一時期、佐久間象山の下で学び、その後、再び江戸に出て、大木仲益の日習堂に入門し、その後、蕃書調所の教授手伝に採用された、というのが一般的である。生前の自伝の年譜でもそうなっている。
 もっとも、Wikipediaの「来歴」欄は、以上のような一般的な経歴を記しており、略歴のところだけが突出して異常なのである。どうもこの編集は、2017年4月22日に行われたらしいのだが、この記述に根拠はあるのだろうか。
 根拠となっているのは、出典とされる西田真之「フルベッキと明治15年森林法草案」(『明治学院大学法学研究』101号、2016年10月)という論文で次のようにある。

長崎奉行所の済美館や佐賀藩の設置した致遠館で、江藤新平・大木喬任・加藤弘之・細川潤次郎等、後の明治政府の法制度改革の中枢を担う人々の教育活動にあたった(232頁)。

なるほど、これが根拠となるのだが、さて西田氏の論文の根拠となる出典は何か、というとこれもはっきりしない。フルベッキに関するものとして、これまた当時のお雇い外国人の一人グリフィスの"Verbeck of Japan"が紹介されていたので、Kindleで購入して、ざっと見てみたが、済美館や致遠館に関する箇所には加藤は出てこないし、7割ぐらい読んだあたりで、「翻訳の仕事を箕作、加藤、細川に手伝ってもらった」、というところにかろうじて見つけたぐらいである(pp.282-3)。
 他にあったのは、梅渓昇『お雇い外国人⑪』(鹿児島研究所出版会、1971年)と言うものがあるが、同著者の『お雇い外国人 明治日本の脇役たち』(講談社学術文庫、2007年)は手元にある。本書の原著は1965年で、記述としては似たものであると思われる。これを見るとあったのである。

この長崎における門下生に、大隈重信、副島種臣、江藤新平、大木喬任、伊藤博文、大久保利通、加藤弘之、辻新次、杉亨二、細川潤次郎、横井小楠ら、後年、明治新政府の高官、指導的人物が輩出した(73~74頁)

最初の清水著と西田論文の文章に似ている。では、梅渓著の参照先は何かというと、先のグリフィスの著作と尾形裕康「近代日本建設の父フルベッキ博士」(早稲田大学『社会科学討究』第7巻第1号、1961年)が挙げられていた。グリフィスの著作には、該当する記述はない。
 では、尾形の論文ではどのように書かれているのか。

こうしてかれは済美、致遠両校で、英語・政治・経済・軍事・理学などを教授した。この長崎における門下生から大隈重信・副島種臣・大木喬任・伊藤博文・加藤弘之・辻新次・杉亨二・何礼之・岩倉具定・岩倉具経・江藤新平・中野健明・細川潤次郎・大久保利通・横井小楠ら、後年政府の高官として天下を左右した人材が続出した(4頁)。

 これまで挙げてきた文献は、この中から著者が重要と思った人物を抜き出したといえる。さらに、この尾形は、何を参照して、これを書いたかというと、どうも戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」(『太陽』第1巻第7号、1895年)のようだ。

氏の交際せし人、或は其門下の学生には岩倉侯、大隈、大木、伊藤、井上の諸伯、加藤弘之、辻新次、杉亨二、何礼之、中野健明、細川潤次郎の諸君あり、故大久保侯あり、江藤新平氏あり、横井小楠あり、英和辞典を著はしし柴田氏あれば美談逸事多しといえども氏の狂謙なる敢て当年の事を語らず、この伝記さへも氏自らは語るを好まず、強いて写真は借り得たりといえども、其小伝さえ知るに由なく幸に教友ワイコフ氏が氏の小伝を偏せしゆゑ、其稿を借読し加ふるに余が記憶にある所を以て書記せしなり。詳細なる伝記は他年の後に世にあらはるゝ事もあるべし(1365~6頁)。

これを一読してみれば分かるように、戸川はフルベッキと「交際せし人」と「門下の学生」を区別せずに羅列している。どうも尾形は、これを全て「門下の学生」にしてしまったようである。
 この中で確実に「門下の学生」といえるのは、「岩倉侯」=岩倉具定・岩倉具経兄弟と大隈重信、何礼之ぐらいではないだろうか。ここには述べられていないが、副島種臣などが著名な門下といえるかもしれない。他は、例えば横井小楠などは甥の横井佐平太と太平がフルベッキの授業を受けた関係で「交際」があったらしいというものだし、細川潤次郎もフルベッキが東京に来てからの交流であったし、大久保利通・伊藤博文・井上馨レベルになってくると、その多忙さから幕末の時点で「門下」というより「交流」であろう。つまり、大部分の者は「交際せし人」と言うのが正しそうである。

 以上を整理すると、

  • 戸川残花がフルベッキと「交際せし人」と「門下の学生」を区別せずに名前を羅列した。
  • それを見た尾形裕康が、故意か勘違いか不明だが、全てを「門下の学生」と論文に書いた。
  • フルベッキについて調べる研究者は、まず尾形論文または尾形論文を参照した梅渓昇の著作を読むために、それを確認せずに信じてしまった。
  • Wikipedia編集者のような非研究者は、大学教授が書いているものだからと信じてしまった。

だいたい、こういう流れであろう。
 さて、最初に私が違和感を抱いた加藤弘之だが、加藤はこの時期は江戸の蕃書調所、その後身の開成所で助手や教授のような役職にいたのであって、長崎には行っていない。フルベッキは、英語、オランダ語、ドイツ語、フランス語を使えたとは言うものの、日本で教えていたのは、主に英語である。加藤は、英語も少し勉強したらしいのだが、ドイツ語訳のダーウィンの『種の起源』を読んでいたぐらいにものにならなかった。Wikipedia氏のいうように済美館や致遠館で長きにわたって、フルベッキの下で勉強していたとは思えないのである。そもそも済美館はともかく致遠館は早くとも慶応年間にできたのだから、そんな時期に幕臣である加藤が佐賀藩の学校には行かないだろう。
 また、加藤は、当時の洋学者にしては珍しく洋行していない。この点も、例えば中村隆英の死後出版された『明治大正史』では、加藤がドイツに留学したと書かれていたが、これもよくある誤解である。加藤は、正月休みに熱海に温泉に行くぐらいで、ほとんど遠出はしない。祖先教こそ日本の国体とか言っていた割には、明治に入ってから故郷の祖先の墓参りには2回ほどしか行かないほど、旅行嫌いなのだそうだ。江戸で十分に学問できるのに、旅行嫌いな加藤がわざわざ長崎には行かないだろうし、そもそも1860年代以降になると長崎で外国語を学ぶのは西日本の人々である。東日本の人は、江戸か横浜か、機会があれば海外へ行くだろう。
 加藤とフルベッキが交流していたのは、加藤が大学大丞として教育行政にあたってた時期に、フルベッキが大学南校の教頭をしていたからである。大学大丞としての加藤は、大学南校の長も兼ねていたから、すでにこれは教師と生徒の関係ではないだろう。ちなみに『高橋是清自伝』上巻(中公文庫、1976年)に次のような記述がある。

フルベッキ先生は、当時文部省の顧問、開成学校の教頭として、随分顕職の人にも知己が多かった。高位高官の人たちが外国の事情を知りたいと思う時には、まずフルベッキ先生を訪ねて教えを乞うた。就中、加藤弘之、辻新次、杉孫三郎などいう人々は、しばしばやって来て、先生の教えを受けた(150頁)。

米国での奴隷契約から解放されて日本の帰国した高橋是清は森有礼の家で書生をしていたが、森が米国赴任するに際して彼を託していったのが加藤とフルベッキであった(92頁)。その後、紆余曲折を経て、高橋がフルベッキの家で寄寓していた時のことを回想しての上記の記述である。
 たしかに加藤が「先生の教えを受けた」とは書かれているものの、これは「先生」と「門弟」の関係ではなく、友人同士の交流といえるであろう。例えば、知人の中国人に現在の中華人民共和国の政治や社会について教えてもらったとしても、「門弟」にはならない。単なる情報交換である。
 以上のように、Wikipediaの記述は、現在のところ間違っていると断定して良いだろう。編集したWikipedia氏もしくは編集を趣味にしている方におかれましては、是非とも削除して正常化して欲しい。

 もっとも4月に編集した方に罪はない。その方は、誠実にも出典を明らかにしているからだ。問題なのは、西田氏をはじめとする大学教員である。
 彼らも尾形や梅渓のような大家が書いているのだからと信用してしまったのであろうが、先行研究をそのまま内容を確認せずに参照してしまうのは危険なのである。しかも、西田氏の論文は、いつか単著に収録されるかもしれない。そうすると、大学の紀要論文ですらWikipediaに参照されてしまうのだから、単著だとますます人目にふれる。清水氏の著作は、中公新書という地方の図書館にも並べられるようなシリーズの一冊であるし、この作品は全体としては名著と言って良いものであるから、20年後ぐらいに文庫化されるであろう。そうすると、梅渓の著作が何の訂正もなく40年後に文庫化されたように、後世に誤解を再生産してしまう。
 もっとも、彼らが加藤や細川が確実に長崎でフルベッキの授業を受けたということを論証していただければ、それはそれでありがたいことである。ふとした誤解が、実は新説を生み出し、それが確実となれば、それは素晴らしいことである。
 すでに多くの閲覧者数をもつネット事典に影響を与えたのだから、どこかの段階で訂正をするか、新説を打ち出していただくことを願う次第である。

なお

村瀬寿代「長崎におけるフルベッキ人脈」(『桃山学院大学キリスト教論集』第36号、2000年3月)
西岡淑雄「細川潤次郎とフルベッキ」(『英学史研究』第24号、1992年)

を参照した。手元にない史料の孫引きをさせていただきました。

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2017年3月28日 (火)

青空文庫を読む(5)

番号は前回のつづきになります。

32.津田左右吉「日本歴史の研究に於ける科学的態度」

 古代史は、文献資料に関する限り確かめようがないので、古代の人がそう思っていたという思想史・精神史研究の材料であって、歴史事実として利用する必要はない、と主張した作品。結局、何らかの物証が出るまでは、そうした態度が「科学」的かもしれません。

33.狩野亨吉「歴史の概念」

 正直、分かったような分からないような。

34.喜田貞吉「旃陀羅考」

 副題は「日蓮上人はエタの子なりという事」。本人がそう書いているし、そういう風に書いている書物も江戸時代ぐらいからで始めているが、実際はどうか、というもの。「漁師の子」なので、殺生に関わっている職業の子と言うことで、仏教的基準から本人がそういう風に述べたものだろう、とのことです。

35.三木清「政治の論理と人間の論理」

 三木清の時代から、ソ連の「非人間」的政治状況について言及されていたんですな。そう考えると、日本の共産党に同情的であったからといって、ソ連のスパイというような雑な歴史観が時折顔をだすのは如何なものか。ソ連とは別の要因があったことも考えるべきでしょう。もちろん、現在においても。

36.木下尚江「幸徳秋水と僕」

 管野スガとの関係について問いただされると、「然し君。僕の死に水を取つて呉れるものは、お千代だよ」と自分の妻の名前を上げて恬然とする秋水に対して、木下もその言葉に「僕は胸がカラリと晴れた」とかいっているのだから、いい気なもんである。


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2017年3月21日 (火)

青空文庫を読む(4)

番号は前回のつづきになります。

27.有島武郎「小さき者へ」

 母親と死別した子どもたちへの書簡のような形式で書かれた作品。モデルは自分自身なのでしょうけど、これだけ母親を失った子どもたちへの愛を語りながらも、数年後には夫ある婦人と恋愛事件を起こした末に心中してしまって、子どもたちに両親ともに失わせるのだから、やはり作品と作者は分けて読まないと感動は薄れますな。

28.三木清「哲学はどう学んでゆくか」

 一冊の本と格闘することが哲学理解の第一の道という考えなので、乱読派の私としては耳が痛いところです。

29.島木健作「赤蛙」

 ふと目にしたものに異様に心動かされることってありますよね。私は、以前、京都の天龍寺の庭園のベンチでみかんを食べている母子を見て、なぜか言いようにない感動を覚えたことを思い出します。

30.喜田貞吉「「日本民族」とは何ぞや」

 さまざまな民族が同化融合して「日本民族」が作られたという考え方なのですが、古代史における謀略によって他部族たちを従えていく物語を、「謀計を以てその巨魁を誅戮し、以て多数の民衆を安んぜしめ給うたのであった」との理解が新鮮でした。『日本書紀』などがあけすけにそういった話を書いているのを如何なものかと思っていましたが、そう考えると私も理念上の武士道的な発想にとらわれていたのかもしれません。

31.宮沢賢治「風の又三郎」

 昔読んだように思っていましたが、さっぱり覚えていませんでした。しかし、これって一体何の話だったのでしょうか。そして、多くの人は何に感動しているのでしょうか。



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